中山内閣官房参与って何者?

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64無党派さん
お疲れさま、ウズベクから帰った中山恭子大使

 中途半端な外務省改革が批判されている八月中旬。中央アジアの駐ウズベキ
スタン大使・中山恭子氏が任務を終えて帰国した。九九年七月から激動の三年
だった。
 中山さんは、一九六六年に女性のキャリア官僚として大蔵省に入省し、理財
局の国有財産第二課長、大臣官房審議官などを経て、退官後は国際交流基金常
務理事となっていた。大蔵省時代に、同僚で現在は衆院議員の中山成彬氏と結
婚、議員夫人ともなっていたが、実に丁重で物腰がやわらかく、その誠実な人
柄は、日頃、口の悪い新聞記者などにも人気絶大だった。
 その中山さんが、旧ソ連のイスラム教国の大使になると知って驚いた人は多
かった。ただウズベキスタンはきわめて親日的な国で、千野忠男・元大蔵省財
務官(現アジア開発銀行総裁)ら大蔵省OBにウズベキスタン惚れの人が大勢
いたので、『大丈夫』と、妙に安心した気持ちで送り出したものだ。
 ところが、赴任して一カ月、ウズベキスタンとキルギス共和国の国境で、日
本人五人がイスラム原理主義とみられる組織に誘拐される事件が発生した。強
攻手段に出かねない両国をねばり強く説得し、連携と協調を保ち、全員無事釈
放へとこぎつけたのである。
 苦労はそればかりでなかった。誘拐事件以後もイスラム原理主義のテロ事件
が続いたし、独立意識の強いウズベキスタンに対し、米露をにらみながら友好
関係を維持する外交は厄介だった。その一方でシルクロード観光にやってくる
日本人も年々増大したからだ。
 そして昨年の「九・一一」テロ事件。南の隣接国・アフガニスタンが世界の
焦点となった途端、一躍戦略的要地となり、遂にアメリカがウズベキスタンに
基地の提供を申し入れ、両国は一転して友好関係を結ぶ。以後、アメリカはウ
ズベキスタンを拠点としてタリバン政権の攻撃に入ったのである。と同時に、
アメリカの中央アジアへの進出をみたロシア、中国なども接近を試み始める。