決着つけるぞ。
そっかー
氏ね
DSでハーフ以上売れたゲーム全部→知育ゲー
PSPのモンハンその他→ゲームらしいゲーム
実質PSP勝利!!!
プレイヤーが何かして、その結果満足不満足が生じて、それが楽しいこと
よし! 賢い俺が予言してやる!
このスレの結論は「ひ と そ れ ぞ れ」だww
まちがいない!
人それぞれ。
終了。
問題は人それぞれの観念を押し付けてくる人間がいることだな。
「人それぞれ」というのも1つの意見にすぎない。
おしつけるな。
> ゲームらしさとは何か?
クタに聞けば教えてくれるよ\(^o^)/
新スレがたった。。。∩( ・ω・)∩ バンジャーイ
12 :
名無しさん必死だな:2006/07/05(水) 14:45:11 ID:C4FhDjtx
任天堂
発端はDSに対する「ゲームらしいゲームが売れない」という揶揄。
これを口にした人間はこのスレで説明するべきだな
「人それぞれ」がどこからどこまで含むかを考えるのがこのスレなんじゃないのか
ってことで
>>4だ
これで文句ねぇだろ
ここに含まれないのはゲームじゃない
ロコロコ、カズオは知育ゲーじゃなくてゲームらしいゲームみたいなんだが
基準がよくわからん
>>9 そんなことを言ってもだな……
ムービーマンセーが「FFこそ※ゲームらしいゲーム!」と主張
※暫定的にFFとしているが、こういうタイプは絶対にゲーム名を口にしない。
↓
袋叩きにされる
↓
反論のネタが尽きて「ヒトソレゾレ」と呪文を唱える
↓
「人それぞれとか言うんだったら、最初から話を振るな!」と、更に袋叩きにされる
↓
「ワー! ヒトソレゾレ ヒトソレゾレー!」と更に呪文を唱える
↓
1000だったら、クタラギが目をさます
↓
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
こうなるにきまってるだろ?
シレンはゲームらしいゲームと読んでいい?
定義はシンプルでわかりやすく、誰でも応用が利くものがいい
ゲームらしいゲームそれはファミリーベーシック
ビットジェネレーションはゲームらしいゲームなのかどうか。
答え
結局結論はでない
↓さぁこれから無駄な争いをお楽しみ下さい
というか「人それぞれ」って押し付けるもんじゃないような。
「人それぞれ」と考えてるってことは、その人にとって他人がどのように考えていてもそれを認める(と言うと偉そうだが)ってことでは?
「ゲームらしさ」なるものは存在しない、という結論もありだろう
>>22 確かに理屈はそうだが、こういうスレで出る「ヒトソレゾレ」は
単に「旗色が悪くなったけど俺の意見を変えるつもりはない、
お前の意見なんかキカネー宣言」だからなww
だからさ、逆にゲームらしいゲームを主張する人は必ず枕に
俺 に と っ て は
と入れればいいんじゃね?
それなら特に文句もないよ
俺にとっては人生がゲームです
「考えは人それぞれなのだから議論してもムダ」と言うのは知的怠慢としか言いようがない
DSブームにより「ゲームらしさ」という概念が浮上したので、定義を確認する必要があるのだ
オレにとってはゲームが人生です
>>18 あなたが「ゲームらしいゲーム」だと思うものが「ゲームらしいゲーム」です。
ただし、あなた以外がソレを「ゲームらしいゲーム」だと思うとは限りません。
じゃあ、これだなwwwwwwwwww
>>26 純ゲーVS大衆ゲースレだなww
なぜか核心にせまる議論をしようとすると逃げる奴がいるな。
結局DSを貶すための詭弁だったと考えてよろしいのかな?
>>28 だから… そうじゃなくてだな…
「こういうスレ」での「ひとそれぞれ」は、
不思議なことに「議論を吹っかけた側」からでてくるんだよwwww
34 :
名無しさん必死だな:2006/07/05(水) 15:02:42 ID:tBFxs33G
やってて楽しいもの。みんなが笑顔になれるもの。
・暇潰しになるモノ
だから知育ゲームもゲームのうち
>>35 ゼルダとかFFとかになっちゃうと、暇つぶしにはならないんじゃないのか。
>>34 このスレのことですね(*^ー^)ニッコリ
プログラムとインターフェイスが楽しみを有効に供給すること
…とりあえずこんな感じで考えてみた
自分の指示する以外徹底的にこき下ろして
自分に同意しないものは工作員か社員の操作と断定する
ゲームに興じてる馬鹿は大量にいるがな
>>36 それも暇潰しだと思うよ。
ゲームをやるために「暇」を作る
「暇」なのでゲームをやる
文章の意味は違うけど、
結局のところは、作った・出来た「暇」を「潰している(消化してる)」じゃまいか
だから暇潰し。
>>4だとカードゲームやスポーツまで含まれてしまうな
それもゲームだから問題ない
よし、結論!
囲碁、将棋、トランプ、麻雀
キャー!! o(*><)o げーむらしーー!!!
カードゲームだろうが、スポーツだろうが、ゲームはゲーム。
TV画面の中でやるか、カードを使って卓上でやるか、外でやるかの違い。
ゲハである以上、TVゲームという枠の中で考えたい
TVゲームはTVあるいはコンピュータを媒体としているだけでゲームの本質は別の所にある。
じゃあ「モニターを介して」というのを
頭につければいいだけ
じゃあ、結論!
テレビゲームの囲碁、テレビゲームの将棋、テレビゲームのトランプ、テレビゲームの麻雀
キャー!! o(*><)o げーむらしーー!!!
(修正)モニターを介してプレイヤーが何かして、その結果満足不満足が生じて、それが楽しいこと
「その結果満足不満足が生じて」の部分が必要を感じない
あと音だけのゲームというのもあるので、
>>38の方が定義として優れていると思う
>>50 「ゲームらしさ」っていうからには勝ち負けなニュアンスを残したかった
そこで満足不満足
これなら明確な勝負の形が無くても、例えば森の部屋飾りつけのようなものでも当てはまる
失敗しないものはゲームとは呼べない。
プログラムとインターフェースを介し楽しみが供給されてもデジタルノベルや
デジタルコミックはゲームにならない。
>>52 選択を誤るとおっちぬサウンドノベルは「ゲーム」になるんかな?
勝ち負けとかトライ&エラーの考え方だね
ただムービーRPG最高という人も納得の定義の方がいい
「DSはゲームらしいゲームがない」が持論の人こそ参加してもらいたいのだが…
選択肢が存在すればゲームになる。
それがデジタルノベルとノベルゲームの違い。
ムービーRPG最高と言ってもゲーム部分はRPGにある。
ムービーだけに満足しRPG部分が不要と言うのなら映画であってゲームではない。
>>54 >「DSはゲームらしいゲームがない」が持論の人
こういうタイプが参加してくれないと盛り上がらないww
でも、絶対に参加しないだろうな。
ココは死地だよw
ムービーRPG支持者には、
それの何が好きでどう発展して言って欲しいのか、
という希望を示してもらわないと議論が出来ないんだな
>>55 「意思選択」があればゲームになるというのは非常にわかりやすいが、
そうなると、「ゲームらしからぬゲーム」を探すほうが困難だなw
DSもPSPもPS2も「ゲームらしいゲームだらけ」だw
>>56 最低限の常識を持ち合わせている人同士なら
2chの煽りあいは基本的に人数多い方が勝つからな
アホ助みたいな発狂気味の人間と、人の話を全く聞かない人はこの限りにはないがw
だからまぁ、この板でDSはゲームらしいゲームが無いって思ってる人間がいても
常識的に判断して、このスレで孤軍奮闘したりはしないだろうww
GKどもはしょぼい工作活動しかできない低脳だからなwww
任天堂ファンと互角に議論できないソニ豚哀れwwww
負け犬の狂信者どもはゼノサーガでもやってろwwwwww
61 :
A助様@お兄やん ◆z2QBxsCmSs :2006/07/05(水) 15:31:40 ID:QPBCNn+0
馬鹿どもが学級会をしているようなのでレベル向上のためやってきましたよ?
ゲームらしさ?
それは刺激である。
うわさをすればA
>>62 影とAをかけたつもりだろうが、誰が上手いこと言えと(ry
お前を呼んだんじゃねー
ちなみに漏れはヴァルキリープロファイルとか.hackとかゼノサーガとか
そういうのが好きなんだが
ムービーゲーのいい所は、強いて言うならドラマとしての表現力の高さかねぇ
>>64 お前が粗悪なエサを巻くから、
粗悪なのがかかったんだよw
反省しる。
67 :
A助様@お兄やん ◆z2QBxsCmSs :2006/07/05(水) 15:38:27 ID:QPBCNn+0
刺激のないゲームは売れない。
旧態依然のRPGがビジュアル面ばかりを前面に押し出したところで無駄。
映画のCGのほうが格段に迫力があるのだからね。
思うに、安いときには千円そこらで映画が見れるのだから
月に一本ゲームを買うより月に五作劇場で映画を見たほうがいいのではないかと思い始めている俺ですよ。
>>65 まあ、俺も、テクモ版のキャプテン翼好きだしなあw
>>58 >>4のポイントはプレイヤーの操作で満足不満足がおき、「それが」楽しい
って部分なんだな
それはムービーゲーらしさであってゲームらしさとは別。
ゲーム要素がある事が前提なのだから、付加価値でしかない。
あと、刺激は映画にも小説にもマンガにもある。
逆に考えてみる
「ゲームらしくないゲーム」って一体何?
>>68 アレは何気にムービーゲーっつーか、デモシーンばっかりゲーの先駆けだよなw
延々とひらがなのテキストを読みつづけ、試合でも見てるシーンのが多いw
でも、キャプ翼をあの時代の技術力で表現するならベストの方法だったwww
73 :
A助様@お兄やん ◆z2QBxsCmSs :2006/07/05(水) 15:40:04 ID:QPBCNn+0
まぁ、映画を見るという観点で言えば
なにも劇場で見なくとも屁屋でカーテンを閉め二時間ゆっくり映画を楽しむのはありだな。
大画面テレビが欲しいぜ。
74 :
名無しさん必死だな:2006/07/05(水) 15:41:08 ID:4Y340z9i
刺激というなら映像もそうだが操作形態もだな
DSはタッチパネルの斬新さにより新たな刺激を与えた
>>71 イエローブリックロードとかwwwwwwwwww
楽しさはゲームらしさとは別。
どんなにつまらない出来の悪いものでもゲームはゲーム。
ゲームらしくないゲーム的なものがあるとすれば、ゲームのインターフェースを
使った反射神経を必要とせずパズル要素もなく場所探しの必要すらない順路通り
進んでストーリーを監視するだけのオバケ屋敷タイプのようなもの。
そのストーリーの優劣はもちろん別。
RPGなんてゲームじゃねーよ
そんな風に言われた時代もありました
時と共に虚ろいゆくのがゲーム
78 :
A助様@お兄やん ◆z2QBxsCmSs :2006/07/05(水) 15:45:10 ID:QPBCNn+0
くだらない御託は必要ない。
ゲーム=刺激だ。
それはグラフィックでもシステムでも操作性でもいい。
なんらかの満足感を与えてくれる刺激である。
娯楽の本質は刺激だ、馬鹿ども。
79 :
名無しさん必死だな:2006/07/05(水) 15:45:57 ID:ZSVhQWx1
娯楽≠ゲーム。
娯楽とゲームでは必要要件が違う。
「矢追純一極秘プロジェクト UFOを追え!」は刺激に満ちていたが
ゲームとは呼べない。ただのデータベースだった。
82 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/05(水) 15:48:30 ID:nWJu20ie
SFCくらいまでのゲームシステムなら、(全部では無いけど)そのほとんどがGBA版メイドインワリオに入ってる。
83 :
名無しさん必死だな:2006/07/05(水) 15:48:40 ID:nWaoXM7F
ムービー垂れ流し 以外
リアルサウンドはゲームか?
85 :
名無しさん必死だな:2006/07/05(水) 15:50:48 ID:nMFKa4v+
ストレス解消。現実逃避。時間の無駄。コレ
88 :
名無しさん必死だな:2006/07/05(水) 15:51:48 ID:jeOtxTQt
うほ
DS料理ナビに、「調理時間の目安」さえついていれば
ゲームになりえる。
>>86 一時リアルサウンドのテーマソングにうなされたんだが…
あれはムービー垂れながしの替わりに歌垂れながしだったぞ
多分あの歌手はボタバラの挿入歌の歌手と同じ人だな
脳トレの音読や計算は、漫然とやるだけではゲームではないが、
タイム更新という条件下では成功失敗の分岐が発生しゲームと言える。
94 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/05(水) 15:57:50 ID:nWJu20ie
ビデオゲームに限って言えば、コントローラーの使い方がゲームシステムであり、ゲームなんだよ。
刺激などという受動的なものでは無く、『現状の把握→対応』のサイクルがゲームらしさだと気付く。
メイドインワリオこそ本当のゲームなんだが、
そういうのはミニゲームと揶揄を受けてしまう。
どうみても言ってるのはやったことない人達なんだけどね。
シーマンはゲームっぽくないのにゲームだと考えてしまう
SEGAだからか?
>>94 テニスのラケットの素振りはスポーツだがゲームではない。
テニスの試合はゲーム。
インターフェースがゲームなわけではない。
> ふざけた新入社員のだらけた遊びを見咎めもせず、そこにおもしろさとクリエイティヴィティだけを発見して、ビジネスに結びつけた山内。
> しかもこのとき山内は「ウチはゲーム会社だからゲームにしろ」と言ったという。
> 任天堂を単なる花札やトランプの会社ではなくて、「ゲーム会社」と認識していたのだ。
> 昭和41年(1966年)段階の「ゲーム会社」っていったいなんだ?
> 『野球盤』(58年)のエポック社がモデルか。ツクダ(03年倒産)はまだ『オセロ』(73年)を発売してないし、
> タカラトク(84年倒産)の『生き残りゲーム』(73年)もタカラ(現タカラトミー)の『人生ゲーム』(68年)も
> まだ発売していないばかりかこれらはすべてゲーム専業ではなく玩具メーカーだ。
> 後者二社のものは翻訳ものなので、もとのボードゲームを出していた米国ミルトン・ブラドリー(現ハズブロ)を念頭に置いていたのだろうか。
> いずれにしても、その後の任天堂の歩むべきまっすぐな道が、山内には視えていたということだろうか。
此処の色んな意見を見て私は思う。
北の将軍様は、まさに世界規模のゲームを現在進行形で楽しむゲーマーに違いない。
特に
>>85 >>87 重要 w
>>97はコントローラーの使い方という部分への指摘。
ゲームであるかどうかじゃなくて
ゲーム性がどの程度あるかっていう問題な希ガス
103 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/05(水) 16:13:22 ID:nWJu20ie
>>101 ああ、すまない。
言葉が足りなかったね。
現状把握→対応のサイクル、と書いてるにも関わらず、対応の仕方に絞ったような書きかただった。
ラケットの素振りでさえ、「完璧なフォームで振る」という目的さえ
あればゲームたりえる。スイング速度でもなんでもいいけど。
目的・目標があって、その達成の成否が確認できれば、ゲームと
言っても差し支えない。モチベーションを持てるかどうかは別問題。
なんか千手が来そうなスレだな。
106 :
名無しさん必死だな:2006/07/05(水) 16:17:54 ID:W9VnWi+y
任天堂のゲームはゲームらしくない
なんかかかったから、上手く育てて大きくしよう。
108 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/05(水) 16:26:25 ID:nWJu20ie
∧_∧
( ´・З・) アルェー
( つ-日O プレイヤーがモニターに干渉することで何らかの結果が出ること……?
と_)_) うーん、あんま
>>4とかわんねなぁ。
ポケモンの田尻智はSFCの「マリオとワリオ」というマウス対応のゲームを
母がやっているのを見て、「慣れない人にとってはインターフェイス操作
そのものがゲームになるようだ」とある本で述べているな。
モニターに干渉しても仕方ねえだろ
で、結局
「ゲームらしいゲーム」ってのはナンナンダヨー!
たしか最初のテレビゲームはテニス、ブロック崩し、砲台射撃
この辺のジャンルだったはず
その後出たのがアドベンチャーあたりだったかな
∧_∧
( ´・З・) アルェー
( つ-日O
>>111 と_)_) んじゃモニター上?画面内?
うーん、あんまいい表現じゃねーかもな。
1 遊びごと。遊戯。「―コーナー」
2 競技。試合。勝負。「白熱した―」
3 テニスで、セットを構成する1試合。「先に二―とったほうが勝ち」
4 「ゲームセット」の略。
との事らしいから、推測するに「ある程度ルールが決まった勝負事(対人対PCは置いておいて)」って事では?>ゲーム
まぁゲーム業界の言う所のゲームは「テレビゲーム」なんだろうけど
プレイとは関係ない物語鑑賞で楽しむ作品はゲームではない
少しでもゲームな部分が入っていることを考慮して言えば「ゲームと物語」だな
>>116 と、なると、
余計な飾りを廃して、システムを剥き出しにした「ミニゲーム」こそが
「ゲームらしいゲーム」となるのではないか。
ムービーゲー(と呼ばれるもの)自体は否定しない。
だが、これがゲームらしいゲームなんだと主張するから嫌われる。
一応ゲーム要素もオマケでついているんだし、ゲームの本流で無いことさえ理解すれば仲間と認めてもいい。
付録みたいなもんだな>ムービー
>>119 だろうね、カードゲームとか「ゲームらしいゲーム」といえるのかも
教授なんかも「決められたルールで(自分の自分の記録と)争う」のだから間違いなくゲームだろうな。
もっとも抽象的なゲームはパズルゲームかな
>>96 シーマンは人工無脳ゲームでしょ。
大人になって普段やってて面白い事といえば、飲み友達との他愛無い雑談だったりするけど
それをゲーム化したらああなると思う。
音声認識だけクローズアップされた感があるけど、ネット対応の続編出て欲しいな。
ヤバい事は話させない様なフィルター必須だけど。
少なくともこの板におけるゲームらしさってのは、
「操作する楽しさ」はガチだと思うんだ。
で、俺がゲームに求めているのは
「ビジュアル的な爽快感」と、「自由度の高さ」だ
126 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/05(水) 23:26:01 ID:kAgTRidb
>>95 メイドインワリオは、いろんなゲームのゲームシステムを抽出してあるのよね。
RPGやAVGのゲームシステムも、ちゃんと抽出してある。
なぜムービーが批判されるかというと、操作という対応のための状況を提示したものでは無いからなんだよね。
そして、ムービーが流れるタイミングも悪い。
たとえば、初代スーパーマリオでも、旗に飛び付いた後や地下ステージの冒頭など、ムービー的なデモがある。
それでも、そこに批判が集中しないのは、流れるタイミングが良いからなんだよね。
あまりにもベストなタイミングだから、あれが動画的であることを意識させないっていうか。
ゲームとはディフォルメの一言に尽きる
ちょっとした暇にできるもの、じゃないかな。
あとはコミュニケーションの架け橋となるもの。
はじめてファミコンに触れたときの感動は忘れられない。
自分の思い通りに画面の絵が動く不思議さ。
敵を倒すと派手な音がなり、逆にやられると珍妙なBGMが流れる。
トランプや野球盤では決して味わえない臨場感だった。
サウンドとグラフィックがゲームの本質なんだよきっと
130 :
名無しさん必死だな:2006/07/05(水) 23:57:33 ID:eLuNiTx8
初めてFF4をしたときの置き去り感は忘れられない
いつになったらゲーム始まるんだよ・・・
とか思った。
DSの9月はすごいな
PSP
9-07 テイルズ オブ ファンタジア-フルボイスエディション-
9-07 太鼓の達人 ぽ〜たぶる2
9-07 カプコン クラシックス コレクション
9-14 リッジレーサーズ2
9-14 遊戯王デュエルモンスターズGX TAG FORCE
9-21 バウンティ ハウンズ
9-21 メタルギアソリッドバンドデシネ
9-28 英雄伝説 空の軌跡 FC
9-28 麻雀格闘倶楽部 全国対戦版
NDS
9-01 全脳JINJIN
9-07 右脳の達人ひらめき子育て
9-07 イコールカードDS(算数パズル)
9-14 □いアタマを○くする 漢字
9-14 □いアタマを○くする 計算
9-14 □いアタマを○くする 常識
9-14 直感力を育てる詰碁
9-14 脳年齢アタマスキャン
>>130 ソレはいくらなんでもケチつけすぎだろw
でもストーリーに関して言えば、
「俺がいくらがんばったって、どうせクリスタルは横取りされるんだろ?」
と途中で萎えたけどねw
初めて夢中になったゲームはマリオペイントかな。
ゲームとは遊びだと思っている
自分でキャラを動かしたり、パズルを解いたり
選択肢を選んで物語を進めたり、車を運転したり、ゾンビを撃ち殺したり
ごっつい男を使っておにゃのこに投げ技をかけたり
そういう操作が楽しいんだと思う
だから、ムービーゲーやグラフィック至上主義は、ゲームらしさからかけ離れていると思っている
重要なのは、いかにプレーヤーに遊ばせるかということジャマイカ
>>134 こういう奴に限って、時代遅れのグラフィックのゲームには
見向きもしなかったりするもんだよな
>>135 ええええ、最近になってもロマサガ3やドラクエ5、SO2などやってますが…
今はVP2に向けて、VP1やってます
PS2のゲームはGGX、無双、バイオ4やってました
なんで時代遅れのグラフィックに見向きもしないことになるのか、さっぱり分かりません
FF4では思わなかったがFF5でOPなげえと思ったな
よりによってOP中に宅急便くるしさ、ボタン待ちしないしさ・・・!
リセット押してやりなおしました
138 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/06(木) 01:46:16 ID:37n9ivQM
>>129 本質というより、感触を担う重要な要素だよね。
どれもこれも同じような感触だと新鮮味が薄れるから、いろんなタイプのグラフィックやサウンドがあると良いな、と。
傾向が一本化されると多様性が無くなるしね。
>>134 グラフィック至上主義なんて単語がでてくる時点で贅沢なんだよ
糞みたいな画面でしか遊べなかった世代は
どんだけ綺麗なグラフィックを渇望したか想像できるかな?
グラフィックの大切さは主義じゃなくて実感として体に叩き込まれてるの。
>>131 DSの9月ってポケモン核弾頭投下だろ・・・
ゲームらしさ=PSPソフト−DSソフト
間違えたな
143 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/06(木) 02:11:29 ID:37n9ivQM
>>139 で、「わーい、凄いグラフィックだー!」と浮かれてしまい、実際に遊んでみたら「あれ?」と思うソフトが多かった。
視覚的な感触を担ってる重要な要素ではあるが、ゲームらしさとは直接関係無いから、そういう悲劇や落胆が産まれる。
>>143 そのゲームが提供した楽しさ魅力的でなかっただけでない?
操作する楽しさはラジコンで
勝負、競争の楽しさはスポーツで
冒険の楽しさはアウトドアで
頭脳を使った戦略の楽しさはボードゲームで
そんなふうに世の中の娯楽はほとんど全ての楽しさを網羅してるんだよ。
その中でゲームにしか出来なかったのは、それら全ての楽しさを「絵」で表現して
「音」をリンクさせて盛り上げること。
ゲームって
「遊びそのものの楽しさ」に「絵」と「音」を足してあげたものだと思う。
グラフィック、サウンドは本質ではないのかもしれないけど
ゲームらしさには絶対にはずせない要素なんだと思うよ
145 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/06(木) 03:02:33 ID:6QqCyEsY
>>144 ラジコンでもスポーツでも視覚的な感触や、聴覚的な感触を担う要素はあるでしょ?
どちらも目や耳を塞いでやれるものでは無いし。
146 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 03:21:04 ID:AukHlbpx
できるはんいでやるべきなんだよ
せのびしてまでやるもんじゃない
わかったらおそとであそんできなさいね
>>145 それでも視聴覚に依る割合は、ゲームとは比較にならないんじゃない。
んじゃPCゲームの場合はどう?
ミドルレンジのグラフィックボードとオンボードのサウンドでもゲームはできるけど
絶対良いグラボとサウンドカード使った方が楽しい。のめり込めるから
148 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/06(木) 03:26:01 ID:wKf7XQr7
(ほとんどの)ゲームは手が使えなかったらプレイできない。
目を塞いで音を頼りにプレイ、耳栓をしてプレイ、というのは(難度は上がるけど)可能でしょ?
だから、操作による対応こそが、ゲームらしさのひとつとして欠かせないことだと気付く。
149 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 03:27:55 ID:AukHlbpx
随分と無理矢理だな。
結論ありきで論を展開するのは間抜けだぞ。
150 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/06(木) 03:31:20 ID:wKf7XQr7
お互いに、あんまり無理して理屈を練るな。
とりあえず寝とけ。
グラの進化は、ソレはソレで価値がある。
テクモ・シアターを現役で見てた俺が言うんだから間違いない。
152 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 03:33:36 ID:AukHlbpx
>>150 もう黙れ、お前は。
不快を振り撒くな。
153 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/06(木) 03:35:14 ID:wKf7XQr7
>>148 操作できるってのは前提でしょw
ゲームとして操作できるってことはそりゃ確かに必要だけど
それがゲームらしさに貢献してるかってところをもうちょっと説明してくれないと共感できない。
んで質問なんだけど、ゲーム以上に視覚聴覚に依存してる娯楽って他にあるのかな?
ムービー的な要素の挿入の仕方によるな。
やはり「手を止めて見てろ」っていうのはその時間が長いほど不満になる。
昔のアクションゲームみたいに飛ばしても全然オッケーな作りなら良かったんだけど
RPGに入れちゃった時点で見ないといけないものになってしまった。
結局「早く遊びたい」ってゲーム的欲求を「ストーリーがどうのこうの」で
ごまかしてる面がある。
どんな要素を加味しても操作のカタルシスが最上位に来るべきだと思うよ。
156 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/06(木) 03:43:47 ID:wKf7XQr7
>>154 操作しなければプレイが成り立たないのだから、操作がゲームらしさに含まれるのは当たり前でしょ。
>>154 映画は視覚聴覚が全てなんだから、ゲーム以上に依存してると思う。
>>155 スーパーマリオで1-1と1-2の間に城から土管に入っていくシーンがあるでそ。
あれが城から地下に唐突に繋がっていたら白けてしまうじゃない。
プレイアブルで表現できない部分でも
プレイヤーを感情移入させるために演出が必要になる場合もある。
でも冗長になるのは俺も反対だけどね。
159 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 03:46:08 ID:8r7QspWJ
見てるだけのゲームもある。
あんまり脳内だけで語るなや。
>>156 当たり前で片づけないでさ・・
プレイするのに操作が必要なことと、それがゲームらしさにどう繋がるのか説明してよ
>>157 映画の面白さはストーリーとかにかなり依存するかも。これは個人差あるかもだけど・・う〜ん
>>159 たとえば?
煽りぬきで
「見ているだけのゲーム」があったら教えてもらいたい。
画面内のものを操作できるとか、プレイヤーが参加できる部分を取ったら
それはビデオゲームじゃないと思うんだが……
見てるだけのゲームってどんなのあったっけ?
164 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/06(木) 03:52:38 ID:wKf7XQr7
>>160 操作しなければ、視聴だけでテレビや映画と変わらない。
らしさとは、テレビや映画を観ることとの類似事項には無い。
165 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 03:55:57 ID:z/9WM5nD
定義バカは死ねよ。
ムービー部分はゲームではないとでも言うのか?
カルチョビットっていうサッカーゲームは、育成は別にして、試合はずっと見るだけだよ
監督であるプレーヤーが試合中に手を出せるのは、三回までの選手交代とフォーメーションAとBの切り換えだけなんだ
けど感情移入もカタルシスも備えてた
例は少ないけど、見てることを楽しむゲームもあるよね
167 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 03:59:38 ID:dPQee6p6
ムービーがあったっていいだろ?
ないと味気無いし。
謎ときものやバイオ系だとないとヒントに直結しているしな。。。
168 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 04:01:08 ID:z/9WM5nD
パワプロ、com観戦しかしないです。
>>166 昔あったソフトプロのブリーダーと同じで
「事前準備」が「操作」に当たるべ。
ああいうのは「見てるだけ」とは言いがたい。
キャメルトライってゲームはボールを迷路を脱出させるのが目的なんだけど
動かすのはボールじゃなくて迷路なんだよね。主体の転換。
これがボールを動かすゲームだったら、いくら映像を豪華にしても
キャメルトライのアイデンティティは失われる。
それに対してDQやFFのアイデンティティはFC時代から脈々と受け継がれるもので、
新作が出ても映像がショボかった頃のDQFFのアイデンティティが逆算的に
失われるわけではない。
そのゲームがゲームたらしめてる構成要素を考えると、演出は二次的なもの
にとどまると思う。
171 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 04:02:14 ID:ahmc1iFX
ムービー部分はゲームじゃないだろ
ゲームを盛り上げるためのおまけであって
主役ではない
ムービーはご褒美だな。
苦行→ご褒美→苦行→ご褒美というパターン。
173 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 04:04:03 ID:LaBceOUk
>>166 サカツクなんかも同じだが
それは観ているだけのゲームとは違うんじゃ?
観ているだけの試合の画面まで
色々操作しないといけないし
FFでムービーだけのがあったが
あれはゲームとはいえないだろうし
そういうのがあってもいいけどね
全部あんなのになったらヤバイけどw
175 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 04:06:03 ID:BldB556W
俺の彼女はムービーしか観ない。
アクションとかシューティングは操作に依存するところが大きいけど
ゲームにはSLGとかテーブルゲームとかもあるし。
やっぱり他の娯楽と比較して
ゲームならではの楽しさって、画面の中に自分が入り込んでいく感覚だとおもうんだよね。
そういう場合、音楽や映像ってかなり重要度高い要素だとおもうんだけどなぁ。
ん〜寝ます。すいませんみなさま
操作っていうから混乱すんのか
ジャンプしたり、選択したり、数値を変動させたり、どのような形であれ、
プレイヤーが操作を通じてゲームの中の世界に参加できることが
いわゆるコンピュータゲームの前提条件……てのは間違ってないよな
178 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/06(木) 04:22:24 ID:wKf7XQr7
ゲームの楽しさの要素と、ゲームらしさの要素は別だよね。
つまらないからゲームらしくない、っていうのは違うし。
179 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 04:24:48 ID:1dHNYtY6
ゲームとして発売されたものが、ゲーム。
181 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/06(木) 04:35:28 ID:wKf7XQr7
たとえば、映画や、テレビでもいいんだけど、観ていて「これってゲームっぽいよね」っていうのがあれば、それがゲームらしい要素のひとつなのかもしれない。
しかし、ゲームのほうで映画っぽいことが良いことだとするなら、どんどん映画らしさだけが増していくのかな、と。
綺麗に終わったな。
誰かエンドロール買いて
X買いて
○書いて
ごめん、酔ってる。
>171
ナイトトラップや、サーヴィランス、やるドラみたいにムービー自身がゲームを構成しているものがあるだろ。
ムービー部分はゲームではないと切り分ける必然なんてあるのかよ。
ゲーム評論でムービー使ったからって見下したがる向きがあるが、
評価眼の底の浅さを自ら露呈するだけだということに何時気づくのだろうか。
ムービーはゲームを構成する一技術に過ぎないのに。
ムービー叩きする連中って結局ゲームに自由な発想を認めるつもりはなく、
型をはめ込みたがっているだけなんだよな。
>>184 ゲームと言うのはプレイヤーのアクションに対してリアクションが必須だと思われる。
映画やテレビではチャンネルを合わせたりみたいものを選んだりすれば
後は自動的に話は展開してゆく。
となると、リアクションの範疇を越えたムービーが否定されるのは当然に思える。
アクションに対するリアクションとしてのムービーでなくプレイヤーのアクションを否定するムービーは
ゲーム性を否定するととらえられてもおかしくないだろう。
「ムービー」の定義が曖昧だからなあ…
>>186 ムービー叩きの根本は「プレイヤーの操作などを受け付けない事」に対する批判だと思う。
ムービーの定義はともかく、叩かれる際の論点が重要だと思う。
188 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/06(木) 07:46:42 ID:rNBtKLnb
どっちが上ってのは違うかもしれないなあ。
「映画みたいですっげー!」っていう称賛もあるし。
しかしそれは、ゲームの中の映画らしさへの称賛で、ゲームらしさとは違うっていうか。
くどいけど、どっちが良いということじゃなくて、
>>1はゲームらしさが何なのかを決着したかったんじゃないのかな。
>>188 まあ、らしさと優劣は関係ないし。
自分らしく生きる事とまわりから認められる事とが別問題であるようなもの。
ゲームらしさを求めた結果、世間に評価されず
売れなかったとしてもそれはしょうがないと
191 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 08:09:19 ID:5NA/G0B3
ゲームって、ルールの中でいかに目的を達成するかという遊び
目的がムービー(ストーリーの進展)ならば、ムービーのクオリティが高い方が
目的に対する達成感が強まって、ゲーム性が見かけ上向上すると言ってよいと思う。
ルールと目的に分けてゲームらしさを考えると、
革新的なルールの方が作るのが難しい
革新的なグラフィックスを目的の方に持ってきた方が売る方としては失敗が少ない
しかし、飽きられる。
技術系の大学の教授が言うには、画像技術に未来はないそうだ
人間の目はごまかしやすいし、画質をよくすると言ってもその限界は近い
あとはクリエーターの想像力や技術、優れたCGソフトの開発次第
だから画像関係の教授は、画像技術以外の研究対象を探しているのが現状
そうでなくとも、次世代機の画質はどれもゲームとしては十分な領域だと思う
このままプリレンダとリアルタイムのムービーの差がなくなればなくなるほど
”動かせないもどかしさ”は強まると思う
ご褒美というが、普段のプレイ画面とちょっとだけ綺麗になった動画を見てもご褒美とは感じなくなる
画質から次のステップを探してるのが今の時代の流れ。もし次のステップを考えないと、そのうち流れに乗り遅れる
ネットなり、各種メディアとの連携なり、方向性はまだいろいろとある
ちなみに「ユビキタスコンピューティングこそが、いま一番可能性のある分野だ」
と、何年も前から主張していた教授がいたけど、事実据え置きより携帯ゲームのほうが売れるようになった
やはり時代の流れを読むことは大切だよ
>>192 空気嫁
194 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 09:31:47 ID:Gmd7/K1j
>>193 こんなネタスレで長文を投下する自分に対する戒めだろう
多分
ループって怖いよね
196 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 10:42:23 ID:T59ceWqY
ぶつ森、教授、犬、マリカ…通信・交換・対戦をメインに据え、なおかつ1人でも楽しいゲームが今の主流。
つまりサードの言うゲームらしいゲームっていうのは、1人用のゲームのことだろうな。
>>196 つまり「全てのゲーム機は、ゲームらしいゲームの宝庫」
(^ω^) ということで いいのかお?
今のサードのゲームこそゲームらしくないゲームだと思うんだけどな
ゲームの肝である駆け引きが全然無い
勝つときは勝つ、負けるときは負ける、の二極的ゲームバランス
アレかな、サードは「テレビにそれっぽいものを出力すればそれがゲーム」とでも思ってるのかね
世の中では売れているが自分の気に入らないゲームを叩くための魔法の言葉
アクションとそれに対するリアクション
チュンソフトの金八なんかボタン押しても反応ねーの。
最初で止めたわアホらし。
文字送りですらゲームの大事な要素だと気づかされた素晴らしい作品。
少なくとも
リスクを恐れて、無難にヒット作を真似た物ではないな
ゲハは定期的にこの話題が出るな
まあいつも主張するんだが ゲームの条件は以下の3つを有すること
勝利条件
対戦相手(他プレイヤーやゲームデザイナなど)
戦術の駆け引き
王将を詰んでも終わらない将棋はゲームではない
自分でコースエディットして自分だけで走るレースはゲームではない
ラリーを続けるだけで耐久力勝負なテニスはゲームではない
まあコレはかなり狭義なんでテトリスなんかも外れてしまう
ぷよぷよは間違いなくゲームだが
つか、ツインビーみたいな昔のゲームとかも軒並み
ゲームじゃなくなるなそれ
しかし脳トレや英語はその基準だとゲームだなw
ゲームらしいゲームは?と問われれば
俺は気がついたらしょんべんを我慢しているゲームと答える
これはつまりどういう状態か
一区切りつくまでやめられない状態だ
ハードルを片付けたいという欲求がプレイヤ〜側から沸き起こっている
これ要素こそが俺が考えるゲームらしさ
あるあるw
>>200 2周目から文字送り出来るんでない?
複周回プレイ前提のゲームって初回はムービー飛ばせない仕様にしてるの多いよね。
>>202 それは「ゲームらしさ」の定義になってない。
なんでわざわざ狭義だと知りつつ持ち出してくるんだ。
操作不能時間が少ない。
ルーチンワークにならない。
楽しめるもの。
これでいいじゃん。お前ら楽しんでゲームやってないの?
お前らしいお前はどんなお前?
1.プレイヤーのアクションとそれに対するリアクションの蓄積によって様々な結果を生じる。
2.プレイヤーの工夫・努力等によって、プレイヤーにとってより好ましい結果を得られる
余地がある。
上の2つを満たすのがゲームらしさだと思う。
ムービー垂れ流しでも、その世界に入り込めればRPG
システムが逸品でも、置いてけぼりくらうのは非RPG
ゲームかどうか?って判断は
>>179 「らしさ」はジャンルに忠実かどうかが重要だと思う。
「ゲームとは何か?」でなく「ゲームらしさとは何か?」と問われれば、
「むかついてコントローラーぶん投げる」のがゲームの「ゲームらしさ」だと思うよ
(携帯機はそこまでむかつくことがないからか、それともコントローラーと
本体が一体だからか、はたまたゲームではないからか、今までぶん投げたことはない)。
他のジャンルでこんなことしないもの。
>>210 楽しめるものはみんなゲームか?
sexとか楽しくないの?
雑談とかは?
つまらないゲームは存在しない?
>>216 スレタイ読んでないと思っているのか。
楽しければゲームとして成り立つわけでもないだろう。
何が言いたいんだ。
218 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 16:09:39 ID:P2Bq/V/C
ゲームらしいムービーとは何かと考えてたら、
一昔前に流行ったザッピングというものを思い出した。
2つのテレビ局で同じストーリーを異なる視点で同時に放送し、
視聴者がチャンネルを切り替えることで
見たいに画面を選択するというもの。
結局流行らずに消えちゃったけど、
ちょっとゲームっぽいと思う。
ということは、ゲームの最低条件はプレイヤーが
なんらかの形で画面に干渉できるものといえるだろう。
万国共通のゲームらしさっていえば、ゼルダである。としか言えない。
ゲームらしいゲームと頭でっかちに考えても
結局は面白くなきゃ何一つ価値は無いんだけどね
それだ。
TVやビデオやラジオでは体験できない面白さがゲームらしさ
222 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 16:27:34 ID:NyRKD0OQ
パズルとか、積木とか。
少なくてもムービー見てる時間はゲームじゃない
225 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 16:51:56 ID:RmgYowfO
ムービーの視聴を強制させられている時間ほど馬鹿馬鹿しいものはないな
自称クリエイターの自己満足に付き合わされる時間に嫌気がさす
こんなもん見る為に次は7万のハード買えとかふざけんなと思う
自分自身が、知識や能力を得て上達していくこと。
ムービーやシナリオを否定するからややこしくなるが、これらも映画やマンガと同じ娯楽であることは間違いない。
ゲームではあるんだろうがすくなくとも、ゲームらしさとは違うだろう。
「ムービーやシナリオを大事にしているゲームが、ゲームらしいゲーム」と言えば、
当然、それは「映画らしいゲーム」と言われるわな。
>「ムービーやシナリオを大事にしているゲームが、ゲームらしいゲーム」
こんなこと思ってる人いるの?
だとすれば、スクエアの影響のいかに大きかったことか。
ソフトを先発投手にたとえてみた
勝利数=売り上げ
防御率=面白さ
奪三振数=画質
監督が求めるのは勝利数&防御率
打たせてとるピッチャーが欲しいところ
ムービーというのはグラフィック性能やポリゴン性能が低かった時代の苦肉の策でありまして、
今後は淘汰されてなくなっていくものでありますから、気になさらず別の話を続けてください。
>>226 >自分自身が、知識や能力を得て上達していくこと。
ゲームでなくトレーニングの定義だろう、これは。
231 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 23:35:02 ID:1liq7bZu
>>229 リアルタイムレンダリングムービーはどうなの?
