内閣成立後、小泉に政策実績はあるのか part12
98 :
無党派さん:
「改革なくして成長なし」。21世紀最初の年の4月に誕生した小泉政権が掲げたキャッ
チフレーズです。バブルが崩壊して以降、日本経済が失ってきたのは潜在的な成長力であ
り、それを回復するためには聖域なき「構造改革」が必要だと言うのです。しかし、改め
て第二次世界大戦後の世界経済を振り返ってみれば、日本ほど経済成長に成功した国はあ
りません。深刻な不況がつづいているとはいえ、経済力でみれば日本はなお世界トップク
ラスの所得水準を維持しています。成長の目的が所得の増加にあるのなら、日本はすでに
その目的を十分に達成しているのです。
それでも、なお成長を求める声は根強く、成長よりも豊かさのほうが大切ではないかと
意見を述べると、「成長しないでどうやって豊かになれるのか」という反論が返ってきま
す。しかし、成長によって得られた豊かさがある一方で、成長によって失われた豊かさが
あることも忘れてはなりません。実際、より多くの所得を得るために、私たちはどれほど
多くの美しい自然と、どれほど長くの楽しい時間と、そしてどれほど大切なかけがえのな
い人間関係を失ってきたでしょうか。
小泉首相はいま改革の手を緩めれば、将来の痛みはもっとひどくなると言って改革の断
行が必要だと主張します。しかし、着実に進んでいると小泉首相が自賛する改革の下で、
デフレからの脱却時期は当初の見通しより2年も先送りされてしまいました。また、20
03年度の政府予算案を見ても医療費や社会保険料などの国民負担が増す中で、歳入に占
める国債依存度は戦後最悪の44.6%に達しています。壊すだけで創ろうとしない「構
造改革」によって、人々の痛みはすでに十分「ひどく」なっているのです。
99 :
無党派さん:03/08/10 18:44 ID:z3vX5dIY
683 :無党派さん :03/07/28 15:45 ID:D+r71yV1
痛みに耐えられず、改革の手を緩めれば、「痛みはもっとひどくなる」と国民に説き
ながら、実際に、どの程度痛みがひどくなるのかについては、前述した成長率の格差の数字
(改革を怠ると成長率は0.5%になり、改革を進めると成長率は1.5%あるいはそれ以上に
なる)が示されているだけです。しかも、成長するために改革が必要だという議論は飽き
るほど繰り返される一方で、改革をすればなぜ成長率が上がるのかに関してはほとんど説
得的な説明は見られません。
確かに、『骨太の方針』が示すように生産性の低い分野から高い分野に「人」や資本な
どの生産要素が移動すれば、日本全体の生産性は上がるかもしれません。しかし、生産性
がいくら上がっても、それによって成長率が上がるという保証はありません。生産性が上
がった分野で需要が増えなければ生産自体は増えないからです。もし需要が増えなければ
生産性が上昇した分だけ働いている人が解雇される恐れも出てきます。また、生産性の高
いモノやサービスが、生産性の低いモノやサービスよりも人々の必要や欲求を満たすとい
う保証もありません。そもそも生産性とは何かという具体的な説明は『骨太の方針』だけ
でなく他の報告書にもみられないのです。
>>97 根拠の中にまとめてある。これ以上クレクレ君で生き恥晒すんじゃなくて、どうせ
365日24時間粘着しているんだろ?そのくらいの労を惜しむな。
100 :
無党派さん:03/08/10 18:47 ID:z3vX5dIY
> 年金制度は5年ごとに見直されるが、前回の改革論議で現行3分の1の
>基礎年金の国庫負担の2分の1への引き上げが浮上したが、結局は財政面
>から実現しなかった。00年に成立した改正年金法はその付則に「04年
>までの間に安定した財源を確保し、2分の1への引き上げを図る」とされ、
>問題は先送りされた格好だった。
> そして04年改革。厚生労働省が2分の1への引き上げを目指すのに対し、
>財務省側は財源のめどは立っていないとして、前回同様、待ったをかけている
>構図だ。
> 引き上げとなると、04年度で新たに2・7兆円の税金投入が必要になる。
>財源捻出のため、消費税による増税が由旅行な選択肢になる。ところが、小泉
>首相が在任中の税率アップを否定しているため、論議は深まっていないのが実
>情だ。(2003年7月16日付 朝日新聞朝刊「くらし」面より。一部補足)
ケインズには一つの不安がありました。それは懸命に努力するように訓練されてきた人々が、豊かな時代の
生活を本当に楽しむことができるかどうかという不安です。その日が到来しても「なお、満たされない強烈な
目的意識をもって富を追い求めるような人々が大勢いる」のではないかと懸念したのです。
このケインズの予言が二重の意味で的中したのが20世紀末の日本経済だったのではな
いでしょうか。1987年に国民一人あたりGDP(国内総生産)でアメリカを追い抜い
た日本の経済力は、マクロ的にみてもイギリス、フランス、そしてドイツの三カ国合計に
匹敵するほど巨大になっていました。当時の論壇には、日本の繁栄を循環的な景気の上昇
過程としてではなく、大国の興亡という歴史的なサイクルにおける新しい大国の誕生とし
て捉えようとする見方まで登場しました。
実際、世界の15%を占めるGDPや、1988年末で3000億ドル近くに達してい
た世界一の対外債権、自動車や家電、工作機械などの分野で世界一の競争力を誇る日本の
