濯符「東方シリーズ総合スレッド 5190/5190」
5.食の哲学――主体-客体の脱構築
食という営みは、私の「外」にある無数の<生命ある他者>を私の「内」に取り込み、
その無数の他者の生命を否定し続ける(=食いつぶし続ける)ことによって、
私が私の生命を維持するという、自己保存の営みである。この局面から見れば、
私は生命ある他者を否定する<主体>であり、生命ある他者は私によって否定される<客体>である。
しかし、私が他者の生命を否定し続け、私の生命を維持することが可能であるためには、
生命ある他者が完全に否定されてしまうのではなくて、現実に存在し続けているのでなければならない。
否定されてしまう生命ある他者が存在するからこそ、私の生命は維持できるのである。
この局面から見れば、生命ある他者が私の生命を保存する<主体>であり、
私は生命ある他者によって保存される<客体>である。
私たち人間の――それだけでなくすべての生き物の――、他の生命および自然に対する関係は、
このような<主体>と<客体>とが常に転倒する関係である
(食物連鎖とは、この関係の重層的かつ循環的な構造全体のことである)。
食の科学は、人間を中心に据え置いた、
一方向的な「主体-客体」図式という知の枠組みのもとでのみ食を捉えるために、
このような<主体>と<客体>との転倒関係は、食の科学では問題にすらなりえないであろう。
宮沢賢治の『よだかの星』の中で、
よだかは「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。
それがこんなにつらいのだ。」と泣く。
私たち現代人は、他者の生命を大量に食いつぶしていることをほとんど忘却してしまっているが、
よだかは、食の営みの真っ只中で、食とは自他の生死が交叉する場にほかならないことを自覚し、
そのような交叉(キアスム)の中に自分が置かれていることを不条理だと嘆き悲しんでいる。
実存の哲学者の嘆きを思わせる、よだかの嘆きは、
よだかが「ただ一つの」自分の生命(個体の生命)にこだわっていることに由来する。
一回性を生きる、
代替不可能な「ただ一つの」私の重みは、一人称的な次元で捉えれば十分理解できる。
しかし、生命というものは、無数の個体の生死が交叉することを通じて延々と連続していくものである。
そのような普遍的な生命もしくは生命そのものの連続性という観点からすれば、
個体において経験される生死の交叉は、生命そのものが連続していく運動の断片的な微小な契機でしかないであろう。
では、普遍的な生命もしくは生命の連続性という観点からすると、食はどのような営みとして捉えられるのだろうか。
私は、普遍的な生命としてはそれと同一の生命でありながら、
生命あるものを私の「外」にある他者として私から区別し、
その他者を私の「内」に取り込み否定する(=食いつぶす)。
このことによって、私の生命を保存しようとするが、他者が自己と同じ生命であるかぎり、
他者の否定は同時に自己否定でもあるのだから、「外」にあるものが私の「内」に取り込まれることによって、
私と他者との区別、「内」と「外」との区別は溶解してしまう。
もちろん、そこには「主体-客体」という分裂した関係は成立しない。
そのような境地に関して、西田幾多郎は「斯の如き世に何を楽んで生るか。
呼吸するも一の快楽なり」という断想を残しているが、
実は、食とは実体としての普遍的な生命を享受する営みなのである。
普遍的な生命の享受としての食。食の科学のように「主体-客体」という分裂関係を生きるのでもなければ、
消費社会の中で食の神話を没主体的に生きるのでもない。
そうした境地が第三の立場として可能であることに、どれほどの人が気づいているだろうか。
過剰な情報に翻弄されている時代であるからこそ、この境地から、
食の神話と食の科学を照らし返してみることも必要であると思う。