メタルギアソリッド1やデュープリズム、
タイムクライシス、ゼルダの伝説時のオカリナ、スターフォックス64あたりは
操作不能のムービーが結構あったが。
ゲーム部分が凄く面白かったし、話も面白かったけどね。これらは。
ストーリーの面白さもゲームの面白さのうちだから。
少なくとも先へ進めようとするモチベーションにはなる。
ゲームとはゲームだ
形にはめこむものではない
はめこんだものは飽きる
>>231 そこは相互的なものでしょ。
ゲームにはプレイヤーのそうさに対する何かしらのリアクションが必要なわけで。
ムービーはリアクションの延長。
ただし、プレイヤーのリアクションの範疇を超えた糞長い操作不能のムービーがあれば
プレイヤーにとってはストレスになりうる。
234 :
名無しさん必死だな:2006/07/06(木) 23:47:05 ID:t+nd5Hf/
楽しくなくっちゃゲームじゃないことはない
236 :
名無しさん必死だな:2006/07/07(金) 00:03:53 ID:0wPyDD5t
ストーリーの面白さもゲームの面白さのうち、ってのは微妙だな
例えば、DQはプレイヤーが魔王を倒して世界を救うゲームだとする
そういう路線にのっとった物語描写(演出)は
ゲームの面白さの延長といえるかもしれない
が、これがFF的な「主人公の活躍をプレイヤーが見る」
という形になったときはどうだろう?
「プレイヤーが○○をする」というゲームの方向性と
物語の意味が乖離するわけで、コノ状態のストーリーをゲームの面白さのうちというのは強引ではないだろうか?
237 :
名無しさん必死だな:2006/07/07(金) 00:05:39 ID:yz1nUzk0
FFとピクロスはどちらがゲームか?
238 :
名無しさん必死だな:2006/07/07(金) 00:06:44 ID:t+nd5Hf/
ゲーム=遊び
FFと言う作品のなかに物語とゲームがある、
と考えた方がすっきりすると思う
>>240 というか、ゲームがメインであって、ムービーは飽くまで舞台装置(であるべき)だと思う。
>>241 つまり、本当の意味での演出になるべきだってことだろ?
それが出来てるものは「物語ゲーム」と呼べると思うが
出来てないものは「物語とゲーム」なんだよ
ディナー食いながら歌や踊りの演出してくれるのは楽しいけど
そのうち飽きてきて静かに食わせてくれって思うような
最近そんなかんじ
>>245 しかも合間のショーがクソ長ぇのな。料理が冷めるっての。
247 :
名無しさん必死だな:2006/07/07(金) 23:28:45 ID:lYo59qhv
結論
ひ と そ れ ぞ れ
248 :
名無しさん必死だな:2006/07/07(金) 23:29:47 ID:Zh/Eof3b
ピコピコ
これ以外にない
ゲームよりも先にゲームの定義があったのかと言えばそんなことはない。
ゲームらしさなどというのは、すでに似たようなゲームがあったという事実を示しているだけに過ぎない。
250 :
名無しさん必死だな:2006/07/07(金) 23:54:55 ID:cURHzbg+
「人それぞれ」っていうのは的を射てる話かもしれんが
少なくともゲームクリエイターはそういう認識でゲームを作ってはいないだろう。
今はどんなゲームが消費者に期待されているのか、という話じゃないのかこのスレは。
251 :
名無しさん必死だな:2006/07/07(金) 23:58:16 ID:RGq8/icf
俺は最近単発的なゲームがいいな。
仕事のせいであまり時間ないし、あっても疲れて寝てるからね。
最近じゃあRPGをやる体力がなくて、買ったゲームが進まない・・・
252 :
名無しさん必死だな:2006/07/08(土) 00:45:37 ID:DlWZ1Zcu
昔はRPGってそんなに体力や気力使うゲームジャンルじゃなかったのにね
FF3のラストダンジョンとか以外は
253 :
名無しさん必死だな:2006/07/08(土) 00:55:54 ID:Xg0l3tcq
ゲーム=遊び テレビゲーム=テレビを使った遊び
ゲームっていうのは元々勝ち負けのある遊びのことだと思う。
だからトランプだってゲームだし、球技なんかもゲームだ。
で、ゲームらしさというのは要するに勝ち負けの要素が大きいか小さいかだと思う。
>>254 いや、勝ち負け関係なくゲームは遊びだと思う
例えるならSFC時代友人たちの間でマリオペイントが人気あったわけだが
音楽作るのに勝ち負けもないだろ?
それにソニックでコースそっちのけで走り回って遊ぶ奴もいたし
フライトシミュレーターみたいなのもある
勝ち負けの要素がゲームらしさを決めるとは思わないな
ゲームらしさ=どれだけ楽しく遊べるか
だと俺は思うな
時代によって意味が変化するのだよ
257 :
名無しさん必死だな:2006/07/08(土) 02:13:39 ID:XmI4NGj7
ゲーム屋の店先に並んだ いろんなゲームを見ていた
人それぞれ好みはあるけれど どれもみんな面白そうだね
この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで
ディスクの中、誇らしげに しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのに その中で一番になりたがる?
そうさ僕らは 世界に一つだけのゲーム 一人一人違う好みを持つ
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい
ゲーム屋の店先に並んだ いろんなゲームを見ていた
人それぞれ好みはあるけれど どれもみんなつまらなさそうだね
この中で誰が一番クソだなんて 争うこともしないで
ディスクの中、憎らしげ 肩を怒らせている
それなのに僕ら人間は どうしてこうも買ってしまう?
全てがクソゲーの中で それでも神ゲーに憧れる?
そうさ僕らは 世界に一つだけのゲーム 一人一人違う好みを持つ
その花を選び取るのに 今日も明日も一生懸命になるしかない
259 :
名無しさん必死だな:2006/07/08(土) 02:19:26 ID:WO+HfT8L
そのゲームをプレイすることに 一生懸命になればいい
の方が
261 :
名無しさん必死だな:2006/07/08(土) 02:23:20 ID:9bZnXdsK
「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」
「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」
「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」
「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」
「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」
「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」
「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」
「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」「人それぞれ好みはあるけれど」
翻訳ソフトや単語帳なんか、ゲームパートを切り取ってもそれが求められるならそれでOK。
でも、ゲーム機でつかうソフトとして何が求められているかと、ゲームらしさは関係ないでしょ。
勝ち負けを決める要素は重要だと思うよ。相手は人でもCPUでも自分でも構わないから。
遊べる、楽しむだけでいいなら、映画や読書、音楽鑑賞、みんなゲーム。
ムービーストーリー重視のゲームは、ゲームではあるが、ゲームらしいゲームと言われれば激しく疑問。
ゲームはゲームらしさを求めて旅に出た。
自分探しの旅へと…
265 :
名無しさん必死だな:2006/07/08(土) 13:38:35 ID:PSxtVaPl
そして一生をかけた長い長い旅の末にとうとう答えをみつけた
ひとそれぞれ
「ひとそれぞれ」
なんて適当な物言いだと思うね。
例えば、プロの料理人がメニューにうんこを追加したとして、
「なんでうんこがメニューにあるんだよ」ってツッコミに対し、
「何が美味しいと感じるかなんて人それぞれじゃん、
お前はうんこを美味しいという人がいないと証明できるの?」
と返されて「うんそうだね。味覚なんて人それぞれなんだから
うんこだって美味しいと感じる人はいるかもね」
で終わってしまってる状態。
「何故うんこは不味いのか?」これを厳密に証明できない限り
糞な商売がまかり通ってしまうっていう事。
ゲームでも同じようなことは言えるな。
既存のゲームが全然売れなくなり、知育みたいなあまり
ゲームらしくないゲームが売れだしている現状があって、
それでも「何が面白いかなんて人それぞれ」で終わっていいのか?
俺が思うに、こういう事を言う奴はゲームが何故売れないのか、
つまり、「何故既存のゲームは面白くないのか?」を証明されるのが怖い
旧態依然とした開発者連中だと思うね。
何故ゲームはつまらないのか、証明されちゃったら、自分達が必死になって
取り組んでいた事が実は無駄だったって事になりかねないからね。
売れない=面白くない
ではないな
売れない=面白そうじゃない
又は
売れない=存在が空気
美味しいとか面白いは主観であって、
例えば「何故うんこが不味いか?」を証明するためには
医学生理学的な知識が必要。でもそういう知識は殆どの人に無い。
だからこういうのは大抵結果責任。
「うんこをメニューに出すのは勝手だが、これ売れなかったらお前はクビね」。
ただゲームの場合「売れなかったけど俺の作ったゲームは超面白いから」
と強弁される事もある。
実際「売れる」と「面白い」はイコールではない。
だからこそ、面白いとは何か?そのゲームは本当に面白いゲームなのか?
単に信者効果(買ったゲームが糞だと買ってしまった自分が
馬鹿みたいなので良ゲーだと信じ込みたい)でマンセーされてるだけじゃないのか?
とかきちんと判定出来なければいけない。
「美味しい」や「面白い」は個人の主観だけど、そう感じるのは人間であって
医学生理学や心理学など総動員すれば証明は可能だと思う。
ここはしゃべり場じゃないんだよ?
自分探しは他所でやってください。
要は、「ゲームらしいゲーム」は売れなくなってきてるのに、
既存のゲームが良いものだとする論調は止めろと言いたいわけさ。
ゲームが売れなくなったのは、売れなくなる理由があるから売れなくなったわけで。
つまり、「昔はまあまあ面白かったけど、今は大して面白くない」と認めるべき。
何故、昔は面白く、今は面白くないのか?というと、まあ飽きとか
環境の変化があるんだろうけど、そういう背景事情を無視して
「ゲームらしいゲーム」つまり古いゲームをマンセーする
人々が未だにいるのが信じられない。
>>271の補足。
>「ゲームらしいゲーム」つまり古いゲームをマンセーする
>人々が未だにいるのが信じられない。
ゲームの定義自体、はっきりしたものは無い。
ゲームってのはこういうものですってイメージがみんなの中にあるだけだから、
ゲームらしいゲーム=既存のゲーム
ゲームらしくないゲーム=従来にないゲーム
という感じでいいのではないかと思う。
だから、ゲームらしいゲーム=古いゲーム、と書いた。
ゲームらしいゲーム確実なのはとマリオ
なんだ、DSゲームらしいゲームもちゃんと売れてるじゃん
そういやまだCMしてるんだよな、ニューマリオって
やる前から話し合うのは糞
「ゲームらしさ」を語るスレであって、
「どんなゲームが面白いのか」
「どんなゲームが売れるのか」
を語るスレではないのだが。
ああ、面白い面白くない、売れる売れないは、ゲームらしさとはまったく関係ないよ。
ゲームらしくないけど面白いゲームって何だろ
ゲームらしさって、無理にリアルに近づけないってことじゃね?
例えば「漫画みたいな話」とかよく言うけど、何でもアリなのが漫画の良さでありアイデンティティー。
「ゲームみたいだ」って言う時も現実っぽくないって時に使うっしょ。
ストーリーを楽しませるゲームにゴテゴテとミニゲーム入れまくるより
関係ない要素は極限まで削ぎ落として、
やりたい事一点に特化したゲームが、ゲームらしいゲームじゃないだろうか。
>>278 面白いかどうかはともかく、評判いいという意味で、
ノベル系、マリオペイント、どうぶつの森なんかそうじゃない?
個人的にはFFが目指してるものなんかも入れたい。
7以降はやっていないんで間違ってるかも知れんけど。これも評判いいという意味で。
>>280 ノベル系って?チュンのサウンドノベルとかぶつ森は立派なゲームだと思うが
「映画らしい映画」「音楽らしくない」なんて言われないあたり
ゲームという文化が特殊なのか、単に歴史が浅いんだろうな
西洋ロマンス映画以外映画と認めない、って言ってるようなもん?
ゲームらしくないって意味ね。ゲームらしさが希薄というか。
脳トレの方がゲームらしいと思うという意味。
間違いなくゲームだよ。
たとえば、映画館で2時間文章が流るとする。もちろん話さえ面白ければ楽しいでしょう。
でもそれって映画?
テキストがシークエンスとして上映されればもちろん映画だろ。何言ってんだよ。
ピコピコしていれば、ゲームらしい。
ピコピコしていなければ、ゲームらしくない。
完璧だ。
>>282 「立派なゲーム」ってのはゲームらしいって意味で言ったつもり
>映画館で2時間文章が流る
それが本当に面白かったら、奇抜な作品として話題になるでしょう
面白くなければそもそも映画館で上映されもしない
>>282 デレク・ジャーマンのBLUEくらいは知っててレスしてるんだよね?
まあ、字幕じゃないけどさ。
映画かどうか、ゲームかどうかはスレ違いだと思うし、議論するつもりもないのでパスね。
>>285 奇抜で話題になれば(評判よければ)、映画らしい映画?
映画の可能性を見せる、といった意味では価値があるだろうが、極端な話そのような作品が増えれば、
「映画らしくない」「こんなの期待していない」「本で読んだほうがマシ」と言った意見も出てくると思うが?
うまく定義できないけど、映画には物語を視覚的聴覚的に魅せることを期待したい。
らしさってそういうことじゃないのか?
じゃあ俺はスルーするよ。
>>287 >映画らしい映画?
見た人が満足できれば、それは映画足りえるってこと
ストーリーがない、ただただ海の生物を映すだけのディープブルーも映画
「これは映画らしくない」なんて批評の虚しいこと
ゲームも今後色んなジャンルのゲームが発売されれば
今ゲームらしくないと思われてるソフトもゲームらしく見えるようになる
ゲームの歴史は始まったばかりだ
ってことを言いたかった
「ディープブルーも映画」ってw
笑わせるなよぉw
男らしい、女らしいが死語になりつつある今、仕方ないことなのかもしれないないけど、
「男らしさとは?」って話に、「チンコついてること」「XY染色体があること」って答えは、
「男かどうか?」の答えであって「らしさ」の話じゃないと思うのよね。
虚しいで済ませてしまえば、「らしさ」を語る意味がないというか、
べつに、男らしくない男が立派であってもいいし、立派である男が男らしい必要もないと思うんだけどね。
>>291 「らしさ」定義は年を追うごとに曖昧になってくと思ったわけだが
今それを言う意味は無かったな。すまん
>185
それを型にはめたがっていると言う。
操作可能時間をやたら気にするが、
1msも気が抜けない事を何時間も強要されたとしても
ムービーが入る事よりもそれがすばらしい事なのかよ。
>>293 ×ムービーに偏ってるのはゲームじゃない
○ムービーに偏ってるのはゲームらしくない
ムービーがゲームに入っていてもなんら問題ないが、
ムービー部分がゲームらしいと言われれば否定するだろうよ。
ゲームらしくないゲームがつまらないと思ってる奴が多すぎ。
>>294 ゲームにおけるムービー部分なんて一度も楽しいと思ったこと無いな。
読み物系はありだと思うけど。
そこは、楽しいと思う人もいるわけで。
俺やおまいが無くてもよいと思うこととは、なんら関係ない。
ムービー特化のゲームをゲームらしくないといわれて「ゲームの定義を狭めている」って奴がいるけど、
そう言う奴にとってのゲームらしさって「PSで発売されているソフトらしさ」な気がする。
>>296 別に新しい事をしようとしているものを否定する気は無い。
たとえそれが失敗に終わろうとも。
ムービーとて試みとして効果的に使ってくれれば文句は無いが、
ムービー部分は経験上、ゲーム進行の邪魔でしかない物が殆どだった。
その方向性のまま全く進歩せずに長い時間が経った。
自分を含めた落胆している連中も別にムービーによる
「ゲームの定義を広くする」希望を無くしたわけじゃないと思う。
それに試みのあるものはハード、ジャンル問わない。
「PSで発売されているソフトらしさ」を単に保守派で人括り
したり、曲解し過ぎかと。
俺も変だと思ったんで、これくらいにしておく。あんまりかわらんか。
×「PSで発売されているソフトらしさ」
○「現在テレビゲーム機で売られているソフトらしさ」
>>297 まったく同意。
言ってるのは、ゲームパートと乖離したムービーのことね。ストーリーを進めるためだけに置いてあるとか。
どれだけ拡大解釈しても「ストーリーを追う行為」「音楽を聴く行為」は「現在テレビゲーム機で売られているソフトらしさ」だと思うけど。
ゲームらしさの、「ゲーム」についての認識が違うと。
論点が微妙にずれてるのは感じてますので、勘弁ね。
300 :
ニセ1:2006/07/11(火) 20:40:37 ID:rClz+CfR
過去スレあんま読まずに書くけど、ムービーについては、
脱衣マージャンが一つの指標となると思うな。
ゲームの一部分ではなく、ご褒美としてムービーがある。
FFなんかは大抵ダンジョンの最終ボスを倒すとムービーが始まるじゃん。
あれって、「よくここまでやりました」ってご褒美なんじゃないの?
(だからムービー多用のゲームって大抵、女が超薄着w)
ただ、ムービー多用でご褒美感が薄れてきてしまったこと、
さらにそのことによりゲームのリズムを壊すのが批判されてる訳で。
本当にご褒美になってるムービーなら俺は嫌いじゃないけどね。
ゲーム製作者が物語ゲームだ、映画的ゲームだ、新たなゲームの形だ、
と偉そうに言うが実際は脱衣麻雀以下でしかないところに問題があるような
ご褒美なら段々と「良いもの」にならなければならないわけで
脱衣麻雀はそれが秀逸
物語ムービーに「段々と」はちとキツイだろ
そんな事考えてたらまともな物語なんて作れねー氏
ムービーの善悪についてはスレ違いだと思うんだが、どうしてもそこに行ってしまうねえ。
どちらかというと
「ムービーいやーん」な立場ですが、
『パックマン』の幕間のパックマンショーや、
『戦場の狼』の面クリデモは大好きでした。
某氏の言葉だが
ゲームらしいゲームとは
短い反復と
反復による習得と
習得による上達があるもの
古いゲームには大抵これがあるが
モンハンなんかもこれに類する
>304
それは某氏が、そうしたゲームを「ゲームらしい」と思っているということを越えるものではないよ。
普遍的な意味を探るとしたら果てのない話になっちゃうからね
極端な話、話し手がどういう意図で「ゲームらしい」と言ったかが重要
結論を出すのではなくケースバイケースで考える必要がある
レトロPC世代…超雑食
レトロアーケード世代…アクション
アーケード全盛期世代…対戦アクション
FC世代…2Dゲーム(ポリゴンやムービーは嫌い)
PS世代…重厚長大(しょぼい画面は悪)
某氏はトレジャー社長だね
おそらくトレジャー信者も同じ考えだろう。
ムービーの是非とゲームらしさは全く関係ないよ
ムービーと関係あるのは主体とゲーム間のインタラクティブ性
ついでに言うと主体とゲーム間に双方向的な関係が成立しなくてもゲームは成立しえる
ワールドカップで実際にピッチに立ってる選手が経験してるサッカーと
それをテレビで見てる俺らが経験するサッカーは同じもの
少なくとも今俺が書いてるレスと今お前が読んでるレスが同じもの、程度の意味では同じもの
その同一性の根拠は社会的に認知されているサッカーのルールだけ
少なくともルールを知らなければ、正しく言うならそこに何らかのルールがある事が分からなければ
今テレビに映ってるものがゲームだと分かる事は出来ない
ゲームらしさの定義が「ゲームがゲームであるところのもの」に関わるなら
ゲームらしさ云々を議論する場合のポイントは純粋にルールだけ
これは将棋でもパズルでもテレビゲームでも全く一緒
ゲーム=ルール、というのは全く持って同意なんだけど、
ただ「同一性の根拠」の部分が謎。
観てるだけの物をゲームと呼んでいいかといわれると、ちょっと疑問があるんだよね。
ムービーとは、一般的には単にストーリーを説明するだけに使用されるもので、
これはゲームというよりストーリー説明に使用される物。
で、ゲームとストーリーは同一か?と言われるとはっきり言って違うだろう。
ムービー=ストーリー、で、かつゲームとストーリーが別のものなら、
当然ムービーはゲームでない、となる。
何故、ゲーム(ルール)とストーリーは別なのか?
ストーリーとは、一般的にあるゲーム(ルール)の上で演じられるものだから。
サッカーの例で言うと、サッカーのルールは元々あるのは当然だけど、
そのサッカーの試合が面白いかつまらないかは、
その試合の筋書き(ストーリー)が鍵になる。
あるシステム(ゲーム)上で、何か面白い筋書き(ストーリー)が与えられるから、
ゲームは面白い。という認識。
演劇で言うと、舞台がゲームで劇がストーリー。
例えば、何故パチスロが面白いのか、考えてみよう。
ゲーム性の鍵になるのは「チャンス目」とか「リプレイハズシ」みたいな
システム部分にあるのだけど、ただ、じゃあチャンス目は凝れば凝るほど面白いのか?
というと違うね。
何故、チャンス目は熱いのか?チャンス目がボーナスに繋がるかもしれないから熱い。
では、何故ボーナスは熱いのか?コインが沢山増えるから熱い。
では、何故コインが沢山増えると熱いのか?お金が儲かるから熱い。
という訳で、要は金が欲しいという動機(欲求)があるからこそ、チャンス目は熱いと認識することができる。
リプレイハズシも同様。リプレイハズシでコインが増えるのは何故熱いのか?金が儲かるから熱いんだよな。
この例で言うと、ゲームにあたるものはパチスロのルール。
で「金を儲けるまでの過程」こそがストーリーにあたるもの。
要は「欲求を満たす」という過程、つまりストーリーこそが面白さポイントであり、
これが無ければゲームは成立しない。
はっきり言えば、「ストーリーが無ければゲームは成立しない」
ムービーはゲームらしくないかもしれないが、
別にゲームに拘る事なんかに意味は無いですね。
ゲーム性なんか馬鹿みたいに単純なものでも
娯楽の目的、つまり欲求さえ満たせれば不満は無いはず。
ゲームシステム上で動機(欲求)を与えるものがストーリーであり、
ムービーとはゲーム性の部分で表現不能なストーリーを表現するもの。
ゲーム性至上主義者はゲームで全てが表現可能とでも思っているのだろうか?
まず、ゲームではコミニケーションが表現不能である。
プレーヤーの問い掛けに対し、満足の行く返しが出来るAIは当分実現できそうに無い。
現実世界の欲求では、多くの場合人間関係が絡んでいる訳だが、ゲームの世界では
現実世界のような濃密な人間関係(コミニケーション)は表現不能。
だから、人間関係を表現するためにムービーなどに頼らざるを得ない場面が多々出てくる。
そういう意味では、「ゲームは映画に劣る」というのはある意味正しい。
ゲームでは人間関係が表現できないからね。
たしかにゲームはあらかじめ決まってる答えしか返せない。
だが逆に決まってる事は正確無比に確実に返してくるってことでもある
それがテレビゲームの長所だと思うよ。
ようは誤審を絶対に犯さない審判なわけ。
そこが変に人間っぽいあいまいさなどを入れようとすると
ゲームらしさが希薄になって、すべて陳腐なものになる。
たとえばエヴァンゲリオン2とかな
313 :
名無しさん必死だな:2006/07/13(木) 02:45:25 ID:6XB6qohZ
あとパチスロに例えられても意味がさっぱりわからんのだが・・
もっと一般的なものに例えないとただのオナニーになるよ
このスレの9割はオナニーです
FCのサッカーってハーフタイムに踊りあったよね
今はああいうのがムービーなんだよねきっと
単純明快なRPGウイザードリーなどは、自分が行動し行動した結果がストーリー。
人の数だけ、プレイした回数だけストーリーがある。
今流行のRPGは、製作者の用意したストーリーをなぞることが目的。
分岐があったとしても難度がかわるくらいで、ストーリーの方が主で、ゲームパートが従になってるものが多いんじゃないかな。
ゲーム性を主においていないにも関わらず、「ゲームらしいゲーム」と言われることはどうしても違和感ある。
「ゲームをやっていればストーリーは後から付いてくる」くらいなら同意できる。
野球でもパチスロでも同じでしょう。
決まってる答えしか返せない=ルール
こちらからのアクションに答えが返ってくるのが、ゲームが映画より優れている部分。
”映画のような”ゲームを作ってる人が、「映画に追いつかなければならない」って言ってるのを聞くと、ゲームを冒涜してるように見えるな。
>こちらからのアクションに答えが返ってくるのが、ゲームが映画より優れている部分。
映画とだけ比べてもなんだけど、結局こういうのがゲームらしさじゃないのか?
Oblivionはグラフィック最高峰だけど、Wizやマイトマの進化線上にしっかり
乗ってる。D&Dゲーにもキャラメイク、戦闘、ロールプレイ、収集がちゃんと
高レベルでバランスしてるのがコンスタントに出続けてる。
最新技術を使いこなしつつも、志を忘れてないゲームは結構あるぞ。
まあ国内メーカーは軒並みグダグダなんだが。
また人それぞれ〜で思考停止になるのもあれなんで
ゲームらしくないタイトルを具体的に挙げていかないか?
そして、なぜそんなゲームらしくないタイトルが量産されているのか?
>>319 「ゲームらしくない=面白くない」とは違うわけで、それ自体はしかたあるまい。
画面に向かって、コントローラーを握り、楽しい時間がすごせれば、それは問題ない。
ただ「面白い=ゲームらしい面白さ」であるとは限らない。
ここ10年くらいの主流は、ファンタジーSFの面白さだったり、映画的面白さだったり、アニメ小説的面白さだったりする場合が多いように思う。
321 :
202:2006/07/13(木) 14:23:53 ID:Q3e4E6Q/
書いたの忘れて久しぶりにスレを見た
長文さんが好きそうなスレだな
>>208 狭義というか ゲームの定義のコアを定めたかったのよ
最近あいまいになってるからな
ゲームはプレイヤーがよいプレイをしないと楽しくない
ホームランバッターをずらりと集めてパカパカ打っても楽しくないっしょ
勝つための戦術ではあるが、楽しいものとは限らない
でも敵を蹂躙するのが楽しい〜っていう人は最近増えてるな
良いのか悪いのか
>>308-309 ゲームは時間芸術なんだから物語があるのは当たり前だよ
>ただ「同一性の根拠」の部分が謎
ピッチで行われてるサッカー、観客が見てるサッカー、面白いサッカー、つまらないサッカー、
キャプテン翼で描かれている(漫画という媒体を用いて記述されている)サッカー、
全てが同じ「サッカー」という一つのスポーツであるとして俺が判断する、お前が判断する
そしてさらにお前の考えるサッカーと俺の考えるサッカーが同じであると考える その根拠は何だ?
インタラクティブ性じゃないだろうし試合の筋書きでもないだろ
>>202 そのゲームが終わることとそのゲームに勝つ・負ける事は全く同じ事 言い方の違いでしかない
ゲーセンで格ゲーでもやってみれ クリアしても途中で死んでも「ゲームオーバー」って出るだろ?
上まで積めば終わるテトリスはその意味ではちゃんとゲームだよ
>観てるだけの物をゲームと呼んでいいかといわれると、ちょっと疑問があるんだよね。
つーかさー そもそもコンピューターゲームって今まで人間がゲームでやってきた
ボールやコマを作ったり、コマを手で動かしたり、どっちの方が強いか判定したり、
そういう作業をコンピューターにやらせてるゲームだろ?
だったら最もコンピューターゲームらしいコンピューターゲームは
プレイヤーもコンピューターがやるゲームじゃねーのか
>観てるだけの物をゲームと呼んでいいかといわれると、ちょっと疑問があるんだよね。
映画やビデオじゃ有るまいし。
アドベンチャーゲームとて大半はその情報を得る為の、観ているだけの時間だぞ。
決断下すまで何かする訳じゃない。
ゲームとは思考的挑戦。
操作とか反射神経とか言うのは主従が逆転している。
それらは思考的判断が下した反応。
ジャンルによって瞬間的判断か熟考を求められるだけ。
ムービーが云々言っている人たちは、
まるでアクションゲーム以外はゲームではないとでも言いたげな
様子なのは気の所為かねぇ。
プレイヤーの全身に器具を装着しコンピューターが制御
人間をコマにしてコンピューター同士がサッカーやガンシューで対戦する
まさにコンピューターゲーム
326 :
名無しさん必死だな:2006/07/13(木) 21:36:00 ID:iqdExTft
>>311 >ゲームでは人間関係が表現できないからね。
その発言はテキストでは人間関係は表現不能
つまり小説さえも否定しているように感じられる。
>>324 >アドベンチャーゲームとて大半はその情報を得る為の、観ているだけの時間だぞ。
確かに。しかしアドベンチャーゲームをして、
「テキスト読むだけでゲーム性が低い」と言い出す人はまずいない。
そういう物だとわかっているからだろうし、
プレイヤーに考えさせることにより『参加している感』を与えているからだろう。
FF12なんかは『参加している感じ』がしないと言われている。
どうも『参加している感』というのはゲームに重要なようだ。
事件が起こるたびにプレイヤーが介入できるかが重要じゃないか
ADVでも選択の殆ど無いようなノベルゲーはやっぱり置いてけぼり感あるしな
脳トレはふつうにおもんない。
ほとんど勉強と一緒。
こんなのするくらいなら普通に勉強してる方がまし。
脳トレをゲームといったら、受験で勉強して偏差値上げるのもゲームになる。
329 :
ニセ1:2006/07/13(木) 22:50:26 ID:d9apFphY
そもそも
>>311は、この前提がおかしい。
>ゲーム性至上主義者はゲームで全てが表現可能とでも思っているのだろうか?
映画でも小説でもゲームでも、全てを表現することなんて出来っこない。
>>324 でも文章読んだあとで、ゲームでは決断を下すじゃん。それが重要。
>>326 まあ、古い言葉だけど、「インタラクティブ」ってのはやっぱゲームにとって、
一つの指標というか考え方の軸にはなると思う。
330 :
名無しさん必死だな:2006/07/13(木) 23:00:30 ID:3+nQUsfA
クリエイターが用意したゲームを、クリアするために必要とされる
プレイヤーの行動(具体的にはコントローラー操作)が
クリア条件に対して直接的であること、その割合が長い、こと。
これが満たされているゲームこそ、ゲームらしいといえるだろう。
ステータス画面表示、装備品の切り替え、視点の操作etc…
こういった操作内容はクリアのための行為ではなく、すなわち
ゲームクリアにたいし間接的に行われるべき行動である。
そのため今後創作されていくゲームは、こういった
”無駄な”操作を極力減らすことによって、プレイヤーを
”ゲームの目的”により集中させることが必要であるといえるのである。
俺が思うにゲームってのは遊びなわけで
ボール一つでもあればどんな遊びでも工夫すれば楽しめるだろ
つまりゲームソフトってくくりの中でプレイヤーがある程度自由に工夫できるのがゲームらしいゲームだな、と
マルチエンディングやパズル的な要素があればADVだってゲームだけど
ボタン連打でケリがつくようなRPGならゲーム性は低いと思う
>329
ムービーゲーとやり玉に挙げる(どうせ何が何でも非難したいだけだろうが)
FFシリーズとてムービーの後に何らかの決断を下す訳だが?
インタラクティブ性というのは0でなければ良いわけであって、
ムービー入ったとたんに即インタラクティブ性が全く無くなるわけではない。
そもそもムービーゲーと揶揄されるゲーム達に全く操作が入らない事なんてあるか?
善し悪し判断に使用技術から入るのもどうかしている。
舞台裏はどうでもいい話。
映画評論でもストーリーや演出、画面をほっといて使用技術の話からはいるか?
いちいちプログラマに全ての場面でモデル操作させるだけが能じゃない。
>326
> FF12なんかは『参加している感じ』がしないと言われている。
どうせFFだから叩いてるだけだ。ほっとけ。
そんな事を言うのは、全く同じ構成でも任天堂だったら
持ち上げる程度の評論眼に決まっている。
戦闘までしておいて何が参加している気分になれないだか…
その戦闘もオートだけどな。
FF12を叩いてるのは別に任天堂ソフトが好きな人たちじゃなくて
FF12を買って遊んでる既存ユーザーのようだが。
変な仮想敵作って全部その人たちのせいにするのはやめようよ。
>映画評論でもストーリーや演出、画面をほっといて使用技術の話からはいるか?
モノクロかカラーか、音声の有無、画面比率、移動撮影、フォーカス、ズーム、スローモーション、CG
こういうのは全部技術の話
>335
FF12って、PS以降のFFでは1番ゲーム寄りに作られてる。それまで
シナリオ寄りで作られた物をプレイし、期待していた人が反発する
のは無理も無いと思う。しかし、参加している感じがしないって
のは全く理解できないな。
>>332 普通、ムービーは「何らかの決断をしたあとに」流れないか?
FF12でいえば、シドが親父を倒したあとに、
レダスが魔石崩壊をくい止めるムービーとか。
これは、インタラクティブ性ではなく、ご褒美ムービーと考えるべきだろ?
問題は、これがご褒美になってるのか、って点。
あと、ムービーは技術じゃなくて演出だと思うがな。
問題は、それを使用することが演出たりえているのかどうか。
>>332 ゲーム性が低いってことね。ゲームらしさが希薄というか。
どうして、FFがゲームじゃないことにしたがるかなあ。
「ムービー特化のゲームがゲームじゃない(と言っている)」って言ってるのはむしろFFが好きな奴じゃないのか?
決断とあるが、戦闘で切りつけてもあまりダメージが与えられないとき、
そのまま殴りかかって倒すか、魔法で援護攻撃しながら守らせるか、はたまた逃げ出すかといった判断はゲームらしいといえるが、
ノベルゲームに多々見られるような、赤が好きか青が好きか選べってのはゲームらしいとは言わないだろう。
くどいけど、ゲームらしくない=面白くない、では無いから。
>>323 観客が見ているのはサッカーだけど、サッカーを見ている観客がやってる行為はサッカーじゃないよ。
見ているものはゲームでも、見ていることはゲームじゃない。
>>328 せっかくだから、ゲームらしさについて語って欲しいな。
ご褒美ムービーねぇ。
エロゲだったらいいけど、普通のゲームではモチベーションを維持するほどのご褒美になっているのかどうか...
ムービー演出は一回目はいいけど二回目はつらいねぇ。
ムービーは一回見ればいいって思っている人からすれば、時間の浪費としか感じられないかも。
>>339 >見ているものはゲームでも、見ていることはゲームじゃない。
当たり前じゃねーの 映画を見る事は映画じゃないし小説を読む事は小説じゃない
映画=観るもの
ゲーム=するもの
>>341 ああなるほどねえ、確かにそうだ。
ルール云々書いてるあたり、
「ゲーム(と宣言されたもの)を見ている人が見ているものはゲーム」
って言ってるわけじゃないのね。
ゲームであることが大前提というか、俺が反論するところじゃなかったようだ。
サッカーの観客に当たるのは、「ゲームしている人(人がやってるゲーム)を後ろから見てる人で、
「コントローラーを握って画面を見てる人が見てる物」が、ゲームであるかどうか、ゲームらしいかどうかはまったく関係ない。
>だったら最もコンピューターゲームらしいコンピューターゲームは
>プレイヤーもコンピューターがやるゲームじゃねーのか
いっそ見るのもやめて、コンピューターに変わりに見させれば、さらにコンピューターゲームらしくなりそうだ。
>>343 きれんなよ
坊主
次はゆっくり深呼吸してから
カキコミな
ようやく過去スレ読んだ。
>ゲーム(と宣言されたもの)を見ている人が見ているものはゲーム
これは疑問だな。問題は「誰がそれをゲームと宣言するか」だろ。
誰かにとってゲームでも、他の人にとってゲームではなくなる場合があるのは、
「ゲームしている人を後ろから見てる」場合を考えれば瞭然。
ゲームってのは名詞(属性)ではなく、述語(状態)。
ルールは属性であり見方によって変化はしないから、対比させるのは間違ってる。
ゲーム≠ルール。
ルールのある状態へ自らを投げ込むことがゲームだよ。
>>345 ちょっと待ってくれ。
「ゲーム(と宣言されたもの)を見ている人が見ているものはゲーム」
これは、俺(
>>343)も、
>>323も言ってないから。
俺の勘違いと間違いで
>>339を書き、
>>341で一蹴されただけだぞ。
>>322-323はゲームであることを前提にして語られ、ゲームでない場合は除いてある。
後ろから見ていることはゲームではないけど、見ているものはゲームってことね。
前でやってるのがゲームってのは前提。
>>344は
>>323とは別人だろうと勝手に解釈してスルー。
348 :
ニセ1 ◆tMNr3FMQg. :2006/07/17(月) 17:59:58 ID:PKFpiieK
>>346 ああ、そういうことか、ごめんごめん。
でも、こういう議論の場合、ややこしいから、
みんなコテハン名乗ってくれないかなぁ。数字コテでいいから。
>>347 読んだけど、「法則に戯れる面白さ」をゲームの本質から排除しなければいけない、
というくだりが全く納得いかないなぁ。
>積み木遊びやゴム鉄砲遊びなどを考えれば分かるように、
>何らかの法則に従ってものを作ったり壊したりする行為は、
>ゲームになっていなくとも娯楽たりえる
これらもゲームの一つと考えないと「パネキット」が語れなくなる気がする。
@楽しむことを前提につくられる
A楽しむ側に何らかの行動を求める
Bリセット→再スタートが可能
ご褒美ムービーはいいんだが
ご褒美ムービーのなかで勝手に解決されるのは勘弁して欲しい
今まで悪の城が自爆するなら時間カウントで急いで脱出してたものなのに
12は勝手にムービーでやるようになっちゃった、みたいな
ご褒美ムービーが無ければ何がご褒美になるの?
ムービーというのは、要はストーリーだろ。
「ストーリーの先を見たければゲームをクリアしなさい」
というのが今のゲーム。
そもそも、ゲームでストーリーが表現できればムービーなんかに
頼る必要は無いのだが、それが出来ないからムービーが付いて来る。
ゲームは「ストーリー表現メディア」としては、はっきり言って弱いんだよね。
何故、ゲームではストーリーが表現し辛いのか?
ゲームは単にシステム(ルールの集合体)でしかないからだな。
本来、ゲームシステムの上でストーリーが演じられる筈なのだが、
ゲームシステムの上でストーリーを表現できないとムービーが付いて来る。
例えば、RPGで「世界が魔王の軍勢に征服されそうだからなんとかしろ」
というような舞台設定を考えるとする。
これって、ムービーで語られるか否かはともかく、「ゲームシステムの外で
語られるストーリー」であるという点で、ムービーと似たようなもの。
ムービーの本質とはストーリーそのもの。
これを悪とするならストーリーそのものが不要である、
とならなければいけないと思う。
しかし「ストーリーが不要である」事がありうるのか?
漏れははっきり言ってストーリーが不要であるゲームなんか
この世に存在しないと思うね。
人は何故ゲームを遊ぶのか?
ということ。
例えば、パチスロや競馬などのギャンブルは「金がほしい」という
欲求が全てのゲーム性の根源にある。
金が欲しいから、チャンス目やリーチ目が熱い。
金が欲しいからこそ競馬新聞とか買って一生懸命予想する。
これと同じ事は、コンピューターゲームにも言える。
ストーリーがあるからこそ、ゲームをクリアしたいという欲求が生まれる。
ゲームとは「何らかの欲求を満たすための手段(システム)」でしかない。
例えば、パチスロを面白くするためにはどうしたらいいのか?考える。
実は、ゲーム性の細部は大した問題ではないだろう。
パチスロ(ギャンブル)の要点は、「金が儲かる」という欲求をどれだけ満たせるか。
つまり、パチスロを面白くするためには、ゲーム性に凝るのではなく、
「儲かる(掛ける)金額が増える」という根本的な欲求の部分こそポイント。
金を沢山掛ければ、どんな単純なゲームでも熱くなるという事だな。
コンピューターゲームでも、同様の事は言える。
面白いゲームにするためにはどうしたいいのか?
