1 :
無党派さん:2005/07/17(日) 15:17:46 ID:bO2pn4Gz
現在の民主党に有用な人材は彼のような人ではないでしょうか?
2 :
無党派さん:2005/07/17(日) 16:10:10 ID:H+kWaqQw
3 :
無党派さん:2005/07/17(日) 16:12:19 ID:9DBhZL29
西尾末広に近いタイプの人材は強いて言えば
今は誰がいますか?
4 :
無党派さん:2005/07/17(日) 16:39:36 ID:HyZxxgEB
5 :
;:2005/07/20(水) 11:19:36 ID:rSSArowe
6 :
無党派さん:2005/07/20(水) 12:21:47 ID:dJZgIZyR
西尾末広は
また昭和十三年、国家総動員法に賛成して、近衛首相を激励するつもりで、
「ヒットラーの如く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に」
と議会で演説して、懲罰をうけた。
戦後になって、ヒットラー、ムッソリーニを肯定しつつ国家総動員法を積極的に
指示したことを追及されることもなく、あるいは自ら反省することもなく、
西尾はこのエピソードを、スターリンの名を挙げたことで除名された点だけを
強調して、ほとんど無邪気に回想している。
大嶽秀夫著 再軍備とナショナリズム 中公新書 1988 P193
7 :
;:2005/07/20(水) 13:07:50 ID:rSSArowe
>>6 懲罰を受けたことが免罪符になったね。同じく社会党右派の旗頭河上
丈太郎は.心ならずも麻生久にひっぱられ.大政翼賛会にかかわらずにおえな
くなり.戦後.公職追放され.せっかくの活躍の舞台を傍観せざるおえなかった
。
8 :
無党派さん:2005/07/20(水) 14:09:07 ID:K7GEQtAS
河上と同じような道を歩んだ浅沼はなぜ公職追放されなかったのであろうか?
9 :
無党派さん:2005/07/20(水) 14:12:26 ID:gOGPpgdt
>>8 体調を崩して翼賛選挙に出馬しなかったからだろう。
10 :
無党派さん:2005/07/20(水) 14:41:49 ID:mQDK3wfs
>>8 精神に異常を来して休養中だったことが幸いした。
麻生久に引っ張られたことがその原因というが。
11 :
無党派さん:2005/07/20(水) 15:46:20 ID:K7GEQtAS
〉9・10
ありがとう。
12 :
無党派さん:2005/07/20(水) 22:37:24 ID:rGvJOrSe
化学変化式
ヒットラー+ムッソリーニ+スターリン→西尾末広
13 :
無党派さん:2005/07/20(水) 23:19:20 ID:K7GEQtAS
民主社会党初代委員長・書記長のコンビが西尾・曾禰じゃなく
浅沼(大衆的人気・抜群の行動力)・西尾(組織論者)のコンビであれば相互補完関係により民社は
西欧型社会民主主義政党として早期に政権を獲得していたかもしれない?
14 :
無党派さん:2005/07/20(水) 23:30:44 ID:ZRi3HkLE
>>13 左派に担がれて社会党委員長になった浅沼が
民社党結成には走らなかったと思うな。
左派が許さなかっただろう。
逆に、江田三郎が委員長になっていれば西尾と
連携して国民政党への道を左派を切ってでも
進んだかもしれない。
あの時の9票が、社会党の運命を決定付けたと
いうと、大げさすぎるかもしれない。
15 :
無党派さん:2005/07/20(水) 23:38:22 ID:1XhfpXZ4
西尾なんて単なる分裂主義者のエゴイストだろ?
16 :
無党派さん:2005/07/21(木) 23:49:52 ID:FBLmf5ee
>>14 浅沼と浅沼が所属する河上派が民社党に走るのを防ぐために
佐々木更三たちが浅沼を委員長に担いだ。
17 :
無党派さん:2005/07/22(金) 00:04:51 ID:9rFadu8O
>>16 きたねーな、協会派は。
共食いさせて自分らの保身を図ったのかよ。
それに乗る浅沼も浅沼だな。
「まあまあ居士」といわれて、敵もいなかったが
味方もいなかった悲しさだな。沢木耕太郎の本に
書かれている通りだ。
18 :
無党派さん:2005/07/22(金) 00:12:50 ID:CWGn0aVF
ササコーと西尾、陰険さではどっちもどっち
19 :
無党派さん:2005/07/22(金) 00:22:36 ID:/lOLyAQo
しかし、戦前、大川周明あたりとずぶずぶだった浅沼が民社に行かなかった
のも不思議だが、さらに右翼に殺されちゃったのも奇妙な星のめぐりあわせだな。
20 :
無党派さん:2005/07/22(金) 00:24:28 ID:iOd2MYU6
>>18 だからササコーと西尾ってウマがあったらしいよ。
仲が悪かったのは西尾と江田三郎。
江田は二度、西尾追放運動をやっている。
21 :
無党派さん:2005/07/22(金) 01:11:05 ID:CWGn0aVF
そうそう、そんで西尾分裂後のササコーの江田潰しったら酷かったからな。
浅沼さんが殺されず、江田さんが失脚しなければ、社会党はもっと早く
脱皮していたかもね。
>>19 その辺は沢木の本を読むがよろし
22 :
;:2005/07/22(金) 12:25:31 ID:KNho0x7W
23 :
無党派さん:2005/07/22(金) 12:30:21 ID:C0LlTnxs
この人だっけ?東条閣下ら英霊を靖国に合祀しろと国会で叫んだのは。
24 :
無党派さん:2005/07/22(金) 16:34:16 ID:CmQgbcsn
西尾はそんなことはしないだろ?
