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水先案名無い人:
牛丼発売休止になった翌日、私は妻とともに吉野家に出かけた。
もう冬だというのに木は青々としている。
人々の表情は希望と活気に満ち、額から流れる労働者の汗が太陽光を反射していた。
「メニュー一つで人間が煽りあう時代は終わったのだな」
昨日までとある一流企業に勤めていた斎藤さんが、ほっとしたように私たち夫婦に言った。
「ええ、これからは鳥や豚が食を支える時代なんですよ」
普段は滅多に話に加わらない妻の靖子が、斎藤さんの肩に手を置いて優しく言った。
「牛という字を御覧なさい。二本の線がお互いを貫き合っているじゃないですか」
通りがかりの髪の長い中年男がそう言って微笑んだ。
ロックンローラーは長年使ってきた丼を質に入れ、黒光りするカレー丼を購入した。
「牛丼はもう不要だ。これからは日本中にカレーの香りを漂わせよう」
一仕事終えたマハラジャの表情で男は言った。
青空のなかををツバメが横切っていった。