ゲーム性の細部よりも、根本的な欲求の部分に手を加えた方が
効果が大きい。というか、欲求部分こそがポイントであって、
ここが良くならない限りゲーム性にいくら手を加えても意味が無い。
ギャンブルは「金が欲しい」というわかりやすい
欲求があるから考え易いが、ではゲームで満たされる
欲求とは何なのか?ということだね。
ゲームの場合、「暇だから何かの刺激が欲しい」
「寂しいから誰かと遊びたい」というような欲求充足が多い。
ただし、これは「現実世界のプレーヤーの欲求」であって、
「仮想世界のプレーヤーの欲求」ではない。
仮想世界のお話では、満たされる欲求は多岐に渡るけど、
「死にたくない」「好きな人と仲良くなりたい」というような欲求が多い。
しかし、まず「死にたくない」という欲求は、死んでもすぐ生き返る
ゲームでは表現不能だし、「好きな人と仲良くなりたい」という欲求は、
まともなコミニケーションが表現不能なゲームではやっぱり表現が難しい。
ゲームというのは、歴史的に現実世界の欲求を主に取り扱ってきた。
チェスや将棋は、現実世界のプレーヤーが他人に勝ちたいと
願うからこそ「チェスや将棋を遊びたい」「チェスや将棋が強くなりたい」
という動機が生まれる。
仮想世界のストーリーは小説や映画の領分であって、ゲームの領分ではない。
前述したような生存欲求表現やコミニケーション欲求表現に不向きなのが原因。
ただ「好きな人と仲良くなりたい」という欲求の場合、
「好きな人」という所までは表現が可能なんだよね。
美男美女はゲームでも描けるから。
ただ「仲良くなる」という部分が表現できない。
そうすると、プレーヤーとしてはフラストレーションが溜まる訳で、
二次創作やエロ同人が流行る事になるわけだ。
何故、「仲良くなる」部分が表現不能なのか?
自分が仲良くなるわけではなくて、
仮想世界の主人公が仲良くなるから、なのだけど、
しかし実際問題プレーヤーが仮想世界の主人公に
共感することはありうるわけだから、
完全に欲求が満たされないか、というとそんな事は無い。
「人によっては欲求が満たされない」というのが正解。
そもそも、何故人は仮想世界の主人公に共感する事が出来るのか?
人には、生来「誰かに共感する」という能力がある。
別に仮想世界に限らず、例えば誰かが目の前で殴られたら、
「痛そう!!」と思って気を病むわけで、
仮想世界に限らず、現実世界の人だって普通に共感する。
しかし、殴られた人に何故共感するのか?
殴った人ではなく、殴られた人に共感するのは何故?
というと、殴られた人の気持ちの方が理解出来るから、だろう。
殴る人の方に正当性があるなら、殴る人にも共感する。
自分が殴った人を理解するのか、殴られた人を理解するのか、
で、どちらに共感するのか変わってくる。
これは、ストーリーにも言えること。
例えば、何故、少女漫画は男女の色恋沙汰のお話が多いのか?
というと、そういう話に女の子が共感(理解)しやすいから。
「好きな人と仲良くなりたい」という欲求を仮想世界で描く場合、
仲良くなり方にプレーヤーが理解を示せるかどうか?
で欲求が充足されるかどうかが決まってくる。
「仲良くなりました」は肉体関係まで含むのかどうか?
肉体関係まで含めないと仲良くなったとは言えないんだと
考える人には、お子様向けのぬるい話じゃ理解できない。
でも、描かれる女が美人なのはやっぱりあるわけで、
そうするとエロ同人に走る事になる。
しかし、この場合、「描かれる人が美人」とう前提があるからこそ
「仲良くなりたい」という欲求が生まれるわけで、
例えばこれが洋ゲー的な不細工さんだと「仲良くなりたい」
という欲求そのものが生まれない。
つまり、ストーリーで恋愛が描かれても、
プレーヤーは共感(理解)する事が出来ない。
洋ゲーのストーリーがつまらない理由は、
人の描き方の下手糞さにも一因がある。
さて、ここで考えてみる。
「仮想世界の主人公=プレーヤー」である必要性があるのか?
確かに、「仮想世界の主人公=プレーヤー」であれば、
プレーヤーがストーリーを理解する度合いはMAXだろう。
しかし、前述したように、ゲームでは仮想世界のストーリーを
十分表現することができない。
だから、ムービーなどを導入する必要性があった。
しかし、そもそも人には「他人に」共感する能力があるのである。
例えば、殴られた人に共感するとしても、あくまで他人である事に変わりない。
無理矢理、ゲーム(システム)を準備して、物語の主人公=プレーヤー、
とする必要性があるのか?
ゲーム(システム)なんか捨て去ってしまっても実は問題ないのではないか?
要は「ストーリーへの理解度」が問題になってくるわけだ。
ストーリーをより理解させるためにはどうしたらいいのか?
「ストーチーの主人公をプレーヤーが操作できる」のは、
ストーチーの理解度向上のための一手段に過ぎない。
まあ理解度を上げるための手段としては確かに有効だが、
これによっていくつかの欲求表現が難しくなってしまう
というデメリットがある。
何故、自分が操作するとストーリーへの理解度が向上するのか?
俺は、いくつかのポイントがあると思う。
1.物語が描かれる視点(常に主人公視点であること。
場面のワープなどが少ないため、物語を理解しやすい)
2.主人公の選択に違和感を感じないこと
(プレーヤーの操作を離れると、「そんな馬鹿な」と
ツッコミたくなるような行動を主人公が取る可能性がある)
上記のような条件を満たせば、実は物語の主人公をプレーヤーが
操作しなくとも、物語への高い共感度が得られると思う。
ここまで書けば、最高のゲームジャンルが自ずと見えてくるはず。
別に物語の主人公をプレーヤーが操作する必要はない。
物語への共感度こそがポイントであって、共感度が高ければ
プレーヤー=主人公でなくともよい。
生存欲求表現やコミニケーション欲求表現を殺すことなく、
高い共感度を持つジャンルと言えば一つしかありません。
テキスト形式のADV。ぶっちゃけノベルゲーのこと。
このスレで言われているような
「ゲームらしさ」なんかどうでもよい。
ゲームとは娯楽。つまり「人間を気持ちよくするもの」。
しかし、例えば「ゲームよりSEXの方が気持ちいい」
という事になれば、ゲームを捨てる事は当然ありうる。
ゲームの定義に拘るより、ゲームをより気持ちよいメディアに
するためにゲームの定義をどんどん広げていかなければいけないはず。
(ただ、これはあくまで「仮想世界の物語」を取り扱った場合の
話であって、現実世界の物語を取り扱う場合、また違う論理が必要)
看護婦の秘所は熱く濡れそぼって、まで読んだ。
最近、エロゲーばっか買ってンすよ。
おれ、頭悪いんじゃないすかねぇ、まで読んだ
うむ・・・
自分で読み返して、間違っている部分が一つあったな。
>>358 何故、「仲良くなる」部分が表現不能なのか?
自分が仲良くなるわけではなくて、
仮想世界の主人公が仲良くなるから、なのだけど、
仲良くなる事が表現不能なのは
プレーヤーの言葉に対し、正確なレスをAIが返せないから。
だな。
プレーヤーが自由に操作できるのは、「キャラの行動」だけであって、
キャラを100%自由に操作できるわけではない。
ノベルゲー的な、一部の行動のみ選択肢できるゲームと、
通常のゲームの違いは、単に「自由度」だけ。
ゲームは「完全に自由」なわけではない。
どこからどこまでプレーヤーに操作させるべきなのか?
という事だな。
操作可能な事が多ければ「ゲームらしい」となると思う。
(曖昧だけど、しかし問題提起そのものが「ゲームらしさ」という
曖昧なものだから答えも曖昧になる)
しかし、当然だけど操作可能な事が多い=面白い、ではないから。
ゲームらしさなんて、面白さ的には関係ない。
というか、ゲームらしくない方が面白いと思う。
例えば、何も無い完全に無の世界にプレーヤーを投げ出して、
「さあ自由に遊べ!!」と言われても面白いはずがない。
これだけで、ゲームらしい=面白い、ではないと証明できてしまう。
ゲームとは単なる「ルール」に過ぎない。
そのルールの中でどういうストーリーが生まれるか、という点こそが重要。
結局、最初語っていた事に戻ってしまうな。
重要なのはストーリー。
「ゲーム」なんか、はっきり言ってどうでもいいんだよ。
しかし、その定義のせいで、表現可能なストーリーの幅が
狭められてしまうとするなら、「ゲーム性なんか糞食らえ」
と言わざるを得ないな。
要は、「面白ければ何でもいい」だよな。
なんつーか、本来ならアニメや漫画を主に楽しんでいた層がゲームに
流れ込んできた結果なのかね。こういう人が出て来たのは。
僕、頭おかしいんすよ、まで読んだ
373 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/07/18(火) 11:53:41 ID:dxQPhD1E
>>364 確かに、やるドラとかサウンドノベルは物語への介入という点で、ベストだよね。
ストーリーを動画で見せて、プレイヤーも介入できるということなら、FFはやるドラで良いんじゃないかと気付く。
ただし、プレイヤーの意思でBADエンドを回避できる、という条件は必須。
それならリモココロンでいいや
375 :
名無しさん必死だな:2006/07/18(火) 12:14:18 ID:cPDyEeSK
>>1 そんなもの人によりけりだ
他人の好みにまで口出すな
376 :
名無しさん必死だな:2006/07/18(火) 12:29:12 ID:mWA/yrZc
人それぞれって意見が多いけどさ、だったら自分なりの面白さを語ったらいいんじゃね。
漏れの場合は、ゲームの先にある物を、より身近によりオーバーに楽しむためのツールだな。
ちなみに主にスポーツゲーが好き。
らしさなんぞ無くても面白けりゃそれがゲーム
378 :
名無しさん必死だな:2006/07/18(火) 13:01:31 ID:+FvESd7g
自分で操作して面白いのがゲームらしさ
379 :
名無しさん必死だな:2006/07/18(火) 13:11:07 ID:qQy9GcMC
任豚が好きそうなスレだなw
なにがゲームらしいかと感じるか人それぞれ違うわな。
>>347のサイトより
>ゲームとは何かという共通認識が成立していなければ、
>本質を深く見据えた議論などできるわけもないからです。
>ここを有耶無耶にしたままでは、ゲーム批評も学術研究も
>あったものではないはずなのですが、
>日本のゲーム研究はそのようなルーツ探求にずっと目を背け、
>いわば基礎研究を欠いた状態で現在まで来てしまいました。
面白けりゃゲームってのももっともなんだけど、
学術的にはそれじゃダメなのよ。
たかがゲームに学術って大げさって気もするけど
深く考えるためにはこういうのも必要なんだよ。
ゲームの定義は
>>4 から「楽しい」て部分を削ればOKだと思う。
楽しいかどうかは個人の感覚だから、
定義化できないし。
よってTVゲームの定義とは、
プレイヤーがゲーム機を介して、
モニター上に行動をおこし、その結果
満足、不満足が生じること。
で良いかと。
>>369-370 あなたは、ゲーム性から生み出されるストーリーと、ゲーム製作者
から押し付けられるストーリーを混同している。前者はゲーム性を
否定するものではないが、後者はゲーム性とは相反するものだ。
後者を欲するなら、ゲームではなく小説や映画を見てるのが幸せ
だと思う。
それもなんか極端な言い方だな。
ノベル一辺倒な論旨もアレだけど、別にノベルゲーがあったって
かまわないべ。
サウンドノベルなんてジャンルだってあるんだし。
ゲーム性なんて単語は確定的に定義されてないんだから
ノベルみたいなのと相反するとまでは言えないべ。
サウンドノベルはノベルと名乗る以上、紙の代わりにゲーム機を媒体に用いた文字通りノベルなのでは。
昔は本媒体でもゲームブックなんてジャンルもあったし、
別にああいうのがあったっていいっしょ。
古典的なアドベンチャーだってああいうのの系譜だろうし。
シナリオ見せるタイプのゲームがあったっていいし、それに
ゲーム性は相反するなんて断定も出来ない。
あったっていい、というか、実際にあるしなサウンドノベル。ただ、サウンドノベル「ゲーム」(プレイヤーの分類としてではなく、制作者側の分類で)だったかな、と思って。
制作側がゲームを名乗ったなら確かにゲームなんだろう。(プレイヤの関与を必要とするから)
制作側がノベルと言うなら、それはページめくる代わりにボタン押す形式の小説なんじゃないんだろか。
しかし長文疲れるな。
まあ求めるユーザに提供して成り立ってる間はいいんじゃないか
昔はムービーみんなよろこんでたし
最近はいいかげんムービーってだけじゃ喜べない人が増えただけでしょ
389 :
名無しさん必死だな:2006/07/18(火) 17:41:36 ID:AiW6B3cg
てかps市場にはRPGか3DACT、そしてギャルゲしかないのはちと異常
もしくは一部のスポーツゲー
開発費が膨張を続ける限り若い才能はつまれ続ける。
>>382 俺はその
>>4だが、
ゲームは娯楽なんだから楽しめなくてはならない
全ての人が、とかそう言う事ではなく一般論として
だから満足不満足が生じ「それを楽しむ」は定義の中にキープしたいな
391 :
名無しさん必死だな:2006/07/18(火) 18:04:38 ID:AiW6B3cg
そういえば昔は楽しいからゲームしてたけど、今は暇潰しとかだもんな。
>>391 ゲームも当たり前の娯楽になったことの証明さ。
パチンコと一緒。暇潰し上等。
393 :
名無しさん必死だな:2006/07/18(火) 18:42:26 ID:AiW6B3cg
まぁあの頃みたいに俺たちを楽しませてくれよって感じもまだするけどな。
>>393 あの頃はハイテクオモチャだったから特別だったのさ。
今はハードがハイテクなだけだからな。
ハイテク、というよりは新時代を感じさせるソフトが出てこない限り、それは無理さ。
>>382>>390 楽しいというのは定義としては使えないと思う。
それに、糞つまらないゲームというものも確かに存在する。
そして
>>4の定義
>プレイヤーが何かして、その結果満足不満足が生じて、それが楽しいこと
これでは意味が広すぎる。プレイヤーの全ての行動がゲームとなってしまう。
例えば2ちゃんねるをすることもゲームになってしまう。
あまり広すぎては定義としての意味が無い。
そして
>>382の定義
>よってTVゲームの定義とは、
>プレイヤーがゲーム機を介して、
>モニター上に行動をおこし、その結果
>満足、不満足が生じること。
この定義の問題点は、ゲーム機という言葉を使っていること。
ゲーム機とは何なのか→ゲームをするための機械→ゲームとは…
→プレイヤーがゲーム機を介して→ゲーム機とは何なのか
と、堂々巡りになってしまう。
また、例えばPS2でDVDの映像ソフトを見た場合はどうなのか。
映像ソフトとゲームの境界線も明らかではない。
>>395 問題は基本が抑えられているかどうかであって、
範囲が広すぎるからダメだと言うわけでもなかろう
実際、何かしらの目的があった上で、それに応じた満足不満足があれば
2chは普通にゲーム足りえるだろう
398 :
名無しさん必死だな:2006/07/19(水) 01:49:15 ID:qaB2cFuY
>>397 ---------------------------------------------------------------------------------
てい‐ぎ【定義】 [名](スル)
1 物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。「敬語の用法を―する」
2 論理学で、概念の内包を明瞭にし、その外延を確定すること。
通常、その概念が属する最も近い類と種差を挙げることによってできる。
---------------------------------------------------------------------------------
範囲が広すぎると他と区別できないから定義としてはダメなんですよ。
ゲーム性=駆け引き
満足、不満足は感覚のことじゃなくて、
数値的に足りてるか、たりてないかね。
得点だったり、体力だったり、ブレイヤーの行動による結果。
結果がデジタルに数値の過不足で現れるのは、
TVゲームに限らず、かなり多くのゲームで認められる事だと思う。
つまりスコアの無いゲームが増えたのがダメなのか
インフレならいいのか、ギガウイングみたいな
個人的に数値インフレは好きだが
これならどうだ。
TVゲームとは
プレイヤーのコンピュータに対する入力の結果を、
映像や音声によって表現される数値の満足、不満足で
楽しむためのシステム。
楽しめるかどうかは人それぞれ。
「楽しむため」なら定義にして良いんじゃない?
思考的な挑戦がゲーム。
プレイヤーの思考を求めない物はゲームたり得ない。
知的生物のみに許された娯楽。
>400
シナリオの分岐みたいな形で現れる場合は?
>>118の要点だけを抜き出すと、
ゲームとは、プレーヤーが目標達成を目指して、ゲームトークン
(プレーヤーが操作できる任意のもの)を介して資源管理のため意志
決定するものである。
となっているが、TVゲームの定義としては、
TVゲームとは、プレーヤーが目標達成を目指して、ゲームトークン
(プレーヤーが操作できる任意のもの)を介して資源管理のため意志
決定するものをTVで表現したものである。
でいいんでないの?皆の言いたいことを上手く言えてる気がする。
>>370(もしくはそこに至るID:ur0qJNNu)
その理論では、テトリスはゲームではなくなる。
>>400 俺はテトリスやっててスコアなんて気にしたことは一度もない。でも楽しい。
>>402 数値によるフィードバックが果たして本当に必要なのか?
どうぶつの森はなぜ楽しいのか?
>>405 コスティキャン理論の最大の問題点は、
ゲームとは「意思決定」であること、と論じているところだな。
じゃあ、ハイパーオリンピックはどうなんだ?連打してるだけだぞ。
あと、ゲームトークンって概念がずるくて気に入らん。
そこには「ゲームとはゲームトークンによって行われるものである」という、
定義に見せかけた情報量0のトートロジーが潜んでると思うよ。
それ以外はほぼ同意なんだけどね…
むしろコスティキャンで重要なのは「資源管理」ではないだろうか。
古典的なゲーム、またはアーケードゲームなら今でも、
1コインで資源が与えられ、それを使い果たせばゲームオーバーになる。
この「資源」を管理する」というのは、ゲーム性にとって重要ではないだろうか。
こう考えると、意思決定というよりは、資源管理といった方が俺にはぴったりする。
与えられた資源をどのように管理していくか。
(その管理の仕方が意思決定である場合もあるだろうが)
テトリスも将棋もマリオもFFもパネキットもおい森もハイパーオリンピックも、
資源を管理する楽しさを味わっているのではないかと思うんだが。
>じゃあ、ハイパーオリンピックはどうなんだ?連打してるだけだぞ。
連打は意思に基づく行動だよ
俺はコスティキャンの定義についてはプレイヤーの意識を過大評価し過ぎだと思う
目的、資源管理、意思決定って全部ひっくるめて要は運動の動機だろ
ピアニストや絵描きにだって目的位はあるけど
だからって音楽や絵画の定義にそんなもんが必要とは俺は思わん
>>384 ちょい遅くなったけど、
>>383の解説しておくね。
ゲーム性ってのは、ルールの中でプレイヤーに与えられた自由から
生まれるもの。そして製作者から与えられたストーリーとは、プレイ
ヤーが介在できない、不自由なものと考える。自由なものと不自由な
ものの対比なので、相反すると言っていいのではないだろうか?
あと、ノベルゲームを否定している訳ではないよ。レスした人の
趣向がそうなのでないか、と書いただけで。
>>408 意思決定=入力された情報を出力にフィードバックすることで意志を決定していくこと。
(心理学用語。日常的にも使うけどコスティキャンは学術語として使ってるっぽい)
連打するのは、最初に連打しよう、と思った瞬間だけ意思決定だが、
それはゲームのルールとして当然なので、意思決定とはいいにくい。
それはそうと、君の言ってることはまさにゲームが音楽や絵画と違うことを示唆してる。
音楽や絵画ではなくゲームだからこそ動機や目的が必要だ、ってこと。
要するにあれだ
ゲーセン行ってテトリスの筐体に100円玉入れてスタートボタン押してそのまま帰って来い
それでもテトリスというゲームは成立してるだろ
>>410 「ただ連打するだけ」とはいえ、
腕が疲れてきたから少し軽めに連打しようとか、
そろそろスパートをかけようとか、
そういう点で意志決定してるんじゃないかな?
ゲームの基本っていうのはやっぱりロールプレイングだと思うんだよ。
だから将棋や双六、サッカーがゲームとして成立すると思うんだ。
キングなりプレイヤー1なりフォワードなりをプレイするわけだよ。
だからまぁ、キングに言われた通りにしか動かなかったり町に入ってくる人に対してひたすら町の名前を教える
ようなロールでも、プレイするなら、それは一種のゲームのはずだ。もちろん、それが面白いかどうかは別だけどな。
どうせだったら場面も変わって、やることも多い勇者とかをプレイしたいって事だよな。
ここで、この定義によっては、ゲームらしさと面白さは独立であると言えるようになった。
そして、このスレで散々既出だが、ゲームを語る上で欠かせないのが「ルール」つまり「系(システム)」だと思う。
系と言うのは「ロールプレイング系」つまりどのように役割を演じるかを決めるものなのだろう。
俺の考えでは、系はゲームらしさには直接関係しない。むしろゲームの性を決定付けるものだと考える。
そしてその性こそがゲームの面白さを決めているものだと思っている。
ゲームらしさ、つまりゲームという質はロールプレイングということで不変だが、その系というゲーム性は常に同じではない。
ゆえに、ゲームによって面白さが違うのだ。
とまぁ、極端に考えてみるとこうなった。
まぁ個人的には面白ければなんでもいいです。
それだと演劇、ダンスまでゲームになるんじゃね
ダンスに関してはなっていいんじゃね?ダンスするゲームもあるし
演劇に関しても、殆ど台本どおりにする事もないし、その判断によって聴衆からのスコアが
えられるわけで、系としてもかなり洗練されたゲームだと思う。
演じるのはむしろエンターテイナーとしての役割。
そういう点では恋愛もかなり洗練されたゲームだね。
ある種の"自分"を演じ、判断し、スコアを獲る。報酬も大きければリスクも侮れない。
TVゲームってのは、基本的に一人ゲームだと思うんだよ。
自分が演じる以外の役割や、スコア計算を自動でしてくれるみたいな。
まぁゲームだけがTVゲームの楽しみじゃないけどな。
>>411 でもそれはゲーセンに戻ってきてジョイスティックを握れば
再び"意志決定"を行使できることが前提でしょ?
もしテトリスが「上からブロックが降ってくるのを眺めているだけのもの」
だったとしたら、それはゲームじゃない。
「上からブロックが降ってきて、それが一番上の段まで積み上がったら
ゲームオーバーと表示されるだけのムービー」と「テトリス」との違いは
意志決定(
>>408の言葉を使うなら運動の動機があること)ということにならない?
そういったものの区別をつけるために、意志決定(もしくはそれに類する言葉)を
定義にいれとかないといけないような気がするけども。
>>416 そんなこと言い出したら、多くの物事がゲームにならない?
会社は社員という役割を演じて、昇級していくゲームだし
受験は受験生という役割を演じて、偏差値を上げていくゲーム。
一側面だけ見れば、ゲーム的ではあるけど、それらをゲームとしてしまうと
ゲーム関係の板も受験関係の板も一緒になっちゃうよ。
家庭用ゲーム板で家庭学習のスレが立っても困るし、
それらを区別をするための定義が必要じゃないか?
人生はリセットのないゲームだ
人生もリセットできればゲームになれるのに
ん〜〜〜、残念
>>417 だけどさ 意志決定を行使出来る事ってのを定義に入れるとするだろ
とするとジョイスティックを握ってる者以外には意志決定権が無いんだから
じゃあ例えばテトリスしてる人の隣にいる人が見てるものはテトリスじゃなくてただのムービーなのか?
テトリスしてる人だろ
なんか頭悪いの多すぎるぞ
ごめんミスった 意志決定に関わるプレイヤーがちゃんといたわ隣に
ただやっぱり運動に意志が関わる必要がどれだけあるのか俺には疑問
毎ターンサイコロを振るだけのスゴロクにはプレイヤーの意志は全く関わらないと思うし
そもそもブロックが降って来て上まで積もったらゲームオーバーになる映像と
テトリスが違うものとは思わない
まー何で違うものじゃないのか説明出来なきゃ何意味無いけど
>>418 そうそう。
だからまぁ家庭用ゲームというかコンピュータゲームっていうのは、実際世の中にあるゲームを
何らかの形でシミュレートしたものだと思う。だからこその一人ゲームだろうし。
コンピュータゲームの特徴って奴は伊集院もいってたけど、生活には直接関係しないことにあると思うんだ。
つまり、ゲームのリスクとリターンをシミュレートし、尚且つそのリスクは危険がなく、そのリターンは非生産的である。
だからこそ失敗しても許せるし、リターンの快感というのも限りなく本能的なものだから楽しめもする。
まぁそういう意味ではゲームは純粋なる暇つぶしなわけだが、間違いではあるまい。
テトリスなんてそれを最も端的に表現しているコンピュータゲームだと思うんだ。
積むというリスクとそのリスクを消しつつスコアとうリターンにする快感はこういうことじないかな。
まぁ人間が快感を得るというのは本能的行為だからね。一種のオナニー。
擬似的に快感を得ているわけだよな。
でもまあ快感を得るというのは副次的なものであってコンピュータゲームの本質ではないだろうね。
まあ、とりあえずアレだ、おまいら全員ビットジェネレーションのゲームしる。
ゲームの基本から考え直せ。
>>423 サイコロを振る時、プレイヤーの意思は働いているでしょ。「1出ろ
1出ろ」とか言って振ったりするよね。ただそれが思い通りになって
いないだけで。
ゲームってのは思考実験だよね。
思考実験を馬鹿にするな!!!
>>412 なるほどね。ペース配分的なもの=意志ってことか。
しかしそうなると、
>>423のいうサイコロをふる行為はどうなるんだろ?
>>421 横レスだけど、俺はそう考えてるよ。
極論すれば、プレイしなければゲームではない。
もう少し詳しくいうと、ゲームという「もの」ではなく、
「ゲームをプレイする」という行動について議論していきたいと思ってる。
>>426 それはさすがに意思決定とは言わん。意志を決める過程も選択もがないじゃん。
>>427 何かをするかしないか、つまり行動の初端についての意思決定と、
その行動に最中の意思決定は別に考えた方がいい。
そもそも行動の初端についての意思決定というのは、普通の言葉でいえば、
「モチベーション」「動機」に言いなおせる訳で、意思決定とは少しずれる。
×その行動に最中 ○その行動の最中
>>413 その定義には明確に反対したい。ロールプレイはゲームになることもあるが、
大抵はゲームにならないことは、すぐ分かる。
例えば非生命(例えば石とか)をロールプレイしてゲームになるか?
>>424 リスクとリターンをシミュレートするということを言い換えると、
資源の管理になると思うんだけどねぇ。
いろいろ考えたけど、やはりゲーム性の本質は資源の管理だと思うなぁ。
資源の管理って考えると、ギャンブルからテトリスからおい森まで、
全て適用できる。ただし、その資源とはが仮想的(コンピュータ内)である。
現実の仕事や勉強がゲームではないことを説明できるし。
つまり、一言でいえば、「仮想の資源を管理すること」がゲームである。
さぁ、どうだ?
連続して間違いというか変な文章失礼。推敲したので書き直し。
いろいろ考えたけど、やはりゲーム性の本質は資源の管理だと思うなぁ。
この考え方で、ギャンブルからテトリスからおい森まで、全て適用できる。
そして、その資源とは仮想的(コンピュータ内)であること、とただし書きすれば
現実の仕事や勉強がゲームではないことを説明できるし。
>>430 双六でサイコロ振る時に「1を出したい」と思うのは、1の場所が
自分にとって利益があり、その他では利益が無いと考えるから。
利益のある無しの判断は意思決定でしょう?
>>433 出したい、と思うのは意志だけど、
サイコロの目は自分ではどうとも出来ないから、なんの決定も下せないでしょ。
天気予報と一緒。雨だとイヤだなぁとは思うけど、どうにもならない。
そしてどう考えても天気予報はゲームではない訳で。
考え方次第で、天気予報もゲームになるぞ
靴をつかって、お天気占いとかするまでも無く
>>435 サイコロで「1を出したい」と思うところまでが意思決定で、そこから先実際に
サイコロの目が何になったかは、ゲームの定義における資源管理の部類に
入るんじゃないかな。
俺がゲームらしいと思えばげーむらしいゲーム
俺がゲームらしくないと思えばゲームらしくないゲーム
440 :
ニセ1:2006/07/21(金) 18:05:26 ID:uftZR7R8
>>436 もちろん。サイコロをふること自体はゲームじゃないと主張してるだけ。
天気予報だってゲームにすることは出来るけどそれ自体はゲームじゃない。
>>437 サイコロに何かを期待すること自体はゲームじゃないから、
やはり資源管理から先がゲームだと思うんだ。
>>432 ゲーム性の本質というか基礎は資源の管理であると言うのは同意。というかそう言ったつもりなんだ。ロールプレイングというのはゲームの質であって性ではないといいたかったんだよ。
例えばただ王さまに従う他ないロールをプレイしても、道端の石ころをプレイしても、ゲームはゲームだと思うんだ。
もちろんそこにゲームの性は感じられないけど、それは単に自発的には何もできないという系を使っているから。つまり性を排除されたゲームとも言える。
まぁ俺はゲームの質と性を別々に考えてるからこの結論になるんだが、不可分なものであると考えればその考えも理解できるんだ。
ただ、俺はやっぱりゲームの質は子供がよくやる「〜ごっこ」にあると考えるわけで、もしかしたら
「石ごっこやろうぜ!」「おう!」「面白そうだな」「僕も混ぜてーっ!」と、楽しんでやるかもしれないじゃん。子供って何が楽しいのかよく分かんないしさ。
もちろん楽しまなくてもそれはゲームだと考えるわけなんだが。当然なんだろうが、ゲームらしさとゲーム性は別のモノと思うんだよ。
ゲームらしさっていうのは「ゲームであるかどうか」以外は問わないと思うんだ。
>>441 俺はゲームをゲームたらしめているものを出来るだけ少ない要素で考える、
ってやり方で考えていっているので、432みたいな結論になるんだけど、
ゲームの成り立ちや発展から考えていくと、ロールプレイが重要になるのは理解できる。
数学で言う、演繹か帰納かって話だね。その上で…
>ゲームらしさとゲーム性は別のモノ
>ゲームらしさっていうのは「ゲームであるかどうか」以外は問わない
この辺りをもう少し詳しく説明してほしいなぁ。
分かったような気になれなくもないが、誤解してる可能性大なんで。
>>423 この世にテトリスが存在しなくて
「ブロックが降って来て上まで積もったらゲームオーバーになる映像」
だけがあったら、その映像はゲームではないんじゃない?
実際はテトリスがあるから、自分で意志決定しなくてもゲームだと思うだけで。
双六に関しては非常に悩ましく思う。
>>347の論文の翻訳でも、双六のような完全確率ゲームは
プレイヤーの努力という要素が存在しないボーダーラインのゲームと
しているし。
でも、ゲームであることは間違いないんだよなぁ。
>>430 確かにさいころをふる行為に意志決定は含まれていないと思う。
ただ、そこには資源の管理も含まれていないように思うけどどう?
そういった意味でボーダーライン上にあるゲームだと思うんだけど……。
ニセ1さんの定義では双六はゲーム? ゲームじゃない?
それとも俺の「資源の管理」の理解がおかしいのかな?
>>118のリンク先の
> 意志決定が意味を持つためには、プレーヤーに管理すべき資源を与えなけれ
>ばならないのである。「資源」と見なしてよいものはたくさんある。機甲師団、
>補給ポイント、カード、経験点、魔法の知識、領土の所有権、美女の愛、上司
>の信頼、NPCの好意、所持金、食料、セックス、名声、情報。
>「管理すべき資源」というのは、目標を達成するために管理すべきルール上の要素
だと思って、読んでいるわけだけども。
すくなくとも、「ゲームらしさ」はここで書かれているような小難しいものじゃないのは確か
こういう小理屈ばかリいっている奴らがゲーム開発に携わっていると考えると
ゲームなんて買うもんじゃないと思ってしまう私がいる
今は、ゲームらしさとは何か?の前にゲームとは何か?って感じだよね。
>>443 テトリスが存在していても、テトリスのプレイ動画を見た場合
それはゲームをしているわけじゃない。ゲームの動画を見てるだけ。
もし誰かがリアルタイムにプレイしている画面を見た場合でも
ゲームの画面を見てるだけ。
つまりプレイヤーとして参加していない限り、ゲームをしているとはいえない。
あたりまえすぎるほどあたりまえだけど、
参加しているのと参加していないのでは全然違うということ。
サイコロを振ってコマを進めるだけのすごろくは、ゲームじゃないといっていいと思う。
ただし、分かれ道などがあってどちらに行くか決定できるならゲームと言える。
>>445 こういうのは暇だからできるの。
ゲーム開発者は忙しいらしいから、いないんじゃないの?
447 :
名無しさん必死だな:2006/07/22(土) 11:34:34 ID:gfwoowko
ゲームらしいゲームとかって言い出したのはPS派っつーかゲーマーの連中だろ
ゲーマーってちょっと調子乗ってて「俺たちが言うものがゲームだ」みたいな
勘違いしてるからね
>>447 鉄道の世界で鉄オタはデカイ顔なんかしないのに
なぜかゲームの世界では、ゲーオタガデカイ顔してるからなあ…
「俺好みの異性じゃない」を「そいつは異性らしくない」と言うのと同じ
自分好みの異性を否定されたら嫌な気分になる
逆に異性として認めない言い方は許せないと言うヤツも居る
「男みたいな女も女と認めなきゃいけないのか!いや、そいつナベだろナベ!」
とか言い出す馬鹿が居て騒がれてるのが現状
馬鹿馬鹿しい話なのは同意
あくまで例えだから女性とゲームを混同して考えてるわけじゃない
と付け加えるのを忘れたorz
>>445 ゲームを作るのにゲームらしさを考える必要なんてないだろうから、別に考えて無いんじゃね?
>>442 ゲームの「質」と言うのはゲーム「そのもの」、ゲームの「性」と言うのはそのゲームが「どんなものであるか」をそれぞれさしている。
つまり、「ロールプレイング」はゲーム「そのもの」であって、そのゲームが「どんな風であるか」は言及できない。
同様に、「シミュレーション」はゲーム(つまりロールプレイング)が「どんな風であるか」を表現する一つの系に過ぎず、それだけが必ずしもゲーム性とはいいきれない。
こういう事を言うとこの世にある殆どの行動はゲームであると聞こえるだろうが、つまりはそういう事で、殆どの行動はゲームだと言いたい。
結局、「ゲームとはロールプレイングだ」というよりも「ロールプレイングがゲームだ」と言いたい訳なんだよ。
ゲームに「資源の管理」系が異常に多い(というかほぼ全部)のは、そのことによって快感を得られる事を知った人間がその系のゲームを大量に作り出したからに過ぎないだけで
決してそれだけがゲームだとは限らないんじゃないかなと思うわけなんだよ。
まぁほぼ全部がその系のゲームだから、その定義でも実用には支障はないと思うし、何にしてもこんな定義を実用するタイミングなんて普通無いからどうでもいいことには変わり無いんだろうけどな。
まぁこれも一種のゲームなんだろうなと思えてきた。
>>444 双六はゲームだと思うんだよ。人生ゲームは楽しいし。
俺の解釈だけど、偶然であってもその偶然に身をゆだねる、
というのは管理の一種じゃないかな、と。
少なくとも、その資源をほったらかし(ゲームを退席)することも可能だから。
最低限の管理ではあるけどね。
まあ、意思決定と資源管理はそれほど深い違いはないかもね。
ただ、意思決定だとテレビのチャンネル変えもゲームになりそうなんだよね。
(Wiiが登場して以来、いよいよテレビのチャンネル変えとゲームの差があいまいにw)
>>445 ものごとをちゃんと突き詰めて考えることは重要だと思うよ。
それが役に立つかどうかはまた別問題。
>>451 なるほどね。まあ、ロールプレイを軸に考えるとそうなるかもね。
人格心理学ってジャンルがあって、人間の性格をペルソナ(仮面)とみなし、
さまざまなペルソナ=キャラクターを演じる・使い分けることを研究する、
って人たちがいるんだけど、その学派の人たちが喜びそうな説かもしれない。
突き詰めれば、ゲーム論から派生した哲学に昇華するかもよ、その説は。
資源管理って考え方に俺かひかれるのは、
前もちらっと書いたけど、ギャンブルとかマネーゲーム的なものを、
これ以上なく明確にゲームと定義できるからなんだよね。
前に、パチスロがなぜ面白いのかって書いてる人がいたけど、
それは当然、お金が稼げるギャンブルだからに決まってるという答えがあった。
では、ギャンブル、お金がかかった状態というのは普通のゲームとは違うのか?
この矛盾を、資源管理という考えを導入することにより統一できる訳。
ロールプレイ説が心理学的なら、資源管理説は経済学的といえるかもね。
>>453 楽しいからゲームっていうのは違うと思うし、
偶然に身をゆだねるのは管理ではないと思う。
ゲームを退席するのは、ゲームをプレイする
という行為の範囲から逸脱してるからそれをもって
ゲームの資源管理を放棄するとは言えないと思う。
TVゲームで言ったら電源を切ってしまうか
ポーズをすることと同じで、そこでゲームをする
という行為は途切れてしまう。
それから、今までの意見を見てきて思うのだが
広義のゲームと狭義のゲームの二つに
分けて考えた方が良いのではないだろうか。
457 :
ニセ1 ◆tMNr3FMQg. :2006/07/22(土) 18:00:05 ID:HRzZCkW8
>>456 確かに、「楽しいから」ゲームってのは、これまでの議論を踏まえてなかった。
すまん。楽しいということがゲームの定義にはならないってのは了承してる。
資源管理って言葉は難しいんだよ。日本語が。
resource-controlって英語ならもう少し分かりやすいかな。
で、ゲームにとって電源を切るという行為について(あるいは退席すること)。
これこそが、ゲームにとって重要な要素だと思う。
人生をリセット、みたいなネガティブな要素で使われることが多いけどね。
俺はそれを「資源の(究極の)管理方法」と捉えてるんだけどね。
つまり、資源の管理を一切放棄するというのも一種の管理な訳で。
広義と狭義に関しては、わりとみんな使い分けてると思うよ。
混乱はしてないように思う。
>>457 resource-control、要するに、なんらかのモノを好きに扱うってことですよね?
で、電源を切るというのは私はゲーム内の出来事として捉えてません。
ゲーム内が人間界だとしたら、電源を切るのは神の世界ですよ。
そのくらい次元が違うと思う。
広義と狭義、果たして使い分けてますかね?
広義としては、全てがゲームと言っていいと思うんですよ。
これに異論はないはず。
ここでは狭義においてゲームとは何なのかを語ってみてはどうでしょうか。
>>454 あぁ、そうそう。
パーソナリティの考え方にかなり影響を受けてる。
というか、「ロールプレイング」を思いついた時に、この考え方を軸にした。
別に心理学に縁は無いんだけどね。
>>458 広義とか狭義とかを定義するのが面倒だし、それならむしろTVゲームについてでいいんじゃね?
