http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nikkan4.html 明治42(1909)年12月4日、一進会が百万会員の名において、韓国皇帝(高宗)・
曾禰荒助統監・李完用(イ・ワンヨン)首相宛に、「韓日合邦」の奏上文(請願
書)を提出したのです。この一進会は、宋秉ォ(ソン・ピョンチュン)・李容九
(イ・ヨング)等によって明治37(1904)年8月8日に組織された政治結社で、その
会員の多くは東学党教徒・独立協会員・農民で構成され「百万会員」を称しま
した。彼らは日韓両国が共同でロシアの南下を防ぎ、韓国の独立を保障してく
れる(「日朝修好条規」で実証済)日本に多大な期待をし、日露戦争に際しては、
京義線(キョンウィ:ソウル−義州間)臨時軍用鉄道建設と北進輸送隊への支援を
惜しみませんでした。彼ら一進会の考えでは、「韓国の衰微は外国からの圧迫
ではなく、自らの反省と自覚の欠如に原因がある。韓日は古来より同文同種
(文化・民族の元は同じ)であり、政治経済的利益も一致している。ドイツ合邦国
家(プロイセンを主体に統一したドイツ第二帝国)が欧州で覇を唱えるが如く、韓日
も東亜の雄邦として合邦すべきである」・「もし東亜の均衡が破られ、韓国が
欧米列強諸国の植民地となれば、韓国国民は流出し、国土は廃墟となる事は必
定である」と言ったものでした。この様に韓国側でも「日韓合邦」(連邦制)
が唱えられたのですが、結局、韓国は「合邦」(連邦)ではなく、「併合」(吸
収合併)への道を歩んだのです。