マモノのガイドライン

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397水先案名無い人
>>328) ●マモノ回顧録 第一回 八木とともに
先日、阪神タイガースを引退した八木裕選手と共に入団し、共に引退することになった
甲子園の魔物 、七代目・マモノPL。引退した彼への取材の中から、とっておきの思い
出話をお届けする。
第一回はいわば「甲子園同期生」、今シーズン限りで同じように甲子園を去った、あの
「代打の神様」のエピソード・・・。

「八木はね、いつもスタンドでトレーニングするんですよ。」
下半身強化のため、アルプススタンドの階段を上り下りする八木。その八木の真摯な姿
は、いつもマモノの目に焼き付いていた。
「あの頃の阪神の選手っていったら、もー、ほら、ちんたらちんたらして、ろくにトレー
ニングもしないで新聞記者や川藤さんと喋ってるようなやつがごろごろいてね(苦笑)。
だけど八木は違うんですよ。いつも黙々とスタンドの階段を上り下りする。いいやつだな
って思いましたね。いつか、あいつの張れ舞台が来たら、手を貸してあげたいって。やっ
ぱり真摯なやつには手を貸してあげたくなるじゃないですか。」

その思いはずっと持ってたんだけど・・・そこまで言いかけてマモノは苦笑いする。そう、
あの頃の阪神は常にBクラス・・・マモノの仕事も、阪神に関しては小手先だけで済むよ
うな仕事が多く、忙しいのは年二回の高校野球と、年末の甲子園ボウル(アメフト)。後
は五輪などの海外出張があっただけだったという。
398水先案名無い人:04/11/09 12:23:59 ID:rXXLeh9I
そんな八木とマモノにも、チャンスは巡ってきていた。
一九九二年、中村阪神は首位争い。秋風が吹く九月になって、興奮はピークに達していた。
そんな中の首位攻防戦。九月一一日、ヤクルト一八回戦。同点の九回裏二死一塁で、八木
の打席。八木が放った打球は、左翼席に向かって放物線を描いた。
「どうにかしろと思ってましたし、あの打球でしょ。来た!と思いましたよ。ただ・・・。」
マモノは記者への目線を伏せ気味にして続けた。
「二転三転した試合だったでしょ、しかもツーアウト。正直、一瞬ボクの集中も切れてま
した。遅れてしまったんですよ・・・パワーかけるのが。」
打球は失速してフェンスぎりぎりに落ちた。
「でも、入ったように見えたんで、よかったーと。サヨナラだと。ホッとしたんです。」
しかしそこで事態は思わぬ展開を見せる。ヤクルト・野村監督(当時)が執拗な抗議をし
た結果、判定はエンタイトル二塁打に。実は、打球は外野フェンスのラバー上部に当たり、
金網を越え、そして観客席側に落ちていた。
「えっ、と言ったまま立ち尽くしましたね。どうして?と。頭真っ白ですよ。」
中村監督(当時)も猛抗議(三七分間中断)したが実らず、結局二死一三塁で再開。後続
が凡退し、試合はプロ野球史上最長の六時間二六分の激闘の末、引き分けとなった。阪神
は結局この引き分けが尾を引き、七年ぶりのリーグ優勝を逃す。そして再び、阪神は暗黒
の低迷期を迎えることとなる。
「引退した先輩からは怒られるし、散々でしたよ。帰りはいつもまっすぐ帰るんですが、
さすがにやりきれなくて、上甲子園の居酒屋で泥酔するまで飲んでましたよ。八木にすま
ない気持ちでいっぱいで。」(つづく)