【悼】 今週の政界訃報案内 【悼】

このエントリーをはてなブックマークに追加
190無党派さん
http://www.yomiuri.co.jp/zz/20020812zz01.htm
田中覚氏=元三重県知事
 田中覚氏(たなか・さとる=元三重県知事)10日、心不全で死去。92歳。
告別式は13日午後1時、三重県四日市市新正3の2の18やすらぎ愛昇殿・四
日市葬祭。自宅は同市八千代台1の1の29。喪主は妻、三重子さん。
 1955年、45歳で当時の全国最年少知事に。72年、5期目途中で衆院選
に。旧三重1区で自民党から立候補し、当選1回。故三木武夫元首相夫人の睦子
さんの義弟。 (8月12日)

http://mytown.asahi.com/mie/news01.asp?kiji=3199
公害責任自問続け 田中元知事死去
 三重県の工業の近代化に努めた田中覚氏が10日、心不全で92歳の生涯を閉じた。
 四日市コンビナート誘致に尽くし、公害が表面化すると、その対策にもかかわ
った。「四日市公害を考える上で、よくも悪くも象徴的な人」と、「四日市公害
を記録する会」の沢井余志郎代表(74)は話す。
 田中氏が知事に初当選したのは戦後10年がたった1955年。農業県の工業
化を目指し、誘致した四日市コンビナートは石油化学産業の拠点となったが、一
方で深刻な大気汚染を招いた。
191190続き:02/08/13 17:45 ID:Xc98t1WT
 72年7月に企業の責任を認めた四日市公害訴訟判決が出される3カ月前、田
中氏は全国で初めて工場排煙の硫黄酸化物の総量規制を条例化した。引退後、朝
日新聞の取材には「知事になる前から県の部長として誘致に携わった。公害の責
任は自分にあると自覚している」と語っていた。
 「菜の花の海辺から−評伝田中覚」を書いた平野孝・龍谷大学法学部教授は
「原告勝訴判決が出ると、被告企業に控訴断念を働きかけた。四日市市が『公害
克服』で国連のグローバル500賞を受けたときも、『まだ早すぎるのではない
か』と述べるなど、自らの責任を問い続けた気骨をもった政治家だった」と振り返った。
 在任中に公表した芦浜原発計画は、一度は終止符宣言をしたが、中部電力など
の意向で後に復活。35年間以上にわたり、県政を二分する懸案事項になった。
 知事時代に秘書を7年間務めた元県職員の小川益司さん(63)によると、0
0年2月、北川正恭知事の「白紙撤回」で最終決着したのを伝えると、涙を流し
て「これで県民は安寧だ」と喜んだ。
 10年ほど前に脳梗塞(こうそく)を患い、自宅で過ごすことが多くなってい
たが、最近まで「四日市と鈴鹿は本当に合併するんだろうかね」などと、地域の
未来について心配していたという。
 知事の初代の「カバン持ち」を務めた菰野町の服部忠行町長が4日に見舞った
ときはベッドから起き上がり、別れ際に握手した手には力があったという。「自
分を律する厳しい人だった。政治の勉強をさせてもらった。大変な師匠を亡くし
た」と話した。
 北川正恭知事は12日、「四日市コンビナート形成に尽くされ、その結果生じ
た公害に対しても真摯(しんし)な対応をなされ、終生変わらずそのことを心配
しておられた。今日の本県経済の基盤を築かれた田中氏の政治、行政手腕に敬意
を表し、県政へのご貢献に感謝申し上げます」とのコメントを出した。(8/13)