企業群、日本的な経営モデルに対する世界中からの高い評価、さらには、世界の銀行ベス
トテンに八行も名前を連ねていた日本の大手銀行の資金力などを思い起こせば、日本が経
済大国に発展していたことは事実でした。
しかし、改めて当時の状況を振り返ると、1985年9月のプラザ合意を契機としてド
ルに対する円の交換価値が急速かつ大幅に上昇しなければ、にわか成金の大国日本は誕生
しなかったはずです。また、アメリカの国力を背景にして、ドルがキー・カレンシー(基
軸通貨)として世界の通貨市場に君臨をつづけていなければ、日本はその大国振りを世界
に誇示することもできなかったはずです。ドルが国際通貨として厳然たる力を保持しつづ
けているからこそ、ドルに対して価値が上がった円は今日においても世界中で強さを発揮
できるのです。経済大国と誇ってみても、その実体は、所詮グリーン・パック・タイガー
(ドルの威を借りた「狐」)にすぎません。
もちろん、為替レートの「トリック」とはいえ、国民一人あたりGDPでアメリカを追
い抜いた日本には、もはや「経済上の切迫した不安」はありません。「日本が豊かでない
というなら、世界中に豊かな国など存在しない」という見方も、経済的という枕詞を豊か
さの前につけるかぎり正論です。
ただ、国としての経済力はGDP、すなわち国内で生産された財やサービスの付加価値
(市場で評価された交換価値で計算)の合計で測ることができても、国民一人ひとりの生活
の豊かさはそれだけで評価できません。生産のために費やされた労働時間や、その対価と
して得られる所得にくわえ、日々の労働の密度、生活に必要なモノやサービスの価格、身
の回りの自然や地球レベルの環境、日常生活に必要な公共施設、安心・安定のための医療
および介護や年金などの社会保障制度、教育や雇用の機会、さらには金融や行政システム
といった、広い意味での「社会的共通資本」をはじめとする多様な要素を考慮に入れて評
価する必要があります。
103 :
無党派さん:03/08/10 18:51 ID:z3vX5dIY
困っている人の側に立たず、困っていない多数派の視点で「構造改革」を進めていけば、
失われていくのは社会の協力や連帯です。それでも潜在成長力の回復を図り、世界第二位
の経済力を維持していかなければ、日本の経済社会を覆っている閉塞感は晴れないのでし
ょうか。
「構造改革」が目指しているのは「努力した人が報われる社会」だと、小泉政権の発足直
後に閣議決定された『骨太の方針』には書かれています。しかし、その改革の内容をみる
と、金儲けのために努力した人が減税などで金銭的に報われる社会を目指しているのかと
錯覚するほど、貨幣主義的な発想で埋まっています。実際、研究や教育、平和や安全、地
域の福祉や環境維持など、金儲け以外のためにいくら努力しても『骨太の方針』が目指す
「構造改革」では報われることは期待できません。これに対して、『骨太の方針』を取り
まとめた竹中経済財政担当大臣は、「強い人がより強くならなければ弱い人を助けられな
い」と抗弁しました。しかし、強い人がより強くなれば本当に弱い人を助けるようになる
のでしょうか。金持ちになればなるほど、むしろ自分たちだけの満足のために金を使うよ
うになるのではないでしょうか。
104 :
無党派さん:03/08/10 18:53 ID:z3vX5dIY
http://www.ashisuto.co.jp/magazine/topic.php?A=2&B=20 66号(1997年3月1日) こんにちは、ビル・トッテンです 米国経済の返り咲きの陰で
今年1月、米国クリントン大統領の2期目の発足にあたる就任式が盛大に行われました。その就任演説は米国の現状をバラ色に描いたものでした。
米国経済は再び世界最強に返り咲いたと自賛し、その陰にはリストラ政策による大量失業の憂き目にあった労働者の存在があることや、企業の経営者と労働者の所得格差が1974年の35倍から120倍にまで広がったという事実など、まったく気にもならないかのようでした。
雇用の拡大といっても、リストラで職を失った労働者の多くは流通やサービス業など、より賃金の安い仕事にしかつけず、そのために2つの仕事を掛け持ちしても、その収入は解雇される以前にも満たないのです。
社会保護から自立する人が過去最高になった一方で、昨年の自己破産件数は史上最高の100万件にも上りました。
そんな中、クリントン政権の1期目の労働長官を努めたロバート・ライシュ氏の離任講演がありました。
そこでもっとも強調されたのは不平等の拡大で、技術の進歩や経済統合に伴う構造的な変化の副産物だからどうしようもないという人々がいるが、それは正しくないと主張し、今アメリカには社会契約が必要だと指摘しました。
会社がよくなれば労働者もよくなるべきで、利益をあげている会社がダウンサイジングに走るのはルール違反だと。
また社会保障の崩壊は、豊かで健康な人々が病気や貧困化の可能性の高い人のリスクを共有しようとしない社会であり、階級分化によって国家の安定と道徳的な権威は脅かされるだろうとライシュ氏は強く訴えました。
常に欧米を手本とし、米国式経営を行っている日本が今の米国の姿になるのも、このままではそう遠くない気がします。稲盛京セラ会長もある会合で「各界のリーダーに哲学がなく、私利私欲に走っているためではないか」と言われたそうです。
