浅野史郎前知事[二大事件]「黒い報告書」 週刊文春 2007年3月15日号
県の借金を増やし、売り物「情報公開」でも疑惑職員の名前は明かさない。
左遷された県幹部は自殺し、知事の言葉で殺人事件まで起こっていた――
http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/ 「一枚のチョコレートで心は動かない」
浅野史郎・前宮城県知事の思わせぶりな発言がテレビで流れた時、
「また始まったよ!」と呆気にとられる人たちが仙台にいた。
「民主党からの要請を拒否した瞬間、間違いなく出馬すると思った。市民
団体から担ぎ出され、ギリギリまで明言せずに期待感を高める。そして断
られたはずの民主党が支援にまわる。浅野さんの考えは、身近にいた人間
ならすぐわかる。自分の人気をいかに高めるかばかりを考えてきた人です
から」(県庁幹部)
予想は的中。三月六日、浅野史郎氏は東京都知事選への出馬を宣言した。
民主党も早々と支援を打ち出し、石原慎太郎都知事の対抗馬として意気上
がる浅野陣営。しかし、この現象を共産党の横田有史・宮城県議は、
「大いなる錯覚」と表現する。
「言ってることと現実がまったく違う。福祉のプロと称する浅野さんは日
本一の福祉先進県を掲げていた。しかし、都道府県ランキングで宮城県は、
高齢者福祉が四十三位、子育て環境三十五位、教育四十四位。また、老人
福祉費の一人あたり比率は四十三位に後退してます」
県の借金は就任当時の約七千億円から倍になり一兆四千億円。「第二の
夕張」と見られ、九十九年に当時の浅野知事は「財政危機宣言」を発動し
ている。しかし、なぜか高い人気を誇り、〇五年まで三期十二年を務めた。
「浅野知事と握手をした女性が感激のあまり、三日間、手を洗わなかった」
という伝説があるほどだ。
元県政担当記者が言う。
「記者や県議、県庁職員は、浅野知事の実際の仕事ぶりを知っている。
でも、有権者はマスコミを通して浅野知事のイメージを知るだけです。
彼はメディアの使い方がうまい。政治家の仕事をメディアがどれだけ
詳しく伝えたか。それを問われたのが浅野県政でした」
浅野氏が「師匠」と慕う黒幕
自戒を込めて、「報じられなかった浅野知事」の姿を追ってみよう。
〇一年四月、仙台市内の寺で「将来の副知事候補」と呼ばれた県庁幹部
(当時58)の葬儀が行われた。企画部長、教育長を経て、県三役である
出納長に就任。仙台市郊外の図書館長に転出して二週間後に、自ら命を
絶ったのだった。
県庁OBが言う。
「浅野知事が推進していた県立こども病院の建設に、出納長が庁議で反対
していたのです。病床の制限法など制度の問題を説明しているのに、浅野
さんは人の意見を聞きたがらない。副知事に、『庁議で彼に喋らせるな』
と指示したのです」
庁議から職場に戻る出納長の顔はいつも暗く、ずっと元気がなかったと
いう。病気だったとも言われ、遺書が残されていないため自殺の原因は謎
のままだ。葬儀の参列者が述懐する。
「弔辞を読む浅野知事の声が涙で詰ったのです。図書館への異動が左遷だ
ったことは、当時の県庁幹部だったらほとんど知ってますし、左遷したの
は浅野知事でしたから、何を今さらと思いましたね」
自民党の安藤俊威県議が話す。
「私は浅野知事と、リハビリ総合病院とこども病院の建設について議論し
たことがある。県内の経済状況や受益者数などエビデンスをもとに議論し
ていると突然、知事は『経済をとるのか、子供の命をとるのか』と言い出
した。一見、正義ですが、本質のすり替えです。この時、知事の人間性を
見た気がしました」
こども病院建設は、ゼネコン汚職で逮捕された本間俊太郎前知事の時代
に一度中止になった案だった。
「小児医療は時間を争う。巨大な病院を一つ建てるより、不足する小児科
医を県内全域に配置し、既存の病院を拡充した方がいい。こども病院案は
母親たちの票が集まると言っていた前知事も、この意見を聞いて中止しま
した。しかし、浅野知事が就任して、再浮上したのです」(県庁関係者)
こども病院は〇三年に開院。巨額の赤字を生み続けている。
中学・高校の先輩である高橋長偉県議は、知事室に忠告に行ったことが
ある。
「優秀な人材を飛ばして、イエスマンばかりを周囲に置くという批判が聞
こえてきたので、話をしにいきました。すると、彼は『先生は私に帝王学
を説くつもりですか』とムキになる。私は匙を投げてしまった。彼は中学
時代からダントツの秀才で、自尊心が強い。絶対に批判されたくないし、
県民から評価されたいばかりに十二年間、花火を打ち上げ続けたのです」
大衆人気が抜群なのも当然だった。「知事さん、あのね…」なる地域懇