TVゲーム用の板だし。
>447
PS派を持ち出すなら、そのPS派というのがゲームをおかしくしただのと
むしろ無実の罪で一番叩かれているんだが。
ムービーがどうのこうの綺麗なグラフィックがどうのこうの…
そのゲームに対して偏狭な事を言うのは確かにゲーマー連中だが
そのゲーマーがまず間違いなく支持するのが任天堂。
>>459 もちろんTVゲームについてです
広義と狭義ってモノを持ち出して何が言いたいのか簡単に説明すると
http://www.jesperjuul.net/text/gameplayerworld_jp/ ↑これの中盤辺りにあるゲーム図において
広義におけるゲームっていう範囲だと、
この図におけるゲームではないの部分もゲームとして捉えていいと思う。
例えばライフゲームのどうぶつの森
これは広義の場合ゲームと言っていいけど、狭義の場合ゲームではない。
つまり、何がゲームで何がゲームでないという線引きが
語っている人によって異なると、建設的な話し合いに
ならないのではないかということです。
>>446 すまない。言葉が足りなかったな。
推敲しているうちに肝心な所を消してそのまま投稿してしまった。
>>443で言いたかったことは、
>そもそもブロックが降って来て上まで積もったらゲームオーバーになる映像と
>テトリスが違うものとは思わない
に対し、「ただの映像を見ている」というのと、
「ゲームの映像を見ている」という認識の違いが(見ている人に)ある
ってことをいいたかったんだよ。
参加してなくても「ゲームを見ている」ってこと位は
いえるよねー、って。
逆に言うと、テトリスがゲームじゃなかったら、
「ゲームを見ている」とすら言えないよねー、って。
意志決定をしていなくても、それがゲームの映像であると認識できる
で、その認識の違いは
"テトリスは(誰かが意志決定をしている)ゲームであるという前提があるかないか"という点にある
と、話を持って行きたかったんだ。
>>453 人生ゲームは意志決定も資源の管理もあるからゲームだと思う
ただ『さいころをふって出た数だけすすみ、ゴールを目指す』
というもっともシンプルな双六だとどうなのかな、と思って
資源をほったらかし
は資源の管理とは言い難いような気がするなぁ
(その理屈だと、チャンネル変えも資源の放棄ができるので、同じくゲームになるような気が)
その点に関して
>>456と同意見
ゲームはルール(や法則)の範囲内で語られるべきだと思う
……とは思うけど、
>>457の「資源の(究極の)管理方法」ってのは
面白い意見だと思う
また、あとで考えてみたい
「意志決定」は、ルールの範囲の中での「意志決定」で、
「目標」があって(その目標が用意されているか、自分で設定するかは別として)
その目標を達成するための「意志決定」と考えている。
だから、「チャンネル変え」も、ルールと目標を決めて意志決定を行うなら
十分ゲームになりうる、とも思う
三秒以内にCMをやってるチャンネルを見つける
というルールと目標を決めたらゲームかなぁ、と
(俺の中ではボーダーラインの)双六に色んな要素を付け加えようと思う
まず「意志決定」→途中に分れ道を作成
片方は近道だけど「振り出しに戻る」のマスが多い
片方は遠回りだけど「振り出しに戻る」は少ない
どっちの道を行くかは各人の自由
俺の中ではこれはボーダーラインを超えて完全にゲームになった
そこに「資源管理」→仮想のお金を用意
さらに、双六のマスを青と赤に塗り分ける
青に止まるとお金がプラス&赤に止まるとお金がマイナス
ゴールした時にもらえるお金が「一位>二位>三位……」とする
最終的にお金が多かった人の勝ち
これで「よりゲームらしいゲーム」になったように思う
さらに職業、結婚と「管理すべき資源」を色々追加してみる
そうしたらほら人生ゲームの一丁あがり、ってなもんで……
「ルール」「目標」「意志決定」がゲームに必要なもので
「資源管理」は"ゲームらしさ"の範疇だと思っていた
「資源管理」を
>>457として、考えを広げるならまた話は別になるなぁ……
467 :
461:2006/07/23(日) 11:56:11 ID:vQ0z4/p4
>>466 >コンウェイのライフゲーム
すみません勘違いしてました。
というかちゃんと読んでませんでした。
今からちゃんと読んでみますよ。
468 :
461:2006/07/23(日) 12:58:30 ID:vQ0z4/p4
読んでみました。感想は、ちょっと難しい…
完全確率ゲームというのは双六などでしょうかね。
とりあえずこの文章における
ゲームにみられる六つの特徴を簡単にまとめてみます
1. 決定されたルール ゲームにはルールがある
2. 可変かつ数値化可能な結果 プレイごとに異なる結果と共通した目標
(魅せるプレイといった曖昧なものではなくハイスコアや勝利など)
3. 結果に対する価値の付与 結果のなかに、他より良いものがある
4. プレイヤの努力 プレイヤーがプレイすること、実力に結果が左右されること
5. プレイヤと結果の繋がり うれしかったりくやしかったりすること
6. 対価交渉の可能な結末 自分が現実世界で被るリスクを設定できる
こんな感じでしょうかね。
なかなかゲームを定義するというのは難しいようですね、今さらですけど。
パチスロ用語でゲーム性ってのがあるけど
様々なあたり確率の分岐があってどのルートにいるのか演出してくれるものがゲーム性が高いっていわれてるのね
それを敷衍すると、意思決定は別にいらないんじゃないか
というか意思決定や努力がシステム上結果に結びつかない完全確率ゲームでも
予測をもって行動して結果が出ればそれでゲームなんじゃないか、と
パチスロで言う「ゲーム」とは「コインを投入してレバー叩いてドラム止めてコインが払い出される」まで。
これが「1プレイ」になるのだけど、ドラムを止める部分で技術介入の余地があるんだよ。
目押しが下手糞な奴はボーナスや子役を狙って揃える事が出来ない、だからパチスロはゲーム・・・
というのが建前。実際は内部でフラグ管理されていてフラグが立った役しか揃える事が出来ないけどね。
で、パチスロで言う「ゲーム性」とは、このフラグ管理の仕組みにあたる部分のこと。
「ゲームの性質を管理する」という意味で「ゲーム性」という言葉が使われているんだと思うよ。
(ここは推測だけど)
要は、プレーヤーがいて、ルールがあって、何らかの結果が出る。
それでゲームと呼べるのかと思う。
まあ単なる言葉の問題だから定義なんてホントはどうでもいいのだけどね。
>>469 パチスロやらないので前半はあまり分からないが、後半は納得できる。
完全確率ゲームでも、十分ゲームになるんだよね。
(パチスロは完全確率ゲームじゃないけど)
サイコロを2個振って、足し算が偶数か奇数かをあてる。
これがゲームか?かなり怪しい。ゲームじゃないっぽい。
ところが、結果に対して責任を持つ(資源を投入して管理する)、
つまりお金をかければ、丁半博打になる。これは完全にゲームだ。
ギャンブルには顔を見たりブラフかけたりと駆け引きがあるじゃないか、
なんて野暮なツッコミはなしね。ドラクエのカジノ、燃えたでしょ?
>>470 フラグ立て…。重要なタームが出てきてしまいましたねー。
とりあえず俺は今、スルーというか留保しますが。
>>471 俺が最近特に強烈に「ゲームとは何か」を思ったのは、お料理ナビについて。
あれ自体はゲームではないんだが、あのスレッドのなかで、
「ナビにしたがって料理を作るという行為そのものがゲーム」
という意見に、思いっきり衝撃を受けまして。
こうなると、果たしてゲームのひろがりというのはどこまでいくのか。
任天堂をはじめ、今後のゲーム業界を見ていく中で、
ゲームとは何か、ということを考え直した方がいいと思った訳です。
ゲームって物には必ずプレイヤーがゲームに干渉しそれに正否がつくものだと思う。
FFで敵にやられない様に物語を進める事を成功し、ムービーが流れる。
脳系で早く問題を解いてに成功し、脳年齢が若く表示される。
アドベンチャーゲームは適切な選択肢を選ぶ事に成功し、ストーリーが進行する。
玉を上手に打つ事に成功し、何故かいきなり15点入るテニス。
、から前がゲームらしさだお思うよ。
>>472 いやいや、お金を賭けようが賭けまいが本質は同じだと思います。
お金を賭けることによって興奮が増すだけではないでしょうか。
丁半博打って技量がかかわるように思ってましたが
あらためて冷静に考えてみるとまったく関係ないですね。
いろんな意見を拝見して思ったのですが、
『ゲーム』と『遊び』を言葉として分けて考えてみてはいかがでしょうか。
もちろんゲームは遊びという範疇の内にあると思いますが、
遊びの範囲はゲームより広い。
>>473のお料理ナビの話は、ゲームというより遊びと言ったほうが
正確なような気がします。
もちろんだからといって、お料理ナビやその他ソフトの
遊びという方向性を否定するわけではありません。
ユーザーは楽しければいいわけで、それがゲームだろうが遊びだろうが
どうでもいいはずですからね。
3. 結果に対する価値の付与 起こりうる結果のなかに、他より良いものがある
4. プレイヤの努力 プレイヤーの実力に結果が左右されること(完全確率ゲームはこの特徴を持っていない)
5. プレイヤと結果の繋がり うれしかったりくやしかったりすること、ゲーム契約(完全確率ゲームにもある)
6. 対価交渉の可能な結末 現実世界への影響を任意に割り当てることができる
6.に関してはうまくまとめられないので、またあとで書いてみようと思います。
>>475 >お金を賭けようが賭けまいが本質は同じだと思います。
>お金を賭けることによって興奮が増すだけではないでしょうか
えっと…。資源管理説を理解してくれてるんでしょうか?
>>478 ああ、なるほど資源管理。
ジェスパー・ジュールのゲームの定義ばかり読んでたので忘れてました…
コスティキャンのゲーム論でいけば
「意志決定」「資源管理」「目標」があるからゲームですね。
ルーレットもゲームと言ってるし。
ジェスパー・ジュールのゲームの定義からすると、
プレイヤの努力(実力に左右される)が無いからボーダーでしょう。
これがポーカーになってくると、ほぼ確率ではあるけれど
どの札を切るかという選択で、ある程度実力も関係してくるようになりますね。
人間相手ならばブラフや駆け引きでさらに実力が関係してきます。
個人的にはゲームの定義にプレイヤーの腕に左右されるという
条項は入れてほしいのですがどうでしょうか?
ある一つの動作・行動をゲームであるかを決定するのは、ソフトではなくプレイヤーである。
結局
>>6
ゲームってのはな・・・
塔のてっぺんにかみがいてな・・・
>>479さんは納得しちゃったみたいだけど、サイコロの資源管理って
目が何だったかで既に発生している※から、賭けたお金の増減は、もう
1段階外或いは別個の資源管理って気がする。
※サイコロの出目を“丁丁半丁半半”こんな風に書き出したら、これ
だけで資源管理になってない?過去の結果という情報という名の資源。
>>472でゲームっぽくないのがゲームになったってくだりがあるけど、
お金を賭けていなくても、初めからゲームではあったんじゃないかと。
資源管理の項目を増やすことで、よりゲームとして機能するように
なったってことで。
双六もゲームだと思ってる立場からすると、努力が反映される必要はないとおもうな
努力が”反映した”と信じれることのほうが重要だとおも
双六だって、てきとうにさいころふってるより、1でろ1でろってやってる方がゲームらしい
というわけで予測ー行動ー結果がコンパクトにまとめられたものがゲームであると提唱
ハンドル付けてみました
>>483 >お金を賭けていなくても、初めからゲームではあったんじゃないかと。
ああ、そうです。言いたかったのはそういうことです。
サイコロの出目を予測して当てるという本質は変わってないのではないかと。
>>484 私がなぜ、努力、実力が反映するという要素を推すかというと、
ほとんどのゲーム(TVゲーム、カードゲーム、スポーツなどなど)
において程度の差はあれど、努力、実力というものが反映されるからです。
努力、実力が反映されないものというのは、ごく少数ではないでしょうか。
ということは、努力、実力が反映されるものがゲームの本流ではないかと思うのですが。
>>479 俺、コスティキャンへの反論として、「資源管理」を第一義に考える、
という仮説を提唱してるんですよね。まあ思考実験ですけどね。
というのも、意思決定と資源管理っていう、似たようなでもちょっとずつ違言葉が混じるのは、
定義として好ましくないでしょ。
>>483 うん。その考えは分かる。資源管理がゲームとしての条件(絶対的なもの)か、
それともゲームらしさの変数、つまりよりゲームらしいかどうかを決めるものなのか、
それは議論の余地が大いにある。俺は前者と過程して論を進めてるけど。
あと、資源管理のレベルに関しては、常々感じてた。
前、リセットも(究極の)資源管理と書いたけど、いろいろなレベルでの資源を、
いろいろな風に管理してるっぽい。メタレベルでの資源管理。難しくなるけど。
×過程 ○仮定
>>484 それこそ俺は「努力←→運」は、連続した変数だと思ってるんだけどね。
完全確率ゲームから、運を完全に排除した囲碁まで、
いろんなゲームがあるんだと思ってる。
あと、「本流であるかどうか」と定義はあんまり関係ないと思うけどね。
>>486-487 >俺、コスティキャンへの反論として、「資源管理」を第一義に考える、
>という仮説を提唱してるんですよね。
もう少し詳しくお願いします。
資源という言葉の示す範囲が広すぎて分かりづらいです。
>それこそ俺は「努力←→運」は、連続した変数だと思ってるんだけどね。
努力という言葉だと他の意味合いも含んでいるので実力としましょう。
確かにゲームによって実力の要素が強いもの、運の要素が強いものがありますね。
麻雀は将棋に比べて運の要素が強い。
今問題としたいのは、「実力の要素が0のものをゲームと呼ぶのか」です。
私はジェスパー・ジュール氏のようにボーダーラインケースとするのが
よいのではないかと思います。
>あと、「本流であるかどうか」と定義はあんまり関係ないと思うけどね。
そうでしょうか?私たちは何を分析してゲームというものを定義しようとしていますか?
今現在あるゲームと呼ばれるものを考えて、おそらく個人の感覚でこれはゲームらしい
これはゲームらしくないと判断し、ゲームらしいものはどういう要素があるのか、
そうでないものには何が欠けているかといった分析をしているはずです。
(そうでないというなら、ゲームとはなにかの答えを見つけているはず)
ゲームらしいものを見て定義を考えようとした場合、
本流であるものを見たほうがよりゲームらしい要素があるはずです。
例外のものをゲームの範囲に入れようとして定義の範囲を広げた場合、
本流のゲームがもつ性質を定義として無視してしまうことになりますが、
それは正しいのでしょうか?
例外のものの場合ボーダーラインケースとして処理したほうが、
わかりやすくなると思うのですが。
前に俺が書き込んでから、今日の一番新しい書き込みまでに
色々首をつっこみたくなる書き込みが沢山あるけど……スロットの話とか。
ただ、長文になりすぎて「自分のブログで書け」と言われそうなんで、
一番新しい書き込みの話に絡めて簡単に。
>>486 小難さんの書き込みに乗っかるけど
資源だけじゃなくて、管理もどういう意味で使っているのかを説明して欲しい
>>453で言っていたもっともシンプルな双六
(さいころの出た目だけ進んでゴールを目指すもの)の場合、
資源は何で、管理するとはどういう意味なのか
それから、
>>470のスロットの1プレイから、コインという概念をなくして
レバーを叩いて同じ絵柄をそろえる
というだけのものにした場合、それはゲームといえるのか?
ゲームといえるなら、何が資源で何が管理になるのか?
質問ばかりで申し訳ない。
具体的な例があった方が、説明しやすいかな、と思って。
よろしくお願いします。
>>490 >それから、
>>470のスロットの1プレイから、コインという概念をなくして
>レバーを叩いて同じ絵柄をそろえる
>というだけのものにした場合、それはゲームといえるのか?
それはゲームとなり得ない。
何故かと言うと、ゲームにはまず基になる欲求が必要だから。
例えばギャンブルは金が欲しいという欲求が背景にあるし、
対戦ゲームは「他人にかっこよく勝って賞賛されたい」というような欲求が背景にあるし、
RPGはストーリーの先が見たいという欲求が背景にある。
人は何故ゲームを遊ぶのか、というと、ゲームを遊んで欲求が満たされる
(かもしれない)からゲームを遊ぶ。
まずゲームを遊びたいと思わせるための動機が無ければ人はゲームを遊ぼうとしないってこと。
(別にゲームに限らないけどね・・・人の行動は必ず欲求が基になっている)
ゲームとは多人数でやる
ルールの決まった中でやる遊び
駆け引きやコミュニケーションを楽しむ
だが
TVゲームは一人である場合が多い
ゲームは「まず欲求ありき」。これは間違い無いだろう。
問題はその後。
欲求を満たす過程がどういう風であればそれはゲームと呼ばれるのか?
ということ。
狭義では「特定のシステムの上で他人と争って」栄光や賞金等をゲットするのがゲーム。
大昔は、ジグゾーパズルのような一人で遊ぶためのシステムはゲームと呼ばれなかったが、
コンピューターゲームの普及がゲームの定義を大きく変えた。
一人で遊ぶためのシステムもゲームと呼ばれ始めて、訳が分からなくなってしまったのが今の状態かと。
広義で言えば「ある特定のシステム上で、欲求を充足するため何かと戦う」というような定義になると思う。
一人で遊ぶゲームであっても、これは成立する。
例えばRPG。「ストーリーの先を見たいから敵と頑張って戦う」という行為は、広義には紛れも無くゲームと呼べる。
欲求と、欲求を充足させるために何かと戦うこと。
(戦わなくても頑張るだけでも欲求が充足される
可能性はあるだろうから、ここは難しいところだが)
人間から見た場合、この2つがあればゲーム的な感じはするが、
ただゲームって言葉は動詞じゃないわけで、これをそのままゲームとは呼べない。
「欲求を充足させるために何かと戦う場(システムやルールを含む)」がゲームと呼べるな。
そういう意味では、料理ナビがゲームと呼べるか、というと微妙。
まず「料理が作りたい」という欲求があるのはいい。
でも問題はその後。料理ナビは単に料理作りを手伝っているだけで、
料理を作る舞台となっているのはキッチン。
ゲームの舞台はキッチンであって、料理ナビではない。
サッカーはゲームプレイのルールを提供している。
将棋やチェスなんかはルール+場を提供している。
コンピューターゲームだってゲームプレイのための場とルールを提供している。
では、料理ナビは何を提供しているのか・・・
まず場は提供してない。ルールは元々ある。
(料理の作り方は料理ナビが提供しているのではない。
料理ナビは単に表示(ナビ)しているだけ。)
という訳で、広義のゲームとして見ても料理ナビはゲームではない。
しかし、料理ナビがゲームと呼べなくとも、
一体背景に何の欲求があるゲームなのか
さっぱり解らない事が多い最近の
コンピューターゲームと比べたら、遥かにマシ。。。
任天堂が偉いと思ったのは、ゲームの内容ではなく、
背景にある欲求部分に目を向け始めた、ように見えること。
個人的に、「そのゲームを遊びたいと感じる事があり得るのか?」
というより、「そもそも人は何故ゲームを遊ぶのか?」
っていう凄い根本的な部分に対して思考停止してるとしか思えない
最近の糞ゲー群には幻滅させられっぱなし。
任天堂が一人気を吐いているような状況だよ。
498 :
202:2006/07/27(木) 07:17:05 ID:jFE2b3ui
>>322 テトリスはゲームではない というのはぷよぷよと比べるとよく解る
勝利条件と対戦相手はどちらも備えているが
前者に欠けているのが戦術の駆け引き
俺の記憶が確かならテトリスは相手から攻撃を受けると全体がせり上がる
これってプレイヤーにより速い判断と操作を要求するけど駆使する技術自体は同じなのよね
ぷよぷよなら上からごみが降ってきてプランの立て直しが必要になる
相手のフィールドを見つつ攻撃を予想し先手を打つなど濃密な駆け引きが期待できるのだ
まーテトリスも駆け引きゼロとは言わないが、その要素は少ない
力比べ 技比べ テトリス比べ って感じ
あーもちろんテトリス好きですよ 良いソフトだ
>>461の図にフリーフォームの遊びはゲームじゃない とあるが
ルールの有無はゲームの定義に関係ないと思うわ
フリーフォームの遊びに勝利条件加えて
対戦相手用意して戦術の駆け引きがあればゲームになるよ
俺はルールの有無自体はさほど重要ではないと思うんだがなぁ。
ルールって多分もっと自然発生的なものだと思う訳で
つまり何かやっててそれに新たにルールをつけてゲームになることはあるんだろうけど
もともとルールのないものなんてないだろうから、ルールの有無を問うのはナンセンスなんじゃないかなと。
ルール云々よりも閉じた場である事のほうが大事なんじゃないかなと思う。
つまりそこだけで完結可能な場。
まあそういう意味でルールと言う言葉を使ってるならそれでいいんだけど。
>>491 欲求というものをジェスパー・ジュール氏のゲームの定義(
>>476-477参照)から考察すると
3. 結果に対する価値の付与
5. プレイヤと結果の繋がり
あたりでしょうか。これはなかなか難しい問題で、個人の感覚でかなり変化するような気がします。
普通の人にとってコインの量が増減しないスロットは絵柄が揃っても揃わなくても
コインの増減がないという意味で結果が同じなので、3の『起こりうる結果のなかに他より良いものがある』
という条件を満たしていない。そしてそれはたぶん、うれしくもくやしくもないだろうから5も満たしていない。
よってゲームではない又はボーダー。
しかし、もしかすると「俺はコインなんかいらねぇ、スロットの絵柄を揃えることこそ無上の喜び!」
という人がいるかもしれません。その人にとっては3と5が満たされている。よってゲームである。
これはなかなか悩ましい(笑)
>>496 >サッカーはゲームプレイのルールを提供している。
>将棋やチェスなんかはルール+場を提供している。
これには異議あり。厳密に言えばルールで規定されているフィールド(場)、審判、計22人の選手が
揃わなければサッカーと呼べないはずです。将棋もルール、盤(場)、駒、対局者2人(コンピュータが
相手でもいいが)揃って初めて将棋といえるのです。つまり逆です。
>では、料理ナビは何を提供しているのか・・・
>まず場は提供してない。ルールは元々ある。
料理におけるルールとはなんでしょうか?私は、料理にルールは無いと思っています。
ルールがないからお料理ナビはゲームではない。
>>498 それでは一人用のぷよぷよ(とことんぷよぷよモード)もゲームではなくなってしまうのでは?
>>499 勝利条件はルールに含まれるのでは?
>>500 >もともとルールのないものなんてないだろうから
例えば、ごっこ遊び、おままごと、ロールプレイはルールが無いです。
陶芸、料理、絵画などにもルールがありません。
競技会のフィギュアスケート、体操競技などにはルールがあります。
504 :
202:2006/07/27(木) 15:28:37 ID:YeppTHU1
>>503 そうだね 狭〜く言うならとこぷよはゲームではない
ルールはあるが勝利条件がない
他の記録保持者との駆け引きもない
ぷよの配牌もクリエイターが命削ってデザインしたわけではない多分
言うなれば ぷよ技術検定モードだね
ぷよぷよは元はテトリスのフォロワーとして生まれ、そのときは一人専用の落ち物パズルだったそうな
それがおまけで今も収録されてるんだろう
勝利条件とルールは別ではないかな
例えば将棋は駒の動きや禁じ手、持ち時間、駒落ちなどのルールがあり
そこに敵の王将を詰むという勝利条件があってゲームになる
しかし、勝利条件がなくても互いに駒を進めシステムを動かすことは可能
駆け引きがなくなって全然面白くなさそうだけど
>>488、
>>490 昨日からずっと考えてたんだけど、うまく説明できるかどうか…
俺のいう資源は、「実際に管理(操作)できる資源」よりも広く、
「潜在的な確率としての資源」も含まれていることが考えてみて分かった。
まず、完全確率の場合の双六の場合、
「資源」はスタートからゴールまでの過程。
「管理」はその中での位置を意味する。
偶然にせよ、この資源を管理していくことで勝敗が決まるから、
ゲームだ、と考える考え方なて訳ですね。
続いて、コイン(報酬)なしのスロット。
こうの場合の場合の資源は、絵の出目の確率。
つまり、期待される確率というものを、潜在的な資源としている。
これを管理するというのは、実際の出目を決定すること。
んで、皆さんお気づきだとは思いますが、実は前者の双六の場合でも、
潜在的確率としての資源が存在する。そう、サイコロをふる段階。
あ、送信しちゃった。まあ気にせず続けて書くと、
もちろん、後者の場合でも、「実際に管理できる資源」があるはず。
それは多分、実際にスロットの目に配列されている絵の分布かな?
つまり、桃が5%、バナナが5%というような分布自体。
これから3つ選ぶというなら潜在的だが、実際の分布自体は存在するし、
それをボタンを押すことで操作できる訳だから。
(そしてその操作して結果が出るということが「管理」に相当するんだな)
この、潜在的資源と明示的資源を一緒くたにしていたから、
俺の言説が微妙に揺れていたのかもしれない、といたく反省いたしました。
テトリス。「次に何が落ちてくるだろ」ということを想定する。潜在的資源。
実際に画面に現れることにより、これが明示的資源へと変わる。
そして、管理する。ブロックを落としてラインを消す。
しかしこの時、既に潜在的資源に対して、
「次にこんなブロックが落ちてきた時のためにここは開けておこう」と考える。
お料理ナビの場合。明示的資源は食材。潜在的資源は料理した思い出とかスキルとか。
管理は、ナビにしたがって料理すること。
したがって、お料理ナビは管理するだけのソフトで資源は内部に含まれていないので、
それ単体ではゲームとはいえないことが分かる(当たり前だけど)。
>>494 定義広すぎません?例えば選挙なんて、まさにその定義にあてはまりますが。
「選挙制度に則って、議席を求めて他党の候補者と戦う」。
>>501 絵柄が揃う喜び、つまり潜在的資源を管理して成功したこと。
賭けたお金が増える喜び、つまり明示的資源を管理して成功したこと。
だらだらと長文すいません。
>>503 ロールプレイングだってルールはあるよ。ルールかどうかは人によっては微妙に感じるだろうけど、ルールを決まりごとだと考えたらそうなった。
決まりごとというのは「決まっている事」「決めている事」という二通りの意味があると思うんだけど、例えば「決まっている事」に注目してみると
「地球にいると重力を受ける」ことさえもルールとみることはできるんじゃないかと思う。最も、これは逆らい様のない物理法則だけど、仮に「決めている事」に目を向けたとしても
「岩ごっこしようぜ!俺とお前今から岩な。」「おっけぃ、でも俺岩じゃないよ」
となってしまえばこれはもはや岩ごっこというゲームは成立し得ないわけで、ロールプレイングは「演じること」がすでにルールであるといえる。
料理だって使える材料等が、また時間が無限にあるならともかく、有限である以上その範囲内でやらなければならないという事はルールでありえる。
もちろん場が無制限な(閉じていない)場合には、それだけではルールになり得ない場合もあるだろうけどそんな時はゲームもありえなさそうだし
場が閉じていればその場の全ての要素は有限であると言えるので、そこで何をどのように扱おうとも何らかのルールの下で動いていると考えられる。
だから最も挙げる必要のある類のゲームは場の開いているタイプのゲームだと思うんだよね。俺は思いつかないんだけど。
ただそのタイプのゲームはコンピュータゲームではありえないんだよね。あれは0と1だけで閉じちゃってるから。
プレイヤーの予測不可能な行動さえ0と1で閉ざしちゃうんだよな。
>>Y5unm2Ri
>>Y5unm2Riさんはすごく生真面目な人のような気がするな
欲求なんてものは人それぞれで、ひどくいい加減な物だよ
>>Y5unm2Riさんには思いも寄らない欲求を持っている人が沢山いる
だから「これには基となる欲求がないからゲームではない」と
言ってしまうのは少し性急だと思う
レバーを叩いて同じ絵柄をそろえる
っていうのは、ルールであると同時に目標のつもりで書いているよ
「同じ絵柄をそろえる」という目標
だから、もしゲーム=欲求必要説で話をするにしても
コインなしスロットはルールと目標によって欲求が作られるよ
3つの絵柄をそろえたいという欲求が。
>ギャンブルは金が欲しいという欲求が背景にあるし
といっても、パチスロ台をゲーセンに持ってきて
現金と換金できないただのメダルゲームにしたところで
やっぱりゲームはゲームに違いないと思うけどどうかな?
>>504 勝利条件の無い将棋って、まず1手目が指せるのかなぁ?駒の動かし方が
判っていても、どれかを動かす意味が見出せない。つまり、ゲーム足りえて
いないのでない?
むしろ、勝利条件だけあって駒の動かし方が決まっていない状態の方が、
まだゲームになっている気がする。
>>504 別というのは違うような気がするよ
ルールによって勝利条件が規定されるんじゃない?
ルールには色々あるけど、
その中でも、勝利条件を規定しているルールだけで、
ゲームたりえる、といった意味合いならわかる気はする。
ルールがあるから、勝利条件が生きてくるように思う。
「敵の王将を詰むという勝利条件」というのだけがあっても、
詰むってどういうこと? といわれると、
駒の動きや禁じ手など、ルールを説明しないといけないわけだし。
>>507 その資源管理は、定義が広すぎない?
広いというか、そういう当てはめ方をしていったら、
なんでもゲームにできそうというか……。
お料理ナビも視点を変えて、レシピ管理が主体だと考えてしまうと、
料理の一工程が双六のマス目みたいなもんで、
「資源」は作り始めから完成までの全工程。
「管理」はその中での位置を意味する。
OK と言えば、次の工程に進むし、
もどる といえば、前の工程に戻る
さいころを振る代わりに「OK」というか「もどる」というか、という……
実際に料理をつくることすら必要ないので、本来の目的、使い方ではないけども。
料理も作らず、マイクに向かって
OK! OK! OK! OK! OK!
のどがかれそうだが、俺は負けないぜ!
こいつのレシピを最後までみてやるぜ!
OK! OK! OK! OK!
やったぜ、できあがりだぜ! 肉じゃがもクリアーしたぜ!
みたいな。
こういうのを除外するために資源管理以外の言葉が必要な気がする。
(もしくは、資源、管理の言葉の使い方の制限をするか)
>>501 >しかし、もしかすると「俺はコインなんかいらねぇ、スロットの絵柄を揃えることこそ無上の喜び!」
>という人がいるかもしれません。その人にとっては3と5が満たされている。よってゲームである。
絵柄を揃えることが無上の喜びなんて感じる奴はいない。
何故いないと言い切れるのかというと、絵柄をそろえることは人間が生来持っている欲求ではないから。
絵柄を揃え、コインをゲットして、コインを換金して、換金したお金で食べ物とか住居とか色々なものを買っていい暮らしができる。
つまり、絵柄を揃える事が、自分が生きる上で有利になることに繋がっているわけだよ。
>>508 >ロールプレイングは「演じること」がすでにルールであるといえる。
うーんなるほど、と思いました。
ロールプレイングは演じるということがルール、演じなければロールプレイングではない。
しかしですね、これを料理という行為で考えると、
料理というのは料理することがルール、料理しなければ料理ではない。
う〜ん、これはルールと言えるのでしょうか。ルール以前の話ということになりそうですが。
時間と食材が有限であることも、ごく当たり前のことと言えそうです。
なにをもってルールとするのか。ごく当たり前のことはルールとは言えなさそうです。
辞書によると、ルールとは、規則、規定、きまり。
規則とは、行為などが、それに基づいて行われるように定めた事柄。
だそうです。
よくわかりませんが、人間などが定めた事柄ということは言えそうです。
そしてそれはゲームにおいて勝利条件や目標とかなり密接な関わりがあるとも言えそうです。
あとは、かじやさんの意見
>>510>>512-513に同意です。
じゃあゲーセンのメダルゲームコーナーによくあるパチスロは何なんだ?
というツッコミがありそうだけど、あれは「本物のパチスロで遊ぶための練習マシン」としての意味がある。
パチスロを練習しておけば、本物のパチスロで遊ぶ時に色々有利になるかもしれないからね。
つまり、これも”自分が生きる上で有利になることに繋がっている”と言える。
あと、ゲーセンのメダルゲームコーナーにあるゲームには「暇潰し」「コミニケーションツール」
としての意味もある。
絵柄を揃えるってのは人間が生来持つ欲求ではないけど、暇を潰したいって欲求は人間が生来持つ欲求の一つ。
もう一つの「コミニケーションツール」ってのは、友達と遊ぶためのネタに出来るってこと。
遊園地やスキーやキャンプのようなアウトドアな娯楽は、背景に人間関係への欲求が存在する事が多いけど、
メダルゲームも同様に人間関係への欲求が存在することはありうる。
>>515 料理で言うルールとは、料理を作る手順の事かと。
まず、目標は「美味しい料理を作ること」これは間違い無いはず。
で、ナビの手順をきちんとこなせば美味しい料理ができる。
つまり、目標を達成したと言える。
料理を作る手順をきちんとこなせないと、不味い料理が
出来てしまって、ゲーム失敗。
だから、料理を作る手順がゲームのルール。
と無理矢理こじつけることはできなくはない。
>>510 >欲求なんてものは人それぞれで、ひどくいい加減な物だよ
いやそれは違う。欲求は最終的には「自分が生きる上で有利になること」へと繋がっている、事が多い。
「事が多い」というのは、例えば煙草なんかは、明らかに体に害があると解っているのに辞められない人が多い。
ギャンブルだって、最終的には負けている人が多いはずなのだけど、でも辞められない人が多いから
産業として成立している。
何故、生きる上で不利になるとわかっているのに辞められないのか、というと、それが報酬系を刺激しているから。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E9%85%AC%E7%B3%BB 要は報酬系が刺激されるかどうかが問題。
絵柄を揃えるだけでは報酬系は刺激されないが、絵柄を揃えて自分が生きる上で有利になること(お金を得ること)に
繋がれば報酬系が刺激されるので、本質的に面白い娯楽になり得る。
何故、報酬系が刺激される事が「本質的に面白い」事に繋がるのか?
ここは面白さ(というか感情)を語る上で非常に重要なところ。
心理学では、感情には「快楽」「覚醒」という二つのパラメーターがある事は
既に常識になっているわけだが、この中の一つ「快楽」という
パラメーターは報酬系の刺激度合いを指している。
つまり、快楽と感情は密接に関係していて、快楽の有無によって
得られる感情も変わってくる、ということ。
「面白い」は感情の一つなので、快楽の有無によって「面白い」と
感じられるかどうか当然変わってくる。
「絵柄を揃える」というスロットのゲーム性は覚醒に絡んでくる部分なので
ここも「面白い」にとっては重要なのだけど、背景にある「お金が欲しい」という
欲求も「快楽」に絡んでいる部分なので必要。
お金がかからない、絵柄を揃えるだけのゲームでは「快楽」が消えてしまうので
面白いと感じる事が無くなる。
519で面白さには快楽も必要と書いたわけだが、
では、最近のゲームにはいったいどういう快楽(欲求)が存在するのか?
大抵のゲームは「ストーリーの先を見たければゲームをクリアしろ」
というような欲求を扱う事が多いが、何故ストーリーの先を見たいのか?ということ。
ストーリーが”面白ければ”、先を見たいと感じる事はあるだろうが、
面白くなかったらさっさと投げ出したくなる。
しかし、せっかくお金を出して買ったゲームソフト、途中で投げたら払ったお金が勿体無い。
だから最後まで頑張って遊びましょうか・・・という、ある意味詐欺としか思えないような理由で
無理矢理遊ばされる事が多い。
「ストーリーが面白いかどうか」が、この手の仮想世界のストーリーを
メインに据えるタイプのゲームの欲求有無を決めるわけだが、
一般的なゲームは大抵ストーリーがつまらない。
仮想世界にプレーヤーを共感させて楽しんでもらうタイプのゲームは、
まずストーリーを重視しなければいけないが、
いい加減なストーリーしか描いていないゲームの多い事と言ったら・・・
ストーリーを重視するタイプのノベルゲーを多く遊んでしまった今となっては
もう普通のゲームを「面白い」と感じることがなくなってしまった。
だから、最近のゲームはクソゲーが多いと感じる。
ゲームも小説や映画に負けないくらいきちんとしたストーリーにしないと先が無い。
初代のマリオなんか説明書みなくてストーリーよくわかってなくても、なんか面白かったけどな。
今の時代にはそれはもう無いのかな。それとも子供ってそんなものなんだろうか。
>>516 暇を潰すのは欲求じゃないだろう。逃避のためにしている訳でもないし。
ゲーセンのスロットを本番での練習って決め付けてるのもなぁ。
>>514 例えばルービックキューブとかはどうでしょうか?
同じ色を揃えても生きる上で有利になることに繋がっているとは思えないのですが
完成したらうれしいですよ。こういうのは他にもいっぱいありそうです。
>>517 >料理で言うルールとは、料理を作る手順の事かと。
それはルールじゃなくて定石ですよ。別に手順を守らなくてもなんら問題はないはず。
ルールというのは守るべきものです。スポーツの場合守らなければペナルティが課せられます。
料理の場合手順を守らなくてもペナルティは無い。
コンピュータゲームの場合はあらかじめルール違反となる行為ができなくなっているものがほとんど。
お料理ナビを使って料理を作るとき、ナビの手順をきちんとこなさなければならない
(手順どおり出来なければ失敗)という取り決めをすればルールになります。(つづく)
>料理を作る手順をきちんとこなせないと、不味い料理が出来てしまって、ゲーム失敗。
手順どおりにこなさなくてもおいしい料理が出来る可能性もありますよね。
それから、おいしい不味いというのは個人によってかなり差がありそうなので曖昧な目標ですよね。
しかし、採点者がいて、調理者はその人がおいしいと思う(であろう)料理を作り、
採点者が味の評価を数値化して出す場合、ゲーム(試合)と言えそうな気がします。
>>520-521 ストーリーが与えるおもしろさって、ゲームが持つおもしろさとは別なような気がします。
ゲームパートが退屈だからストーリーを面白くしなければいけないってのは
まったく逆で、本末転倒ですよ。
>>522 そんなことないですよ。今マリオやってみてもたぶん面白いですよ。
>>524 ストーリーのスの字も無い、将棋、囲碁、麻雀といったゲームを楽しんでいる大人はいっぱいいますよ。
527 :
名無しさん必死だな:2006/07/28(金) 14:45:14 ID:3KJ+GGLR
結局
インタラクティビティの有無と
演技と競技の軸で
シームレスに語られるべきものだ。
調理(出来上がった料理と混じるから言い換えたよ)のルールは、“食べ
られる物を作ること”でしょう。料理が美味しいかどうかが、結果に
対する価値やらプレイヤーの努力やら結果の繋がりやら。
おや?そんなつもり無かったのに、調理がゲームに見えてきちゃったぞ。
調理とは、ジェスパー・ジュールの定義で唯一良く分からない「6.対価
交渉の可能な結末」の無い状態なのかな?
調理がゲーム的かどうかであって、料理ナビがゲーム的かどうかとは関係なさそうだけど。
ソフト買っていないので間違っているかもしれないけど、料理の本を見ながら調理するのと同じでは?
>>513 いや、いいんだよそれで。お料理ナビも、そういう使い方をすれば、
少なくとも潜在的資源を管理することで、ゲーム的といえる。
ただし、明示的資源がないから、ゲーム性はかなり低い。
資源に関しては、「明示的資源」「潜在的資源」が両方、ゲーム内にあると、
よりゲームらしくなるということが一応説明できた。
では、「管理」の仕方はどうだろう?
管理の方は、実はそんなに難しくない。
○お料理ナビを無理やりゲームと見立てた場合の一本道。
○もっとも単純な双六のような完全確率ゲーム。
○プレイヤーの努力・思考を要求するもの。
この3つにおける管理方法が、単純なものからより高次なものへと、
連続して連なっているイメージ。
さて、ここで、この「資源管理」というタームを使って、
なぜムービーがゲームらしくないと感じられるのか、説明してみる。
まず、潜在的資源と明示的資源を管理していくこと=ゲームとして、
それぞれの資源がゲーム内に存在していないと、ゲームらしさは減少すると仮定。
典型例はギャンブル。明示的資源はお金であり、ゲーム内には存在しない。
したがって、ゲーム性はお金を賭けるかどうかで大きく変化してしまう。
さて、ムービーとは何か?ここで、脱衣マージャンを見てみよう。
この場合のご褒美ムービーとは何になるのか?
おそらく、ギャンブルにおけるお金と同様、明示的資源であると考えられる。
(お金という資源を管理することでご褒美ムービーにたどり着く)
が、このご褒美ムービーは、ゲーム本体である「マージャン」内に存在するか?
当たり前だがご褒美ムービーはマージャンとは何の関係もない。
(もちろんマージャンというゲーム内での明示的資源は存在する)
したがって、ご褒美ムービーのために勝負を行う脱衣マージャンは、
明示的資源がゲーム内に存在しないため、ゲーム性は低いと言える。
詭弁のガイドラインを実践してるスレはここですか
では、ムービーは全てご褒美なのか?
FFでは、そうとは言い切れないムービーが頻出する。
お話のつなぎ、演出としてのムービーがあることは反論がないと思う。
しかし、実はこの「演出としてのムービー」は、ご褒美とは異なる。
すなわち、プレイヤーがそれの出現を予測していない。
(ムービーが出そうだとは思うが、女の子が裸を脱ぐという明確な予測は不可能)
予測不可能ということは、管理不可能なので、明示的資源でも潜在的資源でもない。
すなわち、お話の演出としてのムービーは、ゲームの構成要素外なのだ。
いっておきますけど、俺はFFは11以外は全部やってる程度には好きだし、
これによって即、批判をしたい訳じゃないんだけど、でもやはり、
FFのムービーは「ゲームらしさ」の観点から言うと、ゲームらしくない。
特に乗り物の移動にともなうムービーは、一切の管理を受け付けていないよな…
>>519 その前のウィキにもあるけど、「報酬系」の仕組みは、
欲求が満たされる→(ドーパミンなどにより脳内で)快楽を覚える、ということ。
ギャンブルでお金を増やそうという欲求でももちろんだけど、
絵柄を揃えようという欲求も満たされれば、ドーパミンは出ますよ。
>>521 ゲームは時間芸術だから、時間の経過を演出することでストーリーが発生する。
ところが、ストーリーというのは基本、反インタラクティブなもの。
この辺りは難しいなぁ。ゲームにとってストーリーは魅力的な劇薬、って感じ。
>>528、
>>529 調理自体はゲーム性を帯びていると断言していいと思う。
問題は、「お料理ナビ」であることが、そのゲーム性を向上させているのか?
