[ハングンマル]朝鮮語/韓国語の総合11[チョソンマル]
韓流ブーム続く中、朝鮮語学者の嘆き −− 元大阪外大教授・塚本勲さん
竹島問題などで日韓のギスギスが続いている。韓流ブームで隣国の言葉の学習者は増え、
理解も進んだかに見えるが、大阪外国語大学 (現・大阪大学外国語学部) 朝鮮語学科
教授だった塚本勲さん(78)は浮かない顔である。なぜか? わが恩師でもある先生に
朝鮮語と歩んだ人生を聞いた。
モウモウと焼き肉の煙が立ちこめる大阪は鶴橋で久しぶりに会った先生、髪の毛は真っ白、
ちょっとしゃべりづらそうだった。右手が小刻みに震えている。7年前に脳梗塞 (こうそく)で
倒れたらしい。「このあたりで飲んでて、突然、バタンと。幸い軽くて。韓流ドラマ? テレビで
いっぺん見ましたかなあ。くだらんからもう見てませんわ。女房はよく見とるらしいんですがね、
アハハ。まあ、どんなきっかけであれ、朝鮮語を学ぶ裾野が広がったのはよろしいが、
もっとまともな取り組みがあってええんと違いますか。そもそも大学は学問するところでしょ。
それなのに韓国人の会話の先生ばっかり集めとる」
大阪市生野区生まれ。京大で言語学を専攻し、日本語の起源に興味を持った。一衣帯水の
朝鮮半島の言葉を知る必要があったが、辞書も学習書もない。朝鮮戦争が終わって間もない
1950年代半ばのことである。「それはそれは孤独でした。在日朝鮮人社会に分け入る
しかなく、京都の朝鮮中高級学校で日本語とロシア語の非常勤講師をしながら、1世の
教員から習いました。ツテを頼り、韓国から密航してきた青年の生きた言葉を採集して
カードにし、単語を覚えたりもした」。そして63年、戦後初めて国立大学の朝鮮語学科が
大阪外大に開設され、専任講師になった。あれからちょうど50年−−。
(
>>40 のつづき)
「戦前は東京外大にもありましたが、韓国併合後、外国語ではないとの理由でなくなり、
私立の天理大のみで続けられていただけで。朝鮮半島に背を向けてきた日本の朝鮮研究は
100年遅れた、と思っています。その遅れを取り戻すため、若かった私は死にものぐるいでした。
まずは辞書だ、と。それまでは朝鮮総督府の辞典しかなかったですから。先祖伝来の土地を
五つ売り、消費者金融にも通い、資金を捻出して。編さん過程では南と北の政治対立も
持ちこまれる。もうくたくた。学生諸君にも迷惑かけたしな」
パソコンのない頃、私たち学生はハサミとノリを手に朝鮮語の用例を書き込んだ原稿を
切っては張り、切っては張り、気の遠くなる作業を手伝った。しばしば先生は講義をすっぽかす。
心配して自宅をのぞくと、カップ酒をあおっている。そばに種田山頭火の句集が転がっていた。
延べ300人、23年の歳月をかけた22万語収録の 「朝鮮語大辞典」 (角川書店) が
世に出たのは86年だった。♪芸のためなら女房も泣かす……、まるで桂春団治の
世界でしたね、と水を向けると、先生、苦笑い。「青春のすべてだった。でも、すぐ韓国で
海賊版が出回って、また悔しい思いをした」
日韓国交正常化が実現した65年、先生が翻訳した児童書がベストセラーになった。
「ユンボギの日記」。朴正熙 (パクチョンヒ) 政権下の韓国・大邱 (テグ) の貧しいガム売り
少年の目が隣国の断面を浮き彫りにしていた。あと書きにある。<隣の国のことばを
勉強するのに、こんなにムダなエネルギーをつかわなければならないのかと、なんど
ため息をついたかわかりません。わたくしの母は、そんなわたくしを理解できず、
「おまえのチョウセン・ドウラクにはかてん」 と、よくなげいていました。その母もこの翻訳の
最中になくなりました。……母が生きていたら、「チョウセン・ドウラクの親不孝もの」 も、
ささやかなしごとをしたと、だれよりも喜んでくれたことでしょう>
(
>>41 のつづき)
「あのころ、韓国を旅しながら、何百人ものユンボギ少年を見ました。いまは想像も
できないでしょうけどな。ある日、映画監督の大島渚さんから手紙がきました。彼は
京大の2年先輩で、よく知ってましたから。京都の全学連の委員長で。なんだろうと思って
読むと、あの 『ユンボギの日記』 の著作権は誰にあるのかとの問い合わせ。それは私だ、
と書き送りましたよ。しばらくして、映画になりました。ああ、大島さんも亡くなりました。
80でしたか」
キムチの匂う町をとぼとぼ歩く。かつてキャンパスが近くにあったからか、いろんな思いが
去来するらしい。モンゴル語学科の卒業である司馬遼太郎さんについても懐かしむ。
異国の地、薩摩で400年を生き抜いた朝鮮人陶工の一族を描いた小説
「故郷忘(ぼう)じがたく候」。「司馬さんから電話をもらいました。<血は水よりも濃い> は
朝鮮語でどう言うんや、と。直訳もありますが、<サラムン チエ ピッチュルル タルンダ
(人は自分の血すじに従う)> という表現もあります、とお教えしたら、それ、おもろい、
となって。小説に出てきます」
雑居ビルの小さな一室に着いた。「ハングル塾つるはし」。大阪外大の在任中から主宰し、
00年に退官したあとも月に1度、10人ほどがやってくる。テキストは朝鮮半島の童話。
「赤い」 という単語を取り上げた。先生、震える手でホワイトボードにハングルを
書いていく。「朝鮮人は自慢話が多い。平壌の師範大学の教科書を読んでいたら、
赤いという形容詞は90もあると書いてある。これは事実ですわ」。教室がどっとわく。
(
>>42 のつづき)
「木の枝に服をかける」との言い回しが出てきた。先生はこう 「脱線」 する。「服をかける、
電話をかける、日本語も朝鮮語も同じ<かける>。おもしろいと思いませんか?
1890年ごろ、日本に初めて電話がきて、1920年ごろに一般に普及したらしい。
それで当時、植民地支配していた朝鮮に<電話>という名詞だけでなく、
<かける>という動詞までセットで入ったんです」
たっぷり1時間半、笑いの絶えない講義が終わり、焼き肉屋へ席を移した。好きだった
酒をやめ、静かにアワビがゆをすすっている。その昔、社会主義にあこがれ、韓国の
軍事政権に反対していた。抵抗の詩人、金芝河 (キムジハ) の詩を日本に紹介もした。
その朴正熙大統領の娘が新しい大統領に決まり、北朝鮮では3代にわたる世襲、
金日成 (キムイルソン) 主席の孫が最高指導者に就いた。「わけわかりませんなあ。
竹島のこともぎゃーぎゃー言うし、いつまでも、謝れ、謝れやし。ほんま」。その目は
ぼんやりうつろだった。いつまで朝鮮語を教えるんです? 「一生。死ぬまでやります。
青春の炎がまだ燃えてるんですよ。親善のための朝鮮語はやらなあかん、
と思っていますから」
毎日新聞 (2013年01月28日)
http://mainichi.jp/feature/news/20130128dde012040002000c3.html