2011年4月4日 讀賣新聞 朝刊31面
明治の教訓、15m堤防・水門が村守る…岩手
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110403-OYT1T00599.htm 津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にあ
る普代(ふだい)村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守
った。
村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と
批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなか
った。
「これがなかったら、みんなの命もなかった」。太田名部(お
おたなべ)漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15
・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げな
がら話した。
津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上
った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が
食い止めてくれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人
が避難したが、足もとがぬれることもなかった。
村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約300
0人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田
名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活して
いる。普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートル
の普代水門が津波をはね返した。
防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年
にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年に
チリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老
(たろう)地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画
は当初、批判を浴びた。
村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で
計439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「
15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来
た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。
今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人
の死者・不明者を出した。岩手県全体で死者・行方不明者は80
00人を超えた。
普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、船
の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。深渡宏村
長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。ま
ず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。
(2011年4月3日22時05分 読売新聞)
2011年4月7日 北海道新聞
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/dogai/284074.html 巨大防潮堤/石碑「ここより下に家建てるな」
先人の知恵 住民守る 岩手の2地域 津波 集落に届かず
東日本大震災の大津波に襲われた三陸沿岸の自治体で、先人が
残した防災の知恵を受け継ぎ、被害を免れた地域があった。19
33年(昭和8年)の昭和三陸大津波の後、高さ15メートルを
超える巨大水門を建造した岩手県普代(ふだい)村と、石碑に刻
まれた教えを守り、住居を高台に移した同県宮古市姉吉(あねよ
し)地区。壊滅的な被害に見舞われた沿岸部の中で、両地域では
住民の命が守られ、住宅被害もなかった。
普代村で津波被害を防いだのは、普代川の河口と市街地を隔て
る全長205メートルの「普代水門」と、漁業者の集落と港の間
に建つ全長155メートルの「太田名部(おおたなべ)防潮堤」。
高さは、いずれも海抜15・5メートルある。
「命があるのは防潮堤を造った先々代の村長のおかげだ」。防
潮堤近くに住む漁業太田文吾さん(78)は感謝する。津波は防
潮堤の8割程度の高さに達したが、集落には「海水が一滴も流れ
なかった」(村災害対策本部)。普代水門を襲った津波は水門を
越えたが、約1キロ離れた市街地まで届かなかった。
防潮堤の外側にあった漁船や港湾施設など漁業被害は大きく、
船の様子を見に防潮堤の外に出た住民1人が行方不明となった。
しかし、村内にいたそのほかの村民3千人余りは全員無事で、1
118世帯には浸水もなかった。
水門と防潮堤の総工費は合わせて約36億円。それぞれ84年、
67年に完成した。県の事業で総工費の1割程度が村の負担。周
辺自治体は「まちの景観を損ねる」などとして同じような防潮堤
の建造を見送り、村民からも「そんなに大きなものが必要なのか
」と反対の声が上がった。
だが、村では1896年(明治29年)、1933年の三陸大
津波で計439人の死者を出した。先々代の故和村幸得(わむら
こうとく)村長(在任47〜87年)は「いつか理解してもらえ
る」と意志を貫いた。当時、建設課職員だった深渡(ふかわたり
)宏・村長(70)は「和村村長は正しかった。たいへんな財産
を残してくれた」と話す。
続き
>>233 一方、宮古市姉吉地区では、港から約700メートル内陸にあ
る石碑が、12世帯約40人の住民の命を守った。「此処(ここ
)より下に家を建てるな」。石碑に刻まれた教えに従い、住民た
ちは全員そこよりも高台に居を構えていた。
同地区の住民はかつて海岸沿いで暮らし、過去の大津波で大き
な被害を受けた。生存者は明治の津波でわずか2人、昭和の時は
4人だったという。石碑は昭和の大津波後に住民が建立し、以後、
住民は石碑の教えに従ってきた。
東日本大震災後に同地区の現地調査を行った岩手県立博物館の
大石雅之・首席専門学芸員によると、今回の津波は同地区の最も
高い所で海抜約40メートルにも達したとみられる。波は漁船や
作業小屋をのみ込みながら集落へと続く坂道を駆け上ったが、海
抜約60メートルにある石碑の手前50メートルほどの地点で止
まった。
石碑には「幾歳(いくとし)経るとも要心(ようじん)なされ
」とも刻まれている。同地区の漁業川端隆さん(70)は「石碑
がなかったら、津波の怖さを忘れてしまっていたかもしれない」
と話した。(東京報道 水野富仁、報道本部 徳永仁)