10 :
カズの生い立ち(1/3):
1967年、静岡県静岡市に生まれる。1973年、静岡市立城内小学校に入学。城内FCで
本格的にサッカーを始める。さらに静岡市立城内中学校に入学。この頃から横浜銀蝿の
もの真似をするなど目立ちたがり屋であった。
1982年、静岡学園高等学校に入学するも、8ヶ月で中退。15歳で単身ブラジルのプロチーム
「ジュベントス」に留学。当時のカズは県内でもほとんど評価されず、カズのスピードと
体力ではブラジルどころか県内でも通用しない、という批判の声がほとんどであった。
それでもカズは自分を信じブラジルへと発った。
カズは、他の選手のように一時留学の形でチームに預ってもらうという形をとらなかったため、
ブラジルで注目を集め、プロの仲間入りをするには、人並以上の練習で実力をつけ自力で門戸を
開けるしかなかった。カズは、ひなびたスタジアムで罵声を浴びる毎日を送りながら、
死に物狂いの練習を毎日続け、言葉の壁、習慣の違い、いじめや孤独と戦いながらプロを目指した。
食事やスパイク、ユニフォ−ムを盗られたりもした。下手なプレ−をすれば、日本人は使うな
という世間の攻撃も受けた。
1985年の夏、カズは厳しい日々に夢を捨て日本に帰ることを考えた。そして、日本行きの航空券を買い、
リオの公園に気晴らしに出た。そこでは、20人ほどの子供達が楽しそうにサッカーをやっていた。
その中には、片足で懸命に汚れたボールを追っている少年がいたのである。「片足の子だけじゃなく、
裸足の子もいました。じっと子供たちを見ているうちにボクは反省しましたよ。ボクには両足もあれば
スパイクも新しいボールもある。いったい、何をぜいたくなことをいってたんだろうと思いましたね。」(カズ)
飛行機の予約をキャンセルしたカズは、この時から帰国を口にしなくなった。翌1986年2月、18歳の
誕生日の2日前、カズは正式に名門サントスFCと契約した。
日本では華やかに報道され、現地ブラジルでも新聞にとり上げられ話題には事欠かなかったが、サントスFCでも
厳しい苦渋を味わった。ウイングのポジションには元代表の名選手がいて、そのシーズンは2試合しか出場できなかった。
11 :
カズの生い立ち(2/3):2006/07/18(火) 21:14:43 ID:sIWcW3Mi0
そして1年後、サントスFCの外人枠から外れ、弱小チームに貸し出されることになる。そこでの生活は
悲惨なものであった。
「まるでドサ回りみたいなものですよ。バスで延々23時間かけて地方に遠征し、 試合をして、
終わったらまた23時間かけて帰る。夜はバスの通路にクッションを敷いて寝る。
食事は高速道路のインターで同じような肉料理を1日3、4回。
それに、ブラジルは広い国だから、暑かったり 寒かったり、1日で気温が10度以上も違うんですからね。
でも、ここで負けたら永遠にオレはダメ になると、いつも心のなかでは思っていたんだ。」(カズ)
そののち、「CRB」という田舎チームを経て、1988年サンパウロ州の1部リーグチームではあるが、
ローカルチームの「キンゼ・デ・ジャウー」にスカウトされる。
このスカウトが歴史的なゴールへとつながることになる…。
カズはこの試合で、鉄壁の守備を誇る元ブラジル代表のエジソンのマークを外し、
ヘディングでゴールを決め、1-0で勝利した。点を取ったのはヘディングだったが、得意の
ドリブルで何度もコリンチャンスのディフェンダー陣を混乱させた。カズのフェイントは
ブラジルの超一流チーム相手に十分通用するようになっていたのだ。ゲームが終わった後の
ジャウーの町は1週間以上も、お祭騒ぎがつづいた。地元ではカズを「神」として崇めた。
その後、パルメイラスの助っ人メンバーとしてキリンカップに出場したり、コリチーパを
パラナ州のチャンピオンにさせたりし、カズは実力をフルに発揮しはじめ、90年に再び
サントスFCと正式契約した。
カズ、このとき22歳。今度は超一流の折り紙をつけられ、堂々と胸を張っての契約だった。
12 :
