■坂口博信 Hironobu Sakaguchi
・1962年11月生。茨城県出身。最終学歴高等学校卒(横浜国立大学工学部電気情報工学科中退)
学生時代は「アップルII」でWizardryやウルティマなどのゲームをしたりプログラム解析改造などをして遊んでいた。
その当時から若くして天才プログラマーを名を戴いたナーシャ・ジベリ氏に憧れていた。
・1983年アルバイトとしてスクウェアへ入ったのがすべての始まり。
1985年スクウェアがファミコン市場に参入した頃から、何時の間にか社員にになっていた。
・一番初めに作ったソフトはPCソフト(国産用)の「ザ・デストラップ」。その後も「ブラスティー」「ウィル」など、
「よくアニメーションするゲーム」として評価を得る。プログラマは高校生だったらしい。
アニメ部分を担当したのはサンライズ(機動戦士ガンダムなどロボットアニメ製作会社として有名)。
後にアニメータとのつながりを得たのもこの頃。
■坂口博信 Hironobu Sakaguchi
・ファミコン市場に参入して、「キングスナイト」「とびだせ大作戦」「ハイウェイスター」などを手がけるが売上振るわず。
・大学8回生となったため、スクウェアA-TEAMをやめ大学に戻り普通に就職するか、
それともスクウェアに残りゲーム開発をしていくか、最後の勝負をかけて自分の作りたかったRPGをファミコンで作ることに。
・「最後」の希望を託してタイトルに意をこめたのが「ファイナルファンタジー」
・最初のFFはスクウェア社内のA-TEAMのたった4人でプロジェクトを立ち上げることに。
■坂口博信 Hironobu Sakaguchi
・ファイナルファンタジー(1987)
・プログラマにはナーシャ・ジベリを招聘。
・DQなどの幼稚なシナリオに疑問があった坂口は、TVドラマ、アニメなどで脚本家をしていた
寺田憲史が、スクウェアの社長と知己であることを知り、製作スタッフに話を聞かせて欲しいと寺田氏を招待、
そこでゲームにシナリオを書いて欲しいと説得。寺田氏が了承してFF3までの付き合いが続く。
・また寺田氏が当時脚本を書いていたTVアニメ「装甲騎兵モスピーダ」でキャラクターデザインを
担当していた天野嘉孝と知己だったことも知り、天野氏ともコンタクトをとることに成功。
ゲームという分野に興味のあった天野氏も快諾し、イメージイラストとモンスターデザインを依頼することに。
■坂口博信 Hironobu Sakaguchi
・ファイナルファンタジー(1987)
・音楽には、偶然に近所で知り合ってスクウェアに入社させていた作曲家植松伸夫
・画面上のキャラグラフィックは石井浩一(後の聖剣伝説、FF11などのディレクター)
ごつい顔と体ながらカワイイキャラクターを描ける男、のちのチョコボのデザインも石井氏。
・ゲームシステムも当時のDQのような単純なものではなく、自分がパソコンで遊んだ
Wizardryやウルティマのようなこったものにしたかった。
そこに東京工業大学でボードゲームサークルに所属し、テーブルRPGに造詣の深かった
河津秋敏がFFに参加したことでWizardryなどのベースにもなったテーブルRPG=
AD&D(アドバンスドダンジョンズ&ドラゴンズ)のシステム、世界観、モンスターを研究しゲームに生かすことに成功。
ただやりすぎてビホルダーなどAD&Dが版権を持つモンスターまでゲーム内で使って、後に訴訟沙汰に巻き込まれる。
■坂口博信 Hironobu Sakaguchi
・ファイナルファンタジー(1987)
・坂口がファミコンのRPGを作る上でもっとも気にかけたのは当然「ドラゴンクエスト」
・ドラゴンクエストは、文字、テキストで読ませるゲームであると考え、
同じことをしていては追いつくことは不可能であるとも理解していた。
・そこでFFでは徹底的に視覚、ビジュアルで魅せるRPGにしようと考える。
会話などの文字データも、グラフィックデータとして表示させる
アップルコンピューターを意識したステータス画面
プレイヤーのキャラクターが見えるサイドビューの戦闘場面
それぞれの武器に一つ一つのグラフィックデータを用意する。
戦闘時にはキャラクターがアニメーションし、戦闘する場面によって背景も変える。
プレイヤー以外の他人が見ていても面白そうなことがFFの基本となる。
この精神はPS以降に続く今でもFF製作スタッフに受け継がれている、と言える。
■坂口博信 Hironobu Sakaguchi
・ファイナルファンタジー(1987)
・製作も佳境に入ってくると徐々に、スクウェアの他のプロジェクトチームからも
A-TEAMが面白そうなのを作ってるということで手伝ってくれる人が増えていく。
A-TEAMのソフトはイマイチだねえ、というのがスクウェアの社内評価だったのに。
そしてFFが完成。
「坂口君、いいもん作ったね。」 他プロジェクトのリーダー達からも好評価を得る。坂口25歳の時。
・さらに幸運なことに同じ1987年12月に発売が予定されていた、
国民的バケモノソフト「ドラゴンクエスト3」が1988年2月に発売延期となった。
(他に87年12月発売ソフト26本、 RPGでは「ウィザードリィ」「銀河の三人」
人気ソフトは「ファミスタ87」「ゲゲゲの鬼太郎」「メタルギア」などが存在した。)
週刊少年ジャンプという当時最大の少年雑誌を広告媒体に持ったドラクエとは比べ物にならないが
ファミリーコンピューターマガジンなどでもFFは評価を得て
新規タイトルとしては十分な40万本を越え(最終50万本)ることになる。
・DQ3(1988年2月発売)は売上380万本。DQ3を待ちきれなくてFFを買った人も多かった。
■坂口博信 Hironobu Sakaguchi
・ファイナルファンタジー2(1988)
・FFが好調だったため、FF2の製作が決定する。
発売は88年12月。当時としてはそれほど開発期間が短いわけでない。
・メンバーもほぼ同じメンバーで開発に入る。
・FF2の開発当時、スターウォーズ2 帝国の逆襲が開発室のビデオで流れていたのは有名。
・この次点では、後のFFを形作る「クリスタル」はそれほどメインに据えられていたわけではない。
・チョコボは先の通り、石井氏のデザイン。
・既存のドラクエ型RPGとは違うものをということでスキルシステムを投入。
見たことないような変なシステムを入れる、というFFの伝統は2から始まる。
これも河津氏のゲームデザイン。後にこのシステムは河津氏のSaGaシリーズに受け継がれる。
・戦闘時アニメーションは、魔法の種類、威力によってアニメーションが変化するという
当時のファミコンの能力からすれば無謀とも思えることを実行。
・開発期間の関係か、ゲーム進行上致命的になるようなバグが発生。
成長システムの難解さ、戦闘バランスのシビアさとも相まって
当時ゲーム誌やファミ通などでは低評価をつけるところも。
・FF2
・週刊少年ジャンプ誌上の読者コーナーで連載されていたファミコン神拳では、
FF2は最低とも言える評価をくらうことになる。
実際にはファミコン神拳のライター陣は堀井雄二(ゆう帝)、木村初(キム皇)、宮岡寛(ミヤ王)であり
彼らは全員ドラクエ開発関係者だったりするので、これは今でいう自作自演にあたるのか、
真実FF2はクソと思ったのかは定かではない。
ちなみにキム皇の評価は、「同時期に出た半熟英雄の方がよほど面白い」であった。
http://game.2ch.net/test/read.cgi/ghard/1019976917/16-24 “坂口ってなにやってんの今? ”