それからマモノにとって、八木は特別な存在になったという。
「確か(八木が)膝の手術で一年棒に振ったでしょ(九六年)。その後代打専門になって
ね。あれからですね。こいつのために何かしてやりたいと。」
九七年、代打に出てくる八木に、マモノはパワーを送り続けた。その結果八木は、代打と
しては驚異的な打率、四割五厘という記録を残す。「代打の神様」の誕生である。
しかしマモノには心残りがあった。
「あとは優勝ですよ。和田は新人の時(八五年)に経験してるけど、八木にはない。(阪
神生え抜きのスター選手には)何とかしてやりたい。でも、何とかしてやりたくても、ど
うにもこうにもならないチームでしたし(苦笑)。」
風向きが微妙に変わったのは九九年の野村監督(当時)の就任。
「びっくりしましたね。雰囲気だけじゃなくて、その後ウチに来た選手も違って来た。赤
星なんて昔のウチにはいないタイプでしょ?」
そして〇二年の星野監督(当時)の就任。一気にチームは変わったという。
「そりゃあのガッツですもん、監督が。選手も変わったし、何よりスタンドのお客さんの
空気が変わった。」
〇三年、星野阪神は独走優勝。八木に優勝の美酒をと願う、マモノの思いは叶った。
「テレビ見てて、ビールかけではしゃぐ八木見て涙が出ましたね。おめでとうって。」
その頃、実はマモノも引退の時期を見計らっていたという。
「ウチの弟子が結構力つけましてね。世界水泳(北島金メダル)とかね。もうそろそろい
いかなと。」
そんな背景もあって、マモノも最後の大勝負に出た。それが、「あれは狙ってましたよ」
とマモノが微笑んだ、日本シリーズ甲子園三連勝。
「やることはやったなって。」
日本一はならなかったが、マモノは満足したという。
ところが。
「(引退を)申し入れたんだけどね。ただ、翌年五輪イヤーで弟子も大忙しになるから、
なんとか来年一年だけはって慰留されて。」
そして今年。五輪にモータースポーツに大忙しの一年を経て、引退は認められた。忙しす
ぎて阪神は「多少(笑)」おろそかになり四位で終わったが、後輩に任せることにした。
「八木も辞めると聞いたときには運命を感じたね。ああ、こいつと共に歩んだんだなって。」
八木の引退打席。 八回一死走者なし。
「ホントはホームランにしてやりたかったけどね(笑)。なんか泣けてきちゃって、結局
何も出来なかったよ(笑)。」
八木は三球目の直球を右前へ。
「さわやかにしたかったしね。あれでよかったよ。ただ、謝ったけどね、あの幻のホーム
ランだけは。あれはボクのミスだった、ってね。」
八木の最後の晴れ舞台。それは、共に歩んだマモノにとっても、最後の晴れ舞台だった。(終わり)