25 :
無党派さん:2005/07/22(金) 16:47:40 ID:8adNcMev
>>23 国会会議録検索システムでは見つからない。
おそらく堤ツルヨ氏かと(当時、右派社会党)。
26 :
無党派さん:2005/07/22(金) 16:49:32 ID:8adNcMev
○堤(ツ)委員 まことにこの点はお気の毒で、処刑の方だけは一人前で、
補償の方はしないというような矛盾はどう考えてみても私は人道に反する処置
だと思うのであります。でありまするから、逆にわれわれの同族の日本民族が
他国へ行つて、こういう処置を受けておつたときに、血肉をわけた、われわれが
どういう叫びを上げるかということは、これはもうほんとうに常識でわかることで
ありまして、ひとつこの遺族援護法、留守家族援護法また生活保護法などの
実施に当つて、ぜひ法律を離れて入道的な見地からこの中へ加えられるよう、
血も涙もある厚生大臣の御処置をお願いいたしたいと存じます。
次に、青柳委員の質問と重なるかもしれませんが、戦犯で処刑されたところの
遺族の問題であります。処刑されないで判決を受けて服役中の留守家族は、
留守家族の対象になつて保護されておるのに、早く殺されたがために、獄死を
されたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。しかもその英霊は
靖国神社の中にさえも入れてもらえないというようなことを今日遺族は非常に
嘆いておられます。去る日も各党の婦人代議士一人ずつという御指名で、この
遺家族の会合に出席をいたしましてるる陳情を承つたのでございますが、
留守家族の対象に今服役中の戦犯の留守家族の方々がなるならば、遺族援護法の
改正された中に、当然戦犯処刑、獄死された方々の遺族が扱われるのは当然で
あると思います。これも第三国人の方々と同様に私は取扱つていただきたい
問題だと思いますので、恐縮でございますがもう一度伺います。
[001/001] 16 - 衆 - 厚生委員会 - 16号
昭和28年07月09日
27 :
無党派さん:2005/07/22(金) 16:50:16 ID:8adNcMev
堤氏はのちに民主社会党に参加したが、落選してそのまま引退している(させられた?)。
28 :
;:2005/07/23(土) 11:18:18 ID:eI5b+fyk
その後を襲ったのが西田八郎か。
29 :
無党派さん:2005/07/24(日) 02:13:38 ID:Oj+gRlX0
「貫いた現実主義 労働者出身に意地と誇り」
西尾末広は三つの生涯を生きた。一つは、1916年(大正5年)、25歳のときに
勤め先の職工仲間の先頭に立って待遇改善要求を実らせて以来の、労働運動の
指導者としてである。二つ目は、1928年(昭和3年)、初の男子普通選挙で
初めて議席を得た「無産政党」八人の一人となってから歩んだ戦前、戦中の
政治家としての人生である。最後が戦後結成した日本社会党−民社党の
指導者としての波乱を生きた二十余年である。
三つとも、それぞれ別の人の生涯として描いても、各個に完成した伝記と
することができるだろう。西尾氏はその三つを、同じ人格と一つづきの時間の
流れのなかに描いた。
労働運動の指導者としての西尾氏の軌跡は、政治家、とりわけ戦後に
片山内閣をとりしきり、芦田内閣の副総理となった華々しさや、自派を率いて
社会党を去り民社党を結成するなどの劇的な経歴の陰にかくれている。
しかし、実際には西尾氏の生涯の特性は、すべてこの中にこそあるように思える。
西尾氏は労働者の出身であることに意地と誇りを持っていた。インテリが
労働運動を指導することに警戒的であった。1920年代、急進的な社会主義が
インテリの手で労働運動に持ち込まれ、労働運動を革命運動の拠点と位置づける
考えが広まり始めると、西尾氏は偏狭とさえ思われるまでの「労働組合主義」に立った。
労働運動は思想運動ではなく、労働者の生活や地位向上の運動でなければならないという
その立場は、西尾氏の「反共」の背骨をつくるものであった。
30 :
無党派さん:2005/07/24(日) 02:15:07 ID:Oj+gRlX0
(続き)