「木を見て森を見ない」という言葉があります。細部にこだわり、全体像を見失うことを
戒めた言葉です。しかし、この言葉を現実の経済政策に適用するのはむしろ危険です。な
ぜなら、われわれは経済社会の「森」、すなわち全体像を、直接、観察することは決して
できないからです。経済の実体を捉えるためにさまざまな統計が作成されていますが、統
計が映し出す経済社会と現実の経済社会の間には、統計の精度を高めるだけでは埋められ
ない「溝」があります。
バブル崩壊後の長期停滞によって悩み苦しんでいるのは、失業率や成長率といった経済
統計ではなく、一人ひとりの失業者であり、右肩上がりの成長を担保に振り出された政策
の不良債権を抱える人々です。現実の経済社会を人間と人間が相互に依存し、協力しなが
ら生きていく「生活の場」として捉えるならば、いまの日本において失われているのは政
策の有効性ではなく、政策に対する信頼性ではないでしょうか。
ここに日本の経済社会が直面している問題が、いわゆる経済の病ではなく社会の病に近
い理由があります。経済統計によって映し出される虚構の「森」の不調を経済の病と呼ぶ
なら、一人ひとりの国民が現在と将来の生活に不安を抱いているのは社会の病だからです。
それを深刻化させてきたのは必ずしも長引く経済の停滞だけではありません。成長に対す
る過度な期待を前提に組み立てられてきた、各種の政策や個人のライフプランが人々の不
安を必要以上に高めているのです。
↑こういう問題の本質に切り込まないで何が「構造改革」か。小泉信者と小泉って頭がおかし
いんだね(w。
産業政策という「光」の陰で失敗を繰り返していたのは地域(国土)政策でした。19
60年の「所得倍増計画」につづいて1962年に策定された「全国総合開発計画」以来
の課題である「国土の均衡ある発展」は、日本の経済発展の過程で不断に効率性を求めて
大都市に集積する経済活力の前で敗退を重ねてきました。四大工業地帯から三大都市圏、
そして東京・大阪の複眼構造から東京への一極集中といった具合に、新しい国土計画が策
定されるたびに分散とは逆に、より大きな都市への集中が加速されたのです。
産業政策が生産の効率性を追求し日本経済の成長を高めることを目標にしてきたのに対
し、地域(国土)政策は公共事業を地方に配分し、所得機会を全国に均霑することを目標
にしてきました。産業政策あるいは地域(国土)政策の名の下に実施されてきた個別の政
策の趣旨は別にして、政策全体の意図から判断すれば産業政策は成長政策であり、地域(
国土)政策は分配政策でした。
成長と分配とは必ずしも対立する政策理念ではありませんが、どちらの政策に関心が持た
れるかといえば、平均的な所得が低い時代には成長政策に、そして所得が高まるにつれて分
配に関心は移行するのではないかと考えられます。なぜなら小さなパイをどんなに公平に分
比したところで、一人ひとりの生活水準はさほど高まりませんが、パイが大きくなれば分配
の方法によってより多くの人々がより豊かになる可能性が増大するからです。
加えて、毎年の所得を生みだす各種の経済的な資源や機能等のストックにまでは、とう
てい公平な分配の光は当たらないことになります。戦後の地域(国土)政策が失敗しつづ
けてきた要因もこうした分配政策のむずかしさにあったといえます。人、モノ、カネ、情
報、そして政策決定権限としてのチカラといった基本的な資源や機能等をいかに国土全体
に均霑するかという問題は、公共事業や本社機能のない工場を全国に分散するだけでは解
決できないのです。
もちろん地域(国土)政策が失敗してきたからといって、地方の経済が戦後から今日に
至るまで低迷をつづけてきたわけではありません。日本経済全体が発展するなかで、地方
の経済もそれなりに成長を遂げてきました。しかし、それはあくまでも生産力の面からみ
た成長にすぎず、人口移動の面からみれば1970年代後半の一時期を除いて、ほぼ一貫
して人は地方から大都市へと流れています。特に、1980年代以降は大都市、それも東
京圏への流入が顕著になっており、それまで縮小傾向にあった東京と地方の一人あたり所
得の格差も拡大しはじめています。
したがって、戦後の経済発展の過程で全国に均霑されたのはもっとも普遍的な工業の生
産機能と雇用機会だけであり、それ以外の企画・開発・販売といった経済機能や行政、情
報および教育・文化等の新たな発展の源泉となる機能は、すべて東京をはじめとする限ら
れた大都市に集積されてきたといえます。しかも、辛うじて実現された生産機能の分散も
広い意味での産業政策の効果に負うところが大きく、地域(国土)政策としては進行しつ
つあった経済社会の流れを追認的に計画に織り込んできたにすぎなかったのです。という
のも、これまでの地域(国土)政策には日本の経済社会が進むべき方向を示し、それを誘
導するだけの政治・経済的な力も、またそれに対する人々の信任もなかったからです。
経済社会としての目標が「より多くの人々のより豊かな生活の実現」にあるとするなら
ば、いかなる政策もそのための手段にほかなりません。より豊かな生活の実現という目標
の前では、産業の国際競争力強化を中心に据えた産業政策も、一つの手段にすぎません。
手段にすぎない以上、目標実現に向けての有効性を失えばその使命も終焉することになり
ます。多くの人々が求めている豊かさを、産業政策に代表される成長政策ではもはやかな
