小泉総理は運が強すぎる ▲118▲

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27不定期転載
続 小泉外交 15  3月31日 四面 

文中タイトル(大文字) 新法へ”つなぎ”の物資空輸

 2003年3月初旬、井ノ上正盛3等書記官ら日本外交官4人が
バグダッド周辺を駆け回った。米軍の空爆からイラクの重要施設を守る
「人間の盾」に志願した邦人十数人に、避難するよう説得するためだ。
 井ノ上らは、自分の位置を米軍に伝える
全地球測位システム(GPS)付き携帯電話を持参していた。
 (太字)「間違っても、ここは爆撃しないでくれよ」(太字)と祈るような気持ちだった。
 開戦が迫った。3月8日には外交官全員がヨルダンに退避した。
 4月23日、最初にバグダッドに戻ったのは、奥克彦駐英参事官だった。
 奥は、フセイン宮殿内の米復興人道支援庁(ORHA)に寝泊まりし、
連絡要員を務めた。冷蔵庫には、貴重なスコッチウイスキーやビールを常備していた。
「奥さんは米軍幹部に酒を振る舞って人脈を築き、地道に情報を取っていた」
 同僚の証言である。
 奥の努力が、自衛隊派遣の調査を下支えした。
 このころ、アーミテージ国務副長官は「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」
(地上部隊)という表現で、陸上自衛隊の派遣に期待を示した。
この言葉を最初に発したのは実は、国防総省の日本担当の陸軍中佐だった。
 アーミテージは当時、加藤良三駐米大使に語った。
 (太字)「日本の若者は、危険、汚い、きついの3K仕事を嫌っているが、
      現代社会には多くの3Kがある。日本が、金銭ではなく、
       身をもって存在感を示すことが大事なんだ」(太字)
 この言葉に応えようと、日本は支援策を模索した。