濯符「東方シリーズ総合スレッド 5190/5190」
■私の主張 − 「肉食」には「肉食の哲学」が必要
この様に「肉を食らう」為には、
色々な要因から心の深層の潜在意識に”刷り込み”(※8)された”壁”を乗り越える「哲学」が必要なのです、
又、時間も必要に成るでしょう。
「哲学」を必要としない「マイルド・ジューシー・ヘルシー」志向では”壁”を乗り越えることは出来ません。
それ故に「「食」の”ひ弱”さが精神の”ひ弱”さを齎す」のです。これは正に人間の家畜化です。
ですから、欧米人が自分たちが鯨を食わないからと言って、
鯨文化の国を野蛮視したり非難するのは、自己中心的考えの”押し付け”でしか無いのです。
しかも、そういう”押し付け”に反論出来ない日本人にも困ったものです。
これは自分のセックスに対して他人の”遣り方”を押し付けられて居るのと同じですから、
「そんなモン、どう遣ろうとオレの勝手や、オマエに言われる筋合いは無い!」とキッパリ反論しないと行けません。
それを欧米中心史観に気触れたマスメディアの動物愛護論に乗せられて、
「捕鯨は可哀相」などと安っぽいヒューマニズムに溺れて居る姿は情け無くも有り、滑稽です。
動物虐待を振り回すなら、窮極的にはヴェジタリアン(vegetarian、菜食主義者)に成らなければ行けません。
ヴェジタリアンは立派な哲学です。それはセックスに於ける禁欲主義者に対応します。即ち
<肉 食> <セックス>
菜食主義 ←→ 禁欲主義の戒め(ノーマル:戒)
です。戒律の厳しい修道院や寺院の修行僧の様な存在でしょう。
しかし「牛を食うのが動物愛護で、鯨を食うのが動物虐待」という変な論理が、
古来からの鯨文化の国・日本で罷り通っている様を何と理解したら良いのでしょうか?
ヴェジタリアンの様に「肉を食わない」のも一つの峻厳な哲学ですが、
人間と同じ「赤い血」を流す動物を屠って「肉食」をするには「肉食の哲学」が必要です。
その「哲学」が”あやふや”だから健康食品などの母乳への回帰現象が起こるのです。
肉を食うには先ず動物を屠り、自分の顎と歯で肉を”食い千切り噛み砕く”作業が必要です。
自分の顎が痛く為る筋肉運動に依り顎や歯が丈夫に成り、
同時に「人に食われる動物」の痛みを知り、
自然の摂理と「生命」の尊さに想いが至り「恵み」への感謝の気持ちが湧いて来るのです。
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