俺は、「管理」をゲームの文法で行ったことで、料理書を読むのは違っていると思う。
ただこの「管理」は「演出」と言い換えてもいいぐらい薄いのが悩ましいのだが。
>>528 いや、調理という行為にルールはありませんよ。
食べられる物をつくることがより望ましいだけであって、ルールと言えるほどの縛りはないです。
食べられない物を作ったところで、何の罰則もないです。
ジェスパー・ジュールの定義だと、調理は
1、決定されたルール
2、数値化可能な結末
が無いですね。6はよくわからんです。
どんなゲームでもプレイヤに時間とエネルギをかけさせると言ってますし、程度の問題なんですかね。
>>529 同意。お料理ナビ自体はゲームではなさそうです。
>>530 では、小説を読み進めていくことはどうでしょう?
お料理ナビのレシピを読み進めていくのと大差ないように思えます。
小説はゲームと言い難いように思えますが。
>>535 そうか。確かに小説をめくるのまでゲームにしてはいかんな。
結局、「管理」は、なんらかの変数を決定する、
ということにした方がよさそうだ。
それならば、小説の頁めくりやお料理ナビの進行を、
ゲームから除外できるもんなぁ。
×変数を決定する
○変数の取り得る定義域の中から、一点を定める
といえば、数学的に正しいか。
538 :
528:2006/07/28(金) 23:05:23 ID:RoUE7Gs2
>>535 最初は“食べられる物を作ること”を“何か作ること”にしようかと思ったんだけど、
それだと目標設定が広くなりすぎて、調理のルールとして機能しなくなっちゃう
のでこうなったのよ。食材でオブジェを作っても、それを調理だとは言えないで
しょ。
あと、料理の美味しさっていくつかの旨み成分を測定して、それが大きければ
美味しいっていう風にバッチリ数値化出来たりもする。なので2は有りかな。
ゴミ箱にゴミを捨てる事はゲームではないが、ゴミを投げ入れればたちまちゲームに早変わり。
>>536 ニセ1さんが独自の理論で考えている点は素晴らしい。
私なんかはジェスパー・ジュール氏の定義を元に考えているだけですから。
しかし独自の理論である分、わかりづらいです。
変数の取り得る定義域の中から、一点を定めるということが
ゲームで言うと具体的にはどういうことなのか
例を挙げて説明していただけるとわかりやすくなると思います。
>>538 なるほど。それは調理のルールというより調理という行為の定義ですね。
>>515でも書きましたが、例えば陶芸において、
陶芸というのは陶磁器を作ることである。
陶磁器を作らなければ陶芸ではないから、陶磁器を作ることは陶芸である。
これはルールというより定義ですよ。
>美味しいっていう風にバッチリ数値化出来たりもする
それは機械によって旨み成分の量を数値化しただけです。
もし、おいしさを数値化できるのであれば、
世界中の誰もが認める世界一おいしい料理というものが存在するはずです。
しかしそれはたぶん存在しえません。なので2は無しです。
参考
ttp://www.mikaku.jp/outline/component.html
>>539 ゴミを投げ入れるだけでは遊びとはいえますがゲームとは言えないです。
ルールがないからです。
例えば、ゴルフのように少ない投数でゴミ箱に入れることを目標とするとか、
ゴミを手に持って歩いてはいけないといったルールがあって初めて
ゲームと言えるのではないでしょうか。
>>523 いや、暇を潰すのは人間が持つ本質的な欲求の一つだよ。
誰だって暇過ぎるとなにか刺激が欲しくなる。
人間はあらゆる刺激から隔離されると覚醒の維持が難しくなって眠ってしまう生き物なんだよ。
で目が醒めてもまだ刺激から隔離された状態だと極度の不快感、
または妄想や幻覚が起こり始め、それでもまだ刺激がないと意識が混濁し始める。
つまり、暇が過ぎると人間はおかしくなってしまうってこと。
「暇潰し」は、お腹がすいたら何か食べたくなる、
というような欲求と同じくらい生物学的で原始的な欲求。
>>525 >例えばルービックキューブとかはどうでしょうか?
>同じ色を揃えても生きる上で有利になることに繋がっているとは思えないのですが
例えば、色を揃えて「お前凄いな」という風に誉められたら、それは生きる上で有利になっていると言える。
また、みんなルービックキューブで遊んでいるのに、一人だけ遊んで無いと
仲間外れにされそうって心理もあるだろう。
また、暇潰し用ゲームとしての機能でもそこそこ優れていると言えるかもね。
・ルールがシンプルでわかりやすい
・ゲームをクリアするための道筋がワンパターンでなく、飽き難い
(上達したらコツが見えてくるのかもしれないけど)
という感じで、これはテトリスにも繋がる要素がある。
>>525 >>526 はっきり言って、ゲームの意味を狭義で考えた場合、
料理はゲームとは呼べないだろうね。
俺は狭義のゲームは他人と競う要素が無いといけないと思っているよ。
大昔は一人で遊ぶゲームなんてのは存在しなかったから、
一人用ゲームってのはありえない。
単なる料理ではなく、料理コンテストというような舞台で他人と料理の腕を
競うのであればゲームと呼べると思いますね。
>>526 >ストーリーが与えるおもしろさって、ゲームが持つおもしろさとは別なような気がします。
多分別ではない。「面白い」とは、感情の一つであって、別という事はありえないはず。。。
ただ、「面白い」という言葉自体曖昧なので、そういう心理状態に至る文脈に差異があり、
人によっては「面白い」と認知不能な可能性もまあ否定できないですけど。
>ゲームパートが退屈だからストーリーを面白くしなければいけないってのは
>まったく逆で、本末転倒ですよ。
ゲームパートが退屈でなくても、ストーリーがつまらなかったら遊ぶ意味あるの?
まあ「ストーリーが面白い」とはどういう事なのか?っていうかなり本質的な問題も
あるのだけど、それはとりあえず置いておいて、ストーリーがつまらないゲームを
遊んで人は何が得られるのか?を考えてみる。
ゲームに限らず人が何か行動を起こす際には、背景に必ず何らかの欲求が必要なはず。
ストーリーがゲームを進める原動力にならないとしたら、何がゲームを遊ぶ動機になるのか?
>ストーリーがゲームを進める原動力にならないとしたら、何がゲームを遊ぶ動機になるのか?
↑これは非常に重要な問題提起。
もしゲーム学というのが存在したなら、これは絶対に試験に出る。
>>534 >その前のウィキにもあるけど、「報酬系」の仕組みは、
>欲求が満たされる→(ドーパミンなどにより脳内で)快楽を覚える、ということ。
>ギャンブルでお金を増やそうという欲求でももちろんだけど、
>絵柄を揃えようという欲求も満たされれば、ドーパミンは出ますよ。
問題は絵柄を揃えるという欲求が存在するのか?
という事だな。絵柄を揃えたいと感じるのは、絵柄を揃えてコインを沢山ゲットできるから。
コインを沢山ゲットしたいと感じるのは、コインはお金に換金できるから。
「お金が欲しい」という欲求だって、お金をモノに替えられるから存在するわけで、
もしお金が紙くず同然の価値しかなかったらお金を稼いでも嬉しくない。
つまり「生存に有利となるかどうか」、要は「生きたい」というのが人の本質的な欲求であって、
それに繋がると認知された行為であれば全て報酬系が刺激される。
絵柄を揃えるなんてのは、全く人の生存に有利にならない行為であって、
あれが報酬系を刺激するはずがない。
(麻薬、覚醒剤なんかのドラッグで報酬系が刺激されるのは例外で、あれは人の欲求を狂わせる薬)
>>534 >ゲームは時間芸術だから、時間の経過を演出することでストーリーが発生する。
>ところが、ストーリーというのは基本、反インタラクティブなもの。
>この辺りは難しいなぁ。ゲームにとってストーリーは魅力的な劇薬、って感じ。
最初の一行はよくわからないが、多分「プレーヤーの行動がストーリーを作る」
という意味だと解釈して話をする。
俺は「ストーリー」とは「欲求充足過程」と認識しているよ。
大抵のお話はそうだろう?最初に何か事件があって、主人公が問題に直面して、
クライマックスで問題が解決され、エンディングというような感じ。
バッドエンドももちろんあり得るけど、それはあまり一般的でないよな。
ゲームでもバッドエンドは大抵ゲームオーバーとイコールだしね。
つまり、物語の主人公に何らかの欲求が発生し、最終的に欲求が満たされる、
という共通的なパターンが存在する。
(続く)
さて、「ストーリー=欲求充足過程」と仮定する。
で、プレーヤーと主人公を一体化させるようなゲームの場合、
「主人公の欲求が充足される過程」というものは存在し得るのか?
例えば、ゲームの主人公とプレーヤーが完全に一体化したとして、
そういう状態で、「何も無い」完全な無の状態のフィールドに投げ出されたら
「面白い」と感じることはあり得るのか?というと、あり得ない。
完全に無のフィールドでないとしても、そもそも、人の行動には欲求が必要なはず。
ゲームの主人公とプレーヤーが一体化したとしても、そこに何の欲求があるのか?
欲求が無の状態なら、ゲームの主人公とプレーヤーが一体化しようがしまいが、
プレーヤーはゲームを遊ぶ動機が無いと言える。
つまり、ゲームのストーリーとは、元々無の状態のフィールドに欲求を
作り出すための舞台装置な訳ですよ。
「ストーリー重視ではなく、プレーヤーと主人公が一体化することが
重要なんだ〜」と叫ぶ人は、プレーヤーと主人公が一体化したとしても
それが本当に面白いゲームになり得るのか?
という問題を考えないようにしている、としか思えないですね。
更に言えば、ゲームの主人公とプレーヤーが完全に一体化するなんて事は100%あり得ない。
ゲーム内で自由になるのは行動のみであって、会話は自由じゃないからな。
行動自由、会話不自由な状態で、プレーヤーが人間関係に由来する欲求充足過程を自分で描けるのか?というと無理。
更に、通常映画や小説などでは、「死にたくない」という欲求充足を描く事が多いのですけど、ゲームの場合これにリアリティが無い。
死んでゲームオーバーになってもセーブした場所から続きが遊べるからな。
もし、一回ゲームオーバーになったら最初からやり直し、というゲームであれば、
「死にたくない」という欲求は強くなるはずだが、これだといつまで経ってもエンディングに到達できない。
物語の冒頭で欲求不満となって、でいつまで経っても欲求が充足されない、となったらおそらく糞ゲー扱いでしょうから
生存への欲求はゲームで描き辛い。
生存への欲求や、人間関係への欲求が無ければ、一体何を目指して頑張ればいいの?
さて、ここまで書いて「プレーヤー=ゲームの主人公」が
本当に適切な解なのか?という疑問が浮かぶわけですよ。
少なくとも、仮想世界のストーリーを描いているタイプのゲームでは、
「プレーヤー=ゲームの主人公」とする必要は無いのではないのかと・・・
別に「プレーヤー=ゲームの主人公」としなくとも、
人間には共感能力があるのだから、他人の心理状態に共感して
強く心に残る何かを残す可能性はありうる。
下手に「プレーヤー=ゲームの主人公」である事を強調してつまらないストーリーを描くより、
他人のストーリーで強く心に残る何かをプレーヤーに残すのを目指す方向性は当然考え得ると思うわけです。
個人的にも、システム重視型RPGよりストーリー重視型RPGの方が面白いし、感動できる。
更に言えば、「泣きゲー」と言われるようなゲームは大抵ストーリー重視のADV、
逆に仮想世界の主人公とプレーヤーを一体化させるタイプのシステム重視型ゲームで涙を流すのは難しい・・・
プレーヤーと主人公を一体化させることを目指すより、他人のストーリーであっても面白いことを
目指すタイプのゲームの方が遥かに心に残るものがある。
さて、最後に漏れが最近遊んだゲームで面白いと思ったゲームを一本オススメしておく。
「英雄伝説Y」(FCとSC含む)
これは、一般的にはストーリーがよいRPG、という評価だろう。
何故、ストーリーが良いという評価なのか?
まず、主人公エステルの欲求(想い)の強さがプレーヤーにヒシヒシ伝わってくるゲームだからってのがあると思う。
FCの冒頭で、エステルとヨシュアが出会う場面から物語がスタートして、一緒に父親探しの冒険の旅に出る
過程がFCで描かれる訳だけど、この中で何気にヨシュエスのラブラブぶりが目に付くようになる。
もう幼馴染フラグ立ちまくりで主人公エステルにしてみれば「私の男はヨシュアしかいない」というような状態。
それなのに、FCの最後で別れてしまう・・・
これはエステルにしてみればまさに死活問題。ヨシュアがいなくなったら自分の人生どうなっちゃうの?
っていうくらい切実な悩みなのがプレーヤーにも理解できる。
(それまで親しげに暮らしてきた過程はプレーヤーも知ってるから)
主人公が女なのはこういうところで有利に働く。男と女では、恋愛への切実さが違うから。
某FFナントカみたいに、主人公が何となく「俺、空賊になりたいんだ」と語る程度の想いとは
はっきり言って強さも共感度も違う。
何故空賊になりたいのか?説得力ある理由を提示して
プレーヤーに理解してもらうための努力が全く無い。
あとパンネロがヒロインとして登場するにしても、パンネロと主人公は
どの程度親しいのか?という部分は全く描かれない。
これでプレーヤーが物語の主人公の想いの強さを理解できるはずがないし、
実際主人公は大してストーリー上重要な位置にいないから
ほんと、どうでもいい人だったのだろう。
英伝とFFではストーリーやシステムに似たような部分が多いが、
ゲームそのものの面白さは全く違う。
直近で遊んだヴァルキリーなんとかはもう問題外。
もう冒頭からストーリーをプレーヤーに理解してもらおうという
気が全く無いし、実際ストーリー展開も糞つまらん。
そのくせゲームを進めるためのバランスは欠けまくりで
攻略本無しでは延々とレベル上げに勤しむ羽目になること間違い無し。
まさにクソゲー。
スクエニは漏れの中ではもうかなり評価下げてるよ。
で、英伝の話。
最後にやっぱりまあお約束のハッピーエンドになる訳だけど、
他人事ながら「この二人は幸せになって欲しい」という風に
エンディングで思ってしまうくらいに感動する。
主人公に対して「幸せになって欲しい」と感じてしまうのは
やはり漏れが主人公にかなり共感してしまっていた証拠だと思う。
(あと、音楽の良さも感情に一役買っていた)
「プレーヤー=主人公」とする必要は無いが、
強い欲求充足感は面白いゲームには必須だなと思った次第。
>>543-558 まず最初に、長いよ!短すぎるのもどうかと思いますが、
要点をある程度まとめた方が読みやすいし、レスも返しやすくなると思います。
>>544 パチスロだって目押しできて「お前凄いな」と誉められることはありえます。
実際、動体視力や運動神経は優れているといえるでしょうし。
>>545 対戦形式でないものをゲームから除外すると、
かなり大量のゲームが含まれてしまうと思うのですが。
コンピュータが対戦相手の代わりになったと考えればよいのでは?
>>546 ストーリーが与える面白さとゲームが持つ面白さは別と思う理由は、
ストーリーが面白いゲームは、小説や映画になってもおそらく面白いからです。
ゲームパートとストーリーパートがまったく完全に別ということはないでしょうけど、
あなたが言う狭義のゲーム(対戦型ゲーム)の面白さとは別でしょう。
>ゲームパートが退屈でなくても、ストーリーがつまらなかったら遊ぶ意味あるの?
つまらない(興ざめする)ストーリーのゲームは遊ぶ意味ないです。
だったらストーリーが無い(またはほとんど無い)ゲームを遊べばいいんですよ。
対戦型ゲーム、アクションゲーム、シューティングゲームといったものは
ストーリーはほとんど無いも同然のものばかりです。
>>548 ルービックキューブも色を揃えるという欲求が存在するのか?
あなたは
>>544で存在すると言っている(ように読める)。
>>560は私です。
>>550-551 その説明だとストーリーが必要なのではなくて、目的が必要なのでは?
モンスターハンターというゲームは、狩りをするという目的がありますが
それがストーリーと言えるのか。
>>552 風来のシレンというゲームは、死んだらレベル1から&所持品が
なくなってしまうので死にたくないという欲求がうまく表現できている。
かといって糞ゲー扱いもされていない。
(便宜上の)エンディングは途中にあるのですが、
エンディングを見てもプレイをやめない人が多い。
これはストーリー以外の部分が面白いから。
>>554 共感という言葉は、共に感じるということですよね。
つまりその時点で、心理的な一体化が成されているんです。
ストーリー無しで泣かせるのは難しいというのは同意。
>>552 ゲームってスポーツもゲームなんだけど、プレイヤーは100%主人公だよ。
トランプとか将棋とか、他にいくらでも例はあるけど。凄く限定的な話をしてるのかい?
ニセ1ってのは前建てたスレで名乗った名前で、別にここは1ではないので変えます。
>>540 分かりやすくテトリスで。変数はいくつかあるけど、
一番分かりやすいのは、ブロックの回転パターンと場所ですね。
そしてプレイヤーはその数ある可能性の中から、一つを選択して決定する
こうすることでブロックが着地し、なんらかの結果が出る訳です。
ところが、小説をめくることには変数がない。
(実を言えば時間という変数があるんだけど、簡単にするため無視します)
だから、ゲームではないということにしようということです。
>>548 生存に関係することしか欲求になりえない、というのは、
一応、心理学では「条件付け」の概念により否定されてるんだけどね。
(AをするとBをしたくなるという条件づけが可能なことから、
Bが生存に関係なくても欲求が成立するということが言える)
ただ、生存に関係する行動だけしか欲求は生じない、としても説明は可能。
人間は根本的に混乱より秩序の方が生きやすいから。ゴチャゴチャを片づけたい。
しかし、そもそもお金を欲しいという欲求は、条件付けの結果じゃん。
条件付けされていない人間にとって、お金なんて紙切れは何の価値もないから。
>>549 いや、時間経過には、なんらかの盛り上がりや構造が必須という意味。
音楽は、AメロBメロサビで盛り上がり、みたいな構造になってるでしょ。
このことを「ドラマツルギー」と言うんだけど、 広い意味でストーリーと同じかな、と。
ストーリーが充足というのはその通りだと思う。
なんらかの共感がなければ、物語を追うことはあるまい。
ただ、それはまさにあなたが言う、「共感」で全て説明がすむと思う。
>>562 たしかに
>>563 小説のページ数、行数、何文字目かなどは変数にはならない?
ならないのなら何故ならないのかの解説をお願いします。
今までいろいろ言ってきたけど、
広い意味でのゲーム>遊び (ジェスパージュールの定義3、5)
狭い意味でのゲーム>競技 (ジェスパージュールの定義1、2、3、4、5)
で、ジェスパージュールの定義6は無くていいんじゃないの?
もうこれでいいんじゃないかと思えてきた。
コンピューターゲームは審判、ときに対戦相手をコンピューターが務めるもの。
どうですか?
>>563 斜め読みの横レスだけど
テトリスのブロックと比較されるべきなのは小説のページをめくる行為じゃなくて
小説の登場人物の行動じゃないの?
>>562 テレビゲームの場合に限るならプレイヤーと主人公は100%一致しないって言っていいんじゃない
画面上のオブジェクトとして目に見える形で描かなければ
両者の差は限りなく0に近いところまで埋まるだろうけど
>>555 最近面白いと思ったゲーム(ソフト)と言いながら、ゲームとしての面白さを一字一句
たりとも語っていないところが凄いと思った。その説明だと、そのゲームソフトをノベ
ライズしたものを説明しているのと全く区別がつかない。
>>565 この場合、ページの内容は変わることがないので、変数ではなく定数。
ただし、例えば、パッと開いてそれが何ページだったか?
というような読み方を読者に強いる小説があったとしたら、
その場合はページも変数といえるが、それは普通の小説ではない。
>>566 いいや。あなたが言うのはゲームとストーリーを比較対象した時に、
「テトリスのブロックは小説の登場人物にあたる」ということだと思うけど、
俺は「小説を読むという行為はゲームではありえないのか」という疑問から、
最小限の構成要素として変数を見いだしているので、ちょと違う。
「小説をめくる」ことは「テトリスのブロックをまわす」
のとどう違うのか、という、そんなこと考える必要ねーじゃん的、
当たり前なことを一つ一つ検証しているのです。
ところで、小説のページ(文字、行でも可)のような定数と、
俺が前に潜在的資源と述べたテトリスの落ちてくるブロックの種類(の確率分布)とは、
どう違うものなのか。
この二つに共通するのは、「直接的に操作できない」ところ。
小説はどのようにめくろうと、違う言葉がが出てきたりはしないし、
テトリスをどのようにプレイしていようと、一本棒が出る確率があがったりはしない。
両方とも操作できないのなら、結局どっちも資源じゃないんじゃないの?
という指摘が(誰もしてないけど)成り立つと思う。
が、前も述べたように、テトリスのブロックの種類は、
もし一本棒が落ちてきた時のために穴を置いておこう、
というような対策を嵩じることが出来る。これは管理の一種。
これにより、一本棒が落ちてきた時に極めて有利な局面を迎えられる。
小説では、こいつが犯人らしいからセリフを覚えておこう、というのはあるが、
その対策によって有利な局面に変化する訳ではない。
PS2でデスティニー出すったって、PS版ならPS2で出来るだろ
ワロス、ナムコ頭おかしいんじゃにのwゲームキューブで出せよwww
>>567 同意。やっぱりストーリーとゲームの面白さは別ですよ。
>>568 なるほど。でも小説のページ数は定数ではありませんよ。
1,2,3,4P…と規則正しく変化する。
言わんとすることはわかりますが、こういう言葉は
読む人が誤解しないようにきちんと使ったほうがいいです。
テトリスの場合は、どこにどのような向きで落とすかという選択がある。(選択可能な変数)
小説の場合は、正しい読み方をする限り選択が無い。(選択不可能な変数)
管理というより選択という言葉にしたほうがわかりやすくなると思うのですがどうでしょうか?
それで次の質問ですけど、1〜10までの数が選べるダイヤルがあるとします
(金庫のダイヤルをイメージしてください)。これは資源であり管理可能な変数である。
このダイヤルを回して数を決定するという行為はゲームなのかゲームではないのか。
ゲームではないのなら何が違うのか(上の文のどこに間違いがあるのか)
解説をお願いします。
楽しければいいんじゃね?
そこで一本道の双六に話を戻してみる
テトリスよりは小説と比較しやすいとおもうけどどうか
574 :
566:2006/07/31(月) 01:11:49 ID:P2rSYZWG
>>568 んーいや 俺が言いたかったのは表現媒体、メディアについての話と
表現される内容についての話は分けた方がいいんじゃないかって事で
小説における「小説を読む行為」はテトリスで言うと「映像を見る行為」であって
小説を読む事がゲームじゃないのは内容じゃなくてメディアの再生方法について語ってるからじゃないか
…って事が言いたかった訳です
それと関連して 寧ろ小説を読む行為がゲームにならない場合考えなきゃいけないのは
その行為がどれだけ虚構性を帯びてるかという問題だと思う
例えば全てのページがランダムで乱丁してる本があったとすれば
その本を読む行為はある程度の遊戯性を持つだろうけど
世界中の本が乱丁してる世界があるとするならそれは普通の読書でしかないだろうし
>>571の自分の発言について
>>568を再び読んで
あー失礼。目的に対し対策を講じることが出来るから管理なのね。
単なるダイヤルは目的が無いから管理じゃない?
まあ、説明してもらったほうがわかりやすいだろうからお願いします。
で、潜在的資源ってのはテトリスの落ちてくるブロックの種類の確率分布で
明示的資源が画面上に見えているブロックってことだけど、
確率分布とはどういうことなのかわからなかったので調べてみたけど、
「確率分布(かくりつぶんぷ)とは、
確率変数の各々の値に対して、その起こりやすさを記述するものである。」
やっぱりわからない…
画面上には出現していないけれど、意識上には存在するブロックのことを
潜在的資源であるというなら、非常にわかりやすいのですがどうでしょうか?
>>573 いい誘導だと思います。
一本道の双六の場合どのような対策を講じることも出来ないわけですが、
ニセイチさんはこのことをどう思われますか?
流れも考えずに自分の考えを投稿します
私は「文化」の中の「娯楽」というジャンルの中にある「ゲーム」というモノは以下の条件を全て含むモノだと思います
1・絶対的に(人間の生活上において)無意味なモノでなければならない
(なぜならゲーム以前に文化というモノ自体が人間が生きる上であっても無くてもいいものの集合体だから)
2・実生活の上で生じた余裕(暇)を利用するもので無ければならない
(↑でなければそれは生活や仕事の一部であって少なくとも娯楽ではない)
3・何かしらの欲求を満たすものでなければならない
(娯楽とはそういうものである)
4・何かしらに対する対峙・挑戦でなければならない
(ゲーム(遊戯)とはそういうものである)
5・しかし実生活に多大な支障をきたすものであってはならない
(前提として勝った方がいいけど負けても構わないものでければならない
もしも負けて実生活に支障をきたすのであれば、それはもはや生存競争の領域であり
少なくとも暇を食いつぶすための娯楽の領域ではない)
(続きます)
577 :
576:2006/07/31(月) 04:25:07 ID:vTDR8C38
↑の条件から
・ちょっとした小遣い稼ぎ目当てでやっているパチンコは金銭欲を満たそうとしている「ゲーム」であると言えますが
生活を掛けてやっているパチンコは自らの生存を掛けている時点で「仕事」であり「ゲーム」とは言えません
・DSの料理ナビに関しても、実生活で役に立っている以上「遊戯道具」としてより「調理道具」の一つとして活躍して
しまうし、さらにこのゲームを買う人たちは料理を作るのを楽しみたくて買うのでは無く、調理という作業を楽に
こなしたいという生活上の理由があって買う人が殆どであるからやはり「ゲーム」ではなく「参考資料」であると
言えてしまうでしょう
・ムービーゲーはゲームに挑戦させて、報酬として綺麗な映像を見たいと思う人間の欲求を満たしているから
「ゲーム」であると言えるし、DSの脳トレも人間の最も基本的な欲求である知的探究心&クイズを全問制覇する
というという支配欲求を満たす事が出来ているのでやはり「ゲーム」と言えるでしょう
(続きます)
思いついたことをつらつらと打ってしまったのできれいにまとまってませんが
私ははこんな感じに考えています
あと”TV”ゲームの条件に関しては上の条件に
・プレイヤーが何かしら操作を加える事で展開していく映像(音響)作品
という条件を足した感じでおねがいします
こんな深夜に長文でスイマセン
>>576 何か欲求を満たす(3)、何かに挑戦する(4)のは、無意味(1)じゃないんじゃ
ない?どちらも満足(不満足)が得られるんだし。
つか、それゲームの定義じゃなくて、ゲームを取り巻く環境の定義か?
プレイヤーの心得?戒め?よくわからんが、かなりズレてるっぽいよ。
>>571、
>>575 細かいんだけど、俺は「ページ数」とは言ってないです。
ページとページ数は、ページ数の方がメタレベルが一個上(より抽象的)。
でもページそのものは(この場合は)変数ではない。
確率分布というのは、テトリスでは「各々のブロックが出現する確率」を示す。
テトリスだとブロックは何種類あって一本棒が次に落ちてくる確率は、というような意味。
テトリスだと各ブロックの出現確率は公平だけど、公平じゃないゲームも多いよね。
だから、確率の分布。まあ、メタルスライムといえば分かるかな。
(うっかり口にしたけど、ドラクエはあまりに複雑すぎるのでツッコまないでね)
それと、ダイヤルの例は結構重要な話かもしれない。
考えてみると、俺のいう「管理」にはベクトルがあるということが分かった。
ベクトルは、目的という言葉でも言い換え可能だけど、
目的からわざと外れていくという楽しみ方も考えるとベクトルの方が的確。
>>574 うん。メディア論としては俺は全く語ってないんで。
というか「メディアを再生すること自体がゲーム性を帯びることはないのか」
を考えた訳です。根本的すぎて分かりにくいかもしれないけど。
なんていうか、俺はこのスレッドでは汎ゲーム論的な立場からものを考えてます。
全てについて、ゲームかどうかを検証するという。バカだねーw
>>573 うん。みんなそうだけど、やはり完全確率ゲームは悩ましいね。
苦しいけど、「主観的には管理している」(つもりになってる)ってのはどう?
よく、麻雀のツモの時、お祈り的なことをしてからツモる人いるじゃん。
そんなことしたって物質としてのパイに変化があるはずがないんだけど。
つまり、補足というか前提の説明として、
「人間は自らの手で何かを行う時、それが完全な確率であるとは思わず、
なんらかの関与が可能であると信じてしまうバイアスがある」とつけたしておく。
そう考えると、多分、完全確率ゲームはやっている内にゲーム性が落ちていく。
完全な確率だってことを徐々に学習していくからね。
じゃあこういうのはどうかな
止まるまでそのマスで何がおこるか分からない双六と小説の比較
>>576-578 1について、例えば無人島サバイバルゲームがあったとして、
そのゲームをプレイすることによってサバイバル術の知識が
自然と深まるといった場合はどうでしょう?
また、人間の生活上において絶対的に無意味なモノとは
どの程度のことを言うのでしょうか。
>自らの生存を掛けている時点で「仕事」であり「ゲーム」とは言えません
つまり、同じ行為でも人によってゲームかゲームでないか変わると。
これ結構重要なポイントかもしれません。
>>579 >よくわからんが、かなりズレてるっぽいよ。
いや、そんなことないと思いますよ。
>>580 >「ページ数」とは言ってないです。
これは失礼。しかし言い訳がましくなりますが、ページというとページ数の意もあるようです。
紙に書かれている内容は変化しないので定数である、ということでよろしいでしょうか?
>ページとページ数は、ページ数の方がメタレベルが一個上(より抽象的)。
これ、わからないです…メタレベルが上ということは、
より高次元とか包括するという意味だと思いますが、より抽象的とはどういうことでしょうか?
すみませんこういった用語に慣れてないもので…
>目的からわざと外れていくという楽しみ方も考えるとベクトルの方が的確。
目的からわざと外れることも目的と考えれば、目的でよいのでは?
ベクトルといってもある一点を目指していることには変わりは無いでしょうし。
とりあえずこの辺でニセイチさんのゲームの定義をある程度まとめてみませんか?
で、今日英和辞典を引いてみて発見したんですが、
gameとは
1、(ルールのある)遊び、娯楽、遊戯(おにごっこ、かくれんぼなど)
2、試合、競技…
(3〜9は略)
と書いてあって、単なる気晴らしのための遊びは『play』だそうです。
となるとやっぱりゲームにおいて
ルールというものは重要な外せない要素のようです。
586 :
579:2006/08/01(火) 12:07:49 ID:IH+jdDEq
>>583 ほんとかい?自分には4しかゲームの定義らしきものは見当たらない。
2や5がゲームの定義とは到底思えないんだけどなぁ。プレイヤーの生活が
ゲームの定義に影響するってのを肯定するなら、それを説明してほしいな。
ゲームの定義じゃなく、娯楽の定義か?あぁ、書いた人もそう言ってるや。
よし、俺もちょっと考えてみた
ゲームらしいゲーム
第三者(ゲーム制作者)によって勝敗(クリア)の条件が設定され、それに挑戦するもの
ゲームらしくないけどゲーム
第三者による勝敗の条件が無く、自ら課題を設定しそれに挑戦するもの
※ヤリコミは自ら課題を設定する場合も多いが、勝敗の条件は
あくまで第三者が設定した中での課題となるため前者に属する
※混在するものはそのバランスによってどちらかに属する。
脳を鍛えるに通信で相手と勝負できるからといってメインはゲームらしくないけれどゲームならば後者
逆に、相手と勝負する以外のことをやらないユーザーにとっては前者。ユーザーのプレイスタイルにも大きく影響する。
つまり「人それぞれ」
>>587 お、私も似たようなこと考えてました。
とりあえず途中ですけど発表してみます。
大まかな定義
ゲームとはルールのある遊びまたは競技である。
遊びであるか競技であるかはプレイヤーの取り組み方によって異なる。
娯楽として行えば遊びの要素が強くなり、真剣に行えば競技の要素が強くなる。
ゲームに必要な条件
1、ゲームにはルールがある
ルールとはゲームの進行や禁止事項を設定したものである。
ゲームに設定された目的(勝利条件、ハイスコア)もルールである。
同じ行為でも人によって目的が異なることもある。
例えば、テトリスにおいて消去したラインの数を目的とすることもあるし、
ハイスコアを目的とすることもある。
また、場合によってはより低いスコアを目的とすることもあるだろう。
その場合はプレイヤーが新たな目的を設定したと考える。
目的や禁止事項が変更された場合、同じ行為(例えばテトリス)
であっても違うゲームであると考えるべきである。
通常ゲームにおいて禁止事項を行うとペナルティを課せられたり
負けとなるが、コンピューターゲームにおいては禁止事項があらかじめ
できないようになっているものが殆どである。
例えばテトリスにおいて、
ブロックが上まで積みあがったにもかかわらずゲームを続けることは出来ない
ブロックが1列揃っていないにもかかわらず消してしまうことは出来ない、などである。
とりあえずここまでです。
そもそも一人遊びをゲームと呼んでいいのかって思うけどね。
欧米ではサッカーや野球の試合を「ゲーム」と呼ぶ。
あとカードゲーム、テーブルゲーム、ボードゲームあたりは
昔からゲームと呼ばれているので文句無しにゲームと呼べると思う。
あとゲーム理論ってのもある。
wikiには
・複数の行為主体が存在する(互いに競合関係にある寡占市場下の企業など)
・各行為主体は、特定の状況下で各自の目的を達成するべく行動を選択する(特定の市場における商品価格の調節など)
・行動が状況や相手に影響を与える
・各行為主体の目的、選択できる行動の種類、状況などは数学的に記述される。
これらの特徴を持つ抽象モデルを扱う学問がゲーム理論、とある。
(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E7%90%86%E8%AB%96)
昔からゲームと呼ばれるサッカーや野球、カードゲーム、テーブルゲーム、ボードゲーム等はこれらの条件を全て満たす。
話がややこしくなってきたのはコンピューターゲームが登場してから。
誰かが遊びに使うコンピューターソフトを「ゲーム」と呼んだのがそもそもの誤り。
例えば「インベーダーゲーム」はゲームと呼べるのか?
というとかなり疑問ですよ。
まず複数プレーヤーが競うという形式でない。基本的には自分との戦い。
スコアはあっても他人のプレイに直接的に影響を与えるものでない時点で
古典的な意味でゲームと呼ぶに相応しくない。
しかし、じゃあゲームと呼ばないとするとなんと呼ぶのか?っていう問題があると思う。
競技というとスポーツみたいだし、遊びと呼ぶと競う感じではなくなる。
ゲームに代わる適切な言葉が無かったから、無理矢理ゲームの定義を広めて
「コンピューターを使った遊び」を一語で表せる言葉を作っただけでしょう。
しかし、そもそも「何がゲームらしいか?」なんて、はっきり言って大した問題ではないだろう。
所詮言葉の問題。誰かが「あれはゲームらしい」と言って、その定義が広まればそれで
「ゲームらしい」となってしまう。
例えば北朝鮮で金正日が「これからは食事をゲームと呼ぶ!」
「これからは睡眠をゲームと呼ぶ!」と言えば、
北朝鮮ではそういう定義になってしまう可能性がある。
何かの明確な事実を「ゲーム」と呼んでいる訳ではなく、単なる言葉の定義の問題。
しかし、「コンピューターゲームは古典的な意味のゲームには相応しくない」
「所詮言葉の問題なんだから定義次第ではどうにでも変わる」
とか言っても、現実的に日本では「ゲーム」という言葉が浸透してしまっている。
古典的な意味でのゲームと、コンピューターゲーム両方の定義を満たして
初めてきちんとした定義が可能になると思うが、
しかし「コンピューターで遊ぶゲーム」という風な単純な定義では最早説明不能なほど
ゲームの定義がぐちゃぐちゃになってしまっているのは既に明白です。
狭義の意味での「ゲーム」とは
>>590に書いたゲーム理論で扱う抽象モデルである事は
個人的には疑う余地は無いと思っている。
で、コンピューターゲームで扱うゲームの定義まで含めた定義を完成させれば
古典的な意味でなく、現実的な意味でのゲームの定義になると思う。
コンピューターゲームの背景にある共通項は何?ってのが問題。
狭義の意味でのゲームはこの中に含まれてしまうはずなので
コンピューターゲームの背景にある論理を見つけれれば良いと思う。
さて、コンピューターゲームの背景にある共通的な論理は何か?
・ストーリーの垂れ流しではなく、プレーヤーからのインプットがある。
ギャルゲーのような、ちょっとした選択肢が出てくるだけのゲームでも
プレーヤーからの入力があるってだけでゲームと呼ばれている訳だろ。
しかし、全くプレーヤーからのインプットが無い娯楽を「ゲーム」と呼んでいるのは見たことが無い。
ここで線引きが出来る。
>>591 コンピュータが対戦相手の役目を果たすようになったと考えれば、
すべて解決するのでは?
ゲームにおいて、プレイヤー同士が対等の立場でないものもある。
例えば、泥警とか(泥棒と警察)。
インベーダーゲームだと、インベーダーと砲台。
>>592 >例えば北朝鮮で…
それを言い出したらすべての議論が成り立たなくなってしまう。
一般的な共通認識上のゲームで考えて欲しい。
コンピューターは人間の対戦相手にはなり得ないよ。
それは審判とプレーヤーを兼ねているようなものだろ?
CPUは強くしようと思えばいくらでも強く出来る。
そんな相手に本気で戦おうなんて奴はいるの?
また、戦ったところで何の見返りがあるのか?って問題もある。
勝っても誉めてくれない。仲良くなれない。単に戦うだけ。
今のCPUは単にプレーヤーを楽しませるために存在するものであって、
そういう存在は
>>590で書いた
>・各行為主体は、特定の状況下で各自の目的を達成するべく行動を選択する(特定の市場における商品価格の調節など)
これに反する。
ゲームとは競うもの。
しかし、コンピューターは人間と本気で競ってない。
お互い最善を尽くさない勝負をゲームと呼べるの?
個人的には呼べないね。
>>597 そうですよ。
審判とプレイヤーを兼ねることなんてしょっちゅうあるじゃないですか。
囲碁や将棋をやるときにわざわざ審判を用意しますか?
>>598-599 能力を制限された状態で目的を達成すべく行動していると考えればよいのでは?
>>591 >基本的には自分との戦い。
これ結構ポイントような気がします。
インベーダーゲームは砲台とインベーダーがいて、
砲台はインベーダーにインベーダーは砲台に影響を与えるからよいとして
陸上競技はゲームと呼べるのか(または呼ぶのか)と思ったんです。
競技だからゲームと呼ぶのか?ゴルフやダーツはどうか。どう思いますか?
>>600の修正
>>597 >コンピューターは人間の対戦相手にはなり得ないよ。
対戦相手になり得ますよ。
>それは審判とプレーヤーを兼ねているようなものだろ?
そうですよ(以下は
>>600のとおり)
囲碁や将棋は既にルールがあるから判定が必要でないだけ。
しかしコンピューターゲームの場合、ルールを決めてるのもコンピューター、
舞台を準備するのもコンピューター。何から何までコンピューターが準備してるのに
その舞台の中に人間が飛び込んでも勝てるわけが無い。
>能力を制限された状態で目的を達成すべく行動していると考えればよいのでは?
何故、能力を制限する必要があるのか?制限しないと人間が勝てないから。それだけだろ。
別にそういうルールがあるわけでない。
要はコンピューターは本質的に行為主体にはなり得ないといいたい訳だよ。
「CPU」とは、コンピューターそのものと競うのか、あるいは
コンピューターが擬似的に作り出した対戦相手と競うのか?って違いだな。
ここで言う「擬似的に作り出した対戦相手」は、最善を尽くしていると言えるのか?
というと、はっきり言って尽くしているとは言えないと思うが、
では、最善を尽くさないゲームプレーヤーは行為主体になれるのか?