えることができないとすれば、これからは地域(国土)政策をはじめとする広い意味での
新しい分配政策によって、その巨大な経済力を多くの人々に生活の豊かさとして均霑して
いくことが必要ではないでしょうか。
109 :
無党派さん:03/08/10 19:04 ID:z3vX5dIY
◆これが小泉内閣2年間の「通信簿」/小泉首相は「落第点」でした!◆(週刊新潮03.7.17)
小泉首相はこの9月、自民党総裁選で再選を目指す。
証券市場が久しぶりに活況を呈し始めたものの、
失業率は5.4%に達し、完全失業者は400万人に迫る勢いだ。
不況にあえぐ国民の怨嗟の声が、津々浦々に満ちている。
それでも、なぜか内閣支持率は50%前後を維持している。
小泉政権は本当に国民の期待に応えているのか。
各界の著名人が、この小泉政権の2年間を「通信簿」にしてみた。(中略)
各界の著名人5人に、この2年間の小泉内閣の「通信簿」をつけてもらうと、
やはり高支持率とは裏腹の成績が浮かび上がった。
ほとんどが、小泉内閣に落第点をつけてきたのだ。
桜井よし子氏(ジャーナリスト):小泉内閣は29点。
須田慎一郎氏(ジャーナリスト):小泉内閣は30点。
諸井虔氏(太平洋セメント相談役):小泉内閣は67点。
屋山太郎氏(政治評論家):小泉内閣は54点。
リチャード・クー氏(野村総研主席研究員):小泉内閣は46点。
コメント一例:
リチャード・クー氏「経済は0点です。(中略)不良債権も減らない、
財政再建をやろうにも税収が落ちて財政赤字は拡大、
ペイオフをやろうにも預金が不安定となって銀行がカネを貸せなくなるから実行不能…。
彼が掲げたもののほとんどができないのは、診断を間違えているからですよ」(中略)
須田慎一郎氏「経済はマイナス10点をつけたいくらいです。(中略)
デフレ対策はイコール構造改革。車の両輪で進めなければならず、
さらには従来型の公共事業ではなく、経済効果の高い分野に投資する必要があるんです。
小泉さんもいい加減に気づけよ、という感じですね」(中略)
さて総裁選へ秒読みに入った小泉さん、5人の「通信簿」をいかがお読みになりますか。
ちなみに5人の総合点を平均すると45.2点。残念ながら落第点になってしまいました。
110 :
無党派さん:03/08/10 19:05 ID:z3vX5dIY
■鴻池発言――たがが外れている
12歳の中学生が長崎市の4歳児を死なせた事件をめぐり、特区担当相の鴻池祥肇氏が、加害者の親について「市中引き回しのうえ打ち首にすればいい」と語った。政治家としての資質を疑わせる、
余りに悲しい発言である。
事件は誰にとってもやりきれない。
幼稚園児をビルから突き落とすというむごい行為に刑事罰が問えないのなら、親や学校の責任を問いたいという気持ちを持つ人もいるだろう。他方で、「うちの子は大丈夫だろうか」と不安を抱き、
子どもの教育に考え込む人も少なくないはずだ。
テレビの時代劇ではあるまいし、「引き回しのうえ打ち首」で「一件落着」というわけにはいかない問題だからこそ、世の親たちは悩み、立ちすくんでいるのだ。
鴻池氏の発言は、そんな現実に思いを寄せることなく、親に社会的制裁を加えればこんな事件は起こらないのだという、まことに短絡的なものである。
刑事犯で検挙される少年少女は増えている。刑事罰を問えない14歳未満の事件にどう対処するかという問題も深刻だ。刑事罰の強化だけで立ち向かえるわけではない。家庭や学校、
地域の取り組みをどう強めていったらいいのか。
小泉首相が本部長となって、政府に青少年育成推進本部を発足させた理由の一つも、この難題に取り組むためだろう。その副本部長でもある鴻池氏が、記者会見の席で、感情の赴くままの発言をしているようでは、
まともな対策はおぼつかない。
111 :
無党派さん:03/08/10 19:06 ID:z3vX5dIY
それにしても、このところの政治家の言葉には、一片の品位や思いやりさえ感じられないものが多すぎる。
早大生らによる強姦(ごうかん)事件に「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい」と語った太田誠一氏。「子どもをつくらない女性が年をとって、税金で面倒をみなさいというのはおかしい」と言ってのけた森前首相。
欠けているのは、みずからの言葉の影響や、それを聞いた側がそれをどう受け取るかということへの配慮である。
日本はいつから、こんな体たらくがまかり通る国になってしまったのか。
たがの外れた政治家の発言が繰り返される背景には、理性的な言葉よりも感情的な言葉を、共感する仲間よりも攻撃する相手を求める時代風潮があるのかも知れない。
内政も外交も、日本が直面する課題の多くは、白か黒かで割り切れないものばかりだ。「灰色」の難しさを正面から受け止め、理性的に取り組もうという、胆力ある政治家が余りに乏しい。
不況や社会の構造変化のなかでささくれ立ち、あちこちで「切れ」たり「逆切れ」したりして、命の大切さをないがしろにした事件が起きている。
そんな時代だからこそ、政治家には、静かに、しかし堂々と難題に取り組む言葉と行動を見せて欲しいのだ。
112 :
無党派さん:03/08/10 19:09 ID:z3vX5dIY
「骨太」「三位一体」といった、聞き慣れない言葉が国会審議や政治ニュースに盛んに登場している。一体、なんなのだろう?