カズの生い立ち(3/3):2006/07/18(火) 21:16:52 ID:sIWcW3Mi0
1990年7月、カズは帰国し「読売サッカークラブ」と契約する。
ブラジルでの最後の2年間は、 カズは評価も高く人気選手であり、名門「サントスFC」とも契約し、
まだこれからという時での 帰国であった。
ブラジルでの成功を捨ててなぜ日本に帰ってきたのか、残念がるファンも多かった。
当時日本のサッカー界には、プロリーグの構想が持ち上がっており、カズは、その構想に引かれ
日本に帰ることを決意したのだ。カズは、ブラジルで人気選手としてサッカーを続けることより、
日本のサッカーのレベルを上げ、日本代表チームの一員としてワールドカップ出場を目指すことを
選択したのだ。
1993年にはプロサッカーリーグ・Jリーグが開幕し、また日本代表チームは、ワールドカップ・
アメリカ大会出場まであと一歩というところまで迫る。日本のサッカーは、人気実力ともに上昇して
いった。これらの功績はカズなしではとても成し遂げられるものではなかった。
日本のサッカーが軌道に乗ると、再び自らのもう一つの夢を追いかける。
そしてまた、通用しない という声の中、セリエAでのプレーを実現する。
日本は1998年フランスワールドカップに出場を決めるも、カズはそのメンバーから外されることになる。
日本代表のユニフォームを来て、ワールドカップの舞台に立つことを一番強く願っていたのがカズであっ
たと思う。日本を世界のレベルに引き上げたのが、カズであることは皆が知っていることであり、本人も
そう思っていただろう。それだけに悔しかったことだろう。
しかし、これまでのカズはブラジルに渡る時、ブラジルから帰る時、イタリアでプレーする時、常に回りに
反対される中、自分を信じて成功をしてきた。逆境をバネにして、やってきた男である。今回は代表から
外れたが、まだまだこれで終るような男ではない。
カズの帰国会見。「メンバーから外れたことは、絶対に納得してはいけない。」
いい顔をしていた。カズは、死んではいない。夢を追い続けるカズのサッカー人生は、まだまだ終らない。
--1998/7/10
13 :
カズの生い立ち(3/3):2006/07/18(火) 21:18:59 ID:sIWcW3Mi0
中学校卒業の年、カズはクラスで進路志望を書かされたとき、第一志望の高校の名前を書く欄に「ブラジル」と記入した。
カズはサンパウロにある「ジュペントス」というクラブの寮で、5人の少年達と小さな汚い部屋の2段ベットで寝る生活が始まった。
免疫の無いカズの体にはノミとダニがいっぱいたかって、はじめの頃は痒さでまともに睡眠すら取れなかった。
苦労はフィールドでも同じだった。チームメイトは誰も彼にパスをしようとはしなかった。偶然ボールを自分のものにして
ドリブル突破を試みても、すぐに奪い取られた。
スタンドの声がカズの耳に届いた。「 Futebol japones! 」
ブラジルには大きな日本人社会が築かれていた。彼らは農場を開拓し、勤勉に働き、多くの人がビジネスでも成功し、
リトル・トーキョーという名で知られるサンパウロの高級住宅地で暮らすようになっていた。
しかし日系人たちはサッカーに対しては全く影響をおよぼさなかった。
“Futebol japones”という言葉は「日本人にしか出来ないくらい下手糞なプレー」という意味で用いられていた。
チームメイトたちも「 Futebol japones! 」と彼をあざけるようになった。
それが限界だった。カズはごく稀にしか試合に起用されなくなり、練習試合にすら出られなくなった。たまに試合に起用
されても、最初の試合と同じような扱いを受け、同じような野次を飛ばされた。
「ヘイ、ジャポネス!リトル・トーキョーに帰って天ぷらでも揚げてろ!」
「そんな細い目でボールが見えるのか?」
それでもカズは、陽が沈み暗くなったあとまで一人で居残り練習を続け、何時間もシュートやドリブルの練習を繰り返し、
1日に何百回もの筋トレを、毎日続けた。