イメージ的には囲碁や将棋を覚えたての子供が最善とか考えずに適当に駒で
遊んでいるだけって感じで、「ゲーム」というより「遊び」。
「ゲーム」というのは、「目標に向けお互い最善を尽くし争う」というニュアンスを含むと思う。
ゲームっていうのは最低2人以上いないと成立しないものだな
コンピューターゲームってのはその人間の役をコンピューターがやってくれるから
一人でもゲームとして成立するんだと思うね。
スポーツゲームがまさにそれだと思う。コンピュータが相手をしてくれている。
マリオも敵を動かしたりっていうことをコンピュータがやってくれる。
ソリティアだって爆弾の配置を人間にばれないようにやってくれているからゲームとして成り立つ。
>>602-603 ルールを決めているのはコンピュータじゃない。コンピュータにそう
制御するようプログラミングした製作者だ。だから勝てるかどうかは
製作者のさじ加減次第。行為主体はコンピュータじゃない、ルールだ。
コンピュータそのものと戦うってなんだ?2001年宇宙の旅か?コン
ピュータはプログラムに従っていつでも最善を尽くしている。ヌルい
設定されたコンピュータとプレイヤーが互角の戦いをする。ソフトの
評価で、良バランスと言われるやつだ。これに何の問題があると言う
のか。
ゲームの定義において、それがコンピュータで成されているかどうかは
全く関係が無い。
>>604 ソリティアって書いたのはわざとかい?ソリティアはトランプでやる
1人遊び用のルールだな。1人でやるゲームの例として。
例えば、野球の試合でピッチャーが突然ピッチングマシーンを
持ち出してきたらどうなるのよ?
「そんなの持ち出してきてずるいぞ」って抗議に
「君等でも打てるように球速調整するから大丈夫」
って言い訳なんか通用しないだろ。
あと、チェスの試合でコンピューターが世界ランク一位の奴に
勝った事があったと思うけど、じゃあコンピューターは世界ランク一位に
ランキングされたのか?というとされてないよな。
格闘ゲームなんかでも、対CPU戦に熱くなっている奴がいるの?
対人戦に熱くなる奴はいても、対CPU戦で熱くなっているやつ奴は見た事がない。
ゲームには競技性があると思うけど、競技に参加するプレーヤーは
競技能力というか、競技に参加するための前提条件がある程度一致している必要があると思うよ。
人間とコンピューターじゃ基礎的な能力が違い過ぎる。人間と同等に扱えるわけが無い。
コンピューターが競技のための場だけを準備するのなら問題無いけど
プレーヤーの代わりまで行えるのか?と言うと凄い疑問・・・
>>604 マインスイーパはゲームじゃないでしょ?
だってあれ競技じゃないから。
マリオも同様にゲームじゃない。他人と競うものじゃないから。
マリオはクッパやクリボーと競うんだ〜というような意見は
>>607で書いたように
本質的にコンピューターは人間相手になり得ないから却下。
「競う」というのはプレーヤー同士の前提条件がある程度一致している必要がある。
マリオの場合、ルイージとマリオが「どっちが先にステージクリアできるか競う」
という内容なら「ゲームプレーヤー」と呼べるけど、
クッパやクリボーはゲームプレーヤーにはならない。
>マリオの場合、ルイージとマリオが「どっちが先にステージクリアできるか競う」
>という内容なら「ゲームプレーヤー」と呼べるけど、
間違えた。
正しくは↓
>マリオの場合、ルイージとマリオが「どっちが先にステージクリアできるか競う」
>という内容なら「ゲーム」と呼べるけど、
マインスイーパーはルービックキューブやジグゾーパズルと
同様に「玩具」にカテゴライズされるべきもの。
ゲームという言葉はもう少し競技性が高いものを指しているので
マインスイーパーはゲームとは呼べない。
同様にテトリスなんかもゲームと呼べない。
・・・という風に考えていくとコンピューターゲームの大部分は
実はゲームと呼べない、という結論になると思う。
>>607 >例えば、野球の試合でピッチャーが突然ピッチングマシーンを
>持ち出してきたらどうなるのよ?
それはルール違反だからずるいんじゃないの。
コンピューターゲームはピッチングマシーンを使いますよという前提で
人間のプレイヤーが納得して試合をしているようなもの。
>コンピューターは世界ランク一位にランキングされたのか?
それはランキング戦でなかったのか、そもそもコンピュータは
ランキング登録資格がないのか、であってコンピュータが
人間の対戦相手とはならないということの証明にはならない。
それどころか逆に対戦相手として機能していることの証明になる。
>格闘ゲームなんかでも、対CPU戦に熱くなっている奴がいるの?
いる。
>>611 玩具というカテゴリーに入るかどうかはわからないけど、
パズルではあるだろうね。テトリスもパズルだろう。
パズルであってゲームなのか、パズルでゲームでないのか、
今のところの判断基準は感覚的なものだから、
ゲームとは何なのか、パズルとは、玩具とはという定義づけを
することがこのスレの当面の目標といえるだろうね。
>>602 >何故、能力を制限する必要があるのか?制限しないと人間が勝てないから。それだけだろ。
そのとおり、勝つにしろ負けるにしろ実力が違いすぎると面白くない。
>別にそういうルールがあるわけでない。
プログラマーがそのゲームにおいてはそうする(手加減する)
というルールを新たに設定したと考えればよい。
>要はコンピューターは本質的に行為主体にはなり得ないといいたい訳だよ。
コンピューターが行為主体にはなり得ない理由を教えて欲しい。
今のところそのような記述はみあたらない。
>>603 むしろ名人が指導のために手加減しているイメージの方が近いのでは?
手加減している場合やお気楽にお気軽にプレイしている場合はゲームとは言えないのだろうか。
目標に向けお互い最善を尽くし争わなければゲームと言えないのだろうか。
私にはわからない。みなさんはどう思いますか?
>>588 どんなゲームでもルールに描かれているのは運動の終了時どちらかが勝利するという事までであって
勝利や敗北自体の価値はルールには記入されていない その価値を決定するのはプレイヤーの個人的・社会的状況
だからルールだけから一定の目標を論理的に導き出すのは不可能 目的はルールじゃない
ルールによって決定するのは起こり得る運動の全て どう始まり、何が起こり、いつ終わるかであって
目的とはそのルールに加えプレイヤーがゲーム外から持ち込む価値によって決定される一種の解釈
そう考えれば、たとえゲームがゲームである条件に目的が必要だとしても
その目的が決められた何かである必要は無いっつーのは自明
逆に言えば目的が先鋭化されやすいルールが設定されているゲームほど解釈のぶれが少ない分
見ていて面白いプレイが期待出来るとか、ゲームらしいゲームであるとか 言えるかもしれないと思う
一番分かりやすいのは命がかかってる場合
>>609 その「マリオとルイージ」のプレイヤーが「過去の自分」と「今の自分」でも何の問題も無いんじゃないか
>>602 本質的に行為主体になり得なくても見かけ上行為主体に見えれば充分だよ
今このレスを打ち込んでる俺が15歳美少女かチンパンジーかコンピューターか
本質的に証明出来ようが出来まいがお前の知った事じゃないのと同じだ
>>615 >だからルールだけから一定の目標を論理的に導き出すのは不可能
ルール設定者が意図したゲームの目的というものはあると思う。
目的というよりは目標とした方がニュアンス的に正しいかもしれない。
対戦形式のゲームであれば、一般的には勝利を目指すことが目標といえる。
勝利にはどういう価値があるかということがなぜ記されていないのかを考えてみると、
勝利に価値があるということは常識であるからだと思う。
以下の文は
>>588に入れようか迷って削ったことだが
◇ルールには常識的なことは書かれていない。
◇例えば、スポーツ競技において、地球上で行うといったことや、
◇カードゲーム中に対戦相手を殴ってはいけないといったことは
◇常識の範囲内なので書かれていない。
◇つまり常識の範囲内の行為を規定するものといえる。
>その目的が決められた何かである必要は無いっつーのは自明
その件に関しては
>>589に書いたとおりです。
ミスで名前を入れ忘れましたが
>>589を書いたのも私です。
>>611 テレビゲームの大部分が自分の定義ではゲームと呼べないのなら、それは
定義が間違っているということなのでは?
>>614 ゲーム(のルール)が主でプレイヤーが従。プレイヤーからゲームがどう
見えたって、ゲームが変わる訳じゃない。誰が指しても将棋は将棋だよ。
ゲームの競技性は、プレイヤーの姿勢からではなくゲームのルールから
生まれるものでないか?プレイヤーの姿勢でゲームの結果が変動することは
あるが、それはプレイヤーがゲームの要素として切り離せないものという
のを示しているだけのこと。
ゲームの定義として「プレイヤーの行動が結果に繋がる」って言っちゃえば
済むんじゃないの?本気だろうと手抜きだろうと。
>>584 ここ数日色々考えたが、大きな転向として「潜在的資源」説は捨てました。
ゲームとは仮想された資源を管理すること、というのが以前の俺の説だけど、
この言い方をよく考えると、潜在的なものは資源ではなく環境である。
というのは、資源の定義としてもっとも分かりやすいのは、
「プレイヤーが関与できてその関与により変化するもの」というものだろうけど、
潜在的資源は、プレイヤーは関与可能だけど関与によって変化することはないから。
つまり、テトリスでどのブロックが次に落ちてくるかの確率は、不変なんだ。
むしろ、潜在的資源として捉えていたものは、環境である。
環境はルールに近いけどルールそのものではない。
本物のゴルフ。グリーン手前に池がある。これは環境であるがルールではない。
今、細かい部分は抜きにして、端的に「ゲームとは何か」と問われれば、
「ある環境下で、ルールで定められた方法により資源を管理することで、
その資源の増減に関与すること」かな。
八百レス、いや、亀レスになってすまそw
>>621 そろそろ、
ライトにも分るような言葉を使って定義したらどうだ?
難しいことをグダグダ(゜Д゜)ウゼェェェェ!!
遊びがゲームなんだよ
遊び
遊んでればなんでもゲームじゃ〜
>>587、
>>588 やり込みは、単に「ルールを増やしただけ」でしょ。
単独プレイヤーのゲームの場合、勝手にルールを付与しやすいからね。
あとは、
>>620氏の言う通り。態度ではなくルールありき、だと思う。
>>590 ゲーム理論はそもそも「ゲーム時の駆け引きを数学的に説明する」理論。
だからあなたの主張とは全く逆に、コンピュータでも実はゲームをプレイ出来る、
ということになるんですよね。カンとかじゃなくて数学的アルゴリズムなんだから。
>>615 サッカーで「主審が試合終了の笛を吹いた時にリードしているチームが勝ち」
というような勝利条件が書かれるよね。これはゲームを行う上での目的でしょ。
目的がルールではない、と主張している人たちは、サッカーでも野球でも何でもいい、
知らない人に「どんなスポーツなのか」説明してることを考えてみよう。
>>622 そんなに難しいかな…すんません。努力します。
でも、関係ないけど「分かりやすいのが一番」ってのは俺は結構疑問に思ってる。
やっぱり、厳密さを求めた場合、難しくなるのは仕方ない。
法律文とか、数学の公理とか、どうやっても簡単にはならないよ。
(そんなに大したものを書いてる訳でもないのは承知してるw)
剣と魔法のファンタジーです!
難しいってより言葉の羅列で内容が薄い
氷の溶けたカルピスのようよ
>>614 >コンピューターが行為主体にはなり得ない理由を教えて欲しい。
>今のところそのような記述はみあたらない。
・コンピューターには勝利への欲求が無い。
・コンピューターと人間では基礎能力が違い過ぎて勝負にならない。
・人間側もコンピューターなんか相手にしても殆ど欲求を
満たせない事が解っているから誰も真面目に相手しない。
この辺が理由かな。
行為主体というからには、ゲームを遊ぶための動機がまず必要だろ?
しかしコンピューターにはゲームを遊ぶための動機が無い。
そもそも意思が無いのだから欲求もあり得ない。
欲求とは生物だけが持つもの。
例えば将棋。
将棋でCPU相手に真面目に勝負してる奴がどれだけいるのかと。
対人戦で勝つための練習として対CPU戦を遊ぶ奴はいるかもしれないが、
対CPU戦を「すっげー面白い!!」とか言って熱く将棋を指している奴は見たことが無い。
(これはスポーツゲームや格闘ゲームなどでも同じ)
人間側はCPUを行為主体と見なす事ができないので真面目に相手しないのだろう。。。
>>616 >今このレスを打ち込んでる俺が15歳美少女かチンパンジーかコンピューターか
>本質的に証明出来ようが出来まいがお前の知った事じゃないのと同じだ
本当に「知った事じゃない」と言い切れるの?
人間相手に勝つのとCPU相手に勝つのとでは勝った時の欲求満たされ具合が違う。
「人に勝つ」のは人の本質的な欲求を満たすが、「CPUに勝つ」のは殆ど人の欲求を満たさない。
欲求を満たさないという事は、つまりゲームを遊ぶ動機が無い、という事。(欲求と動機はほぼ同義語)
>>619 ゲーム → 複数人で遊ぶ競技性の強い娯楽
(娯楽だけでなく、ワールドカップやプロの棋戦など大真面目な勝負事も含まれる)
パズル → 一人で遊ぶ娯楽。知的難易度は高め。
玩具 → 一人で遊ぶ娯楽。パズルと比べるとより感覚重視で楽しむ娯楽。
大昔はこんな具合で、娯楽の中でも色々カテゴリーがあったのだろう。
ゲームとパズルと玩具は全て別の定義だったのが、
コンピューターで遊ぶことを全て「ゲーム」と呼んでしまったことが過ちの元。
例えば、コンピューターで遊ぶパズルの事を「パズルゲーム」と呼んだりするが、
「ゲーム」と「パズル」は別な遊びのはずだろう。
それが何でパズルはゲームの一ジャンルみたいな扱いになってしまっているのか?
本来なら、「コンピューターで遊ぶゲーム」「コンピューターで遊ぶパズル」
「コンピューターを使った玩具」という風に呼ばれなければいけない。
RPGはコンピューターを使ったおままごと。
ギャルゲーはコンピューターを使った恋愛シミュレーター。
ノベルゲーはコンピューターを使った小説(選択肢付き)。。。
という風に、何でもゲームゲームと言わずに別の表現でカテゴライズすべきだな。
そうするとスッキリする。
しかし現状コンピューターを使った娯楽は何でもゲームと
呼ばれているわけだから、「複数人で遊ぶ競技性の強い娯楽」だけを
ゲームと呼ぶのは実態にそぐわないわな。
コンピューターを使った娯楽は何でもゲームと呼ばれているのなら、
ゲームの定義付けを行うのは即ち娯楽を定義付ける行為とほぼ同義。
ただ、このスレで議論しているのはゲーム「らしさ」なので、そうすると
古典的なゲームの定義(
>>590に挙げたようなこと)を満たすものが
ゲームらしいと呼べるだろう。
シューティングとかアクションは?
それっぽく言えそうな物だけあげられてもな。
シューティングは旧来の娯楽には無い遊びかもね。
プレーヤーへの覚醒水準に強く影響を与える事に特化したジャンルという意味ではアクションに近い。
ただ「シューティング」と名のつくとおり何かを撃つという要素があるというだけ。
アクションの一ジャンルに含めていいかもね。
アクションは機能的には「玩具」と似ている。
シューティングと同様プレーヤーの覚醒水準を上げる機能が強いが
シューティングより覚醒を抑え感情価を優先することもある。
(最近はストーリー付きのアクションがほとんど)
アクションゲームを「玩具」と呼ぶのは最適ではないかな・・・「遊び」と呼んでもいい。
何故「遊び」と呼ぶのか?というと、有名なエリスの最適覚醒理論があるから。
(「遊びとは最適覚醒を維持したいという動機付けによる行為〜」というやつ)
ただ、最適覚醒、つまり「暇潰し」への欲求が何かを遊ぶ動機付けになる、
という理論は暇潰しが溢れる現代ではあまり有用じゃないと思うけどね・・・
現代では暇潰しという欲求はかなり満たされてしまっているので暇潰しより快楽を優先すべき。
つまり「遊び」より「ストーリー」を重視しろと言いたい訳だ。。。
ちなみに欲求による娯楽の分類も不可能じゃないかな。。。
ゲーム → 勝利への欲求、他人と仲良くしたいという欲求
パズル → 主に最適覚醒の維持
玩具 → 主に最適覚醒の維持
アクション → 主に最適覚醒の維持
映画、小説などストーリーメディア全般 → 多様(描かれる仮想世界の欲求による)
てな感じ。ただ最近ではネットが猛威を振るっているので
最適覚醒の維持という欲求をベースにするのは
一部のケース(外出先で暇な時間など)を除いてあまり得策じゃない。
映画等のストーリーメディアよりゲームが落ち込んでいるのは
ベースとする欲求に問題があるのかもね。
>>639で「ゲームが落ち込んでいる」と書いたのは「コンピューターゲームが落ち込んでいる」、という意味です。
古典的な意味でのゲームは実はそれ程落ち込んでいないと思う。
暇潰しを快楽の源泉にしてきたコンピューターゲームは落ち込んで当然だが、
人間関係をベースとした快楽は未だに根強いと思う。
638 :
636:2006/08/03(木) 23:22:41 ID:QN/+IUqW
>
>>639で「ゲームが落ち込んでいる」と書いたのは「コンピューターゲームが落ち込んでいる」、という意味です。
>>639じゃなかった
>>636だった・・・ タイプミス。
>>621 なるほど、環境ですか。
ゴルフの場合は追加ルールとして処理すればよいのでは?
大きな大会の場合、○○カントリークラブの18ホールを何ラウンドして〜
といったものはルールにあるはずです。
>>624 目的というと「楽しむため」とか「お金を稼ぐため」みたいなことと
受け取る人が多そうなので目標の方がいいのかなと思います。
>>625 簡単に説明できるならそれに越したことはないですよ。
たぶんわからないっていう人は、資源って?管理って?増減って?
という感じだと思うので、それぞれの説明があれば理解できると思います。
実際、私もそれだけの説明ではわかりませんし。
>>628 >・コンピューターには勝利への欲求が無い。
欲求が無くても行為主体にはなれる。例、ピッチングマシーン
人間の例がよいのであれば、無理やりやらされる勉強、
他の2例は行為主体になれない理由とは関係がありません。
それにコンピュータ相手のゲームを楽しんでプレイする人はたくさんいます
(少なくともここに一人います)。人間が相手の方がより楽しいだけです。
ID:QN/+IUqWさんの書き込みは全体的に自論の上に自論を重ねているような
印象を受けるので納得し難い。
意見を一気に書ききらずに、2〜3レス書いてみて
他の人からの反応、反論を待ってみるのもよいのでは?
自分でゲームという言葉を定義するのは自由だけど
その定義が便利でない限り他人に納得させることは難しいよ
それに遊びのための道具をさす「玩具」という言葉を遊びの種類分けに使うのは混乱を招くだけ
>636の区分は
対戦型ゲーム、パズル型ゲーム、遊戯型ゲーム
とした方が分かりやすいと思うがね
あとRPGはコンピューター以前からある言葉だということは知っておいた方がいい
考えてみればTRPGはゲームらしさとはなにかを考えるうえでいろいろ役に立ちそうだ
シナリオ重視<->乱数重視とか意思決定とその反映とか勝敗を超えた満足度とか
>>628 コンピュータは欲求が無くても動けるから、欲求が無いこと自体は問題
じゃないな。プログラムを与えることによってコンピュータは動き出す
から、プログラムが動機と言っていいだろう。
>>629 実は
>>616は俺んちの電子レンジのAIが勝手にレスしたものなんだけど、
あなたの欲求はかなり満たされちゃってるっぽいよ?(念のため言っとく
けど、これ凄ーく真面目なレスだよ)
>>628 コンピュータゲームの場合の対戦相手は開発者だと思うんだ。
>>632 根本的に、あなたの意見は間違っている。
まず、立脚点となっているゲーム理論だが、
>>624を読んでくれ。
ゲーム理論ってのは「古典的なゲームの駆け引きは実はコンピュータでも出来る」
という理屈なんで、コンピュータはゲームをプレイできない、
なんて真逆の方向に読み取られたら、フォン・ノイマンもさぞや無念なはず。
ちなみにノイマンはゲーム理論提唱者だが、現代型コンピュータの開発者でもある。
あと、勝利への欲求なんて、プログラムの一種。
ゲームにおいて可能な限り勝つことを命令すればいいだけの話ですよ。
コンピュータを擬人化してはいけない。命令のセットを計算するだけの存在です。
>>639 まだ自分の中で揺れているので、すっきり説明できないんです。
考え直したり違う言葉で説明できないか考えたりしてるんで。
その内、ちゃんと説明できる日が来ると嬉しいが…
>>639に追加レス
目標ではないです。目標は方向を示すだけであって、条件ではない。
目的というのが勘違いされやすいなら、勝利条件と言い換えてもいいけど。
>>642 僕もあなたの意見に賛成です。行為主体が何者であるか、というのは、
実はすごくどうでもいいことだと思うし、それがどうでもいいことだ、
ということを証明したのが、それこそゲーム理論なんですけどね。
さてと。考えがまとまらないので、語彙について少しずつですが説明します。
yahoo辞書の「資源」を引くと、いわゆる石油とかの普通の意味のものともう一つ、
「利用しうる物資や人材のこと」と書いてあることが分かります。
(この考えは「経済的資源」と呼ばれます)
さて。最近の経済学では実は「環境」も一種の資源とみなす人が増えました。
しかしゲームでは環境という言葉はあいまいになります。
なので、「潜在的資源」という言葉を思いついたのです。
もう一つ。管理についても説明しておきます。
yahoo辞書には3つの意味が載っていますが、その内の3、
「財産や施設などの現状を維持し、また、
その目的にそった範囲内で利用・改良などをはかること」が近いです。
(正しくは「法律上」とありますが、省きました)
ここで、スーパーマリオで具体的に説明します。
明確なのは、「スーパーマリオのライフ数」は資源であるということ。
この資源が0になった時、ゲームオーバーです。
ただし、資源を増やすことは目的ではない。先に進むことが目的です。
ということは、ステージ自体も資源とみなし、
ステージを右に移動していくというのを管理と考えられないか?
ところが、テトリスです。マリオのステージに当たるのは、
各ブロックの確率と考えます。でも確率は不変です。
対策を嵩じることは出来るのですが、それを利用と言い切れるか?
悩んでます。
テトリスの場合、積み上げられたブロックのほうがむしろステージにあたると思うが
自分の行動の結果で環境が作られてもかまわないんじゃないかな
ちょっと数値化しやすいものだけを資源ととらえてる嫌いがある
>>647 積み上げられたブロックが資源なのはもちろんですが、
それはむしろマリオでいう「ライフ」だと思ってるんですがどうでしょう?
ゲームオーバーの条件に関係するところも共通してるし。
数値化しやすいものだけを資源ととらえてる嫌いがあるのはその通り。
逆にいえば、数値化できないものを資源とみなしてもいいのか、という悩み。
数値化しにくい、ならまだしも、数値化不可能な場合は、
やはり環境としかいいようがないのかな、と思う俺がいるんですよね。
>>617 考えたけど「勝ち」という言葉の意味には「一方が一方より上になる」という価値観が含まれてるから
この点でルールから目的は絶対に導き出せない、という事は無いと思う
ただそれにしたって価値が高いとゲーム内で示されている、という事が
イコールプレイヤーにとって価値が高い、という事にはならないし
結局のところゲームの内部、ルールにおいて価値が定義される必要は無いっつー事には変わらない
勝ち負けと一切言わない代わりに
「ゴールに点を多く入れた方に1億円の賞金」としたってサッカーの本質は変わらないはず
極端な話一方のプレイヤーの目的が負ける事でも
「意味不明のプレイ」になるだけでゲームは成立する
そこの部分で言えば俺は
>>620と大体同じ考え方だと思う
>>618 >>589 プレイしてる途中でプレイヤーの目的が変わる事なんてしょっちゅうあるけど
その場合一々めまぐるしくゲームが変わってんのか?
最初から10行消せばゲームクリア、とか一定以上の得点でゲームクリア、とか
ゲームの側でルールとして決められている、なら
それはルール自体が違うんだからはっきりと違うゲームをプレイしてる事になるだろうけど
寧ろ 例えば全く同じルールのテトリスを
一定ライン消すのが目的でプレイする場合と一定以上の得点を挙げる事を目的にプレイする場合
それぞれは別に違うゲームではない、と考えた方が遥かにすっきりすると思う
文字数制限うぜー
>>624 >目的がルールではない、と主張している人たちは、サッカーでも野球でも何でもいい、
>知らない人に「どんなスポーツなのか」説明してることを考えてみよう。
説明の便宜上の問題でしょ それは
パイプらしきものが描いてある絵を説明する時には普通「これはパイプの絵だ」と説明するだろうけど
キャンバスの上に塗ってある絵の具がパイプを表していると述べるには
それがどこからどう見たってパイプにしか見えない場合でも解釈が行われている
俺がルールと目的の関係で言いたいのも似たような事
>>640 >欲求が無くても行為主体にはなれる。例、ピッチングマシーン
行為主体という言葉の問題だな。
ピッチングマシーンは行為主体かというと俺はそうは思わないよ。
そりゃ球を投げる能力があるならそれで行為を行う能力はあると言えるさ。
しかしそれは主体なのか?
主体って言葉は「主体性」という言葉にあるように
自分の意志、判断で行動するものを指しているだろ。
球を投げられればそれで行為主体なんだ〜という理屈は到底受け入れがたい。
>>644 ゲーム理論は言わばゲームに勝つための哲学みたいなものであって
コンピューターでもプレーヤーが務まる事を証明する理論じゃないだろ。
「ゲーム理論があればプレーヤーは人間でもコンピューターでも構わない」
と言いたいのであればそれは違うぞ。
ゲームにはまず前提(目標となる利得)が必要。
ゲーム理論はこの利得を抽象化して考えるけど、利得とは人間の欲求をベースにしている。
コンピューターとプレーヤーの利得が対立し、それに向けて争う事があり得るのか?という問題がある。
人間の欲求しかベースになり得ない訳であってコンピューターに欲求は存在しない。
>>644 >あと、勝利への欲求なんて、プログラムの一種。
> ゲームにおいて可能な限り勝つことを命令すればいいだけの話ですよ。
プログラムは欲求じゃないな。
単に決められた通りに動いているだけ。
可能な限り勝つとか言っても大抵コンピューターは手加減するように
調整されている訳であって、勝利に向けた欲求がコンピューターにも
存在しているというのなら手加減させるべきではない。
コンピューターに欲求は存在せず、人間側だけに欲求が存在するんだろ。
・暇だからコンピューターに相手して欲しい
・ゲームの練習相手になって欲しい
こういう理由で「遊んで」いるだけ。
「ゲームしている」とは書いてない点がポイント。
見かけ上ゲームしているように見えるだけで、
本質的にはプレーヤーとコンピューターの利害は対立していない。
ゲーム理論で扱うような利害の対立関係などは起こっておらず、
ゲームらしいとは言えない。
>>635 ストーリーの練りこみは、ストーリーメディアで出来ますよね。
だったらゲームにしかない持ち味で勝負すべきだと思うのですが。
これは好みの問題でしょうけど。
>>636 コンピューターゲームが落ち込んでいる理由は、
ゲームが複雑化しすぎてマニア向けになったからでしょう。
ストーリーメディアは誰でも楽しめますし。
>>644-645 ニセイチさんのやり方は難しいと思います。
目的、目標、うーん言葉ってムズカシイ・・・
>>649 たしかに、厳密に言えばルールによって
勝利条件は定められているけれども、目的は決定されてませんね。
で考えたのですが、人は一般的により困難であることに価値を感じる。
だから敗北よりも勝利に価値を感じ、低得点より高得点に価値を感じる。
(もちろんルール上低得点の方が困難であれば低得点に価値を感じる)
この価値観は常識といえる。
だから常識的に考えれば、勝利や高得点が目的となることが多いですね。
>>650 >プレイしてる途中でプレイヤーの目的が変わる事なんてしょっちゅうあるけど
例を挙げてください。主目的が変わることはなかなか無いように思えますけど。
そのテトリスの例だと、かなり近い別のゲームと考えた方が
私の中ではスッキリするんです。その目的の違いだけでも戦術が変わってきますし。
>>652 行為主体とは自分の意志、判断で行動するものしか指さないんですね。
言葉の意味を知らなかったので、申し訳ない。
では話を戻すことになりますが、コンピュータが擬似的な対戦相手を務めた場合
最善を尽くさない可能性が高いからゲームと呼びたくないと
>>599にありますが
最善を尽くすかどうかはゲームか否かに関係ないという意見が多いようですが
どう思われますか?
>>651 そのゲームを説明するということはそのゲームの趣旨を説明することで、
そのゲームの趣旨とはルールのことだと俺は思うが。
>>653 ゲーム理論は哲学ではない。数学の一種。だから明快な解法が存在する。
数学的に解決できるということは、コンピュータでもいいってこと。
何度も言うけど、あなたはコンピュータを擬人化しすぎなんだよ。
>>654 コンピュータに手加減させるというのは、プログラムを組む人間がやることで、
その上で与えられたプログラムに勝利を目指せという命令セットが入っていれば、
あなたのように擬人化して言うならば、コンピュータは、
与えられたプログラムの上で常に勝利への欲求に飢えているといえる。
>655
困難であることに価値を覚える、じゃなくて困難を克服することに価値を覚える、
のがより正確じゃないかと思います
ただのいいまわしの問題ではあるのだけど、困難であるだけでいいなら
難易度の高いゲーム=よいゲームになってしまいかねない
(シューティングや格闘ゲームなんかはまさにそう誤解して自滅した)
>>657 >数学的に解決できるということは、コンピュータでもいいってこと。
問題はここだな。
本当に「相手はコンピューターでも人間でもどっちでもいい」と言えるのかってこと。
ゲームの結果得られる利得とは具体的に何か、君は考えたことがあるのかね?
ゲーム理論は「利得とはプレーヤーの望むもの」という暗黙の前提条件があるからこそ成り立っている。
もしこの前提条件が成り立たないならゲーム理論そのものが成り立たないのでは?
問題はゲーム理論の前提条件の部分であってゲーム理論の内容ではないのだよ。
もし、ゲームで得られる利得が感情的なものである場合、
「プレーヤーは人間でもコンピューターでもどっちでもいい」
と言い切ることができるのかね?
一般的なゲームの場合、最終的には勝つか負けるかの
ゼロサムゲームである事が多いわけだが、何故勝利が目標なのか?
というと、「勝つと対戦相手に偉そうにできる」
「勝つと社会的なステータスが上がる」「勝つと賞金とか貰える」
と言ったあたりが理由だろう。
つまり、最終的には感情的なものが利得になっている。
(賞金は感情的なものじゃない、という反論が来るかもしれないけど
人の欲求を満たすものという意味では感情的である)
そして、これらの利得は「人間相手だからこそ」得られるものではないの?
コンピューター相手に勝って偉そうにしても虚しいだろうし
コンピューター相手に勝っても賞金出してくれる人いないし
コンピューター相手に勝っても社会的ステータスは上がらないだろ。
>>662で書いたゲーム(社会的ステータスや賞金のために勝負する)は、
物凄く「ゲームらしい」だろ。
こんなにゲームらしいものをプレイできないコンピューターが
行為主体となり得ると言い切るのはちょっとね〜
まあゲーム理論には協力ゲームもあるから、対戦だけがゲームかというと
そうでもないが、ただ
>>662で書いたような人間相手だからこそ意味のある
ゲームは間違い無くコンピューターにはプレーヤーが務まらない。
あと、ゲーム理論は数学と言っていたけど、数学的な手法を使っているだけであって
実際は経済学の一分野とされることが多いよな。
何故、数学ではなく経済学なのか、というと、利得とか扱っている学問だからじゃないのかな・・・
論理は数学だけど、前提条件に経済学的、あるいは心理学的な要素がある。
>>655 >ストーリーの練りこみは、ストーリーメディアで出来ますよね。
>だったらゲームにしかない持ち味で勝負すべきだと思うのですが。
これは異論アリ。
ストーリーメディアであってもゲームでも、最終的に目指すものは「面白さ」。
ただ、そこに到達するための手法が若干違うだけ。
ストーリーメディアは人間の共感性を利用して感情を伝達するのに対し、
ゲームは直接的に人間の欲求を満たす事もある。
(ただ最近はゲームであってもストーリーを利用するのが大半だけど)
>>655 >コンピューターゲームが落ち込んでいる理由は、
>ゲームが複雑化しすぎてマニア向けになったからでしょう。
まあそれもあるわな・・・
時には単純化して裾野を広げなければいけないけど、
オタがゲーム作ると「自分だったらこんな単純なゲーム嫌だ」って感じで複雑化しやすい。
>ストーリーメディアは誰でも楽しめますし。
いやそれは違うぞ。
確かに見てるだけという意味では誰でも楽しめるが、ストーリーを楽しめるかどうかは人によって大分違う。
一般的に人は、自分と立場が似ているキャラに共感しやすい。
これは心理学の世界では何度も語られている有名な話。
例えば、何故少女漫画を楽しむ男が少ないのか?
というと、ああいう話に男が共感し辛いからだな。
>>661-663 なんで既に否定するレスいくつもあるのに、また同じ様なこと書いてる
のかな?それじゃちっとも議論が進まないぞ。ちゃんと読め読め。
>>661 うーん。あなたが語る、ゲームにおける人間第一主義が理解できない訳じゃないけど、
そのバックボーンにゲーム理論を使うのは全く間違ってるってことなんだが。
ノイマンには、ダーウィン以来の人間第一主義打破の流れがあるからね。
ゲーム理論がなぜ数学ではなく経済学かといえば、数学的な新しさはないから。
でもそれを経済学に導入することで発展があった。
それと心理学に近いのは、まさに人間第一主義を打破する流れにおいて、
「数学的に正しいモデル(コンピュータ)」「と「人間」を比較することで、
人間がどれだけバイアスがかかっていて間違っているか、を検証できるから。
いわゆる認知心理学における「意志決定論」というのがこれで、
ゲーム理論の心理学的解釈として、「プロスペクト理論」ってのが2002年、
ノーベル経済学賞を受賞している。一応言っとくと俺はこの辺りの専門です。
「人間第一主義」の補足。この項目、興味なければ飛ばして読んでね。
人間第一主義は、要はキリスト教的「人間は特別な存在」って考えね。
最初に地動説により、地球が中心ではなくなった。
そしてダーウィンにより人間が生物の一種に過ぎないことが分かった。
フロイトにより「意志」は心の理論で説明がつくようになってしまった。
そしてノイマンやウィーナー、ミンスキーらにより、
人間(の知的活動)自体が、機能として説明できるようになった、ってこと。
ゲーム理論は、この流れの中で、「人間と人間の駆け引き・勝負のアヤ」も、
数学的に記述できると考えたところから始まったもの。
そしてノイマンは元々数学者だから、数学的アプローチは当然のことです。
ふー。さて、この土日、色々考えた。その結果、こんな言い方にたどり着きました。
「ゲームとは、利益不利益を予測して行動することのシミュレーションである」
まず、「資源」を「利益不利益」と言い換えました。
「利益不利益」だとベクトルがあるので、目的をも含意しているのがよい。
また、「管理」てはなく「意思決定」でもなく「行動」としたのは、
完全偶然ゲームのゲーム性を含めたかったからです。
そして、以前このスレで、ロールプレイ説を唱えていた方がいましたが、
そこからヒントを得て、「ゲーム=シミュレーション」と仮定。
つまり、現実ではリスクが大きすぎたり物理的に不可能であることを、
シミュレーションという形でチャレンジできるようにするのがゲームである。
抽象度が上がると、何をシミュレートしているのか分からない場合もあるだろうが、
テトリスでも、「積み重ねた苦労が一気に消える喜び」というような比喩で、
シミュレーションであることを語ることが出来ると思います。
連続投稿ごめん。あと一個だけ。
上の定義では、「ゲームらしさ」(ゲーム性)はとりあえず捨てています。
おそらく今の時点での予想では、この定義で言及されていない
「結果とその結果のフィードバック」が、ゲームらしさに関係しそうです。
この辺はまたもう少し考えます。
>>670 プレイヤーに対し、「利益不利益を予測して行動すること」まで押し付け
なくてもいいんじゃないかな?ルールの中でなら、何をやっても自由。
テトリスのルールを全く知らない人(幼児とか)が無意味に操作してる
のもテトリスと言えるのではないか?何故なら、テトリスはルールから
外れることが出来ないように出来ているから。
>>665 あなたはストーリーをもっと面白くしろ派でしたね。
>>655にも書きましたが、これは好みの問題なんで結論は出ないでしょう。
>>666 >オタがゲーム作ると「自分だったらこんな単純なゲーム嫌だ」って感じで複雑化しやすい。
そんなことではないですよ。
単に今のゲーム業界ではボタンをたくさん使うことが標準化しているからでしょう。
>ストーリーを楽しめるかどうかは人によって大分違う。
そういう意味で
>>655を発言したわけではないということはわかりますよね?
>>670 ちょっと強引な気がしますね。
何をシミュレートしているかわからない場合、
それはもはやシミュレーション(模擬実験)ではないですよ。
>>672 >テトリスのルールを全く知らない人(幼児とか)が無意味に操作してる
私はこれはゲームではないと思いますね。
(数値化可能な)目的が無いから。
675 :
672:2006/08/07(月) 22:27:44 ID:Vp7VrpSx
>>674 ルール上の目的ではなく、プレイヤーが目的を持っていないのはゲームじゃないって
言ってるのかな?目的無くプレイしたら、ゲームのルール上良い結果が出ない。それ
だけでないの?
>>675 >>655に書いたように、厳密にはルール上には目的が無い、
ルールに規定されているのは(多くの場合)勝利条件で
それを目的とする人が多い、としたい。
>>674では目的が違えば違うゲーム理論からあっさり答えてしまったけど、
一旦白紙に戻してゲームとプレイヤーの関係についても考えてみようと思う。
677 :
672:2006/08/08(火) 11:27:48 ID:bUxdeAwb
>>676 自分はゲームの定義において、プレイヤーの姿勢は一切問わないという
スタンス(
>>620も見てね)。なのでプレイヤーが幼児だろうとコンピュータ
だろうと、ゲーム自体は何も変わらないと思っている。
ルールという箱にプレイヤーがどんな目的で何を入れるのも自由。ただし、
入れた物によって出てくる物が変わるから、出てきた物に対する責任は
プレイヤーにある。
>>668 別に人間第一主義がどうとか言ってる訳じゃないよ。
単にゲームが成立する前提条件についての考察。
ゲームそのものは単なるシステムだからコンピューターでも
ゲームプレーヤーになることは可能であるのは明白だけど、
しかしゲームが成立する前提条件まで考えた場合、
本当にコンピューターは行為主体になれるのか?と考え疑問に思っただけ。
あとゲーム理論の例を出したのは昔のゲームの定義を解説するのに
使えると思ったから。それだけだよ。
ゲーム理論の内容について議論するつもりは全く無い。
過去〜現在で、ゲームの定義はこんなにも変わってしまった
↓
今は何でもゲームゲームと呼びすぎる。
↓
とりあえずゲームと確実に呼べるものは昔からゲームと呼ばれていたものだから
過去のゲーム定義がゲームらしいと言えなくない?
て感じで論理展開する予定だったのだよ。
>>669 ゲームは論理だ〜というような物言いはかなり違和感あるよね・・・
コンピューター同士がゲームをプレイして何の意味があるのかと。
人間第一主義の打破云々と語っていたが、人間第一主義なのは当たり前。
だってゲームとは人間の快楽のために存在するシステムだから。
ゲーム理論は単なるゲームに勝つための技術論に過ぎない。
俺は狭義のゲーム定義はゲーム理論の前提条件にあるような定義だと思っているけど、
広義の意味では「ストーリーを形作るための土台となるシステム」だと思っている。
で、ストーリーとは何か?というと「欲求充足過程」と思っている。
つまり「人間の欲求を充足させるための基盤となるシステム」がゲーム。
あくまで単なるシステム。
このシステム上で本当にプレーヤーの欲求が充足されるかどうかは
その上で展開されるストーリーの内容によりけり。
で、要は何が言いたいのかというと、「ゲームは人間のためにあるもの」。
ゲームに勝つための論理には数学も使えるけど、
ゲームそのものはあくまで人文科学的なもの。
>>673 >あなたはストーリーをもっと面白くしろ派でしたね。
>
>>655にも書きましたが、これは好みの問題なんで結論は出ないでしょう。
ゲームもストーリーが重要なのだけどね。
>>680でも書いたが、人の欲求を充足させるものはあくまでストーリーだろ?