談会を各地で開くと、浅野知事はマイクを握り、司会進行役を務めた。
「ダジャレを連発し、雰囲気を掴むのが天才的にうまい。まるで落語家の
ようです。しかし、住民から県政に関する質問が飛ぶと、司会役の知事は
県職員に回答させていました」(県庁関係者)
そもそも浅野知事の人気の原点である「情報公開」についても、大いな
る“錯覚”がある。これは九十五年に発覚した「食料費問題」がきっかけ
だった。県庁職員の懇談や夜食としての支給を「裏金」に回したり、別の
目的の飲み食いに使っていたものである。
実は、当選直後、浅野知事自身が食料費を使っていた。出身の厚生省に
県職員を連れて出向き、同省二十六階で当選祝賀会を県の公費を使って
開催。さらに二次会を料亭で開き、これも県のカネで行ったのだ。
「以前、知事は若い議員たちをよく飲みに連れて行っていました。それも
食料費ですよ」(前出・安藤議員)
知事就任から二年後、オンブズマンによって県庁の食料費の実態が明る
みに出ると、浅野知事は「不正はまったくない」と表明した。オンブズマ
ン側の資料公開の要求に対し、知事は「非開示」を通知。これで県は提訴
されてしまったのだ。
翌九十六年七月、懇談場所や懇談相手の明示を求めたオンブズマン側が
完全勝訴した。だが、知事への申し入れに対して、監査委員会が却下。
「名前と場所を明かせ」という攻防が二年以上にわたって繰り広げられた
末、文書は公開された。オンブズマンの地道な追及によって生まれた情報
公開なのである。ただし、
「関係ない私の名前が使われていたり、中央官庁の官僚の名前が勝手に
記載されていたり、どこまで正しいのか不明です」(県職員)
そして浅野県政の最大の謎が、浅野知事と一緒に宮城県にやってきた
長崎県の田嶋良昭氏なる人物の存在である。浅野氏が「師匠」として慕い、
彼を副知事に就任させようと県議会に根回ししたほどだった。
この二人を十年以上にわたって取材し続けてきた地元紙『パロス』編集
主幹の福田清彦氏が言う。
「浅野知事の福祉政策は、ほとんど田嶋氏の受け売りです。長崎県雲仙で
知的障害者の入所施設を運営していた田嶋氏は、厚生省の課長だった浅野
氏と知り合います。その後、選挙参謀として最初の知事選の時にやってき
て、それ以来、知事のブレーンとか黒幕などと言われるのです」
田嶋氏は知事の力で宮城県福祉事業団の理事長に就任。別の県庁関係者
が言う。
「県庁の人事にも介入しました。田島氏に取り入るため、県の職員たちが
福祉事業団の田島氏のところにご機嫌伺いに行く姿を何度も見ました。
県庁内では、『田島面接』なるものが噂になっていて、田島氏のお眼鏡に
かなった者が昇進できると言われていました」
田島氏の故郷、島原市の元市長鐘々江管一氏は、「浅野さんは、『自分
が知事になれたのは田島さんのお蔭だ』と言うが、なぜそこまで入れ込む
のか、我々は理解できなかった」と言う。
財政難でも退職金は全額受領
〇二年十一月二十二日、大騒動の発端となる記事が、朝日新聞の一面
トップに掲載される。記事は、田島氏が宮城県の障害者施設を解体して
障害者を地域に戻す、というもの。
「人間として生まれたからには施設に収容するのではなく、生まれた地域
に戻すべき、という人権擁護の観点からの宣言です。ただ、なぜ無理に
解体する必要があるのか疑問です。年老いた親は障害を持つ子供の世話を
することはできない。
地域のグループホームで障害者たちに自立させ、共同生活をさせるとも
言っていますが、現場と乖離した机上論です。こんな重要なことを現場の
人たちは新聞で知らされ、困惑していました」(前出・県庁関係者)
〇四年二月、浅野知事は県内の官民全ての知的障害者施設を「解体」す
ると宣言する。地元宮城ではなく、あえて滋賀県でのシンポジウムで、
しかも宣言する前に全国の新聞に一斉に「あす宣言へ」と告知するような
報道をさせたのだ。
当然、地元の関係者たちは驚愕した。唐突に新聞で「全国でも画期的な
ノーマライゼーション(共生化)に取り組む」と書かれても何のことかわ
からない。ただ、自分たちの施設がなくなるという宣告だけがなされた形
になったからだ。
そんな中、痛ましい事件が起きた。昨年五月五日、こどもの日のことだ。
脳性麻痺の女性(当時33)が、一時帰宅で施設から県内角田市の自宅に
戻っていた。午後十一時半、彼女が布団で寝ていると、母親が首にヒモを
巻きつけた。そして、両手でヒモを引っ張ると、そのまま娘を絞殺したの
である。
動機が明らかになったのは初公判の時だった。逮捕された母親は、自分
や高齢の母親が死んだ場合、娘の面倒を誰がみるのか悲観していたという。