チームメイトとのコミュニケーションを改善するためにリトル・トーキョーにある学校でポルトガル語の授業を受け、夜も勉強した。
小さな傾いた寝台に横になり、辞書から単語を見つけ出して小さな声で発音の練習を繰り返し、本を手にしたまま眠りにつくと
いう日々がつづいた。
14 :
ブラジル時代のカズ その2【挫折】:2006/07/18(火) 21:22:42 ID:sIWcW3Mi0
それでも目に見える進歩はなかった。彼は孤独だった。彼は情熱を失い始めた。
ブラジルでの生活は2年3ヶ月経過した。
彼はジュベントスから「キンゼ・デ・ジャウー」というサンパウロから300?も離れた小さな町のチームに移った。
が、そこでも大きな活躍はなかった。
希望を失った彼は、ブラジルへ渡って以来はじめて母親に電話をかけた。
そして「もうこれ以上は耐えられない、家へ帰る」 と伝えた。
母親は、サッカーショップを経営し少年サッカーチームの運営にも携わっていた叔父に、このことを伝えた。
叔父はカズに電話した。「何を寝ぼけたことを言っているんだ!帰ってくるな!わかったな!」
カズはバスに乗り、サンパウロで暮らしていた父親に会いに行った。
同情して欲しかったし、自分の気持ちを理解して欲しかった。 しかし父親は叫んだ、
「日本に帰るだと?わかった。お前がそんなに弱虫だとは知らなかった。だったら、日本へ帰れ!」
そしてカズの右の頬を殴りつけた。カズは初めて父親に殴られた。
「わかったよ。じゃあ、帰るよ」とカズは答えた。
「もう、それ以外にない」と思うしかなかった。
カズはブラジルを永遠に離れてしまう前に観光をしようと思った。
そこでカズは、聖地マラカナン・スタジアムに足を運んだ。 スタジアムを見た後、リオの裏通りをぶらぶらと歩き、
小さな公園のベンチに腰をおろした。目の前では20人くらいの子供達が 草サッカーに興じていた。
12歳前後の少年達は汚くほころびたシャツを着ていた。靴を履いていない少年も半数近くいた。
そんななかに一人の少年がいた。 彼は片足しかなく、それでもピョンピョン跳ねながらボールの後を追いかけ、
プレーに参加しようとしていた。
そのときカズは胸の奥から熱いものが湧き出してくるのを感じた。
「俺はなんと恵まれているんだろう…!」
そう思ったあと、自分自身に腹が立ってきた。「それなのに、俺は…」
そのとき彼は「もう一度ブラジルに挑戦しよう」と心に決めたのだった。
15 :
ブラジル時代のカズ その2【挫折】:2006/07/18(火) 21:25:07 ID:sIWcW3Mi0
「キンゼ・デ・ジャウー」に戻った時、カズは胸に新たな決意を抱いていた。そして一気に走り出した。
アマチュアの大きな大会に出場し0-1で負けている時、ペナ内で反則を受け、PKを見事に決めた。
「カズー!カズー!」 と叫ぶスタンドの声が彼の耳に届いた。
それは彼が「ジャポネーゼ」という国籍ではなく、名前で呼ばれた最初の出来事だった。
そして翌月、19歳の誕生日を迎える直前、サントスからプロ契約のオファーが届いたのだった。
しかし苦闘が終わったわけではなかった。サントスに入団して半年、たった2試合しか出れなかった。
しかもその試合での彼のプレーに対する新聞の評価は、10点満点で2点。フィールドに出ていた選手の中で最低で、
次に低い点数は4点だった。「カズはプレーが遅すぎる。日本に帰ったほうが良い」
その後数年間、彼はブラジル各地を自分を採用してくれるクラブを転々とした。
アウェイの遠征で悪路バスで片道8時間などはざらで、片道23時間バスに揺られ続けたこともあった。
数チームを転々とした後、彼に古巣の「キンゼ・デ・ジャウー」から契約の話が舞い込んだ。
サンパウロ州のチャンピオン シップをかけて、強豪コリンチャンスとの大一番が控えていた。
この試合は何台ものカメラで中継され多くの人々が見る大試合だった。
その試合に出場したカズは、元ブラジル代表エジウソンのマークを受けた。
が、彼はフェイントを駆使し、ドリブル突破し、次々とパスを成功させた。
そして右からのクロスにヘディングで合わせ、見事ゴール左隅へ突き刺した!