例えばサッカーの試合が面白いかどうかは、当然ながらゲームの内容次第。
内容が一進一退の熱い勝負で、さらに試合にも勝利すればプレーヤーは大満足だろうが、
もし試合展開が一方的でボロ負けだったらつまらんよ。
サッカーというゲームシステムはあくまで基盤。
内容が面白いか?勝利の快感を味わえるか?は、試合内容(ストーリー展開)次第。
ゲームだからストーリーが駄目でも構わないというのは完全に違う。
何故、「ゲームはストーリーが重要でない」という誤解が生まれるのか?
というと、やはりゲームが拠り所とする快楽に問題があると思う。
最適覚醒水準の維持のため・・・要は暇潰しがゲームを遊ぶ動機になる事が多い。
適度な情報負荷を与え続けてくれる道具であれば何でも良かったのだけど、
しかし、現代では娯楽が溢れているわけで。
娯楽が増え、暇潰しの必要性が無くなったら真っ先に売れなくなるのが
ゲームであるのはまあ当然だわな。。。
>>673 >そんなことではないですよ。
>単に今のゲーム業界ではボタンをたくさん使うことが標準化しているからでしょう。
ボタンを沢山使う事も複雑化。
少ないボタンで解りやすい入力方法にする努力を怠ってんだろ。
>そういう意味で
>>655を発言したわけではないということはわかりますよね?
見てるだけだとルールとか覚えてなくていいから誰でも遊べる。
と言いたんでしょ。でもゲームだって誰でも遊べるよ。
ルールを覚えるくらい誰でもできる。
楽しめるかどうか人によってまちまち、というのはストーリーでもゲームでも同じじゃん・・・・
>>680 このスレは、そのシステムがどんな風に構成されているか、そこを上手く
言葉で表そうと考えているものだから、それ以外についての話はあくまで
蛇足に過ぎない。あなたの話はその蛇足部分がほとんど。
あなたがそのレスを書いてくれたおかげで、はっきりと指摘できた。
上手く言えなかったものが言えて、個人的にはかなりスッキリした。
>>681 プレイヤーの視点と、サッカーを見てる人の視点が混ざってないか?
サッカーの面白さは、試合展開とは関係ない。プレイヤーは、負けたって
サッカーを面白いと思っているぞ。
>>681 ちょっと待ってください。
私が言っているのはあらかじめ用意されたストーリーのことで
サッカーの試合内容をストーリーとは呼んでません。
サッカーの試合内容のことをストーリーと呼ぶ人はごく少数でしょうから
少なくともこの場ではストーリーと呼ぶのはやめませんか?
わかりづらくなるので、ゲーム内容、試合内容といった呼び方にしましょう。
>>682 暇潰しっていう言葉好きじゃありませんけど、
その暇潰し理論からすれば、読書だろうと映画だろうとなんだって暇潰しでは?
>>683 私が
>>666の発言に対し反論したかったのは
>オタがゲーム作ると
という部分です。別にオタじゃなくても複雑なゲームにしますよ。
>楽しめるかどうか人によってまちまち、というのはストーリーでもゲームでも同じじゃん・・・・
それはそうですけど、ゲームの方が敷居が高いでしょう。
TBSの格闘番組はストーリーあるようにしか見えないよ
相手が見誤ってついきつい一撃いれちゃうことはあるけど
>>672 それは多分、「テトリスをプレイしている」とは言わない。
テニスの練習で相手が拾いやすいように打ち合う(ラリー)を、
テニスというゲームをプレイしているとは言わないのと一緒。
ただ、
>>620のように、プレイヤーの姿勢、というのは興味深いと思うし、
賛同できる部分もある。(って前確か書いたと思うけど)
まあ個人的にはゲームとプレイヤーは切り離せなくて、
プレイヤーがプレイして初めてゲームが成立すると思ってるけどね。
誰にも読まれない本が、存在しないのと一緒という考え方。
>>674 確かにシミュレーションという言葉はしっくりこないかもしれないね。
ただ、シミュレーションにおける抽象度という考えは考慮にいれてほしい。
囲碁が戦争の洗練された抽象であり、ジャンケンもまた喧嘩の抽象である、
とした場合、テトリスも何らかの抽象に抽象を重ねたものではないか?
こう考えた場合、先の定義はどうだろう?
>>678、
>>679 コンピュータと対戦することはゲームではない、という意見に反論してるんで、
コンピュータ同士が戦うなんて話は誰もしていないと思いますよ。
>>680、
>>681 ゲーム理論でいうゲームには、ストーリー的な要素は全くないはずですが。
コスティキャンも言ってるけど、ストーリーというのは直線的なもので、
複雑な分岐を構造上の特徴とするゲームとは基本的には相いれないもの。
ただ、ストーリーも分岐させることによってゲーム的に出来る、
という程度のもので、ゲームとストーリーはそれ自体は全く別個のものでは?
(別に重要ではないとは言ってません。ただ、別個のものだと言っています)
さて。考えて、定義を一応完成させました。(誰も待っていないとは思いますがw)
1ゲームとは、プレイヤーが利益不利益を予測して行動することのシミュレーションである
1.1シミュレーションとは、直接的・具体的な何かの想定ではない、
抽象度が高いものも含めるとする。
1.2プレイヤーは必ずしも利益の方向性に行動しなくても構わないが、
何が利益で何が不利益かは理解してないと、ゲームが成立しない。
2ゲーム性とは、1における行動の結果とそのフィードバックのバランスである。
2.1行動の結果がプレイヤーにもたらされなければゲームとは言えない。
2.2行動の結果、もたらされるものが小さすぎる、または大きすぎる場合、
バランスが崩れ、ゲーム性は低くなる。
2.3その結果をプレイヤーが認識し、さらに次の行動につなげることを
フィードバックと呼ぶ。
2.3.1フィードバックもまた、小さすぎor大きすぎるとゲーム性が低くなる。
2.4バランスが最適な時に、ゲーム性はもっとも高くなると定義する。
2.4.1バランスが最適かどうかは、ゲームでの利益不利益のパターンにより異なる。
691 :
672:2006/08/11(金) 12:08:17 ID:Oj7kytZ1
>>688 練習でゆるーくボールを打ち合うのも、ルールに則ってやってるなら
テニスだと思うんだよね。と、こんなことばかり書いてても埒あかないな。
自分の考え中なゲームの定義、
・ルールがある
・プレイヤーがいる
(プレイヤーはルールの中で自由に行動することを保障され、行動はそれに
準じた結果を伴う)
のここまでは、ゲームの定義におけるハードとOSってイメージ。で、あとは
ソフトを加えることで定義として完成する。そのソフトとは、ニセイチさんの
言うところの定義2の部分。ソフトを実行する(プログラムを組むイメージ)
のはプレイヤーで、何故ソフトという呼び方がしっくりくるかと言えば、
変動する要素を多く含んでいるからかなぁと(この辺り考え中)。
全体として、大筋ではそんな食い違っているってこともないと感じている
けど。
テトリスは水族館でヒラメが重なってるの見て思いついたゲームだからその意味でも抽象っちゃ抽象
>>689 >コスティキャンも言ってるけど、ストーリーというのは直線的なもので、
>複雑な分岐を構造上の特徴とするゲームとは基本的には相いれないもの。
コスティキャンのこの考えは間違ってるんじゃないか?
>>686の提案から外れちゃうけど ストーリーにおいてであれゲームにおいてであれ
行われた、読まれた運動というのは常に直線的だし 行われていない、これから読む運動の可能性は常に複数ある
録画したサッカーの試合やTRPGのリプレイを繰り返し鑑賞するところを想像すると
コスティキャンはこの部分でインタラクティブ性の有無とゲーム性の有無を混同してる気がする
ゲームと所謂普通の小説の分岐点があるとすればそれはルールの有無、
運動を導くゲーム内の世界がどれだけ虚構の法則に依存してるか、
シミュレーションとして抽象化されてるかにかかってるんじゃないか
寧ろゲームが運動であって、ルールが運動の記述である限りストーリーの問題は必ずついて回るんじゃないだろか
>1ゲームとは、プレイヤーが利益不利益を予測して行動することのシミュレーションである
「ゲームとは、プレイヤーが行動に対して利益不利益を予測可能なシミュレーションである」
とした方がしっくり来ると思うけど
例えば今ここに自然法則に従って落下しつつあるコインがある、
着地した時表を見せたら
>>700の勝ち、裏なら
>>700の負けというルールのコイントスを始めたとしたら
プレイヤーである
>>700はそのゲーム自体を受け入れるか受け入れないか、
という形でしか行動できないし それはゲームにおける行動ではないと思う
>>684 >そのシステムがどんな風に構成されているか
とりあえずルールとプレーヤーが必要。あとはゲームを行う場が必要かな・・・
と思ったが、例えば鬼ごっこなどは特に決まった場が無くても遊べるわけで、
フィールドさえ絶対に必要というものでない。
まあ、とりあえず遊ぶ人がいて、でゲームのルールがあればシステムは完成するのかと思う。
>>685 >サッカーの面白さは、試合展開とは関係ない。プレイヤーは、負けたって
>サッカーを面白いと思っているぞ。
それは違うだろう。
ただの負けならプレーヤーは面白いと感じる事が出来ないはず。
これは「面白い」という言葉の定義にも絡む問題。
俺は快の無い感情では人は面白いと認識することが出来ないと思ってるよ。
これはパチスロを考えてみれば解る。
金がかかっているパチスロで、連荘したりはまったりしながら
最終的に大量のコインを獲得したら、
多分プレーヤーは「面白かった」と認知することが
できると思うが、もし金のかかっていないパチスロで、
連荘したりはまったりしながら、大量コインを獲得した場合、
「面白かった」と認知する事は可能なのか?
多分無理だろう。
「金がかかってないパチスロでコイン獲得しても意味無いじゃん」
って感じで空しさだけが残るはず。
コインを換金できるか否かで、パチスロのゲーム展開が全く同じでも
得られる感情は全然違う。
こn事例だけ考えても快が感情に影響を与えている事は明らか。
>>686 >私が言っているのはあらかじめ用意されたストーリーのことで
>サッカーの試合内容をストーリーとは呼んでません。
狭義のストーリー定義なら、その意味でもまあ解らなくは無いが、
しかし、俺が語っている事は広義のストーリー定義。
当然だけど、現実世界の物語だってストーリーなんだよ。
もし現実世界の出来事を映画化した場合、
そのお話は「ストーリー」と呼べないのか?というと、そんな事は無いだろ。
ノンフィクションだろうがフィクションだろうが、ストーリーには違いない。
あとTVで中継されるスポーツの試合はノンフィクションのストーリーと何が違うのか?
スタジアムで観戦するスポーツと、TVで観戦するスポーツは何が違うのか?
鑑賞者にしてみれば、「他人に共感して楽しむ」という意味でこれらは全く同質なものなんだよ。
「フィクションのお話だけがストーリーです」というのは、ストーリーの本質を考えた場合、
全く的が外れていると言わざるを得ないな。
>>686 >暇潰しっていう言葉好きじゃありませんけど、
>その暇潰し理論からすれば、読書だろうと映画だろうとなんだって暇潰しでは?
読書も映画も暇潰し。ただ、その内容が問題。
まず、ストーリーが完結した時に与えられる快が何なのか?という問題があるな。
ゲームが描くストーリーが純粋に面白くない。
大してストーリーが面白くないゲームではゲームを終わらせても何も得るものが無い。
あと、ゲームが完結するまでの時間の問題。
例えば映画なんかは時間をそんなに取らない。
物語が完結するまで2時間程度。シリーズものでも10時間あれば大体見終える。
一方ゲームはクリアするまで30〜40時間はザラだが、じゃあストーリーは映画以上の
凝ったストーリーなのか?というと、大抵そんな事は無い。むしろ映画より面白くない事が多い。
物語が完結し、なんらかの欲求が充足されるまで、10時間かかるのか、40時間かかるのか?
という違いがある。
ゲームという娯楽は、時間がかかる、という特徴がある。
これは、娯楽の少ない時代なら利点になるけど、
娯楽の溢れている時代なら逆に欠点となる。
娯楽が少ない時代であれば、「10時間楽しめるより40時間楽しめた方がいい。」
という意見は多いだろうが、娯楽が溢れている時代なら、
「10時間でエンディングを見られた方がいい。余った時間は別の娯楽で過ごす。」
という意見に変わるだろう。
(ただ、じゃあゲームは駄目なのか?
というとそんな事は無いと思っているけどね。
要はゲームの方が感情密度が薄い事が問題で、
プレイ時間に見合った快をプレーヤーに与える事が出来れば
プレイ時間が長くても問題無いはず。
プレイ時間の長さよりも、ストーリーが面白くない事の方が問題。)
つまらないゲームはいくら長くても嬉しくないが、
面白いゲームは長ければ長いだけ良い。短くてもつまらなくはない。
>>686 >別にオタじゃなくても複雑なゲームにしますよ。
何かを創作する人は「自分が面白い話は他人も面白いはず」
という感じで、自分が判断基準になる事が多い。
それ自体は別に悪い事じゃないけど、ゲームの場合は
初心者と上級者で得られる感情が全然違うという特徴があるのだから
初心者の事も考える気配りが必要。
視野の狭いオタはそういう意味で初心者を軽視しやすいと思うね。
>>699 その通りなんだけど、しかしゲームは大抵ストーリーがつまらないので、
「欲求が存在しない荒野にも等しいフィールドを延々彷徨い続ける」
という羽目に陥りやすいと思うね。。。
これで満足感を得られるはずがない。
>>689 >コンピュータと対戦することはゲームではない、という意見に反論してるんで、
>コンピュータ同士が戦うなんて話は誰もしていないと思いますよ。
いや、ダーウィン以来の人間第一主義の打破とか書いてたから、
ゲームは人間とは関係無い、言わば数学にも似た論理である〜
という風に聞こえたので。
論理に何の意味があるんだよ、と言いたいがために
「コンピューター同士が戦って何の意味がある?」という風に書いた。
>ゲーム理論でいうゲームには、ストーリー的な要素は全くないはずですが。
>コスティキャンも言ってるけど、ストーリーというのは直線的なもので、
>複雑な分岐を構造上の特徴とするゲームとは基本的には相いれないもの。
ゲームの結果、得られたお話はストーリーと呼べるが。
大体、分岐があるかどうかなんて、大した問題ではないだろ。
要は面白ければよいのだから。。。
>>696 ストーリー【story】
1 物語。話。
2 小説・演劇・映画などの筋。筋書き。
その『広義の』ストーリーとやらだと
>>634の
>(最近はストーリー付きのアクションがほとんど)
っていう発言と矛盾しますが、これは別の人の発言なのかな?
それとも『狭義の』ストーリーですか?
こういうのがまぎらわしいからやめませんかと言っている。
ノンフィクションの物語は物語だからストーリー。
サッカーの試合の映像は、物語でも話でも小説・演劇・映画などの筋でもない。
>>697-698 そのストーリーはどっちのストーリーですか?
あなたはRPGとパチスロしかしないの?
短時間で終わるゲームだってたくさんあるでしょう。
もう反論する気にもならない。
704 :
A助様@お兄やん ◆z2QBxsCmSs :2006/08/12(土) 15:17:48 ID:nZBbZtQm
幼稚な議論ごっこに夢中になっているようだねぇ。
俺が論破してあげようか?
ぷっ。
遊ぶことは信じることです
>690
シミュレーションという言葉は別の言葉の方がいいと思うな
むしろモデルとかそういう言葉のがふさわしいと思う
現実でははっきりしないことの多い、行動とその結果の評価を
コンパクトにまとめたモデル
あと、ストーリー君は小説とゲームの違いについてもっとはっきり語ってください
そしてストーリーがどのようにゲームらしさに影響するか語ってください
(せっかくだからゲーム理論とか使って説明してみたら?)
708 :
名無しさん必死だな:2006/08/12(土) 19:29:51 ID:D2riL3aa
>>704 あんた口ばっかりでいつもやられて逆ギレするから相手にされないじゃん
つまらんよ
709 :
クロコダイルPOP ◆xX21auH.36 :2006/08/12(土) 19:52:24 ID:F/VJ2iTn
>>708 いや、それでも全然傷つかず、鋼のような精神力で話すから物凄く面白いんだよ。
>>709 決まってるべ!
Aボタンを押すタイミングがちょっとずれただけで今までの苦労が水の泡になってもおかしくない、
その緊張感と成功した時の達成感よ!
それは時にはマリオが飛ぶタイミングであり、徳政令カードを使うタイミングであり、赤コウラを放つタイミングでもある。
キャラクターを動かして楽しむもんだろ
713 :
名無しさん必死だな:2006/08/12(土) 20:01:58 ID:QpjwKPWX
主人公が勝手にしゃべらないゲーム
主人公が勝手に動かないゲーム
キャラクターとはなんぞや?という話になるぞ、音だけでもゲームになる
しな。
基本は入力と出力、プレイヤーが入力を行い入力の結果がなんらかの形で
出力される(表示であったり音であったり)。
これがゲームの基本
ゲームはプレイヤーの表現の場です
表現の伴わないゲームプレイは苦痛なだけ
その先に表現があるからこそ熱中するのです
>>695 だからといってサッカーで金を賭けたら楽しくなる訳ではないよ
サッカーの面白さは個人の技術やボール感覚とかチームの作戦を向上させ、
相手との勝負でそれらを使い、結果が出るというここまでの過程全てにある。
パチスロはギャンブルでしかないから結果が一番重要だと思うけど
普通のテレビゲームの楽しさはサッカーの様に結果のみに依存するものでは無いと思うよ
私的に
ゲーム=自分が参加する事で完成する娯楽(参加する事に意義がある娯楽)
だと思います
参加しなくても楽しめる娯楽…演劇、映画、小説、マンガ…etc
参加しないと面白くない娯楽…トランプ、将棋、鬼ごっこ、サッカー…etc
でも、いくら「ゲームらしさ」があったとしても
それが「面白い」かどうかはまた別問題だと私は思います
>>691 同意です。言いたいことは変わらないと思ってます。言い方の問題かな。
>>692 >行われた、読まれた運動というのは常に直線的だし
>行われていない、これから読む運動の可能性は常に複数ある
だから、この二つが全く異質なものだと主張している訳ですが。
>>693 いや、結局ゲームってのは行動だと思うんで、その言い換えでは違ってくる。
690の定義ではコイントスだけで勝敗が決まるのはゲームではないということです。
>>696 さっきも言ったけど「現実世界の出来事」と「その映画化」は全く異質な存在。
あなたのレスは全てそうなんだけど、自分の主張しかしていない。
まず自分の主張を一度置いて、他人の考えを理解しようとしてみて下さい。
そうすれば
>>702の「大した問題ではない」なんて言葉は絶対出て来ないはず。
>>706 そうか、モデル!素晴らしいご指摘です。
>現実でははっきりしないことの多い、行動とその結果の評価を
>コンパクトにまとめたモデル
この文章をいただいて…
1.1モデルとは、現実でははっきりしないことの多い、行動とその結果の評価を、
コンパクトにまとめたものである。
これでずいぶん、定義がすっきりしたような気がします。
>>717 その切り口もありますよね。プレイヤーを視点とした理論には惹かれるものがある。
ただし、完全な偶然だけで進むゲームが論じきれないんですよね、その考えでは。
>>719 >>行われた、読まれた運動というのは常に直線的だし
>>行われていない、これから読む運動の可能性は常に複数ある
>だから、この二つが全く異質なものだと主張している訳ですが。
だからそれはインタラクティブ/非インタラクティブの境界区分、
もしくは過去の行動/未来の行動についてのそれであって
ゲーム/ストーリーの境界区分にはならないんじゃないかって事が言いたいのよ
あらゆる即興行為を見れば分かるとおり、
ストーリーが決まってない、分からないのとストーリーが無い、関係ないのとは全く違う
「あらゆる可能性の中から現実化した一つの動き」という点では
今目の前の現実も、記録的なメディアに映され再生される過去の現実も変わらないんじゃないかって
>690の定義ではコイントスだけで勝敗が決まるのはゲームではないということです。
でもコイントスの例はサイコロを転がしてあがりを目指す完全偶然ゲームと本質的には一緒だと思うけど
違うのはサイコロの代わりに0、1と書かれたコイン、スタートの次のコマがゴールというスゴロク盤を使う事と
1ターン以内という時間制限 それとサイコロは他人が振り、コマを動かすのも他人ってだけ
そもそもすごろくの場合だって運動するのはコマであってプレイヤーじゃない
プレイヤーの状態はコマの状況によって変化するけどこれはコイントスの場合と同じ
サイコロを振る、振らないがプレイヤーに決められない以上サイコロを振る事もプレイヤーの行動とは言えない
プレイヤーが二人以上の場合も時間制限の条件が変化するだけで新しく行動が加わる訳じゃない
すごろくがゲームならこれだってゲームじゃないの?
>720
完全な偶然ゲームであるか否かよりは介入してると思えるかどうかが重要じゃないかな
宝くじとスロットマシンの違いとか
>>703 >こういうのがまぎらわしいからやめませんかと言っている。
そうだな。言葉が同じだと紛らわしい。
これからは狭義のストーリーを「シナリオ」と呼ぶとしよう。
>ノンフィクションの物語は物語だからストーリー。
>サッカーの試合の映像は、物語でも話でも小説・演劇・映画などの筋でもない。
「ノンフィクションの物語はシナリオ付き。サッカーの試合にはシナリオが無い」
つまりこういう事だね。
君はストーリーという言葉を狭義の方に持って行きたがってるみたいだけど、
むしろ狭義のストーリーの方を「シナリオ」と呼んで区別すべき。
>ストーリー【story】
>1 物語。話。
>2 小説・演劇・映画などの筋。筋書き。
1は「現実、非現実に関係無い、お話そのもの」だろ。
これをストーリーと呼ぶ事について意図的に考えないようとしている風にしか見えない。
正確には1+2がストーリーで、2はシナリオ(今そう呼ぶと決めた)。
あと「現実世界で展開されるストーリー」についても専用の言葉が欲しいが
これだけを一語で表す適切な言葉が見つからないな。
>>703 >そのストーリーはどっちのストーリーですか?
697-698で語ったストーリーとは広義のストーリー。
俺が面白さについて考える時に使う「ストーリー」は広義の意味で使う事が多い。
>あなたはRPGとパチスロしかしないの?
RPGはシナリオ型ゲームの代表として例に出してるだけ。
本当はRPGよりも強い快を与えるジャンルを例に出したいのだけど、
マイナーなジャンルについて語ると一人舞台になりそうだからな。
あとパチスロは快楽が感情に与える影響について考え易い娯楽だからよく例に出す。
娯楽ってのは複数の快が絡んでる事が多いのだけど、
パチスロはほぼ金のみが快楽の源泉だから。
「もし金がかかっていなければ、どう感じ方が変わるのか?」と想像し易い。
>>703 >短時間で終わるゲームだってたくさんあるでしょう。
短時間で終わるタイプのゲームを分析しても別に構わないが、
ただ現実問題として多くのゲームはシナリオを融合させたものに
なっているのだからシナリオとゲームを切り離して考えることは出来ないと思うけどね。
(それに、シナリオの無いゲームはどちらかと言うと「遊び」の範疇に入る事も多い。
遊びについては議論され尽くした感があるのであまり興味が湧かないのよ)
>もう反論する気にもならない。
そうか。。。
しかし君が何と言おうが俺はストーリーを広義の意味で使い続けるからな。
俺はゲームという枠だけで物を考えたくないから。
>>707 >あと、ストーリー君は小説とゲームの違いについてもっとはっきり語ってください
・共感度の違い
・演出の強さの違い
主な違いはこの2点。
共感度とはストーリーに共感する度合い。
演出とは、音楽や絵などストーリーの本質とは関係無く感情を喚起するもの。
面白さ=ストーリー×共感度+演出
という風に考えると解りやすい。
共感度は現実世界がMAX(MAX=1)で、共感性を使用する場合大分落ちる。
小説は共感性を使用するが、ゲームはプレーヤー自身がストーリーの主役になる事があるし、
あとキャラの操作が共感性を上げるので小説よりも上。
あと、演出も当然ながらゲームの方が上。
共感度も演出もゲームの方が上ならゲームの方が面白いのでは?
と思うかもしれないが、しかしゲームはストーリーが弱いので、
必ずしも小説より面白いとは言えない。
>>707 >そしてストーリーがどのようにゲームらしさに影響するか語ってください
>(せっかくだからゲーム理論とか使って説明してみたら?)
ストーリー(シナリオ)とゲームの違いは、強いて言えば道筋が複数あるかどうかだな。
いわゆるゲームツリーの違い。
ただ、ゲームでもシナリオ付きのゲームであれば一本道である事が多い。
(途中寄り道出来てもメインとなるシナリオは大抵一本道)
あとシナリオ無し型のゲームでも、「勝つ」か「負ける」あるいは
「クリアに成功する」「クリアに失敗する」という風に最終的には
2本に収束してしまうのが殆どかもね。
(間の細かい経路はほぼ無限に近いくらい多いが・・・
というか「経路」という考え方では説明が難しいか?)
そういう意味では、あんまりゲームとシナリオの違いって無いのかな?と思ってみたり。
>>716 >だからといってサッカーで金を賭けたら楽しくなる訳ではないよ
「楽しい」という意味では、その通りかもね。
「楽しい」という感情は、属性的には恐らく高い覚醒水準と中程度の快がある。
金は快には影響を与えるが、覚醒にはあまり影響を与えない。
(低覚醒を中程度の覚醒まで持っていくくらいの力はあるけど)
>サッカーの面白さは個人の技術やボール感覚とかチームの作戦を向上させ、
>相手との勝負でそれらを使い、結果が出るというここまでの過程全てにある。
別に「勝利の快感」だけが快ではないからな。
仲間と楽しい時間を過ごすだけでも十分快なので、
別に試合に勝利しなくても快を感じる可能性は高い。
>>716 >パチスロはギャンブルでしかないから結果が一番重要だと思うけど
>普通のテレビゲームの楽しさはサッカーの様に結果のみに依存するものでは無いと思うよ
それくらいは重々承知している。
ゲームは最適覚醒の維持がきっかけの動機となる事が多いので、
「暇を潰せさえすればプレーヤーとしては満足」という風になりやすいが、
しかし暇潰し以外の快を与える娯楽に比べたら弱いだろ。
例えば2chなんかは、暇潰し以外にも「寂しさを紛らわす」であるとか、
時にはこうやって「ゲームの面白さの核心に迫りたい」という風な
変な欲求さえ満たしてくれる事がある。
単なる暇潰しだけの娯楽よりも明らかに優れているだろう。
テトリス的な単に刺激を与えるだけという意味での面白さが
既に時代遅れなのは明らかだけど、
その代替案が、糞みたいにつまらないシナリオをプレーヤーに与えて
「シナリオの先を見たければゲームをクリアしなさい」だからな・・・
しかも投げ出したら金が勿体無いから無理矢理遊ぶしかない。.
こういう娯楽が廃れるのは当たり前。なんとかしないといけないと思うね。
>>718 そのリンクちょろっと見た。
ゲーム論としては頑張っているが、しかしまだ甘いな。
ゲームという狭い枠でしか物を考えていない。
今のゲームは、色んな娯楽の要素を取り入れているので
娯楽全般について語れるくらいでなければ駄目だろう。
あと心理学の知識も少ないな。
人間の心理を知らずに面白さ、というより感情は語れないよ。
そのリンク先とか、コスティキャンのような、
古いゲーム論は人間の心理についての考察が弱過ぎるので
面白さを考える場合あまり参考にはならない。
「シナリオ」も「ゲーム」も「ストーリー」も含め、
あらゆる娯楽は全て人の感情を喚起するためにあるもの。
感情という共通項があるのだからこれらを正しく比較するための論理は存在するはずで、
それにはまず心理学の知識が必要なのは間違い無い。
ただ、心理学の知識だけじゃなくて、それを娯楽の面白さ分析に使える論理にまで発展させたいのさ。。。
娯楽が持つ要素を心理学的な知識に紐付けるための橋渡しとなる定義が必要で
その重要な定義の一つが「ストーリー」。
これを感情価として考え、覚醒水準と合わせ次元説で考えれば娯楽の面白さを測定可能なはず。
というアイデアがまずある。
そのアイデアが妥当なものなのか、こうやって夜な夜な考察しているわけだ・・・
>>719 >そうすれば
>>702の「大した問題ではない」なんて言葉は絶対出て来ないはず。
大した問題ではないだろ。
だって、娯楽ってのは「人間がどう感じるか」という部分こそがポイント。
このスレでも、「ストーリー(シナリオ)だからと言って面白くない事は無い」
という主旨のカキコがいくつかあるし、映画や小説のような娯楽だって
成立しているわけで、操作できるから面白いんだ〜という事は無い。
「自分で操作する事が、面白さにどう影響を与えるのか?」
これをきちんと整理しないといけないね。
個人的には、キャラ操作が面白さに与える影響は、
・共感度の上昇
・覚醒水準の上昇
・欲求表現の陳腐化
主にこういったものがあると思っている。
娯楽に求めるものが「高覚醒」だけである場合テレビゲームでも欲求は満たせるが
それ以外の欲求を満たそうとするなら、強烈なストーリーやオンライン要素など必須。
「面白さ」を語ると宗教論争(世界の人間の脳内をデジタル化して
表示でもしないかぎり)
食べ物の好き嫌いを語るくらいの無駄
ゲームらしさ=面白さではないし、間違いなくスレ違いだろう。長々と
連続にレスを書くのも無駄
>723
>それとサイコロは他人が振り、コマを動かすのも他人ってだけ
この差こそが重要なんでないかな
つまり結果が偶然であるか否かは関係なく、
サイコロを振るという行為に対する結果が出ること
特に1でろ1でろと念じながらサイコロを振る、という行為は
因果関係よりも主観に視点を置くなら意思決定と等価と考えることも出来る
>728
共感度や演出の強さの違いが何に起因するかを考えれば、
ゲームらしさとはなにか?って話になりますね
双六とかでの共感度ってなにさ、という気もしますが
>727
それだとこのスレでシナリオを例に出すのはあまりふさわしくないですね
ゲーム以外の物にも共通する要素はゲームらしさを語るには不要ですから
ゲームらしさとはなにか?ってスレで
ゲームにとらわれない面白さを追求するのはスレ違いであることに
そろそろ気づいてほしいのこころ
にしても古典的なゲームが正しいゲームといってたわりに
シナリオつきのゲームばかり例に出すのはどうしたことか
738 :
名無しさん必死だな:2006/08/14(月) 14:22:51 ID:sTk1Itj/
739 :
名無しさん必死だな:2006/08/14(月) 14:42:27 ID:3P6XAm6z
「ゲームらしいゲーム」って、
絵柄やストーリーのみが魅力の大半を占めるゲームに対しては言わないよな。
選択肢のほとんどないノベルゲームとか。
システムがゲームの魅力の大部分を担っているゲームが、
ゲームらしいゲームだろう。
インタラクティブなコンピュータエンタテインメントが、ゲーム。
で、なおかつ楽しい・面白いと思えるものはゲームらしい。
これで脳トレもギャルゲもサンノベもゲームらしいゲームになるぜ。
実際オレはこんな捉え方でゲームに接してきたと思う。
ハンドルがないので、呼びかけることが出来ないのですが、
シナリオ論を繰り返し主張しづけている方にお願いがあります。
あなたはどうも、議論することに慣れていなさそうだ。
だから、一つ、これをお願いしたい。それは、
「あなたの定義・理論で、テトリスの素晴らしさを論じる」こと。
前、テトリスを小馬鹿にしてたような言い方をしていた記憶がありますが、
実際、人々はテトリスにものすごく夢中になるし、
多くの人が「代表的コンピューターゲーム」と思っているでしょう。
シナリオ論でテトリスの優れた部分を説明できるなら、面白いのだけれど。
>>724、
>>736 全くおっしゃる通りで、僕の定義では「プレイヤーの行動」を重視してます。
>>740 そこで問題なのがお料理ナビ。プレイヤーの操作に答えてくれるので、
インタラクティブ性も十分あるコンピュータエンタテインメント。
でも、ゲームらしいゲームとはあまり思えないんですよね。
テトリスの「ゲームらしさ」はまず間違いなくプレイヤーの上達。
デジタル上の数値によってゲーム上のキャラクターの数値が上昇するのでは
なくプレイヤー自身のプレイレベルを上達させていく。
単純であるが故に誰でもできて、何時もで始めれ、何時でも追われる
その過程が正に「ゲームらしい」あとはゲームウォッチシリーズとかな
その他にも色々あるけど
ゲームは他のメディアから色々なモノを吸収した代わり本質の「ゲームらしさ」
をスルーした感があるな、それならばゲーム以外のメディアでも構わないという
話になる。一度ゲームから離れれば他のメディアでも代行できてしまうから
ユーザーは返ってこない
基本は大切、苦しい時こそ基本に立ち返るべき
>>736 >特に1でろ1でろと念じながらサイコロを振る、という行為は
>因果関係よりも主観に視点を置くなら意思決定と等価と考えることも出来る
サイコロのルーツは神意を占う祭具で元々人間の意思が関わるものじゃない
と言うより振ってる奴の意思が関わったらそれはサイコロじゃない ただのインチキだ
サイコロが自らの意思と全く関わらない前提があるから完全偶然ゲームが成立するんであって
少なくともその説明はおかしい それと俺は1出ろ1出ろと念じることについては否定してない
つーかビンゴゲームとかどうなるんだ あれ普通にゲームって言われてるけどプレイヤー何もしないぞ
それとも紙を自分でくりぬく行為がビンゴゲームをゲームたらしめてるとでも言うのか
あと宝くじは完全にジェスパージュールの言う完全確率ゲームだろ
>740
料理のインタラクティブ性が現実のほうにはみ出してるのが問題ではないでしょうか
あとルールが明確でないことかな
>743
もちろんサイコロの出目にふってる人の意思がかかわるわけはないのだけど
因果関係は重要ではないってのが僕の主張
ビンゴゲームは確かに>736では説明つかないね、痛い指摘だ
ゲームじゃないとしてしまいたいけど乱暴か
行為ー>結果のモデルで考えるなら、くりぬく行為よりは
次に何が来たらリーチで何がくればあがりだ、って期待する行為のほうで考えるのでどうだろう
宝くじに関してはゲームの範疇に入るか、あまり良くない例だった
宝くじよりもスロットマシンのほうがゲームらしいよね、と読み替えてくれるとありがたい
>>742 すいません、あなたはシナリオ論の方ですか?
だとするとそのレスには、まったく「シナリオ」論が使われてないののですが。
あと、デジタル上の数値でプレイヤー自身が成長していくことなんて、
すごく一杯ありすぎて、なぜテトリスが特別なのか説明できません。
(100分の1秒まで計れるストップウォッチでジャスト1秒を出すとかね)
もし違う人ならごめんなさい。
>>743 その議論は以前やったんだけど、要は「念じる」ということは、
人間の意志が確率に左右するという信念があるということだから、
プレイヤー自身にはゲーム性があると思う。客観的に言えば当然ないけど。
ビンゴは、結婚式の二次会とかのやり方はゲーム性は低いけど、
が、学生がよくやるお互いに数字を言い合うやり方ならかなりゲームだよね。
本題とは関係ない話だけど それはどっちかって言うと
「自分がサイコロを振る結果目が出る」という因果関係を重視してるって事じゃないの
それがどの程度ゲームの定義に関わるかってとこについては正直俺はワカンネ
期待することを行為に含めると
>>690と
>>693は実質的に言ってる事同じになるから
その部分の齟齬はなくなると思う
>>747 いや、期待することを行動に含めるのではなくて、
>>690で言うところの「利益不利益を予測する」部分に相当するんです。
つまり、「3が出たらラッキーだなぁ」と思いながらサイコロをふれば、
それはゲーム性があると言える。
一方で、何も考えずに出目を受け入れる姿勢なら、ゲーム性はほとんどない。
一方、
>>693の例は、
予測だけで、行動をしていないから、ゲームではないということです。
まあ、微妙なんだけど、その部分では僕の中では齟齬はないつもりです。
「シナリオ論の方」とは別人だけど
テトリスのシナリオ、全ての行われたテトリスのストーリーの中で全てに共通する決まった部分は
全部抽象的な形でルールの中に吸収されてるから
(落ちてくるブロックの種類とか、上まで積もったら終わる所とか)
テトリスの特別性、特に人が夢中になるようなテトリスのプレイをシナリオ論で語っても
あんまり意味が無いと思う と言うより「テトリスのルールの素晴らしさ」とほとんど同じになるんじゃないか
ただストーリーが抽象的という部分について特にテトリスのゲームらしさを見る、って事は可能だと思う
デュシャンがチェスの素晴らしさを論じたのもこの部分において
http://members.jcom.home.ne.jp/tana-masa/kansou/duchamp.htm
>>748 ちょっと分かんないんだけど
「3が出たらラッキーだなあ」と思いながら相手が振った出目を受け入れる、という場合はどっちなの?
>>693はそういう事のつもりだけど
つーか 人間の意志が確率に左右するという信念、を前提し
さらに何かを予測する事が何かを意志する事とイコールで考えられた場合
偶然必然を問わず全て予測する事が行動になるという事になるんじゃないか
サイコロを使う行為を含めてルールなんだろ
ダーツだろうがルーレットだろうがコインの表裏だろうが
>>749 あ、はい、無理かもしれないとは思っているんですが、
別に意地悪とかじゃなくて、ゲームに関する理論なら、
テトリスを分析できなきゃいかんだろ、と思ったものですから。
>>750 微妙なんだけど、自分で行動しないとゲームとはいいにくいと思いませんか?
麻雀でも、他人がツモハイに触るだけで罰則だし。
これは理論じゃないけど、人間は自分で行動しないと予測が結果に反映されない、
という基本的な思い込みがあるような気がします。
>>751 そうなってしまうと非常に広くなりすぎるので、「行動」で縛ってます。
>>752 やはりそうなってしまうと非常に広くなりすぎるので、
690のように定義してみたんですが。
いいんだよ広くて
無理に狭くする必要なし
>これは理論じゃないけど、人間は自分で行動しないと予測が結果に反映されない、
>という基本的な思い込みがあるような気がします。
結局ここだね
>>747で書いたけどそれについては分からん
そういう思い込みがあるという考えもないという考えも、その思い込みがゲームに必要かどうかという事も
どっちの意見も決め手に欠けるような気がする
>麻雀でも、他人がツモハイに触るだけで罰則だし。
麻雀については詳しくないけどそれは牌をすり替えられる可能性があるからであんま関係ないと思う
というか辞書に載ってる以上の意味が必要なのか疑問
まあそもそもの目的は「ゲームとは何か」じゃなくて「ゲームらしさとは何か」だし
ざーっとログ読んだけど詭弁のガイドラインにしか見えません
定義をちゃんと考えようとするとそうなりがちなんだよね
わざわざあいまいな領域に着目してあれはこうだこれはどうだ言わなきゃいけないわけだし
それを無意味と断じるのも一見識
ただ、対話が成立してればけっこう面白い遊びなので
楽しんでる人はそっとしておいてほしいな
>755
自分でサイコロを振った方が面白い、って個人的感覚はあるのだけど
たしかにそれが普遍的とはいえないですね
ただ、小説と双六の違いを考えたときに、
結果を操作できなかったとしても結果に影響を与える行動をとったと思うことが出来る、
ってあたりがゲームらしさとして取り上げれるかなあと考えた訳です
ゲームジャンルが広範囲になりすぎて
ゲームらしさって言葉が無意味になってる。
と、ひぐらしのなく頃を今さらプレイしはじめた俺がいってみる。
リアルタイムでプレイしたかったよぅ・・
>>754 そうすると「人生自体がゲーム」ということになってしまい、
全く議論にならないんですよね。ありがちなんですが。
>>755 いや、ゲーム全体ではなく、思い込みが必要なのは「完全確率ゲーム」の場合のみです。
思い込みを認めるなら完全確率ゲームもゲームだし、
思い込みを認めないなら、完全確率ゲームはゲームじゃないということになる。
ただし、思い込みが実際にあるかどうかは、議論しても仕方ないでしょうね。
>>760 その通りというか、それが僕の考え方でもあります。
>>755 だからそりゃゲーム性じゃなくてインタラクティブ性の問題だろ
確かにインタラクティブ性が高いほどゲーム性が高まるって話はクロフォードもしてるし異論はないけど
いくら小説の内容を消しゴムで書き換える事が出来てもゲームになるとは全く思わないし
コインの代わりに小説の結末であの賭けをやればゲームになると俺は思う
まあいいけどさもう
764 :
名無しさん必死だな:2006/08/17(木) 21:42:49 ID:ZPyIwDrV
>>755 すり変えられる可能性があるから自分でツモりたいってのは、
「自分で行動しないと予測が結果に反映されない」ってことの一種だと思う。
>>735 >「面白さ」を語ると宗教論争(世界の人間の脳内をデジタル化して
>表示でもしないかぎり)
>食べ物の好き嫌いを語るくらいの無駄
そうは思わない。最新の心理学は脳科学と結び付いて
「こういう刺激に脳のここが興奮してこういう快感が得られる」という風に既に説明可能。
例えば↓に「美味しい」と感じているとき脳がどうなっているのか?について書いてある。
(
ttp://www.shiojigyo.com/en/backnumber/0309/main2.cfm)
最近では「油や出汁やアルコールが報酬系を刺激する」
という風に、料理のどの要素が快なのか?という所まで判っている。
これと「食が覚醒系に与えらる刺激」や「嗅覚の快」や
「空腹が満たされる事そのものが報酬系に与える快」
などと合わさって「美味しい」という感情を形作っているのだと思う。
>>735 >ゲームらしさ=面白さではないし、間違いなくスレ違いだろう。長々と
>連続にレスを書くのも無駄
ぶっちゃけゲームらしさなんてどうでもいいんだよw
それは例えばラーメンらしさとは何か?スパゲッティらしさとは何か?