共同の記事によれば、国と地方の税財政をめぐって、国庫補助金削減と税源移譲、地方交付税見直しを同時に進めるのが「三位一体の改革」。それと、社会保障、規制改革など7つの改革を盛り込んだのが「骨太の方針」なのだそうだ。
目新しい言葉だけを一人歩きさせる「キャッチフレーズの政治」だと感じる。小泉内閣については、これまでも「聖域なき構造改革」「抵抗勢力」「改革の『痛み』」「米百俵」など、多くのキャッチフレーズやスローガンが飛び交ってきた。
メディアが取り上げ、流行語大賞に選ばれ、大相撲の優勝カップ授与での「感動した」というワンフレーズまでもが一般に「うけた」。
でも、その結果はどうだろう。経済政策は決して事態をよくしてはいない。では、構造改革はどうか。外交・安保は? 人それぞれ評価はあるだろうが、言えるのは、キャッチフレーズやスローガンでぶち上げられたものに比べての、
実際の結果の大きな落差ではないだろうか。そのことが分かってきたから、国民の政治不信が一層深刻の度合いを増しているのではないだろうか。
「物事の本質よりもキャッチフレーズやスローガンに左右される国民だから」という言い方もあるかもしれない。ただ、広告とは、商品の性格を分かりやすく伝えるものであって、決して虚構ではない。「三位一体」も「骨太」も、
たぶん広告代理店かそれに近いような人たちが考えたのだろうが、実体をとらえた広告でなければ、どんな「バカな国民」からもいずれあきられると思う。
113 :
無党派さん:03/08/10 19:10 ID:z3vX5dIY
日本のGDPは内閣府の『国民経済計算』によると2001年においても4・1兆ドル(503兆円)と、
同年のイギリス、フランス、ドイツの三カ国合計に匹敵するほど巨大です。国民一人あたりGDPで見ても
32,850ドルとOECD諸国の中では第五位、同十位のイギリスを9000ドルも上回る高さです。経済力に
かぎれば「失われた10年」を経ても日本は、なお世界のトップクラスに位置しています。
それにもかかわらず、『骨太の方針』では「バブルが崩壊して以降、日本経済は停滞を続け、国民の経済社会
の先行きに対する閉塞感が深まっている」と言って、閉塞感の原因をひたすら失われた成長率に求めようとします。
その背景には、老後の生活や失業に対する不安の高まりや、歯止めなき財政赤字の拡大、あるいは破綻必至と言われ
ている社会保障の危機などの原因は、すべてバブル崩壊後の成長率の低下にあるという見方が潜んでいるのです。
だから、成長力の発揮を阻んでいる「構造」さえ改革すれば、日本経済は再生するといった安易な楽観論が登場して
くるのではないでしょうか。
しかし、視点を変えて行き詰まっているのはこれまでの「構造」よりも、成長に依存しすぎた発想や将来展望の
ほうであり、成長ではなく分配に軸足を移したうえで既存の制度や慣習を再構築していけば、成長率が回復しなく
ても人々に安心を提供できる社会を築けるはずです。そう考えると『骨太の方針』が提示するような成長のために
自助努力と自己責任を求める競争社会ではなく、分配によって安心と安定を提供する協力社会によとても閉塞感を
打破ですることができます。いまの日本に不足しているのは成長力ではありません。現実の生活で人々が直面して
いる苦悩を解くための実践的な指針なのです。
114 :
無党派さん:03/08/10 19:11 ID:z3vX5dIY
「右肩上がり」の成長を前提にした社会保障のプログラムが、成長率の低下によって行き詰まる中で、政府が講じてきた
のはきわめて中途半端な負担増加と給付削減の繰り返しだったのです。
たとえば、1994年の年金再計算では、5・5%の運用利回りを据え置いたままで、年金の支給開始年齢を60歳から
65歳に引き上げる一方、給付水準については実質的に三割近く引き下げるという弥縫策が決定されました。また、医療保
険についても、診療報酬制度の抜本的な改革は先送りされたままで、既存の制度を維持するために患者の自己負担を引き上
げ、薬剤費などの医療費を削減する場当たり的な弥縫策が繰り返されています(このときの厚生大臣は誰だったっけ?)。
社会保障の問題に限らず、政府発の「危機」はいつも突然国民の前に姿を現します。どのような原因で「危機」が生じ、
その責任は誰にあるかなどの説明はないまま、「危機」の状況だけが一方的に喧伝されるのです。予防的な措置も、適切な
治療も施さずに問題を放置し、最後には国民にツケを回すというのがこれまでの政府の常套手段です。医療費の負担増も、
年金のカットも、どのような福祉を人々が求め、そのためにはどのようなシステムがのぞましいのかといった本質的な
議論を棚上げしたままで、とにかく社会保障財政の収支悪化を改善するためには負担の増加と給付のカットが必要だと国民
に迫るのです。政策の内容よりも財政収支を優先する行政の発想には、あらゆる政策を収支問題に矮小化してしまう危険が
潜んでいます。
小泉内閣を支持する人の中には「構造改革」の幻想に惑わされている人も多いようです