彼女を不安がらせたのが、「解体宣言」であった。口数が少なかったとい
う彼女は、時折こう漏らしていたという。
「長女が入所している施設が、(浅野前知事の)宣言どおり解体されたら
どうしよう」
彼女が入所していた施設が解体されるわけではなかったが、誤解したの
だ。この裁判が報道されると、すぐに浅野氏は「宣言自体が悲劇を生んだ
のではない。家族が地域で孤立し、確かな情報が届かなかったのではない
か」とコメントを発表した。
「確かな情報を流さず“解体宣言”をことあるごとに言っていたのは浅野
氏本人です」(前出・福田氏)
実は「解体宣言」をした浅野・田島両氏は、無責任にも途中でこの事業
を放り出している。
〇五年、「福祉をライフワークにする」と言って知事勇退を表明した
浅野氏は県知事選に後継者候補をたてて、田島氏と全面支援した。ところ
が、この候補が落選すると、田島氏は突然辞表を出して長崎に帰ってしま
ったという。
知事を引退した浅野氏も同様に無責任ぶりを見せた。今年一月三十一日、
浅野氏は自身が会長を務める県社会福祉協議会の理事、今野隆吉県議らを
訪ね、会長を辞任すると申し出たのだ。
今野理事が憤る。
「またか、と思いました。障害者施設の解体宣言をして、入所者を地域に
移行させると決めたのは彼です。それなのに、政治は辞めないとも言って
ました。中途半端さに呆れました。
そもそも浅野さんの給与をめぐって理事会が紛糾したばかりです。彼が
就任した会長職は名誉職なので本来は無給です。しかし。新たに月額百三
万円以下という会長報酬が提案された。財政難の県から委託費をもらって
いるのに高すぎる。それに彼はテレビのコメンテーターと慶応大学教授の
仕事があるので、週に二回しか出勤できないという。結局、月四十九万円
で決着しました。だいたい、知事時代に財政再建のため職員の給与を二度
カットしているのに、自分は退職金一億五千万円を全額受領している。
他人の給与は下げるけど、自分の懐は痛めない。筋が通りませんよ」
福祉に生きると言って知事を退任してわずが一年二ヶ月での変わり身だ
った。
昨年、浅野氏は前出・福田氏のインタビューでこう回想している。
「最初の選挙で、公約は何も考えていなかった。それでは恥かしいので、
福祉先進県にしたが、これも寂しいので『日本一』をつけた。でも、具体
的にはあんまりわからなかった」
浅野氏本人にこうした事実を質すと、一言、「怒ってます」と言うのみ。
今回、浅野氏を出馬させる市民組織の呼びかけ人、五十嵐敬喜・法政大
学教授に、どの程度浅野氏を知っているのかを問うと、「何回か会った
ことがある程度」といい、アウトドアライターの天野礼子さんは「話した
ことはない」というのだった――。
田島氏流説得で決断 浅野氏出馬 3月7日 河北新報
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe183/20070307_06.htm > 2月7日夜、仙台市内の飲食店で行われた浅野氏の誕生会。「同志」と
> 呼び合う元宮城県福祉事業団理事長の田島良昭氏がこう予言した。
> 「史郎さんにはまた新しいことに挑戦してもらおうと思っている。3月にはおもしろいことが起きる」
131 :
無党派さん:2007/03/08(木) 22:11:40 ID:Tt8KtOJv
132 :
無党派さん:2007/03/08(木) 22:35:56 ID:5gr7cr/9
281 :名無しさん@七周年:2007/03/06(火) 21:27:35 ID:LehJ3j+f0
宮城県人です。
あ〜恥ずかしい〜あんな人が東京都知事選に立候補なんて・・・。
彼の後ろにはいつも『T』という俗に言う長崎から来た
『福祉ゴロ』の人物がいる。
その『T』が浅野の指南役!
その『T』は何かあると日本刀で人を脅すことで有名な
その筋の人よりこわ〜い お方です。
宮城県知事時代『T』を副知事にしようとして、
議会に否決され、あえなく降参!
知事3期目頃には『天の声』を発し
自分の支援団体の中枢部の方々が県庁内部をはじめ
県の外郭団体で仕事をはじめる始末でした。
そんな浅野を支援する方々はどうせ東京都の財政で
私腹を肥やすことを目的とした胡散臭い団体です。
4期目を目指していたなら県警を敵にまわしているので、
確実に側近が捕まるので 宮城県庁より逃げていった男です。
東京の皆さん 目を覚まして!!!
295 :名無しさん@七周年:2007/03/06(火) 21:31:20 ID:ZmHqpfya0
>>281 田島良昭宮城県福祉事業団理事長