R.ローティは、形而上学を批判するというかたちで、あきらかに絶対主義を
批判している。我々も(彼が批判する意味での)絶対主義は採用できないし、
現在では単純に絶対主義を説く者はほとんどいない。それでは単純に、逆の
相対主義が正しいということになるのであろうか。積極的に相対主義を説く
論者はかなり多いし、その数は(いわゆるポストモダニズムのもとで)増え
てもいる。しかしながら我々は、主張(間)の対立が在るところでも何が妥
当かが決められないということを相対主義が含意しているのであれば、それ
は断固として退けられなければならないと考える。そういう相対主義のもと
では、対立の状態がそのまま残ることになるか、なんらかの力によって妥当
性の外部で対立の解消がなされることになるからである。いずれであっても、
我々はこれを認めることができない。しかし他方、ローティ自身は、自分は
相対主義ではないとして、独自の「自文化中心主義(ethnocentrism)」を提唱
している。以下、彼のこの「自文化中心主義」を検討するというかたちで、
「相対主義」克服の途を探っていきたい。
なんらかの実在的事態があって、それを正しく写し取ったものが
真理である、という実在論的発想をローティは「形而上学」とし
て批判したわけだが、それに代えて彼が提案するのは一種の合意
説である。つまり、真理について「客観性を連帯に還元する」
(PPI 22)わけである。そして、その「連帯」については、「強制
のない合意で十分」(PPI 38)である。そういう「合意」を得たも
のが真理なのである。
しかしながら逆に、合意があれば何でも真理だというわけで
はない。ローティは、そうした、いわば《純粋な》合意説を
採っているわけではない。真理であるのは、あくまでなんら
かの「テスト」(PPI 38)に耐えたものだけである。だが他方、
そのテストの「根拠ground」として普遍的なものが存在する
わけではない。問題になる信念は「我々がすでに所有してい
る諸信念」のネットワーク(体系)のなかでテストされるの
であり、「根拠」として言うなら、信念のテストの「根拠」は
あくまで「我々の」一定の信念なのである。そしてこれは、我
々の(特定の)「文化」が所有する信念でしか在りえなない。
「我々は、我々自身の光の下でやるしかない。頼ることができ
る超-文化的な観察台といったものは存在しないからである。」
(PPI 213) したがってまた、「根拠」が在って、それに基づい
て信念の正当化はできるのだが、「我々は我々の信念を全ての
者に対して正当化できるわけではなく、一定の適切な範囲で我
々のものと重なる信念をもつ者に対してだけそうできるのであ
る。」(PPI 31)