【TPP阻止】日本共産党総合Part36【闘いの旗印】

このエントリーをはてなブックマークに追加
10無党派さん
日本共産党中央委員会出版局『原発事故と『安全神話』―美浜・チェルノブイリの教訓―』(1991年)

「今日の原発問題を考えるいくつかの基本点―原発問題・日本共産党全都道府県担当者会議でのあいさつ」

原子力問題で運動を進めている人のなかには、「脱原発論」といって、人類は将来にわたって、平和利用であっても、核エネルギーにはいっさい手をつけるべきではないという立場をとなえる人がいます。
われわれは、その立場にたちませんが、原発の危険性に反対し、国民の安全を守るという具体的な要求で一致があり、共同する意志があれば、そういう考え方の人たちとでも運動では共同できるはずです。
考え方がちがうから運動をいっしょにやるのはいやだとか、考え方の一致するものだけで運動をやろうというのは、われわれの立場ではないし、これでは、住民の切実な要求にこたえる運動には鳴りません。
 「脱原発」論をとなえる人たちのなかには、原発の廃止それ自体を運動の中心目標にしたり、当面の危険に反対する要求を一応かかげても、「脱原発」論に賛成かどうかで線引きをしようする傾向を、強くもっている人がかなりいます。
これは、要求の一致ではなく、考え方で運動に枠をはめようとするセクト主義です。
11無党派さん:2012/03/05(月) 00:38:07.01 ID:E7nAzbQh
<高木氏と、原水「禁」の脱原発>
<脱原発法制定の運動がなぜ起こってきたかを見ていきたいと思います。
 昨年(八八年)の四月二十四日、これはチェルノブイリの事故の二周年にあたりますが、成田の飛行場反対闘争もやったといわれる高木仁三郎氏など脱原発グループが一万人集会というのをやりました。
これには予想以上の人が集まり、主催者の意図はどうであれ、住民の不安の高さをしめしました。
 この集会で提案されたのが、脱原発そのもののはじまりでした。
その後、運動の方はさっぱりすすまず、昨年秋になって高木氏が個人の意見だといって、三項目の署名になったのが、現在のものです。
 これは、四月の集会での提案原発はいっさい認めない、一年以内に停めろ≠ニいうのとは相当違い、要求項目だけみると、われわれの立場に表面上近くなっています。
 しかし、決定的なちがいは、げんに動いている原発にたいするきびしい総点検とか民主的な規制がないことです。
 そのうえ、脱原発法制定署名運動というのですから、題名自体からも、また、その前文が「すみやかな原子力発電の廃止を達成することを目標」にするとなっていることからも、原発絶対否定という
のが本質であることに変わりがありません。
 この人たちは原発すべてをなくせというのですから、政府・電力資本といちばん対決しているようにみえます。
 しかし原発の全面停止というスローガンをかかげただけで、原発を簡単になくせるわけではありません。
原発の是非論については、国民の間にまだ多くの議論がありますが、原発の危険については、世論調査でも八六%という圧倒的多数の国民が不安をもっています。
いま緊急に大事なことは、この声を結集して、政府・電力資本の無責任な原発政策の強行をくいとめ、その根本的な転換をかちとることです。
「脱原発」派の運動と主張の大きな問題点は、「すべての原発の廃止」など、最も強行な立場にたっているかのようによそおいながら、国民多数の不安を結集して政府・自民党の無謀な政策を包囲して住
民の安全をまもる闘争――政府・電力資本が強引に稼働し、増設をはかっている未完成な原発の危険から住民の安全をまもる緊急の課題への真剣な取り組みを回避するところにあるのです。
大切なことは、原発に不安を持っている八六%のなかにも、原発を一応認める人々が半数内外いて、それらの人々は原発をやめてしまえという立場を、いまとってはいないということを、忘れないことです。
 以上の脱原発派は、核兵器については、社会党と同じ「究極廃絶」か、あるいはほとんど無視する点で共通しています。>(77〜78ページ)

12無党派さん:2012/03/05(月) 00:39:48.33 ID:E7nAzbQh
>>9
共産党の主張を照会してなぜ嵐なんだ?
むしろ感謝してほしいくらいだ。
共産党の一貫した現在も有効な優れた主張を皆さんに知ってもらいたいだけだ。

<「脱原発」とわれわれのちがい>
< わが党と「脱原発」派の、原子力に対する見方の違いはどこにあるか、端的にいうと、「脱原発」派は、現在の原発が危険だということから、将来にわたって原子力の平和利用を認めないということを原則的な立場にしています。
これに対して、私たちは、現在の原発の危険性を正面から指摘し、その危険に反対する点では、もっとも一貫した立場をとりますが、人間の英知の所産である原子力の平和利用の可能性を原則的に否定する立場はとらない、という点にあります。
 脱原発派は、核と人類は共存できない、原発はなくす以外にはない、ということを主張しています。
 われわれは、原子力の発見は人類の英知の所産だという立場です。
人類は失敗を繰り返しながら、科学・技術を発展させてきました。
同様にして、将来もまた、発展していくだろう、というのが、われわれの哲学、弁証法的唯物論の立場です。
だから、人間はやがて科学・技術の発展によって安全な原発を実現させる方向にすすむだろう、したがって、それを研究することは当然であるといっています。
 ところが、脱原発派は、そんな原子炉などできない、という固定観念から一歩も出ません。
核と人類は共存できないの一本槍です。
「脱原発」派が、核兵器廃絶の課題を軽視しがちなのも、「核」ということですべてを同一視するこの考え方と結びついたことです。
現に、核兵器は爆発するまで危険でないが、原発は現に動いているから、最も危険な「核」だ≠ニ言った俗論も、「脱原発」派の議論として、よく聞かれることです。>(81〜82ページ)