が、内容を精査してみれば、いかに問題の本質を看過した薄っぺらな改革であるかが透け
て見えてきます。その象徴が財政改革をめぐる議論です。1990年代以降の歳出と歳入
の推移をみれば、歳出の増加だけではなく歳入の現象も赤字拡大の大きな原因であること
がわかります。このことを確認するために簡単な計算を行うと次のようになります。
名目のGDPは90年度の450兆円から2000年度には511兆円と、61兆円
増加しました。名目GDPに対する2000年度の国税負担率が、仮に90年度と同じ
13・4%だったとすれば同年度の税収は68兆円になったはずです。これは、実際の
税収50・7兆円より約17兆円も多い数字です。つまり、国税の負担率が90年度と
変わらなければ、2000年度の国債発行額は33兆円から17兆円も少ない16兆円
に五割以上も削減できた計算となります。
この簡単な計算からも明らかなことは、景気対策や社会保障といった歳出の拡大以上
に、負担率の低下が財政赤字拡大の要因として大きかったということです。しかも負担
率の低下には、景気の悪化による所得の低迷と並んで冷戦終焉後の国際的な法人税率と
累進税率の引き下げ競争が影響しています。この租税競争による税収の落ち込みに対し
て、ヨーロッパ諸国は消費税率を引き上げることによって、また、アメリカは課税ベー
スの拡大と国防費の削減によって対応してきましたが、日本では橋本政権時代に消費税
率を3%から5%に引き上げた以外は、現在に至るまで減収の補填を目的とした抜本的
な税制改正は行われていないのです。
これに対し、小泉内閣の「構造改革」では財政再建を進めるに際して、社会保障や教育
費およびODAなどの歳出削減に狙いを絞り、再建に伴う痛みをもっぱら国内と海外の低
所得者層に押しつけようとしています。しかも、その一方で、これまで租税競争の恩恵に
浴してきた企業や富裕層には、「努力した者が報われる」社会をめざすと言って新たな負
担増は求めず、逆に活力を引き出すために減税を行うと言っているのです。
国の一般歳出に占める社会保障費の割合は大きいように見えるかもしれませんが、名目
GDPに対する比率を見れば日本は14%と、ドイツやフランスの約30%の半分にすぎ
ず、アメリカの16%よりも劣る水準にあります。政府の主張とは異なり、日本において
は他の先進諸国と比較して未来の福祉予算は低く抑えられてきたのです。その不足分を補
ってきたのが大企業では年功序列・終身雇用制などの暗黙の雇用契約に基づく従業員福祉
であり、また、農業や自営業者および中小企業では公共投資や補助金および規制などによ
る福祉予算とは別の政策的な助成や保護措置だったのです。
そう考えると、急速な高齢化に伴う社会保障の負担増に耐え切れず財政が危機に陥って
いるのではなく、右肩上がりの成長を前提にして成立していた戦後の日本型福祉社会が、
バブル崩壊後の長期停滞によって危機に瀕していることがわかります。
117 :
無党派さん:03/08/10 19:14 ID:z3vX5dIY
膨大な財政赤字や政府債務の深刻さを強調して、その原因を「無駄な」政府支出に求め
る小泉内閣の議論はわかりやすいかもしれませんが、それは必ずしも正しい認識に基づく
議論ではありません。日本が抱える政府債務の名目GDP比は先進諸国の中で最悪だとし
ても、既述した社会保障給付だけでなく国民所得に対する国民負担(税と社会保険料の合
計)の比率を見ても38%と、ヨーロッパ諸国の50〜60%に比して10〜25%も低
く、アメリカの36%と並んで先進諸国の中ではもっとも低い水準にあるからです。
99年版の『厚生白書』に引用されていた世論調査によると、国民の六割が「給付水準
維持のためなら増税や保険料の引き上げもやむを得ない」と答えています。その一方、
「社会保障の水準を切り下げても、負担を切り下げるべきだ」と答えた国民の割合は6%
にも満たないのです。つまり国民の多くは公的な社会保障の削減による自己責任型社会よ
りも、負担を甘受しても安心できる社会をのぞんでいるのです。
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無党派さん:03/08/10 19:16 ID:z3vX5dIY
小泉首相はいま改革の手を緩めれば、将来の痛みはもっとひどくなると言って改革の断
行が必要だと主張します。しかし、着実に進んでいると小泉首相が自賛する改革の下で、
デフレからの脱却時期は当初の見通しより2年も先送りされてしまいました。また、20
03年度の政府予算案を見ても医療費や社会保険料などの国民負担が増す中で、歳入に占
める国債依存度は戦後最悪の44・6%に達しています。壊すだけで創ろうとしない「構
造改革」によって、人々の痛みはすでに十分「ひどく」なっているのです。
痛みに耐えられず、買い買うの手を緩めれば、「痛みはもっとひどくなる」と国民に説きな
がら、実際に、どの程度痛みがひどくなるのかについては、前述した成長率の格差の数字(改
革を怠ると成長率は0・5%になり、改革を進めると成長率は1・5%あるいはそれ以上にな
