小泉総理は運が強すぎる ▲121▲

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29不定期転載
続 小泉外交 17   4月6日 四面

文中タイトル(大文字)「綱渡り」のイラク人質解放

 2004年3月、イラク南部サマワで自衛隊は順調に給水活動などを開始した。
その直後、小泉政権は最大の試練に見舞われた。日本人3人の人質事件だ。
 4月8日、(太字)「自衛隊が撤退するか、我々が3人を焼き殺すかだ」(太字)
との卑劣な犯行声明が届いた。
 外務省は、「自衛隊は撤退しない」との発言要領を福田官房長官に示した。
 (太字)「この表現は、ちょっと人質に冷たくないか」(太字)
 福田は、語尾を「撤退する理由はない」と書き換えた。
いたずらに犯人を刺激しないための配慮だった。
 (太字)<3人は、イラク中部ファルージャのガソリンスタンドで小銃で脅され、
      拘束された。砂利道を通って、近くの民家に連行された>(太字)
 当時は伏せられていたが、政府は、3人を乗せたタクシー運転手の
詳細な証言をイラク内務省経由で入手していた。
五つ前後の主要な情報源の中で、最も信頼できるルートだった。
 (太字)<犯人は、地元の若者らの素人集団。人質は、米軍の攻撃を防ぐ、
     「お守り」にするのが目的で、危害を加える可能性は低い>(太字)
 こんな極秘情報も早い段階で寄せられた。
 数日後、米軍が3人の所在を絞り込んだ。ベーカー駐日大使が
(太字)「展開次第で、部隊を突入させていいか」(太字)と打診してきた。
 (太字)「人命を最大限尊重する立場で臨んでほしい」(太字)
 日本側はベーカーに頼んだ。
が、武装勢力の掃討を重視する米軍は「突入しない」とは確約しなかった。
 事件発生から8日後、人質3人は無事解放された。
「テロに屈しない」との政府の方針は守られた。