13 :
無党派さん:
心の中での姦淫
道徳的・倫理的な基準を厳密にしていくと、われわれはついに行動ばかりか思考、
感情、空想の内容にまで責任を問われることになる。
「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しか
し、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中で
すでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出
して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あな
たにとって益である。(マタイによる福音書、五・二十七−二十九)」
この戒めを、文字どおり実行したクリスチャンはほとんどいない。欧米において、
両眼を備えたまま成人できる男子は皆無に近いはずだからだ。ひょっとすると、すべ
てのクリスチャンが偽善者なのかもしれない。偽善者にならないためには、彼らは、
自らの罪深さをしょっちゅう表明しなければならないことになる。自分たちだけだと
不公平と思うのか、この千年余り、人類全体が罪深い存在だとプロパガンダし続けて
きた。余計なお世話である。
さて問題は、姦淫という行動だけでなく、その想念にまで宗教的・倫理的な追及が
及んだことである。おそらく、この二千年、地獄には満員御礼の札がぶらさがりっぱ
なしであろう。
イエスないしパウロは、ユダヤ教の厳格主義の適用を内面にまで浸透させたのであ
る。もちろん「愛」と贖罪という中和剤と抱き合わせではあったが、原始キリスト教
にはじまる追及の手は、確実にわれわれの内面にまで伸ばされた。これで困るのは、
われわれの内面にわきおこる情念や想像が、われわれの思いどおりにならないことで
ある。
情欲も空想も、意図的に作られるというより、むしろ勝手に自然発生してくること
のほうが多い。そこまで責任を負わねばならないとすると、われわれは常時、なにか
を思う寸前にその内容を察知し、それがよからぬことであれば自覚することを制止し
なければならなくなる。
14 :
13続き:2009/06/26(金) 11:11:56 ID:n8zalqra
おそらく、精神分析でいう抑圧や反動形成といった心の屈折は、ここにはじまった
のであろう。道徳や倫理を内面にまで浸透させると、内面以前の無意識に偽善が蔓延
するのである。
少し考えればわかることだが、目を抜き出して捨てたところで問題は解決しない。
視力を失っても、われわれの心の中で、一層みだらな情念や想像が乱舞するだけだか
らである。もし、浄化を徹底するのであれば、意識や精神全体を「抜き出して捨て」
なければならないことになる。これが可能であるとしても、そのことによってわれわ
れは信仰心も保てなくなるだろう。
つまり、どだい無理なのである。無理なのに、無理でないと強弁することのうちに
は、偽善と欺瞞が含まれてしまう。あるいは「自分は罪深い人間だ」と自認すること
で許される、といった思想が発生してくる。最後に、「あの聖句は、一種のたとえにす
ぎない」といった神学的な規制緩和が工夫されてしまう。つまりは、狡猾と卑怯の度
合いが深まるばかりなのだ。
姦淫に限らず、強欲であれ、嫉妬であれ、殺意であれ、われわれは間断なく心の中
に出没させているのである。しかも自由意志によってではなく、悪心はどこからとも
なくやってくる。
われわれが努力できる余地としては、無意識のうちにそれを自覚しないような心理
的小細工を弄するか、あるいは、せめてその悪心を実行に結びつけないように自制す
るか、である。どちらにしても、われわれは「悪い」。
世の中には、自分の悪心に気づかない悪人と気づく悪人、自分の悪心を行動に移す
悪人と移さない悪人がいるばかりである。
―頼藤和寛『悪と魔の心理分析―満たされない心の深層を探る』―第6章 日常の中の犯罪〜から引用