る)が示されているだけです。しかも、成長するために改革が必要だという議論は飽きるほど
繰り返される一方で、改革をすればなぜ成長率が上がるのかに関してはほとんど説得的な説明
は見られません。
確かに、『骨太の方針』が示すように生産性の低い分野から高い分野に「人」や資本などの
生産要素が移動すれば、日本全体の生産性は上がるかもしれません。しかし、生産性がいくら
上がっても、それによって成長率が上がるという保証はありません。生産性が上がった分野で
需要が増えなければ生産自体は増えないからです。もし需要が増えなければ生産性が上昇した
分だけ働いている人が解雇される恐れも出てきます。また、生産性が高いモノやサービスが、
生産性の低いモノやサービスよりも人々の必要な欲求を満たすという保証もありません。そも
そも生産性は何かという具体的な説明は『骨太の方針』だけではなく他の報告書にもみられな
いのです。
経済財政諮問会議の民間議員を務める吉川洋氏と内閣府特命顧問の島田晴雄氏は、新旧
産業の交代に関して馬車と鉄道の例を用いて、「鉄道の登場により馬車屋は失業し、馬車
を造っていた会社も倒産する。しかし・・・・・馬車から鉄道に乗り換え・・・・・るこ
とによって、生活はより豊かになり、新たな成長フロンティアが生まれる」(『痛みの先に
何があるのか』東洋経済新報社)と一見わかりやすく説明します。しかし、それでは現在の
日本において、どの産業が「馬車」で、どの産業が「鉄道」なのでしょうか。農業は「馬車
」で、IT産業は「鉄道」だと言えるのでしょうか。逆に言えば、そんな簡単には産業を分
類できないから日本経済は長期にわたって停滞をつづけているのではないでしょうか。
個人的な経験談で恐縮ですが、私は北海道の三笠という炭鉱の町で生まれ育ちました。
小学校に入学したのは1960年、池田内閣の「所得倍増計画」が発表され、それに伴っ
てエネルギーの流体革命がはじまった年でもあります。この石炭から石油へのエネルギー
シフトについても、吉川・島田両氏は馬車から鉄道への変化と同様に評価していますが、
当時、石炭の町で起きていた幼い子どもたちの別れ、地域コミュニティの崩壊、住民の
生活を支えてきた商店の閉鎖や倒産、小中学校の統合や廃校などの「痛み」については
言及していません。
かつての石炭から石油へのエネルギー転換が間違いだったと主張するつもりはありませ
んが、改革の「光」にばかり焦点を当て、「影」を捨象するのは少なくとも公平な議論で
はありません。「痛み」の先に何があるかを議論するなら、その「痛み」とは抽象的な経
済統計のプラス・マイナスで計算できるようなものではなく、数字ではけっして測ること
のできない生身の人間が負う痛みだということを深く認識したうえで語ってほしいのです。
生産性の低い分野から高い分野へと稀少な資源を移動すれば、経済統計上の成長率は高
まるかもしれません。しかし、それによって何が得られ、何が失われるのでしょうか。言
うまでもなく成長率が1%高まれば、豊かさが1%増えるわけではありません。成長率の
低迷がつづいているから閉塞感が晴れないわけでもありません。成長しても、それが豊か
さとして結晶しなければ閉塞感は晴れないからです。豊かさとは成長率のように測ること
はできませんが、実感することはできます。求められているのはこの実感をいかに政策に
反映させていくななのです。
豊かさの実感は多くの数字が並ぶ経済統計の中にではなく、生活や仕事の現場から発信
される人々の「声」の中に潜んでいます。まずは、そうした多様な「声」に耳を傾けるこ
とから政策づくりをはじめてはどうでしょうか。そのためには、タウンミーティングのよ
うなその場しのぎのヒアリングではなく、多様な立場にあり、多様な意見を持つ人々を実
際の政策決定の場に参加させることが必要です。例えば、経済財政諮問会議や日銀の金融
政策審議会などには、大企業の経営者や学者だけではなく、中小企業や自営業、農業や漁
業、サラリーマンや主婦、高齢者や若者、職人や芸術家など幅広い分野からの代表もメン
バーに加えることを検討すべきです。
そんなことをしたら意見がまとまらず、政策が決定できないという批判があるかもしれ
ません。しかし、そうした批判こそ多様な意見を封じることにつながります。自分の政策
方針に反対するものはすべて「抵抗勢力」だとか「反対勢力」だとか言って、異論や反論
を封じてしまえば、それと同時に日本の社会が持つ多様な可能性や選択肢まで封じられて
しまうのです。人々が求めているのは豊かな生活であり、その源泉となる多様な生き方や
仕事を犠牲にしてまで、より高い成長を目指すことではないはずです。
小泉内閣による改革の進め方の特徴は、「総論飛ばしの各論先行」にあります。これは、
従来の改革が総論賛成・各論反対で頓挫してきたのを逆手に取った戦略でもあります。小
泉内閣では、どのような基準で政府と民間の役割分担を図るべきかといった総論は飛ばさ
れ、小泉首相がこの事業は「民間でもできる」、あの事業は「政府がやる必要はない」と