そのゴールによってジャウーはコリンチャンスに3-2で勝利した。
16 :
ブラジル時代のカズ その3【栄光】:2006/07/18(火) 21:27:21 ID:sIWcW3Mi0
その後コリチーバFCに移籍。88年、シーズンを通してレギュラーで活躍。
フラメンゴと対戦した時には、相手チームにはジーコがいた。彼はハーフタイムのときにカズに近づき、
「 sucesso!(よくやったね!) 」と言葉をかけ、握手をしてくれた。
翌日、ブラジルで発行されている日本語新聞には、二人が並んでいる写真とともに
『日系ブラジル人の誇り』と賞賛する記事が掲載された。
それを読んだカズは、涙があふれ出るのを止められなかった。
■日本式サッカー革命 決断しない国の過去・現在・未来
著者 セバスチャン・モフェット 訳 玉木正之
その後コリチーバFCに移籍。88年、シーズンを通してレギュラーで活躍。
フラメンゴと対戦した時には、相手チームにはジーコがいた。彼はハーフタイムのときにカズに近づき、
「 sucesso!(よくやったね!) 」と言葉をかけ、握手をしてくれた。
翌日、ブラジルで発行されている日本語新聞には、二人が並んでいる写真とともに
『日系ブラジル人の誇り』と賞賛する記事が掲載された。
それを読んだカズは、涙があふれ出るのを止められなかった。
■日本式サッカー革命 決断しない国の過去・現在・未来
著者 セバスチャン・モフェット 訳 玉木正之
18 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 21:28:22 ID:38uc/gjR0
19 :
カズ語録:2006/07/18(火) 21:31:14 ID:38uc/gjR0
「サッカーボールはボクの命だ!(14歳)」
「プロのサッカー選手になる!ブラジルで!(15歳)」
「将来は全日本。日本のためにサッカーをしていきたいと思います(18歳)」
「サッカーでスーパースターになりますから(19歳)」
「日本をワールドカップに連れて行く(23歳)」
「国立を満員にしてみせる(23歳)」
「1億円プレイヤーになってやる!(24歳)」
「足に魂込めました(26歳)」
「バモラ!(27歳)」
「W杯に行くために(イタリアから)何かをつかんで帰って来たい(27歳)」
「日本代表としての誇り、魂は向こうに置いて来た(32歳)」
「自分の中のチャンピオンベルトを取り戻したい(33歳)」
「まだまだこれからだよ(35歳)」
「サッカー以外の全ての面でもニックネーム(KING)に相応しくありたい(36歳)」
「ドイツでお会いしましょう(38歳)」
「サッカーは世界中でやってるんだぜ(38歳)」
「大好きだ神戸、ありがとう!(38歳)」
「今度の舞台は関東だな(38歳)」
「全盛期?これからだよ(38歳)」
20 :
カズ語録 :2006/07/18(火) 21:31:48 ID:sIWcW3Mi0
語録
「ブラジルでプロ選手になって、いつかW杯に出たい」(高1/1982年地元静岡の新聞インタビューに答えて)
「日本代表をW杯に出場させるために帰ってきました」(1990年読売サッカークラブと契約し帰国した時の会見)
「魂込めました、足に」(1993年アメリカW杯アジア地区最終予選VS韓国でゴールを決めて)
「悲しみはいつか癒えていくのかもしれない。でも、傷って消えることは無いんです」(1997年フランスW杯
アジア地区最終予選開始前、「ドーハの悲劇について今どう思いますか?」と質問され)
「成功した時にスポーツ紙の一面になるのは普通の選手。失敗した時にスポーツ紙の一面になる選手は限られている。
一面で失敗を取り上げられ叩かれることに誇りを持てばいい」(1998年柔道の田村亮子選手が、
イチロー選手との対談で「KAZUさんに言われたこの話を思い出すと心強くなる」と語った)
「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こう(フランス)に置いてきた」(1998年6月フランスW杯
メンバーから漏れての会見で)
「点を取ってこそKAZUだから」
「ドイツでお会いしましょう」(2006年ドイツW杯への出場が決まった時に)
「大好きな神戸、ありがとう!!」(神戸退団の際)
「これで皆、オレが引退すると思っているのかな? サッカーは世界中でやっているんだぜ」(神戸在籍時の
2005年7月に5戦続けてベンチを外れた時に)
「それは俺がKAZUだから」
「勝ち負けに関係なくボールと仲良くなれ」(横浜市内の小学校で訪問授業を行った時に小学生に語った言葉)
「30歳は小僧だね」
「まだ死なねぇ」
「日本も世界なんですよ」(記者の「日本は世界を相手に戦えますか?」との質問に対して)
「ジーコ、一度でいいから(代表に)呼んでくれねぇかな」(2005年12月放送のテレビ番組にて)
「次は2010年目指して頑張ります」(2006年ドイツW杯のメンバー発表後)
21 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 21:33:30 ID:38uc/gjR0
実況 NHK:山本浩
彼ほど悔しい思いをしたサッカー選手がいたでしょうか
彼ほど非難の的になったサッカー選手がいたでしょうか
自分の力ではどうにもならない悲しさ、
異国の地で孤独に押しつぶされそうになった夜
彼はそれらを全て前に進むためのエネルギーにしてきました。
今、彼ほど日本中から愛されている男はいません。
そして、彼ほどサッカーを愛している男はいないでしょう。
彼は1人ではありません。
彼が胸の前で握りしめている拳の中には我々の魂が握られています。
