難打罵茅牢(なんだばかやろう)
趙家の三男趙崇圭(ちょう・すけ)には直接の弟子はいなかったが、彼を慕う者は多かった。
阿來仲(あ・らいちゅう)もその一人である。
阿は趙の拳法「努利封」(どりふ)を参考にし、最初は拳法術を編み出そうとしていたが、頭に
血が上りやすい性格のせいで、なかなかうまくいかなかった。
そんな折、阿の自宅に泥棒が入った。阿はその泥棒を一喝し、屋根を葺くために溜めておいた
茅の倉庫に押し込めた。
泥棒は何とか脱出すべく、周囲を滅多矢鱈に攻撃してみたものの、茅は打っても打っても衝撃を
吸収してしまう。それを見た阿は、思う存分に泥棒を罵倒したと伝えられている。
この故事が後に「打ち抜くのが難しい茅の牢に入れられ、罵倒されるほどの屈辱」という意味で
「難打罵茅牢」と略されるようになった。
阿は結局、努利封を修めることも、新たな拳法術を編み出すこともできず、一旦は趙と袂を
分かった。だが後に阿が没した時、趙は彼の墓前で「阿は立派な努利封の漢だった」と
涙ながらに語ったという。
なお、現代でも他人を罵倒する際、「馬鹿野郎」と怒鳴ることが多いが、これは難打罵茅牢の
故事が由来であることは言うまでもない。
民明書房刊「僕達の好きな趙崇圭」より。