サヨクよ闘争しないで逃走してどうするんだ

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73無党派さん
十月はわれわれ日本共産党(行動派)にとっては偉大な記念すべき月間であります。十月が来るたびに、改めてマルクス主義の日本における精華たる、徳田球一の獄中十八年非転向の革命精神、渡辺政之輔の降伏するよりも死を選ぶという革命英雄主義、そして多くの行動派的共産主義者が、弾圧と、テロと、拷問に耐え、屈することなく、節を守りぬいてつくりあげた「三信一守」の思想、これらの行動派的革命伝統に深い思いをいたすのであります。十月はまさに日本共産党(行動派)と、革命的共産主義者にとっては、歴史をふりかえり、歴史に学び、歴史に誓う新たな決意の月間でもあります。

 一九四五年十月十日は獄中十八年、非転向を貫き、共産主義者としての節を全うした徳田球一と日本共産党の行動派たちが獄中から解放され出獄した日であります。同時に日本軍国主義ファシズムが第二次世界大戦(反ファシズム解放戦争)に敗北した結果として、多くの反ファシズム階級戦士と自由民主主義者が解放された日でもあります。こうして日本共産党が歴史上はじめて公然と再建、再組織され、徳田球一による人民戦線アピール(綱領)が内外に宣言された日であります。

 一九五三年十月十四日、徳田球一は病気療養中の中国・北京において死去しました。日本共産党の創立者であり、再建と再組織者であり、非転向と獄中十八年に代表される日本共産党行動派の革命的伝統の具現者たる革命家は、ここに五十九年の光栄ある生涯を閉じたのであります。

 一九二八年十月六日は渡政が虐殺された日であります。日本共産党と日本革命の歴史上、プロレタリア出身者として、また直接労働運動の実践家として、そして徳田球一の無二の戦友にして、日本共産党草創期の書記長たる渡辺政之輔は、任務を終えて帰国途中の台湾において特高警察に包囲され、ついに「降伏よりも死を選ぶ」との革命的共産主義の節操にしたがって壮烈なる戦死(虐殺)を遂げたのであります。二十九歳の渡政はその青春を日本革命と日本人民に捧げたのであります。

 一九九三年十月は偉大なるわれわれの十月闘争の月でもあります。それはわれわれを襲ったあの経済上の激震を耐えぬき、闘いぬき、全党が新たな転換と飛躍、再出発を闘いとった偉大な月間でもあります。一九九三年九月七日、党中央委員会を代表して書記局と森久書記長の名による「全党へのアピール」は次のような言葉で結ばれていました。「党は存在する。党は不滅である。党は生き続ける! プロレタリアはこの革命によって鉄鎖のほかに失うものは何もない。彼らの得るものは全世界である。戦いかしからずんば死、血なまぐさき闘争かしからずんば無。このように、問題は厳として提起されている。わが党、わが党員、わが同志、すべての協力者、人民戦線に敬礼する!」。こうしてわれわれの破壊と建設、一からの再出発の闘争は完全な勝利を獲得しました。多くの同志は過酷な犠牲に耐え、あらゆる困難を乗り越え、革命的ヒロイズムを発揮しました。こうして党は試され、党員は点検され、歴史はわれわれに「さあ! どうするのか」と迫ったのであります。そのなかでわが党は浄化され、真の前衛と、中核は鍛えられ、生き続け、党を守り抜いたのであります。これらの前衛は国際的、国内的規模にわたる党再建とマルクス・レーニン主義運動の再出発のためのスタートラインに毅然として立つにいたったのであります。それはちょうど第一インターの崩壊後に残ったマルクスとエンゲルスであり、ロシアの第一革命の敗北後に立ち上がったレーニンとわずかなボリシェビキであり、中国革命における長征で生き残った毛沢東と赤軍であり、獄中十八年で非転向を貫いた徳田球一とわずかばかりの行動派幹部と同じであったのです。

 このような歴史が、このような偉大な十月闘争という存在が、その意識的表現としてのわが行動派党をつくりあげ、そしてまたわれわれの十月闘争が大武議長による五つの思想文献を生み出したのであります。故にわが党、日本共産党(行動派)とは、一般的(国際的)には正統マルクス主義の党であり、特殊的には(日本においては)十月革命精神と十月革命英雄主義が生み出した「三信一守」の党であり、これが大武思想を核心とする行動派党であります。そしてわれわれの十月記念集会はこのことをはっきりと確認し、歴史に思いをよせ、歴史をたたえ、歴史に忠誠を誓う合図とするためのものであります。偉大な十月を生み出した日本革命と日本共産党の革命的伝統万歳!