キングの称号を持つ男が、今ピッチの中へ走り出していきました。
三浦知良、ワールドカップ、デビュー戦です。
22 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 21:34:00 ID:sIWcW3Mi0
>> ID:38uc/gjR0
サンクスw
23 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 21:36:05 ID:38uc/gjR0
>>ID:sIWcW3Mi0
乙
24 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 21:38:45 ID:DNgS2/mL0
素晴らしい連係だ
25 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 21:46:48 ID:i9AfOHqf0
こんな連携が見られればドイツ大会ももっと・・・
いや、過ぎたことをいつまでも言うのはよくない
スレ立てた人、テンプレ貼った人、乙
26 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 21:56:40 ID:sIWcW3Mi0
27 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 21:58:52 ID:sIWcW3Mi0
28 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 22:01:04 ID:sIWcW3Mi0
29 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 22:03:11 ID:sIWcW3Mi0
ブラジルのサッカー選手を夢見る孤児たちを育てる団体に、カズがサッカーボールを送ったことがあった。
それも、200個ものボールを。 子供たちは、とても喜んだ。
しばらくして、やはりJリーグが同団体にボールを寄付することになった。
エージェントが現地へ赴き、少年たちにボールを渡す。
少年たちはやはり喜んだが、渡されたスポルディングのボールを見て
「スポルディングではなくて、メーカーは『カズ』が良かった。」
「『カズ』のボールはとても使いやすかった」
と口々に言う。
Jリーグのエージェントは首をひねった。カズ?そんなメーカーがあっただろうか。
「これだ」と、手渡されたボロボロのボールを見てエージェントは驚いた。
すでにかすれてしまっているものの、ボールにははっきりとサインペンで
「夢をあきらめるな カズ」
と、現地の言葉で記した跡があった。
200個ものボール全てにカズは自筆のメッセージとサインを入れ、
それを子供たちは「カズ」というメーカーのボールであると思い込んでいたのだ。
30 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 22:05:28 ID:sIWcW3Mi0
Jリーグが始まった年だから、もう何年前になるんだろう。
名古屋の栄の焼き肉屋へ家族で行ったときのこと。
座敷席にカズさんと北沢選手と、数人の女の子がいた。
多分遠征中だったのだろう。
当時高校生の俺の小学校三年の弟はサッカーをやっていた。
せっかくだからと、尻込みする弟をカズさんの前へ連れて行き、
「お楽しみのところすいませんが」
弟がサッカーやっているんで、何か言葉をいただけると励みになるんですが。
と厚かましく、言った。
カズさんは、「お、サッカー少年か」と楽しそうに言いながら、座敷席の奥からわざわざ立ってこちらへ
来てしゃがみ込み、弟と目線を同じ高さにした。
「サッカー少年は勉強がよくできるか?」と、いきなりキングは弟に聞いた。
弟の成績はそれなりによい。弟はうん、と答えた。
するとキングは
「頭のいいやつは、トップ下MFがあってる」と、カリオカ、ラモスの名前を挙げた。
さらに何かを言おうとするキングに、連れの女の子が、ねえまだーと露骨にいやそうな顔をした。
カズは、振り返って一言言った。
表情は向こう向きだったから、わからなかったが、多分厳しい顔をしていたのだろう。
「うるさい。俺たちは今サッカーの話をしているんだ」
31 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 22:07:40 ID:sIWcW3Mi0
私がカズに惹かれ、尊敬し、チケットを買い三ツ沢に足を運ぶ理由、それはカズが私にとって
スーパースターだからだ。カズをスーパースターと決定的に感じたのは、今から10年以上も前の
(私の記憶では)1994年、当時会員であった
ヴェルディ川崎市民会主催の”ファンの集い”(みたいなイベント@とどろきアリーナ)に参加した時だ。
ヴェルディ選手たちのトークショーなどがあった後、選手のお宝グッズプレゼント大会が催された。
北澤、武田、菊池新吉らがジャージやTシャツなどを提供し、それを欲しがって手を上げたり、
叫んだりして目立ったファンを選んでプレゼントするという企画であった。幸運にも選ばれるファンは、
会場前方ではしゃぐ小学生の子供ばかりで、必死に手をあげるオヤジの私などは見向きもされない状況であった。
そんな中、最後にカズが登場してきた。
当然、会場のボルテージは最高潮、子供、ギャル、おばさん、おじさんのみんながカズのジャージを欲しがって
「欲しいー」と叫んでいた。
その時、会場後方の端にひっそりと1人のチャーミングな女性が居ることに、誰も気づいていなかった。
カズを除いて。
カズは、前方で騒ぐガキには目もくれずに言った、
