夢枕獏の文体のガイドライン 4ぃっ

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476水先案名無い人
「押すなよ!」
 双眸にこわいものを宿らせて男が叫ぶ。
 男の眼前には煮えたぎる熱湯。
 立ち上る湯気の勢いはとどまることを知らぬ。
 とても浸かることなど出来そうもない。
 男は今まさにその水面を覗き込んでいるのだ。
「絶対に押すなよ!」
 ――当たり前ではないか。
 眼前にある男の背中を睨みながら、自分はそう思う。
 もし押してしまおうものなら、確実に男は湯の中へ落ちるだろう。
 これだけの熱気立ちこめる湯なのだ。たまったものではない。
 湯から立ち上る湯気。
 辺りを包み込む湯気。
 肌の表面を舐めていく湯気。
 湯気、湯気、湯気の洪水である。
 そんな湯の中へ人を突き落とすなど、狂気の沙汰だ。
 誰が好きこのんでそのようなことをしようというか。
 ――だが、だが、なぜだろう。
 男の背中はその言葉とは裏腹な様相を見せつけている。
 明らかに誘ってるかのようだった。
 背中一面に「油断」の文字を貼りつけている。
 そうして、何かを待ち構えているのだ。
 押すな押すなと口にしてはいる。
 だがしかし、どこかその言葉は虚ろであった。
 まさか――と思う。
477水先案名無い人:2008/01/16(水) 17:03:10 ID:W0ivESAn0
 肩で思う。
 二の腕で思う。
 肘で思う。
 手首で思う。
 掌で思う。
 指先の先の先で思う。
 ――押してほしいのか?
 一瞬、恐ろしい予感が脳裏に閃いた。
 煮えたぎる湯の中へ落ちる男。
 悲鳴。
 断末魔。
 阿鼻叫喚。
 だが、なぜか当の男の顔には不思議な満足感が笑みとなって浮かび――。
 馬鹿な。
 これは自分の単なる空想だ。
 そんなこと、決して行ってはいけない。
 考えてもみろ。そうだ。常識で考えてみるのだ。
 いったい誰が熱湯に落ちたいなどと思うのか?
 火傷してしまうかもしれないのだぞ?
 何を得することがあろう?
 そうだ。そんなことはあり得ない。
 ああ、しかし――。
 なぜこんなにも男の背中は無防備なのか。
478水先案名無い人:2008/01/16(水) 17:03:40 ID:W0ivESAn0
 もうもうと立ち上る湯気の熱に脳裏が白んだ。
 熱は身体のどこまでも充ち満ちて、出口を求める。
 身体の芯に熱い塊が居座り、脳味噌を揺さぶっていた。
 侵されていく、現実と思考の狭間。
 自らの身体が何者かに操られているような感覚が湧き起こる。
 白い湯気のもやに理性が十重二十重に包まれていく――。
 ――もはや、両腕は自由にならなかった。
 そこに、またも男の声が聞こえてくる。
 声は頭蓋に残響してこの世ならぬ音色が生まれた。
「押すなよ!」
 ――そう。押してはいけない。分かっている。
 自然と腕が前へと伸びた。
「「押すな!」」
 ――そう。押してはいけないのだ。当たり前だ。
 指先が男の背中に吸い込まれる。
「「「絶対に押すなよ!」」」
 ――そう。押しては駄目だ。押すことだけは。
 ああ、だがもう。もう止まらぬ。止めることが――。
 どん、と押した。
「あひゃららららら――――――ッ!」
 ――あたりに男の絶叫と金木犀の香りが広がった。