日本無礼区興行
古代中国は唐の時代、日本はいまだ蛮国とみなされていた。
そんな汚名を返上するため、天武天皇は日本と言う国号を定め、東大寺造営などの
巨大な国家事業を推し進め、その大仏の開眼供養の時に満を持して唐から客人を呼び寄せた。
しかしその際に労働者達が披露した、舞霊歌雨(ぶれいかう)という釈迦を称える舞踊が
客人たちをひどく驚かせ、後に至るまで「日本無礼区興行釈迦」として世の語り草とされることになる。
その舞踊の内容は、婦裸手(ふらしゅ)という、裸になり自らの妻に見立てた杭頭を抱える格好で
「人厄戎帯〜」「陀・陀・陀!」といった奇妙な歌を唱えたり、東へ西へ走ったり、
逆回転しながら冷冷資屋砂(ひりひりしやすな)という、東大寺造営の際に使われた砂をまきちらしたりしたと言い、
招かれた唐の客人は「なんと無礼な興行だろう!」と大きな衝撃を受けたという。
その時の労働者達の集団が後に「日本ブレイク工業」として発展した、かどうかは定かではない。
民名書房刊「無礼区会唐(ぶれいくあうとう)」より