「そこの後ろにいる素敵な女性にプレゼントします」と。
32 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 22:09:52 ID:sIWcW3Mi0
それまで騒いでいた私を含めファン全員が後ろを振り返ると、そこにチャーミングな女性がご主人(らしい方)に
付き添われて居た。彼女は立ってはいなかった、車椅子に座っていた。加えて、遠目からみても、かなりの(重度の)
ハンディを背負っている様子が見てとれた。
彼女が会場に来ていることに気づかず、席や前方のスペースを譲ることもしなかった自分がとても恥ずかしかった。
でも、カズだけは彼女をしっかりと見つけ、彼女に自分の試合用ウォームアップジャージをサイン入りでプレゼントし、
こう言った「昨日の試合で着てから洗ってないので、クサいです」。
場内は大爆笑。そして、彼女とカズに大拍手。
その瞬間のカズからは、光り輝くオーラが発せられていた。
フットボーラーやアスリートとしてのオーラではなく、人間としてのオーラが。
その時から、カズは私にとってのスーパースターになった。
その後、かの女性に何回か等々力競技場で会って話をした。
「その着ているジャージ、カズのですよね?」と聞くと、
「そうです。もちろん、あれからも洗ってません。今日もヴェルデイを応援しましょう。勝って欲しいですね」。
彼女は、幸せそうな笑顔が素敵な、とてもチャーミングなサポータでした。
カズは彼女と私に、幸せをプレゼントしてくれました。
これからも、ずっとカズを応援して行きます。
ttp://blog.goo.ne.jp/ken1eagle/e/d44ade576b6bf3d75ecceedab3d92fda より抜粋
33 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 22:13:27 ID:sIWcW3Mi0
とりあえず目立ったところではこんなもんかな
34 :
水先案名無い人:2006/07/18(火) 22:49:05 ID:Iery6J2t0
オッテュ
35 :
1/3:2006/07/18(火) 23:53:50 ID:cLNsnZH80
フジテレビの日曜夜の情報番組に三浦知良がゲスト出演していた。
自らの半生と現在の自分が置かれている状況を冷静に、そして威厳をもって語るその姿は、
まさしく日本サッカーの『KING』としか形容できない神々しい輝きを放っていた。
日本サッカーの歴史はJリーグによって始まったと思っている。
異論を唱える人は大勢いるだろうが、
サッカーを“大衆文化”として日本に根付かせたのはJリーグであり、その最大の功労者はカズである。
カズ以前とカズ以後では日本スポーツ界において、サッカーの占める地位は格段に向上した。
メキシコオリンピックでのメダル獲得などの功績も過去にあったのは確かだ。
しかし、メジャースポーツとしてサッカーが扱われるようになったのはカズの存在なくして想像すらできない。
カズは最初にして最高の日本サッカーのカリスマだ。
そして現在もカリスマであり続ける。
中田ヒデやその他多くのスターが出現したが、大衆的なスターとしての輝きを放っていたのはカズが唯一だった。
スーパースターという単語が当てはまるのはカズだけだ。
テクニックやプレイスタイル云々ではなく、カズの一挙手一投足がファンを沸かせた。
サッカーに縁の無かったおばちゃんや年寄りをサッカー中継に引き寄せた。
私はゴールを決めた後の『カズダンス』やブラジル仕込みのフェイントを披露されると今でも鳥肌がたつ。
単純にテクニックだけを比較すればカズ以上の選手は日本国内にも多数いるだろうし、ルックスもカズより
もっと男前で若い選手は掃いて捨てるほどいる。
だけど、上手いだけではスターとは呼べない。
スターとしての自覚があってこそ“スター”なのだ。
スターの役割とは何なのか?
36 :
2/3:2006/07/18(火) 23:57:55 ID:cLNsnZH80
フジテレビの新番組は爆笑問題と阿川佐和子が司会だった。
特に期待しないで観始めたのだが、司会が中途半端にサッカー通ぶった芸能人じゃなかった
おかげで好感が持てるトーク内容だったように思う。
ありきたりなサッカー談義に終始することなく、“キング・カズ”の本質にせまる質問を躊躇すること
なくぶつけていた。
特に興味深かったのは「日本サッカー界のカズに対する現在の処遇に不満はないのか?」という質問。
そして「年齢的な衰えは気にならないのか?」という質問。
通常のスポーツ番組ならタブーの質問だ。
しかしカズは平然と質問を受け止め、淡々と回答していた。
王者の余裕だった。
処遇に不満はないのか?には、
「不満なんか無い。今でも自分は必要とされていると感じる」と語ってくれた。
優等生的な社交辞令のように聞えるが、カズは本当にそう思っているのだろう。
黎明期のJリーグにおいてカズはサッカー界の盛り上がりを「これはブームだ」と語り、
Jリーグの絶頂期が永久に続くものではないと分析していた。
ブームはいつか去る。
そのときに真の「文化としてのサッカー」が問われるのだと。
カズはサッカー文化の礎となるべく、自分の置かれた状況を受け入れ、道化としての役割を全うした
37 :
3/3:2006/07/19(水) 00:02:30 ID:cLNsnZH80
年齢からくる衰えを感じるか?には、
「まだまだ上手くなるんじゃないかと思っている」
と語っていた。痩せがまんではない。
体力面ではかなり厳しいのが現実なのだろうが、現在のレベルで最高のプレイを自身で演出
することができるというプライドに満ち溢れていた。
実際にカズと同等のレベルで現役のプレイヤーがどれだけいるだろうか?
