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無党派さん:
小泉首相は「心からお詫びする」とオランダ首相に語った
日本軍の敗戦後インドネシアを再び植民地化しようとオランダ軍が舞い戻ってきた。
オランダは日本にたった9日間で敗れ、その後逆襲もできないまま・・・英豪軍の勝利
のおかげで戻ってきたのだ。
自力で日本に勝てなかったうっぷん・・・そして何よりも日本軍の占領下でインドネシア
の独立意識が決定的に育っていたことにオランダ人は復讐心を燃やした。
かくして9日間しか戦わず、最も被害の少なかった国が最も残酷な報復を行なった。
戦勝国中最も多い236人の日本将兵を死刑に処したのである!
裁判中に裁判長が被告に向かって言った・・・
「私を知っているか?捕虜キャンプに収容されていた時、おまえのためにつらい
思いをした一人だ!」
オランダ裁判の判決は、裁判長の裁量一つで検察の求刑より重い判決も平気で出た。
収容所では日本人捕虜に対する虐待や拷問が続いた。
岩川隆著「孤島の土となるとも」に収録された証言では、ティモール島の西端
クーパンの収容所が次のように描かれている・・・
収容所は珊瑚礁の上にあった。おまえたちの墓場を掘れといわれて大きなハンマーと
ツルハシで作業させられたが、太陽に照らされてふらふらになり、倒れそうになると
いきなりボクシングと同じように殴打される。
失神するとテントまで引きずって行って水をかけ、気がつくとまた掘らされた。
一日に失神すること三回。珊瑚礁の上を引きずられたときの背中の傷が痛み、夜は
眠ることができなかった。
大きい岩を意味もなく動かすよう命じ、運んでいると蹴ったり足をかけたりして倒す。
食事は乾パンにコーヒーだけ、あるいは少量の米とビスケットだけである。
一週間もするとみな、殴打のために顔はふくれ、体はむくんできた。私は睾丸が大きく
はれあがっていた。
取り調べを受けた者が部屋から出て来た時には死体になっていたこともあった。
体には多数の皮下出血があり、明らかに虐待致死だったが、その取調官が裁かれる
ことはなく、虐待されている側の日本人捕虜たちが身に覚えのない「捕虜虐待」の
容疑をかけられ次々処刑されていった。(小林よしのり 戦争論2)