言えば、それが道路公団の民営化や住宅金融公庫の廃止という形でそのまま各論になって
しまうのです。
これをリーダーシップと呼ぶのかどうかは議論が分かれますが、ただ、総論も各論も
「首相の判断」(もしくは首相の威を借りた一部閣僚の独断)に委ねられ、その判断に異論
や反論を唱えたとたん「抵抗勢力」の烙印を押されて社会的に糾弾されるとなれば、政府内
や国会で健全な批判を期待することはむずかしくなります。
経済社会が直面しているさまざまな問題の解決を、いつまでも成長に委ねつづけるのは
きわめて安易な発想です。人々が日常生活で抱える不満や不安を、経済的なパイの拡大で
緩和していこうとするのは、問題の解決というよりも先送りに等しいからです。バブル崩
壊後の景気低迷の中で浮き彫りになった構造問題を成長の制約要因だと一方的に決めつけ
て、その構造の改革を成長の手段に祭り上げるのは、日本の経済社会が直面している問題
の本質を成長というウェールで覆い隠すことにほかなりません。
経済成長が何より重要だというのなら、その実現を目的にして構造改革を声高に唱える
ことには意味があるかもしれません。しかし、既存の構造が内包する問題を探り、それを
支えている広い意味での制度の限界と矛盾を追及したいと考えている者にとっては、成長
は目的ではないのです。
こうした議論をここで展開するのは、日本の経済社会がそろそろ成長の呪縛から解放さ
れる時期を迎えていると思うからです。成長率が長期にわたって停滞しているから、それ
を引き上げるための構造改革が必要なのではなく、成長率が長期にわたって停滞する時代
を迎えているから、成長に依存しなくても人々がより人間らしく豊かな生活を送ることが
できる社会を構築する改革が必要なのです。過去の延長線上でしか自らの未来を展望でき
ない人たちにとっては、「成長」の二文字から離脱することおはむずかしいかもしれませ
んが、20世紀最後の10年間で生じ、そして新しい世紀を迎えても止むことがなくつづ
いている内外の環境変化を見るならば、日本の経済社会が成長から停滞の時代を迎え、そ
の転換への対応を迫られていることがわかるのではないでしょうか?
バブルの時代には、こうした人口構造の高齢化が長期的な労働力不足を引き起こし、成
長を制約するのではないかという懸念の声が各所で聞かれました。政府の関心は、バブル
が発生する以前から持続的な経済成長に置かれ、1986年に閣議決定された『長寿対策
大綱』では、持続的な成長をわざわざ「日本経済の活力維持」と言い換えたうえで、高齢
者を「労働者」として「活用」しつづける必要性が謳われていたのです。
しかし、その後の不況によって日本の労働市場は逼迫から過剰へと一変しました。バブ
ル期の限界的な労働需要を満たすために海外から日本に呼び寄せられた外国人労働者の中
には、真っ先に解雇され、いわゆる不法就労者から無職の不法滞在者へと追いやられた人
も少なくありません。
もちろん、長引くバブル崩壊後の不況によって職を失ったのは外国人労働者だけではあ
りません。リストラの対象となった中高年の雇用者や、廃業を強いられた個人営業者、あ
るいは労働市場の入り口で門前払いを喰わされた新卒者など、一人ひとりの失業者および
その予備軍と称される人たちが受けた不安や苦痛、あるいは屈辱は、けっして経済的な尺
度だけで測ることはできません。
だからこそ、改革を断行して成長率の回復を図ることが必要だというのは一見するとも
っともな議論ですが、それによって改善されるのはマクロ的な失業率であり、実際に失業
を経験し、またその予備軍となった人々が負ってきた精神的な不安や屈辱までもが回復す
るわけではありません。
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無党派さん:03/08/10 19:23 ID:z3vX5dIY
しかも、ここで見過ごしてならないのは、バブル後の不況だけではなく、戦後の日本経
済において当然のように信仰されてきた右肩上がりの成長神話の中に、今日の失業の原因
が潜んでいたことです。土地を担保にして無節操な貸出をつづけた銀行の債権だけではな
く、成長神話を担保にして政府が国民に振り出しつづけてきた将来の生活保障に関する約
束手形も、いまや大量に不良債権化しているからです。
したがって、そうした政策不履行の責任を反省せずに、構造改革の名の下に、なし崩し
的に過去の約束を反故にするのは、金融行政や銀行経営の責任を不問にしたまま、公的資
金を投入して不良債権を保護するのと同じ発想です。そこに欠けているのは、過去の失政
に対する反省とその責任です。金融システムが危機にあるといえば公的資金の投入が合法
化され、財政が危機にあるといえば公共サービスの切捨てが罷り通ると思っているのは、
その時々の政権と官僚機構の驕りであり、過信にほかなりません。その驕りと過信をいつ
までも許容しつづけるほど日本の社会は寛容でもなければ、それを経済的なパイの拡大で
覆い隠せるほど日本の成長力も健在ではないのです。