その「労働組合主義」は、経営者や官憲との交渉で、「折れるよりも曲がれ」
「名を捨てて実を取れ」などの言葉で西尾氏自身が表現する現実主義の骨格を
育てるものであった。労働争議で労働者側に不利な局面になると引っ張り出され、
妥協してくる西尾氏には「ダラ幹」「裏切り」などのレッテルがはられることもあったが、
西尾氏はそれら左派の「玉砕」論には屈しなかった。
西尾氏がその中心になって育てた労働総同盟は1940年(昭和15年)、
戦時体制のもとに解消したが、その後にできた「産業報告会」に西尾氏は
批判の矢を放ち続ける。それは当時の軍部に迎合した元無産政党の議員のなかでは
異色のものであったが、西尾氏にとって、反共と反軍は同じ根に発していた。
西尾氏はそれを政治生活でも貫く。1942年(昭和17年)、東条内閣のもとでの
翼賛選挙で、鳩山一郎、河野一郎、三木武吉、三木武夫、尾崎行雄、水谷長三郎の
各氏らとともに翼賛協議会の推薦を受けないで当選したのがその一つ。
それより前、40年に斎藤隆夫氏の反軍演説による除名問題で斎藤氏の側に加担したため、
親軍的な社会大衆党を除名されたのがもう一つの例である。
31 :
無党派さん:2005/07/24(日) 02:16:40 ID:Oj+gRlX0
(続き)
敗戦の当日、天皇の放送を聞いてすぐ大阪から行動を起こして日本社会党の
結党に動いたこと、47年(昭和22年)新憲法下最初の第一国会で、史上唯一のものと
なっている社会党首班内閣、片山内閣をつくりあげた手腕、それらは西尾氏の
最も輝かしい日々を形づくるが、ここでも、長年の労働運動で血肉となった
現実主義に立って、多くの人の思惑と折衝する技術が効果的であった。
この時期は、日本のいわゆる「革新」運動の高揚期であり、理念的な左翼理論が
耳に入りやすい傾きがあった。そのため、西尾流の現実主義、反共主義、とりわけ
保守派との妥協の技術は評判が悪く、西尾氏を腹黒い「策士」と見る人も多かった。
それがのちのち、左派優勢となった社会党内での西尾氏の位置に響いた面は見逃せない。
西尾氏は、戦後二十余年の間一般に思われていたような「政治屋」とは異なり、
むしろ端正に過ぎ、あるいは冷たいと思えるほどの合理主義者、理詰めの人であった。
あぐらをかくのが苦手でいつも正座し、病に倒れる以前は、硬い理屈っぽい話なら何時間でも、
若い記者相手に議論に付き合ってくれた。党内の側近たちも、一緒に長くいると
肩がこるくらいの、まじめな人間であった。
無産運動と呼ばれた時代からの、日本の左翼の歴史が今また一人、
静かに去って行った。
(朝日新聞編集委員 石川真澄)
32 :
;:2005/07/24(日) 13:05:58 ID:VqrPkh0q
>>31 真面目人間があれほど.金配れたな。集金は伊藤卯四郎が主にやってた
らしいが。
33 :
無党派さん:2005/07/24(日) 17:14:18 ID:x1HrlOXC
自他ともに認める真面目人間の河上丈太郎も金を配った。
選挙って社会主義者を悪くするね。
34 :
;:2005/07/25(月) 11:42:28 ID:wtateDGX
西尾の配る金と河上が配る金では額が違った。河上は「わしは金がつくれん
からひとつ.どこでも応援にいくからかんべんしてくれ」といって自派候補の
地元の田んぼのど真ん中で演説をぶったらしい。
35 :
無党派さん:2005/07/26(火) 23:57:38 ID:USgL6c94
絶叫演説か?
36 :
;:2005/07/27(水) 12:44:57 ID:48Ge9Gam
十字架委員長
37 :
無党派さん:2005/07/27(水) 12:59:15 ID:m0q/+jDg
「私は河上丈太郎であります。○○候補をよろしくお願い致します。
ありがとう、ありがとう。ありがとう。ありがとう」
38 :
;l:2005/07/27(水) 20:49:34 ID:4V+ys8L4
田舎の演説会で英字新聞の記事を紹介するほどまじめな人だった。
39 :
無党派さん:2005/08/03(水) 01:36:55 ID:mRYrapeB
西尾の河上コンプは痛すぎ。
40 :
無党派さん:
河上は大学教授で弁護士。
西尾は作業着を着て油にまみれていた工員。