「乱太郎、きり丸、しんべヱ―― 」
振り返りもせず、土井半助が言った。
自分は机に向かったままである。
「乱太郎、きり丸、しんべヱ―― 」
もう一度言う。
自分の教え子たちの名である。
部屋には誰もいない。
だが、半助の独り言ではない。
そういう男ではない。
土井半助は、三人を呼ぶために、名前を唱えたのだ。
忍術を知らぬものには、ただただ奇異に映る行為であった。
まだか。
と、半助は思った。
あれほど、今日はお使いを頼むからと言っていたのに――
また、遊びに行っているのか――
へとへとになるまで訓練した後で、まだ動けるか――
くく。
知らず、笑みがこぼれる。
体力だけは、一人前だな――。
だが、いつもいつもこれではさすがに便が悪い。
ならば、この書き上げた書を誰に託すか――
そう思った、刹那であった。
「土井先生――」
気がつけば、部屋に気配が増えていた。
「あれ?」
半助は、ゆっくりと振り返りながら言った。
「あれあれ? 山田先生、どうかしましたか?」
何時の間にか後ろを取られていたことに、少なからず動揺したことの裏返しであった。
乱太郎たちではなかった。
いくらなんでも、生徒の気配に気付けぬわけがない。
山田伝蔵。
忍術学園に長年勤める、土井半助の先輩である。
鋭い目と、野太い声。
志望を極限まで落とした、無駄のない筋肉。
非情なまでに忍術を求めた、結晶のような男であった。
だが――、それでも――
後ろを取られるとは、思わなかった。
だてに、修羅場はくぐってない、か――
山田伝蔵という人物を改めて知った思いであった。
「土井先生、乱太郎たちにお使いを頼んだでしょう?」
伝蔵が口を開く。
年下の半助への馬鹿丁寧な言葉遣い。
小馬鹿にされているようで、半助はその口調が嫌いだった。
「あれね、私が代わりに行くことになりましたから――」
耳を疑った。
この男、今、なんと言った?
生徒のお使いを――自分が代わる?
半助には、到底信じられぬ言葉であった。
そのような発想を持つ人間がいるのか。いたのか。
忍術学園というぬるま湯に浸かって、精神まで犯されてしまったのか。
その肉体が鳴いているではないか。
いや、鳴いていることにすら、気付いていないのか?
俺は、このような男に、後を取られたのか。
糞。
やり切れぬ。
半助の中で抑えていた何かが、急に熱をもって動き出していた。
いっそ、今ここで殺してやろうか。
内臓を抜き取り、その秘密の染み付いた肉体を、嬲ってやろうか――
ぎりっと緊張が肉の中に張り詰めた。
――だめだ。
冷静になれ、と別のところから声がする。
寸でのところであった。
殺気を静めるのが、もうわずか遅れていれば、伝蔵のところにまで届いていたであろう。
己の中には、思ったより凶暴な獣がいるらしい。
ふう。
息を吐く。
もう一度、呼吸を調えて、
「なぜ山田先生が――」
やっと言った。
「いえね、最近、外に出ることがなくて――」
女装する機会がないんですよ、恥かしそうに伝蔵が言った。
ぶちり
筋肉の弾ける音であった。
肉の中で張り詰めて張り詰めて、悲鳴をあげた筋肉たちが弾ける音であった。
このまま――
このまま、弾けるままに暴れられたら、どんなにか気持良いだろう――。
ぶちり
筋肉の弾ける音がした。
これ以上は、抑えることはできない。
「いえ、自分が――」
もう、だめだ。
「自分が行きますから――」
やっと言った。