ポーランド語ってどうよ 2 strona

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553名無しさん@3周年
>>535
接続法というのは、話者の主観を表す法。主観でない単なる事柄を表現する直説法と異なる。
文では、話者の主観内容は、「思う」や「願う」などという動詞の従属節のなかで表明される。
印欧語では、主観なのか主観でないのか区別しようとした。
主観であることを表すために、ラテン語等では接続法という固有の形態が作られた。
古くは、「思う」や「願う」などの動詞の従属節内でも、主観なら接続法、主観でないなら
直接法と区別されていただろう。
現在のロマンス諸語の接続法は、このラテン語用法の崩れた形だと考えられる。
時制の一致(テンスの照応)という現象は、主観内容を表す従属節接続法の時間順序が区別されるようになり、発生したのだろう。
ラテン・ギリシア語派は、主観・非主観と時制を組み合わせた緻密な形態を発達させていった。
ゲルマン・スラヴ語派は、主観内容を区別するために、直説法過去形を応用した。
主観内容は、現代ドイツ語では接続法U式という直説法過去形を少し変えた形で、スラヴ語ではbyと過去形で表現されている。
スラヴ語のbyは、現実と反する仮定や祈願ではよく出現する。
554550:2006/01/04(水) 22:40:41
上は難しかったかもしれないので、補足説明。
従属節における主観内容の表現は、スラヴ語において、ロマンス語のように接続法という
固有の形態は作り出されなかったが、by+過去形で伝達される。
主観・非主観の区別は、印欧語そのものの物の見方に潜在している。
この見方は日本語にはない(表現手段として固有の形態を発生させなかった)。
「〜するように」という命令・要求、「〜であるように」という願望・祈願(ギリシア語の
希求法として区別)、「〜であれば〜」という現実にありえないことの仮定、
「本当に〜であるのか?」という疑念は、すべて話者の主観内容であり、
「夜になると月が上る」というような客観的事柄でない。
スラヴ語のbyは「心態詞」と命名すべきものだ。
そして、このbyは、ほとんどのスラヴ語の場合で、よく移動し、接続詞や動詞と融合する。
P語だと、żeby<że+by、gdyby<gdy+by、byłby<był+byのように。
しかし、現代のゲルマン語やスラヴ語では、主観・非主観の対立はあまり
感知されていないことが多い。形態論的に発達しなかったためだろう。
従属接続詞が、żeでも żebyでもどちらでもよい場合が多い。
従属節が主観内容であり、さらに時間継起の順序まで明確化する
ロマンス語などのテンス照応は生じなかった。それゆえ、byのない従属節では、
出来事の時制通りになる。
言語とは、ものの見方、ものを区別する表現体系。
日本人なら、「おまえは言っただろ」と「あなたはおっしゃった」の意味の違いが分かるはず。