世界中見渡しても数えるほどしかいないのが現実だ。
単に続けることが大事なのではなく、トップレベルを維持すること、上を目指し続けることの
大切さを教えてくれた。
カズが蒔いた種は確実に日本に根ざしている。
カズは最後に自らを『マゾナル』だと分析していた。
『マゾ』で『ナルシスト』なんだそうだ。
日本サッカーの神の御子として、サッカー界の苦難を一人で背負い、
苦難にもがく自分の姿に酔いしれる。
自分のことを知るのもスーパースターの条件だ。
「king KAZU」に祝福あれ。
ttp://trust-me-swan.cocolog-nifty.com/swan/cat1255213/ より抜粋
今日は静岡まで出張。
社内研修の仕事です。
テーマは決まってるんやけど、話の最初をどうするか、が毎度の悩みです。
研修(講師)は、出だしが肝心。
内容のよしあしもあるけど、「さあ、聞こう!」という気になってもらえるかどうかは、
スタートの5分で決まるというのが持論です。
本番の前の「つかみの5分」という、あれです。
大体は地元の話題がほとんとです。
福岡ならソフトバンクの王さんやおいしいお魚とか。
仙台では牛タンとか…。
さあ、今日はどうするかって考えながらつり革にぶら下がっていたら、広告が目に入りました。
三浦知良さんの真剣なまなざしに思わず釘付け。
サムライブルー惨敗の今、これがぴったりや。
三浦カズさんの心境ヒストリーです。
14歳 サッカーボールは僕の命だ!
19歳 サッカーでスーパースターになりますから。
26歳 足に魂をこめました。
28歳 危機感をもてなくなったら終わり。
31歳 勝ちたい気持ちに負けたことが悔しかった。
35歳 迷うと走り続けた。
39歳 現役選手としての自分以外は考えられない。
28歳にして言うせりふでしょうか?
イヤー、なかなかの男性(ひと)ですね。
ttp://blog.opn.co.jp/archives/50339893.html より抜粋
39 :
水先案名無い人:2006/07/19(水) 00:15:13 ID:QsmQ1M2dO
カズさん、覚えていますか?俺たちがスイスで帰らされたとき、カズさんはこう言いましたね。
「キーチャン、ワールドカップに一番近付いた男は俺とお前しかいねえんだぞ。ワールドカップに行ったのが22人いるだろう、ドーハではギリギリで22人が行けなかった。
ドーハが最も近付いたって言われてるのに、それよりももっと近付いたんだぞ、ワールドカップに。…でも、行けなかったのは俺とお前だけだ。」
カズさん、俺は言いましたね。「カズさんが外されるようなことがあれば、俺は帰りますよ。」って。
あれ、本気だったんですよカズさん。
あれから、俺は引退して、今はリポーターをやってます。カズさん。
『北澤さん!今のピッチを説明して下さい!…北澤さん?北澤さん?』
カズさん、俺、見えません。ずっとずっと、この光景を待ち望んでいたはずなのに、見えません、カズさん。涙が、涙が止まらないんですよ、カズさん。
『北澤さん!背番号11、今カズがピッチに飛び出しました!北澤さん!北澤さん…!』
カズさん、そこがワールドカップです。俺たちが、ずっとずっと夢見た。
40 :
水先案名無い人:2006/07/19(水) 00:21:34 ID:q04dfyLl0
9月某日。名古屋へ出張した帰りのこと。
新幹線でパソコンを広げながら仕事をしていると、スーッといい香りが漂うじゃありませんか。
「最近のグリーン車はこんななんだ」
…っていうわけはなく、でも、それはまるでアロマテラピーの香りのように静かに心を癒してくれました。
何の香りだと思います?
パヒュームです、そう、サッカー界のキング・カズこと三浦知良さん、彼のパヒュームですよ。
いやぁ、なんともステキな人でした。ところが、
「ステキだったのは風貌だけじゃナインデス!!」(川平慈英風)
さすがですよ。
今でこそ、日本人サッカー選手が海外で活躍する時代だけれど、彼は15歳くらいのときに単身ブラジルへ
行っているんですよね。パイオニアですよ、パイオニア!
