【仲村みお】社民党総合スレッドPart18【復帰っ子】
703 :
共産党と脱原発派の違い:
日本共産党中央委員会出版局『原発事故と『安全神話』―美浜・チェルノブイリの教訓―』(1991年)
< 原子力問題で運動を進めている人のなかには、「脱原発論」といって、人類は将来にわたって、平和利用であっても、核エネルギーにはいっさい手をつけるべきではないという立場をとなえる人がいます。
われわれは、その立場にたちませんが、原発の危険性に反対し、国民の安全を守るという具体的な要求で一致があり、共同する意志があれば、そういう考え方の人たちとでも運動では共同できるはずです。
考え方がちがうから運動をいっしょにやるのはいやだとか、考え方の一致するものだけで運動をやろうというのは、われわれの立場ではないし、これでは、住民の切実な要求にこたえる運動には鳴りません。
「脱原発」論をとなえる人たちのなかには、原発の廃止それ自体を運動の中心目標にしたり、当面の危険に反対する要求を一応かかげても、「脱原発」論に賛成かどうかで線引きをしようする傾向を、強くもっている人がかなりいます。
これは、要求の一致ではなく、考え方で運動に枠をはめようとするセクト主義です。
704 :
703続き:2011/07/19(火) 20:18:59.88 ID:LYP4Tk8g
これは当然批判されるべきですが、そうした傾向に対抗するのに、われわれの側が、「脱原発」論否定の立場、つまり、原子力エネルギーの平和利用の可能性を認めるかどうかを、運動の枠にしたりするとしたら、これは、裏がえしのセクト主義になってしまいます。
党大会では、その道理をつっこんで解明したのです。>
705 :
<「脱原発」とわれわれのちがい>:2011/07/19(火) 20:21:11.88 ID:LYP4Tk8g
同上書
< わが党と「脱原発」派の、原子力に対する見方の違いはどこにあるか、端的にいうと、「脱原発」派は、現在の原発が危険だということから、将来にわたって原子力の平和利用を認めないということを原則的な立場にしています。
これに対して、私たちは、現在の原発の危険性を正面から指摘し、その危険に反対する点では、もっとも一貫した立場をとりますが、人間の英知の所産である原子力の平和利用の可能性を原則的に否定する立場はとらない、という点にあります。
脱原発派は、核と人類は共存できない、原発はなくす以外にはない、ということを主張しています。
われわれは、原子力の発見は人類の英知の所産だという立場です。
人類は失敗を繰り返しながら、科学・技術を発展させてきました。
同様にして、将来もまた、発展していくだろう、というのが、われわれの哲学、弁証法的唯物論の立場です。
だから、人間はやがて科学・技術の発展によって安全な原発を実現させる方向にすすむだろう、したがって、それを研究することは当然であるといっています。
ところが、脱原発派は、そんな原子炉などできない、という固定観念から一歩も出ません。
「脱原発」派が、核兵器廃絶の課題を軽視しがちなのも、「核」ということですべてを同一視するこの考え方と結びついたことです。
現に、核兵器は爆発するまで危険でないが、原発は現に動いているから、最も危険な「核」だ≠ニ言った俗論も、「脱原発」派の議論として、よく聞かれることです。>(81〜82ページ)