「押すなよ!」
双眸にこわいものを宿らせて男が叫ぶ。
男の眼前には煮えたぎる熱湯。
立ち上る湯気の勢いはとどまることを知らぬ。
とても浸かることなど出来そうもない。
男は今まさにその水面を覗き込んでいるのだ。
「絶対に押すなよ!」
――当たり前ではないか。
眼前にある男の背中を睨みながら、自分はそう思う。
もし押してしまおうものなら、確実に男は湯の中へ落ちるだろう。
これだけの熱気立ちこめる湯なのだ。たまったものではない。
湯から立ち上る湯気。
辺りを包み込む湯気。
肌の表面を舐めていく湯気。
湯気、湯気、湯気の洪水である。
そんな湯の中へ人を突き落とすなど、狂気の沙汰だ。
誰が好きこのんでそのようなことをしようというか。
――だが、だが、なぜだろう。
男の背中はその言葉とは裏腹な様相を見せつけている。
明らかに誘ってるかのようだった。
背中一面に「油断」の文字を貼りつけている。
そうして、何かを待ち構えているのだ。
押すな押すなと口にしてはいる。
だがしかし、どこかその言葉は虚ろであった。
まさか――と思う。
肩で思う。
二の腕で思う。
肘で思う。
手首で思う。
掌で思う。
指先の先の先で思う。
――押してほしいのか?
一瞬、恐ろしい予感が脳裏に閃いた。
煮えたぎる湯の中へ落ちる男。
悲鳴。
断末魔。
阿鼻叫喚。
だが、なぜか当の男の顔には不思議な満足感が笑みとなって浮かび――。
馬鹿な。
これは自分の単なる空想だ。
そんなこと、決して行ってはいけない。
考えてもみろ。そうだ。常識で考えてみるのだ。
いったい誰が熱湯に落ちたいなどと思うのか?
火傷してしまうかもしれないのだぞ?
何を得することがあろう?
そうだ。そんなことはあり得ない。
ああ、しかし――。
なぜこんなにも男の背中は無防備なのか。
もうもうと立ち上る湯気の熱に脳裏が白んだ。
熱は身体のどこまでも充ち満ちて、出口を求める。
身体の芯に熱い塊が居座り、脳味噌を揺さぶっていた。
侵されていく、現実と思考の狭間。
自らの身体が何者かに操られているような感覚が湧き起こる。
白い湯気のもやに理性が十重二十重に包まれていく――。
――もはや、両腕は自由にならなかった。
そこに、またも男の声が聞こえてくる。
声は頭蓋に残響してこの世ならぬ音色が生まれた。
「押すなよ!」
――そう。押してはいけない。分かっている。
自然と腕が前へと伸びた。
「「押すな!」」
――そう。押してはいけないのだ。当たり前だ。
指先が男の背中に吸い込まれる。
「「「絶対に押すなよ!」」」
――そう。押しては駄目だ。押すことだけは。
ああ、だがもう。もう止まらぬ。止めることが――。
どん、と押した。
「あひゃららららら――――――ッ!」
――あたりに男の絶叫と金木犀の香りが広がった。