民明書房刊 究極なる奥義のガイドライン

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765水先案名無い人
倭田(わた)と野間子弧(のま・ねこう)と英部空崇(えいべ・くうすう)

米爺が菩提樹を使用した米酒の製造法を自らの命とともに断ち、その名誉が詩として継がれていった。(>89参照のこと)
しかし、時はたち次第にその詩も廃れていき、やがて米爺や米酒の事がすっかり忘却された明代。
倭田(わた)という符楽宗(ふらしゅ:この時代における紙芝居的存在)職人がある日、於存(おぞん)の地の畑から
ある木簡を拾い上げた。そこには「米爺否 米爺封 米爺宝 米爺醗葉」という詩が刻まれていた。
疑問に思った倭田はこの書を調べると、これが殷代から伝わる米爺醗葉の詩という事を知った。
さらに、探索した倭田は同じ場所から甲羅を拾い上げた。そこには米爺の伝記が書かれてあった。
倭田は早速、この二つから符楽宗を製作。やがて、この話を皮切りに符楽宗の名は明国全土から諸外国へと広がっていった。
米爺の伝説を再現したことで、倭田は時の皇帝から母名(もな:符楽宗における、詩聖と同等の名誉のこと)の称号を戴いたという。

ここまでなら、倭田は明代の符楽宗を代表する職人になっていたはずだったが…。

つづく。
766水先案名無い人:2005/09/06(火) 21:56:01 ID:W5cmB8Oy0
倭田(わた)と野間子弧(のま・ねこう)と英部空崇(えいべ・くうすう)  つづき

同じ頃、日本の堺に英部空崇(えいべ・くうす)と呼ばれる豪商がいた。英部はあくどいやり方で一財を築いたため、
世間からは嫌われていた。その英部が、個人貿易の為明に渡った時に、米爺符楽宗を見物。この話にいたく感銘をうけた
英部は、倭田と密会。大金を出して倭田と米爺符楽宗を買い取ったという。
数週間がたち、日本産の符楽宗が人気を博しているという話題が符楽盤(ふらばん:符楽宗のギルド)に伝わった。
それを聞いた他の符楽宗職人が見ると、それは倭田の製作した米爺符楽宗であった。
それに驚いた職人たちが問いたが、それは日本の野間子弧(のま・ねこう)が独自製作した物語だと言い、取り合ってくれなかった。
職人たちは、倭田の家へと向かったが、そこに倭田の姿はなく、更に彼が製作した符楽宗が消し炭同然で放置されていた。
隣人が言うには、倭田は修行のため日本へと旅立ったという。
職人たちは日本へ行き、数々の情報から倭田が堺の英部空崇と密会したということを知り、すぐさま英部の元へ向かい
全てを問い詰めた。しかし、英部は倭田など知らぬと言い、取り合ってくれなかった。だが、その時倭田が英部邸に訪れたのだ。
職人たちは倭田に迫り問い詰めようとしたが、倭田は「私は野間子弧だ。倭田など知らない」と言い捨てたのだ。
倭田は日本へ来日する際、英部から「野間子弧」という名前を与えられていたのだ。
職人たちは落胆しながら、国へと帰っていった。その件以来、明の符楽宗は衰退し、日本の符楽宗は発展していった。

現在、わた氏製作の「マイヤヒー」フラッシュがエイベックスのCDに収録される際、AAキャラが書き直され、のまネコという
別の名前を与えられた挙句、それが2ちゃんねるのメインキャラだという設定されたことがきっかけで大きな事件になっているが
この事件が、この故事と何らかの因縁があるのではないかと思われる。
はたして、この事件の問題は解決されるのか?それとも…故事の二の舞になってしまうのか?


民明書房刊 「中国故事の伝承衰退と、現代日本のモラルハザードの因果な関係」より抜粋