その意気込みは彼の魂そのもの。彼はサッカーをやるために生まれたんですよ、きっと。
彼はサッカーについて熱く、熱く、熱〜く語っていました。
私に話しかけているわけではないのだけれど、“超ハイパー燃えるテンション”で、聞き耳立てちゃいました。
「最近の若い選手は、最後の最後までボールを追いかけて絶対にゴールに入れてやる!
という意気込みが少ないんだよね。俺だったら何があっても絶対に入れてやる! って思うもん。
俺はさ、とにかく生涯現役なんだよね。おまえもさ、また現役に復帰してフィールドを走り回ろうぜ!!
やっぱり、生涯現役でいこうぜ!!」
なかなか言えるセリフじゃないっすよ。
カズの魂を私にも!って思いました。
いや、がんばってるんだけど、さらに、さらにがんばっちゃうよ〜っ!って。
ttp://www.kyururu.com/phatphoto/theme/7.php より抜粋
41 :
水先案名無い人:2006/07/19(水) 00:29:31 ID:q04dfyLl0
サッカー界のスター カズこと三浦知良さんが 今日テレビで話してた。
顔・・しまってる。
同じ年代であるけれど、鍛えられた肉体は年を全く感じさせなかった。
魅了されていく 私。。。。
いっつも 誰かに魅了されてる私。。。。
昨年 実際にサッカーの試合で見たけど、サービス精神に
溢れてて 観客はドーッと盛り上がる。華がある人って かっこいいーーー
今季からJリーグ初の「選手兼監督補佐」になり
監督と選手の間でパイプ役として お互いのコミュニケーションを
スムーズにする役目となるだろうと
以前 新聞で読んでいた。今日のテレビでも
「自分は先輩の背中を見て いろいろ学んできたけれど
これから 後輩達へ言葉で伝えていく事を大切にしていきたい」と。
パイプ役としても 上手くいくだろうね。新聞には
「パイプ役といっても上から下へ、下から上へスルーするだけじゃなく
監督にも 選手にも これは違うだろうと言う事だってあるかもしれない。
そのさじ加減は プロ21年生の経験を生かせていけるだろう。
打算抜き。そうするのは、ただ、勝ちたいからなんだ」
と 書いてあった。
あ〜〜プロだよな〜〜
自分のプライドや、なんやかんやと余計な事にとらわれる人もいるだろうに、
勝つためにはどうすればいいかのみに焦点あててる。
ttp://be-smart.269g.net/category/139872.html より抜粋
ブラジル時代カズのドリブルは「KAMIKAZE(神風)」と呼ばれ恐れられた
ブラジル人DFが日本人であるカズのドリブルに翻弄され
苛立ち1試合50回以上ファウルを受けたこともあった
ブラジル代表DFがいるチームとも幾度も対戦したが幾度もドリブルで翻弄
1988年ブラジル全国MVP投票左ウィング部門3位
コリチーバ移籍直後の試合で途中出場15分でドリブル突破・クロスを上げ決勝点アシスト
コリチーバ時代にパラナ州選手権優勝 カズは選手権中6ゴール5アシスト
決勝戦でも50Mをドリブルで疾走し活躍
カズがいた時のコリチーバはコリチーバ史上最強だったとも言われている
日本人として初めてブラジル全国選手権出場
新聞が選ぶ週間ベストイレブンにはライーなど当時のブラジル代表とともに幾度も名前が載った
サントスと再契約の時にはカズはブラジルで有名なトップ選手の1人になっており
オファーが多数あったがリベンジの意味も込めてサントスと再契約
また第二次サントス時代強豪パルメイラスを1-0で下したファインゴールは
週のベストゴールに選ばれ南米で最も権威のある雑誌の一つ「プラカー」の表紙になった
実際にカズはブラジル人に帰化し代表になってもらいたいという声もあった
2005年シドニーFC移籍時はFIFAの公式ページのトップを飾ったが
ブラジルの新聞でもカズの新たな旅路を大々的に扱っていた
またその情報を扱ったブラジルのインターネット掲示板上でも
「カズはまだやってたのか」「またブラジルに来て欲しい」といった書き込みがあった
2006W杯GL組み合わせが決まった際日本のテレビ曲がブラジル人に日本の印象を聞いた際
1人が「(中略)でも日本にはあの男がいるじゃない!(テロップ:中田?中村?)カズゥー!」と答えてた
未だに日本人選手の中でカズの人気・知名度はブラジルでは健在の様子
ブラジルのタクシー運転手が「カズは今でいえばロビーニョみたいなもんだった」と言っている
横浜FC移籍の際シドニー以外にもブラジルのクラブからもオファーがあった(ジュベントゥージ)
参考文献「VS 2006年1月号“三浦知良「開拓者」のすべて”特集50P」etc