という風な議論と同じ。ラーメンを定義して何の意味があるのかと。
ただ「ゲームのどういう要素が人の心を満たすのか?」には興味がある。
ゲームを構成するもの(ゲームらしいもの)と
面白さの関係については考察する価値があるだろう。
>>737 >共感度や演出の強さの違いが何に起因するかを考えれば、
>ゲームらしさとはなにか?って話になりますね
ゲームは単なる舞台(システム)で、その上で展開される
ストーリーの主役がプレーヤー自身なこともある。
(対戦ゲー等ではプレーヤーの人間関係にも影響を与えるかもしれない)
ってそれだけでしょう。
ただ勘違いしてはいけないのは、コンピューターゲームのように操作が
可能だからと言ってストーリーの主役は自分自身ではないって事。
自分の全感覚がストーリーと一致して初めて共感度はMAXになるわけだから
操作が可能なことは、共感度をちょっと上げる程度の効果しか無い。
所詮モニタの中の世界。
プレーヤーがちょっと横を向いただけで壊れてしまう程度の没入。
>>737 あと演出は単にメディアの違いだな。
紙は安くて携帯に便利だけど「最高に面白いもの」を
目指した場合に選択する媒体としては相応しくない。
一部ノベルゲーが小説よりも強く感情を喚起するのは演出の力が大きいと思うね。
デジタルメディアの自由度もある。
例えばfateではサーヴァントの能力を表示するメニューがあった。
あれはシナリオそのものとは関係無いけど、
シナリオの理解を助ける(共感度を上げる)という意味で面白さに一役買っていた。
>>737 >双六とかでの共感度ってなにさ、という気もしますが
双六というかボードゲームは一応仮想世界を舞台にしてるのが多いので
共感性を利用したゲームである。とは言えないか・・・
例えば、人生ゲームを一人で遊んで大金持ちになったからと言って
心が満たされる筈も無く。
面白さ=ストーリー×共感度+演出
という式で考えるとストーリーが抽象的で共感度は限りなくゼロに近いはず。
ただ共感度ほぼゼロで演出無しなら面白さほぼゼロなのか?
というとそんな事は無く、多人数で遊んだ場合のみプレーヤー自身の
ストーリー(欲求充足過程)も存在する。
多人数ゲームの面白さを考える場合、
面白さ=仮想世界のストーリー(=ストーリー×共感度+演出)+プレーヤー自身のストーリー
という風にしないといけないかもね。
>>737 >それだとこのスレでシナリオを例に出すのはあまりふさわしくないですね
>ゲーム以外の物にも共通する要素はゲームらしさを語るには不要ですから
個人的に、ゲームらしいと思う要素は「プレーヤー自身のストーリーへの介入」だな。
しかし、結局のところこれだってストーリーが重要なんだという結論に行き着いてしまう。
作家や小説家のように、直接的にストーリーを描くのではなく、
システムを通じて間接的にストーリーを描くのがゲーム。
「ストーリーをデザインする」という意味で、作家も小説家も映画監督もゲームデザイナーも
似たようなものなんだね。
「システムだけデザインすればいい」のではない。ここは勘違いしてはいけないところ。
>>737 > にしても古典的なゲームが正しいゲームといってたわりに
> シナリオつきのゲームばかり例に出すのはどうしたことか
古典的なゲームは俺の中ではもう分析され尽くしているので考える余地が無い。
ただシナリオ付きのゲームは人の共感性を利用している、
という意味でただのゲームよりも考える余地が多い。
「ゲーム」や「遊び」はこれまで腐るほど議論されてきたが
これらを更に発展させ、ストーリーまで含めた形の統一的な
論理を導き出せたと俺の中では思っているわけで、
この論理を使わない手は無い。
772 :
名無しさん必死だな:2006/08/18(金) 01:15:49 ID:OaDxpDNu
>ゲームらしさなんてどうでもいいんだよw
どう見てもスレ違いです
本当にありがとうございました
>>741 >前、テトリスを小馬鹿にしてたような言い方をしていた記憶がありますが、
>実際、人々はテトリスにものすごく夢中になるし、
テトリスがどういう欲求を満たすゲームなのかって事。
>>773で書いたのはあくまで暇を潰したいという欲求がある場合の話。
欲求とはつまり欠乏欲求なので暇でない限りは暇潰しのニーズが生まれないのは当たり前。
俺個人は多様な暇潰しツールを持っているのでもうテトリスを遊ぶ気はしないし、
暇潰し以外にも多様な欲求を満たす娯楽が溢れる現代日本で
暇を潰すだけのゲームにどの程度ニーズが生まれるのか疑問だ。
(日本以外の国では自宅でさえまだ暇に喘いでいる人々も沢山いるかもしれないが)
あと逆の発想。暇潰し以外の欲求を満たす為の場が準備出来ればいいかもね。
サッカーがワールドカップのお陰で盛り上がるように、
テトリスも何か暇潰し以外の欲求を満たす場を準備出来れば再度盛り上がる可能性はある。
例えば、誰でも思い付きそうなネタで悪いけど、金を賭けて対戦させれば
「テトリス勝負に勝ちたい」という欲求が生まれるだろ?
775 :
名無しさん必死だな:2006/08/18(金) 01:35:14 ID:FWC7HqSd
自分らしさはを知らない若輩共が、ゲームらしさなど分かるはずもない
>>741 >多くの人が「代表的コンピューターゲーム」と思っているでしょう。
>シナリオ論でテトリスの優れた部分を説明できるなら、面白いのだけれど。
シナリオ論ではテトリスの面白さを完全に説明しきるのは難しい。
これは欲求の本質に関わる問題。
欲求とはつまり欠乏欲求。「自分に欠けているものを補おうとする行為」
こそがストーリーの本質と言える。
テトリスでは、プレーヤーは既に「安く暇を潰せるツールが欲しい」
という欲求を抱えた状態でゲームを購入するが、映画や小説などの
ストーリーメディアは、シナリオの中でどのような欲求が
充足されるのか知らない状態で鑑賞を始める。
(ただし、ゲームと同様「暇を潰したい」という欲求は初めから存在する。
これは重要なポイント。)
つまり、ストーリーメディアは最初にまず主人公が欲求不満になる
過程から描く必要があり、それに鑑賞者を共感させるところから始めないといけない。
ここも重要なポイント。
ストーリーとシナリオの違いで、重要な点が
>>776で語った部分。
「プレーヤーは最初から欲求不満なのか?仮想世界の中で欲求不満になるのか?」
要は現実世界のストーリーなのか、仮想世界のストーリーなのか?
というところ。これを解っていないゲームデザイナーが多過ぎる。
例えば、FF12。
何故ヴァンは空賊になりたいのか?
欲求不満を全く鑑賞者に理解させぬまま強引に話を進めてしまう。
古典的なRPGみたいに「悪い魔王が現れました。魔王を倒しに
冒険の旅に出掛けましょう」というあらすじを取り説に
一ページだけ書く程度で許されると勘違いしてるんじゃないのかと。
あと、
>>776で語った重要ポイントのもう一方。
「例えストーリーメディアであっても、鑑賞者には暇を潰したいという欲求がある」
という点。これも重要。
暇潰しとは最適覚醒の維持である訳だが、例えストーリーメディアであっても覚醒水準は重要ってこと。
一般的にゲームは覚醒より快が問題になりやすい訳だが、
シナリオは逆で快より覚醒が問題になりやすい。
評論家が喜んで評論しそうな小難しい話より、
単純かつ派手なハリウッド映画が大衆受けするのは覚醒水準がポイントだと思う。
あと、漫画だって「強い奴が現れる→倒す→もっと強い奴が現れる・・・」
という無限ループ漫画が受け易い。
これも最適覚醒を維持したい、という鑑賞者のニーズがあるからこそ受ける。
ああ
>>776では、シナリオ論でテトリスを語るという主旨だったのですが話が脱線した。
シナリオってのは「欲求不満→欲求充足」というのをワンパックで消費者に提供するのに対し、
テトリスは「欲求充足」をいきなり消費者に提供する。
シナリオよりゲームが短時間で遊べるのはつまり欲求充足プロセスの違いと言える。
短時間で遊べるゲームを作るためには、現実世界のプレーヤーの欲求に訴える
ゲームを作った方がいいかもってことかと。
780 :
名無しさん必死だな:2006/08/18(金) 02:33:53 ID:tybQgX80
>>766 >ぶっちゃけゲームらしさなんてどうでもいいんだよw
>ただ「ゲームのどういう要素が人の心を満たすのか?」には興味がある。
ゲームの定義を放棄したら二行目が成立しないんじゃね?
目指すものがないから枝を伸ばしまくってるのかな。
日本語もそうだから若者言葉が凄い勢いで生まれ廃れてる。
アラビア語とかは仏の言葉が頂点にあるから乱れないそうな。
ゴメンちょっと論点ずれたカモ。
ただ、ソニーが言うように映画に近づけるのが答えじゃない。
真似てもそれを超えられないからね。
任天堂はWiiみたいな新しい形のエンタテイメントを提示してるけど
あれが答えでもないハズ。ただ、可能性は高いと思う。
なんせ、オレが果てしなくwktkしてるから。
オレのオナニーレス読んでくれてd。
キャラクタの移動と行動、これ基本
モチベーションの種類とその大小でゲームか否かを決定することは出来ないでしょ。
それは魅力についての話なだけで。
勝利条件の存在。決定するのは当事者でも第三者もいい。
ただこのスレの議論では「ゲーム」と「遊戯」の違いは何だとされてるの?
あまり話題になってなかったかと>ゲームと遊戯
私見ではルールの明確さ(勝敗の明確さ)で分けれるかなと思います
kkk
>>763 >インタラクティブ性が高いほどゲーム性が高まる
ってほんとかな?インタラクティブ性が最大限に高くなった状態って
日常生活を送っている自分自身だと思うけど、全然ゲーム性高くないよ。
プレイヤーからの入力とゲームからの出力は、ある程度限られた範囲内の
ものじゃないと予想が出来ずに戦略とか立て難くて、ゲーム性は低くなる
んじゃないのかな?
>>690の2の部分がそういうこと言ってるけど。
>ゲームと遊戯の違い
ベースボールか野球かと同じことじゃないの?
シナリオ論の人に言いますが…
>>776 >シナリオ論ではテトリスの面白さを完全に説明しきるのは難しい。
あなたがいうシナリオは、ゲームとは全く別個の概念だと僕は主張してますが、
テトリスが論じられないことで、このことが証明されましたよね?
これは、あなた自身が、「ストーリーメディア」という言葉を使い、
さらに
>>779のレスにより、何重にも証明されたと思いますが。
>>781 任天堂は世界中のどこよりも「ゲームとは何か」を考えてる会社でしょうね。
>>783、
>>784 その二つを無理やり分ける必要はないと思います。
>>786 690を読んでいただいてありがとう。インタラクティブ性が最高に高いのは、
電灯です。スイッチオンでつく。オフで消える。でもゲーム性は低いですよね。
これ、コスティキャンの引用ですけど。
>>786 >>788 インタラクティブ性以外全てが同じ条件下で行われる行動において
インタラクティブ性が高い条件の下で行われる場合と低い例を取り上げて
どっちがゲーム性が高いかってったら前者だと思うよ でも確証はあまり無い
日常生活や電灯のオンオフが「ゲーム性低い」のはインタラクティブ性にまつわる問題じゃなくて
慣れきってる・ルールが少ないといった寧ろ面白さの問題だと思う
コスティキャンはずばり「電灯のオンオフなんてして面白いか?」って言ってた筈だけど
今まで電灯を知らなかった人間や小学生の頃体育館の電気をババババッって消した時の事想像すれば
電灯のオンオフだって十分面白い ただ相変わらずゲーム性は少ないように見えるね
>プレイヤーからの入力とゲームからの出力は、ある程度限られた範囲内の
>ものじゃないと予想が出来ずに戦略とか立て難くて、ゲーム性は低くなる
>んじゃないのかな?
>>763の時点で見落としてたけどこれはその通りだと思う
ただ、今それ読んでて思ったんだけど
これってプレイヤーの技量によってゲーム性の高低が決定するって事で それは正しいのかってのが一つ
もう一つ その定義はどっちかって言うと面白い・面白くないの基準なんじゃないかって気がする
『「おもしろい」のゲームデザイン』には「簡単な情報は脳がすぐ慣れて脳内物質を出さなくなる」
「複雑な情報は脳が処理しきれずノイズ扱いされる」って話があって それの事なんじゃないかと
791 :
783:2006/08/18(金) 23:23:05 ID:Lp7ZBLIn
>>788 回ってる扇風機に向かって声を出してもゲームになるってこと?
絵を描くことを遊びにはなってもゲームではないでしょ。
ゲーム足らしめる何かこそがゲーム性ではないの?
>>768 逆だ 表現媒体の単純な自由さは感情を喚起する能力や通俗的芸術価値を下げる
刺激の大きさと喚起される感情は比例しない 美学の常識
>>792 >逆だ 表現媒体の単純な自由さは感情を喚起する能力や通俗的芸術価値を下げる
違うな。
やはり表現能力は高い方が感情を喚起する能力は高い。
これははっきりと言い切ることが出来る。
例えば「何故、音楽は面白さにとって重要なのか?」
何故音楽は面白さを上げるのか、
明快に答えられたらある程度面白さ(というか感情)
については理解したと言ってもいいね。
>>792 >刺激の大きさと喚起される感情は比例しない 美学の常識
それは心理学的にも説明することはできる。
例えば味覚。
何かを美味しいと感じるためには、味が濃すぎても薄すぎても駄目。
中庸な濃さの味でなければ「美味しい」と感じることが出来ない。
だからご飯や麺やパンみたいな味の薄い食材に、濃い味の食材を組み合わせた
料理は優れていると言える。
(濃い味の食材を増やしたり減らしたりして味の濃さを自由に調節できるので
多くの人に受け入れられ易い。毎日食べる主食になるものは、味の薄い食材である
必要があるってこと)
しかし、勘違いしてはいけないのは、中庸であるべきなのは
あくまで刺激であって「快楽」ではないってこと。
快楽は濃ければ濃い程よい。
あと、もう一点指摘しなければいけないのは
「濃過ぎるのは考え物だが薄すぎても駄目」(強調)
味が濃すぎるものは駄目だからと言って、
じゃあご飯だけ毎日食べてればいいのか?っていうとそんな事も無いだろう。
小説なんて薄いどころか演出そのものが殆ど無いわけで、
これは毎日ご飯だけ食べてるようなもの。
>>788 >あなたがいうシナリオは、ゲームとは全く別個の概念だと僕は主張してますが、
>テトリスが論じられないことで、このことが証明されましたよね?
確かにシナリオ論では説明が難しいが、
しかしストーリー論ならシナリオもゲームも包括的に説明できる。
ていうか、娯楽全てを説明する事もできるかもね。
>>794を自分で読み返して言ってる事が滅茶苦茶って気が付いた・・・
心理学的に説明可能と言っておいて味覚を例に出すのは変だったな。
いわゆるブント曲線について説明したかったのさ。
中庸な刺激が快である、というのを心理学的に語ったもの。
ゲームにこの理論をどの程度適用できるのか?というとまあ怪しい所ではあるが・・・
演出の強さ(=刺激の強さ)と快の関係についてはある程度この理論で説明が付く。
>>793 >「何故、音楽は面白さにとって重要なのか?」
何がどう何故なのか、何における音楽の面白さなのか全く分からないが
少なくとも映画の場合サイレント>トーキーという評価だった時代は何年も続いた
それが覆されたのはルネ・クレールのような音と映像を対位法的に用いる技法が確立してから
映画理論史をたどればカラー化、シネマスコープ、ステレオサウンド、3Dシステム全て同じ経過をたどってる
何も無い状態に音楽がつけば最初は物珍しさが刺激を与えるがただ音楽を垂れ流すだけでは結局慣れて同じ事
音楽によって新しい引き出しは増えるがそれは面白さや刺激の大小とは関係ない
すぎやまこういちが「まだゲームは音楽をパロディとしてしか使っていない」と言ったのはこの問題
大体サウンドノベルで一番売れたのは映像表現のレベルが圧倒的に低いかまいたちの夜だろ
心理学も結構だが少しは芸術論の勉強もやれ
>小説なんて薄いどころか演出そのものが殆ど無いわけで
つまり萌え〜なイラストが入ったラノベは絵が入ってる分古今東西あらゆる小説より快感が上
それをアニメ化ゲーム化しようものなら神の領域まで達するという事ですか
>>791 というか、単純に遊戯の方がゲームより大きなジャンルで、
その中で「何がゲームと呼ばれているのか」を探している訳だから、
別に無理やりその二つの違いを考えなくてもいい、という手続き的な意味です。
>>797 ヴント曲線なんて、恐ろしくクラシックな心理学用語をよくご存じですね。
あれ、完全に否定されてるでしょ。閾値や馴化の問題があるし、
そもそも認知心理でいう心のリソースって問題もある。カクテルパーティ効果ね。
現代心理学じゃあ、刺激量と反応は単純な関数じゃないってことになってます。
>>798 >何も無い状態に音楽がつけば最初は物珍しさが刺激を与えるがただ音楽を垂れ流すだけでは結局慣れて同じ事
普通は音楽を垂れ流すのではなくシーンにあった音楽を流すもの。
ずっと同じ音楽が流れるという訳ではないので慣れる(飽きる)というのはあり得ないな。
>音楽によって新しい引き出しは増えるがそれは面白さや刺激の大小とは関係ない
音楽と面白さに関連性があるのは誰も否定しないと思うぞ?
例えばゲームレビューサイトでも、音楽の良さはゲームを評価する項目の一つに挙がっている事が殆どだしな。
まあゲーム性至上主義者はゲーム性と全く関係無い音楽なんてものが面白さに関係ある項目だと
認めたくないのかもしれないが。
>すぎやまこういちが「まだゲームは音楽をパロディとしてしか使っていない」と言ったのはこの問題
それはいつの時代の話?
多分すぎやまこういちはファミコン時代の超ショボ音楽(音源)を皮肉って言っただけでしょう。
音楽自体が不要だと言った訳ではない。
>>798-799 >大体サウンドノベルで一番売れたのは映像表現のレベルが圧倒的に低いかまいたちの夜だろ
売れた=面白い、ではないのは当たり前。
>心理学も結構だが少しは芸術論の勉強もやれ
人の心を整理してきちんと取り扱っていないという意味では芸術論もゲーム論も似たような物だね。
そんなの真面目に学ぶ気がしない。
>つまり萌え〜なイラストが入ったラノベは絵が入ってる分古今東西あらゆる小説より快感が上
ラノベの挿絵程度がどの程度の演出になるというのよ?
その程度の演出はシナリオや共感度が駄目なら簡単に覆されてしまう程度のメリット。
>それをアニメ化ゲーム化しようものなら神の領域まで達するという事ですか
ゲーム化するとかなり面白さが上昇するというのは感じるな。
アニメは共感度と演出でゲームより劣るし、あと「文章によってのみ表現可能なこと」
を表現できなくなるデメリットもあるので、ゲームよりも面白さでは劣ると思う。
>>800 >あれ、完全に否定されてるでしょ。
>現代心理学じゃあ、刺激量と反応は単純な関数じゃないってことになってます。
勿論刺激の質は様々だし、刺激に対する馴れ等の問題もあるだろうね。
そういう細かいツッコミはあるだろうが、人の心をモデル化して考える場合
ブント曲線だってまだまだ有効。
要は考え方の問題。
例えば、心理学、とりわけ俺が主に勉強した感情に関する論理は
「気持ちのよいもの」を「快」という風にアバウトに取り扱ってきた過去が
あるのだけど近年はfMRIのお陰で「人が気持ちよくなっているときは
脳がどういう風になっている」というのが判るようになった。
ただ「面白さ」を考える場合、「脳の報酬系回路が具体的に
どう刺激されるか」まで考えると複雑になり過ぎるので、
「報酬系に対する刺激度合い」を「快」という風にまとめて考えるのは有効。
次元説は感情をモデル化して考え易い優れた理論だと思う。
ブント曲線だって同じで感情を現実世界の事柄と結び付け考える場合に
使うモデルとしては今でも有効だと思う。
>>790 ゲーム性の高低は、プレイヤーの技量ではなくゲームそのものによって
決められていると思う。プレイヤーの技量で変わるのは、そのゲーム性が
自分にとって面白いかどうか。
>>803 だから、そういう「瞬間的・微分的な解析」というもの自体が、
ヴント以降、ゲシュタルト学派によって批判されてきた訳で。
刺激の最初の瞬間の反応を微分すればヴントのモデルも成立するように見えますが
ヴントの最大の誤解は「人間は常に刺激に対して等しく反応する」と考えたところ。
fMRIで実際にやれば分かるけど、報酬系はすぐに馴化し活動が小さくなる。
だからこそ、単純な刺激ではなく、体系としてのゲームというものが、
人間の心理(脳)を考える上で面白い訳で。
悪いけど心理学を勉強したことがあるなら、もう一度勉強しなおしなさい。
僕はあなたが一度でも心理学を勉強したことがあるとは思ってないけれど。
>>789 体育館は照明が大規模だから迫力が違うだけなんじゃ?
ただ、「ルールが少ない」ということはインタラクティブ性に関係しそう。
複雑すぎる場合、何が何に影響しているのか、分からないことがある。
ある地形上で魔法を使うと5%威力が上がる、といっても認識は難しい。
>>790、
>>805 僕はゲームはプレイヤーの関与なしにゲームたりえないと思っているので、
同じゲームでもプレイヤーの技量によってゲーム性が変わることを容認します。
が、ゲーム性と面白さを区別する考え方はちょっと惹かれる。
それを進めると、ゲーム性はゲーム作者の利益不利益に対するバランス感覚で、
面白さはプレイヤーの利益不利益に対するバランス感覚ということになる。
面白さって言葉は広すぎるけど。プレイ性、なんて新語を作って見たりw
808 :
名無しさん必死だな:2006/08/21(月) 20:59:58 ID:kp/jnSWA
ゲームらしさ…?
なにと比べて?映画やその他のメディアかな。
だとすればそれは(プレイヤーの)「身体性」だと思うけどね。
単なるインタラクティブというより境界面という意味での。
もっと厳密に言うと
「身体」と「世界」を両方描く能力をゲームは持っていて
事実上はそのバランスの狭間にあると言える、かな。
世界なくば身体の認識できず、なので。
なんとなく身体性を拘束されたとき「これはゲームじゃない」と思うのだろと感じる。
>>808 その境界面って言い方はものすごく解る。
ゲームプレイヤー=ゲーム内存在ではないからね、ほとんどの場合。
メタ小説なんてのがあるけど、所詮、読者はあくまでも個別の読者であるのと一緒。
けどゲームの場合はさんざん語られてるけどインタラクティビティがあるため、
かろうじて(?)外界からゲーム内世界へと干渉することができる。(逆もまた可)
たとえるなら、グローブボックスと呼ばれる装置のようなものである。
グローブボックスというのは、危険な化合物や反応性に富む物質、あるいは放射能などを扱う際に
使われる気密性の高いガラス張りの箱で、ゴム手袋が中に向けて生えている。
そのゴム手袋に外から手を突っ込んで、中に置いた対象物をいじくる。
で、この例えを用いてあなたの言葉を解釈すると、対象物を含むグローブボックスの中が「世界」
「身体」というのは、ゴム手袋の“形”
グローブボックスの外界は現実世界、すなわち、我々の心・思考にあたるのではないだろうか、と思う。
「世界」と「心」の境目にあるのが「身体」。
ゲームにおける「身体」というのは、ゲームにおける「世界」から“手の形”を抜き去って
生じる境界面のことである。
ゲームにおける「世界」が充足したものなら、文字通り手を付け入る隙がないわけで、
プレイヤー不在でも完結したものとなる。
けどそれだと全くゲームじゃなく、ただのアートなので、「世界」からプレイヤーが干渉できる部分が
あらかじめ陰画のように差し引かれていなければならない。
それが、グローブボックスのゴム手袋の形にあたる部分。
(さらにそのゴム手袋の形も、一口にゴム手袋、といってもさまざまな形状をとることができる。
この形状がプレイアビリティやルール…とたとえると、比喩が破綻しそうなのでやめときます。)
アホな俺には八割方言ってる意味が分からんのだけど
それは例えば「ピアノを弾く人がいないとトルコ行進曲は成立しない」
「アクション・ペインティングの技法は作者の行動を浮かび上がらせる」って事と何か違うの?
ピアノを弾く人や、アクションペイントの作家は、ゲームにおけるプレイヤーに対応してなくない?
芸術作品の場合、ゲームプレイヤーに対応する位置にいるのは、その作品の観衆じゃないだろうか。
でも英語じゃピアノを弾く人の事をpiano playerって言うぞ
ゲームでも芸術作品でも観衆は観衆だろ スポーツなんか特に
自分の中で直感的には答えが出てるんだけど、
それを伝えようとするとすんげー長くなりそうなのでちょっと待っててくれ。
815 :
805:2006/08/23(水) 16:29:13 ID:oJZD/vi2
>>807 “プレイヤーの技量によってゲーム性が変わる”ってのが、どうにも自分
には引っ掛かる。ちょっと、具体的に説明してくれないかなぁ。ゲーム性
という言葉の認識の違い?
将棋の素人同士よりプロ同士の対局の方がゲーム性が上だとすると、お互い
最善手を指してるのがゲーム性が上がってる状態なのかな。これって、
その時全部で何千通り(?)かある手から1番有効なのを選んでいるけど、
その何千通りという枠を決めてるのはルールだよね。プレイヤーがどんなに
技量を発揮したところで、ルールで決められた上限は超えられない、つまり
ゲーム性も上限が決まっているということなのでは?プレイヤーの行動
出来る幅がルールで決まっている以上、ゲーム性もルールで幅が決められて
いると言えないか?
ゲーム性を決めているのはルールであり、決められているゲーム性の範囲
からプレイヤーの技量でどこの位置を指すかが決まる、としたい。
個々のプレイヤーやゲームプレイが変数的なものだとしても
ゲームそのものやそこから導かれるであろうゲーム性は常に一定、という事は考えられるだろ
じゃないとあのサッカー(のゲームプレイ)とこのサッカーが同じサッカーと呼ばれる理屈に合わない
>>815、
>>816 僕はゲーム性は、要は利益不利益のバランスだと考えているので、
あまりにも難しすぎて利益不利益がよく分からないほど複雑なゲームは、
ゲーム初心者にはゲーム性が低いと言えるのではないかと思っています。
ただし、その難易度が最適なゲームプレイヤーもいるということです。
将棋やサッカーなど、対人で行われるものはおっしゃる通りなんですが、
コンピュータと戦う場合は、難易度とルールは、
それほど変わらない存在となっているのではないかと思うんですよね。
ただ、この考えはまだ流動的。それは面白さであってゲーム性ではない、
という指摘も正しいというか「あり」だと思っています。
ゲーム性に対してプレイ性という新たな概念を考えているところです。
>>808 境界面でのインタラクティブ性というのは、
要するにインターフェイスのことですよね。
「身体」と「世界」をつなぐインターフェイスがゲームである、
と定義することも出来そうですね。
ただ、これだとマニピュレーター的なものもゲームか、という疑問が出てくる。
もっといえば、テレビのリモコンはゲームか、という、
このスレでずっと提唱されている仮題が浮上してきてしまうような気がする。
>815
将棋をかじったくらいの人(A)が名人(B)と将棋を指す
の例だとどうだろ
AにとってもBにとってもゲームとして成立しない予感
将棋を指してるのに将棋として成立しないってのもおかしいだろ
>>817 例えばゼビウスみたいなシューティグゲームでゲーム性を感じるところと
言えば、画面内の敵機又は敵弾と自機の配置それぞれの変化を瞬間的に
判断すること、辺りかな?で、その判断が的確に出来ない初心者には
難しくてゲーム性が低くなる、と。
初心者と熟練者の違いは、経験による判断材料の差があるよね。この
判断材料って、この敵は弾をたくさん吐くから出たらすぐ倒そうとかいう
ものだけど、これはその敵が弾をたくさん吐くというルールがあるから
言えること。で、この敵を見た初心者は利益不利益を1つ学習して技量が
上がるけど、これをゲーム性が上がったと言うのはヘンじゃない?
その敵が弾をたくさん吐くのは元から決まってたんだし。
あなたが
>>690で言う2のゲーム性の定義部分は概ね納得出来るんだけど、
それがプレイヤーの技量と結びついちゃうと首を捻りたくなる。なので、
そのプレイ性という言葉がどんなものなのか、期待して待ってます。
822 :
ニセイチ ◆tMNr3FMQg. :2006/08/25(金) 17:55:07 ID:V/gOY4jx
>>821 すんません、まだ自分でもそんなに分かってないんですよねー。
ちょっと今日は忙しいのですが、ageとかないと落ちそうなので、
それだけのために書き込みます。レスはまた後日。
>>806 >ブントの最大の誤解は「人間は常に刺激に対して等しく反応する」と考えたところ。
「等しく反応」とは言っていないだろ。
ブント曲線は「中庸な刺激が快である」と言っているだけであって
刺激に対する反応は人によってまちまちである事は否定していないでしょ。
>報酬系はすぐに馴化し活動が小さくなる。
活動が小さくなる=馴化なの?馴化って慣れるとか適応するとかって意味だろ・・・
例えば、人はお金を貰ったらすぐにお金を貰う快楽に慣れてしまい
お金を欲しがらなくなるとでも?
>体系としてのゲームというものが、
>人間の心理(脳)を考える上で面白い訳で。
大真面目に心理学を使ってゲームを解析しようとしたら
ゲームという狭い枠に囚われる無意味さ加減にすぐに気が付くだろうに。
>僕はあなたが一度でも心理学を勉強したことがあるとは思ってないけれど。
じゃあおまいが得意の心理学を使ってゲームを語ってみたらどうなんだ?
知識は活用しないと意味無いぞ。
>>821 ゲーム性が高い=情報処理量が多い ではないかな・・・
例えばゼビウス。
上手い人は、下手な人よりも処理可能な情報量が多い。
弾の弾道を沢山脳内で処理できる力がある人は、
大量の情報を処理可能なので、高難度でも情報処理能力が
パンクせずゲームで高い覚醒水準を維持できる。
しかし、下手(=情報処理能力が低い)な人が
大量の情報を処理しようとすると、すぐに情報処理能力がパンクして
ゲームオーバーになるので、上級者よりも高覚醒を維持し辛い。
よって、「難しいゲームはつまらない」となる。
しかし、人は学習により不要な判断(情報処理)はカットして
必要最低限の情報処理のみ集中して行えるようになる。
これが上達である訳だが、しかしプレーヤーの
本質的情報処理能力は上がらないと思う。
学習によりゲーム性(情報処理量)が上がる、とは言えないって事だな。
このスレで分析されていることは、俺の目には
「情報処理量と面白さの関係」についてのみであるように見えるが、
しかし、思うのは。。。欲求とゲームの関係に対する鈍感さ。
個人的な意見だが、俺は「アクションゲームを作るな」とたまに語る事がある。
何故アクションゲームを作っては駄目なのか?
というと、アクションゲームは人間の欲求を満たさないから。
「アクションゲームの何が面白いのか?」俺はこの問いかけに対する
説得力ある答えを聞いたことが無いよ。
テトリス的なお手軽ゲームがアホみたいに大ヒットして、
安い開発費で大儲けウハウハ〜というのがゲームクリエイターとしては
理想なのは解るけど、しかし何の欲求も満たさない安物ゲームが
人々のニーズに合致するはずが無い。
いい加減、「消費者は根本的にゲームに何を求めているのか?」
って問い掛けに向かって欲しいところであるのだけど。
流石欲求を最大限に満たすパチスロとエロゲーの例ばっか出してくる御仁の考える事は違う
827 :
名無しさん必死だな:2006/08/26(土) 18:56:27 ID:gWMLjJy6
>>825 テトリスこそ、
「消費者が根本的にゲームに求めているものに合致している」からこそ、
これほどまでに売れて支持されてるんだろ。
>>827 では具体的にテトリスが何の欲求を満たすのか、君は答えられるの?
俺は答えられるよ。ずばり暇潰し。
でも、映画、ゲーム、ネットなど、暇を潰す為の娯楽は数多いわけで、
これら数多い娯楽からあえてテトリスを選択する理由はあるのか?
昔はあったと思う。
娯楽の少ない時代に「ちょっと空いた時間の暇を潰したい」
という欲求が発生した場合、代わりとなる娯楽が無かったから。
昔から映画などシナリオ付きの娯楽はあったが、
しかしシナリオは仮想世界の中で発生した欲求不満を満たすという性質のため
ちょっと空いた時間の暇潰しには向いていない。
漫画雑誌などは短時間でも読めるけど、しかしこれは
一度読んでしまえばそれっきりだし、話を理解するためには
毎週読み続けなければいけないという問題もある。
他のゲーム、例えばRPGなどもシナリオを利用しているため
快を得るためには長時間遊ばないといけない。
シナリオを利用しないゲームもあるにはあったが、
ゲーム性や難易度の問題で序盤から最適覚醒維持可能な
ゲームってのはそう数多くなかったと思う。
昔は「ちょっとした時間の暇を潰したい」という欲求を満たす
娯楽ってのはありそうで意外と無かったのではないかと。
だからテトリスにも存在意義はあった。
しかし、現代ではまずネットがある。
PC立ち上げてネットに繋ぐだけで雑談し放題。
空き時間が終わったらPC落とすだけでいいから簡単だし、
シナリオやゲームのように「序盤はつまらない」
「飽きた」という事が無い。
何よりネットはテトリスのように暇潰しだけでなく
それ以外の欲求も満たしてくれる。
あとコストパフォーマンスも良い。
どう考えてもテトリスより優れているよな。
ただし、ネットに接続出来ない環境であればテトリスにもまだ存在意義はある。
あと「話題性によ煽動」で売れる可能性もまだ一応残されてはいる。
例えば数独のような普通のパズルであっても「海外で大ブーム!!」
というような煽り文句で遊んでみたいという欲求は生まれる可能性がある。
面白い≠売れる、なので大してニーズが無いゲームでも売れてしまう
可能性はどんなゲームでも常に残されているとは言えるが、しかし所詮パズル。
パズルという時点でどの程度の欲求充足か大体は想像できる人も多いと思う。
ネットに繋げない環境であれば、数独のようなパズルにも存在意義はあるが、
ネットに繋げるる環境であればあまり需要は無いはず。
しかし、ネットで満たされる欲求にもやっぱり限界があるわけで。
暇潰しという点では非常に優れていても、例えば
「好きな人に告白された」というような快はネットでは得る事ができない。
それは基本的には現実世界でのみ得られる快だが、共感性、つまりシナリオを
利用すれば限定的ではあるが似たような感情を鑑賞者に与える事は可能。
それはネットでは充足不能な欲求なので、ネット時代であっても
シナリオにはまだ存在意義があるだろう。
だから、ゲームは「暇潰し」からの脱却を目指さないといけないだろう。
シナリオを重視する路線は正しいと思う。
しかし問題はゲームとシナリオの親和性。
特にコミニケーションに関する表現手法の問題が大きいと思う。
技術的な問題でプレーヤーとAIは会話できない。
会話の無いシナリオではリアリティー度の高い
シナリオが表現不能なのは明らかで、
リアリティー度の低い、しかもドラマ性も低い
シナリオばかりが描かれる事になる。
実際のところ、会話が無ければまともなシナリオ
など描けるはずが無いので、主人公は勝手に喋るか、
あるいは無理矢理無口な奴という設定にされてしまう。
(まあそれだと無口でも何故か好かれる、
という矛盾が生まれてしまう可能性は高いが)
コミニケーション表現の問題を解決するためには、
プレーヤーが勝手に喋るのは避けられない。
だけど、「勝手に喋るプレーヤー」でさえ、大半のゲームは
イベントシーンでしか見ることが出来ないのが現状。
一部ゲーム、例えば英伝Yなどは通常シーンであっても顔付き噴出しで
会話するシステムを採用したりしてるし、テイルズオブアビスのように
チャットモードを搭載してるゲームもある。
こういう、なるべくコミニケーション表現を殺さない工夫をしてる
ゲームはあるけど、大半のゲームはコミニケーションの不自由性に
対して何の対応策も無いままつまらないシナリオを描いているだけ。
特にスクエニのゲームに対しては不満が大きい。
ゲームデザインとは、ストーリーを描く基盤となるシステムを
デザインする職業という認識なのだが、コミニケーション表現という
シナリオ重視型ゲームシステムの肝とさえ言える部分が手抜きでは話にならない。
「ゲームではそんなシナリオは描けませんから!!」
と言い訳ばかりする無能ゲームデザイナーは問題外だが、
シナリオライター側も「どうせゲームだしつまんなシナリオでいいや」って
甘えてきたってのはあると思う。
プレーヤーに快を与えるものは最終的にはストーリーなのだから、
ゲームを作る上で最も上流に来る工程はストーリー(シナリオ)デザイン。
「こういうシナリオを作りたいんです!!」と無理矢理押し通して、
ゲームをデザインさせるくらいのシナリオライターでなければいけないと思う。
何の話をしてるのかわからなくなってしまった。
確かテトリスの話だな。
テトリスが暇潰し以外に何の欲求も満たさない
ゲームであるのはもう明らかでしょう。
いくら暇潰しを極めたようなゲームを作ろうとしても
それがネットに勝てるかと言われると非常に疑問で、
暇潰しゲームではもう駄目だろう。
このスレで議論されていることは何か?というと
言わば究極の暇潰しツールを作るための議論であるように思える。
ゲームからストーリーを取り除いたらシステムしか残らないが
そのシステム自体が「面白い」という事がありうるのではないか?
という議論だな。
テトリスに関する議論は「システムしか存在しないゲームは
消費者のニーズをどの程度満たせるか?」
という点では興味深いものではある。
システムしか存在しないゲームでは単なる暇潰しにしかならないと
証明するための格好の研究材料。
一応補足しておく。
面白さ=ストーリー×共感度+演出
という式に従えば、例えストーリーがゼロであっても
演出の分だけは「面白さ」がある、という事になる。
ストーリーが無くとも、絵や音楽だけでも感情は喚起可能って事で。
ついでに言うと、このスレで議論されていることはまだ
アマチュアの域を出ていないというか、まあ所詮2chなのだから
仕方ないけど、ゲーム理論とか心理学に詳しそうな人はいるのだから
もう少しレベル上げて欲しい。
このスレで議論されている事は、情報処理量と覚醒水準の話に帰着できると思うよ。
実際、遊びやスポーツに関する心理研究では覚醒水準に関する研究が多いが、
しかし、このスレではそういう一般的な研究レベルの議論にさえ達していないと思う。
俺個人、面白さを語る場合、覚醒水準への言及は避けられないという認識だが、
誰も覚醒水準を語ってくれない。。。
838 :
名無しさん必死だな:2006/08/27(日) 15:45:42 ID:DsPl+J2X
>>829 少なくともテトリスは基地外が暇つぶし代わりに空気読めないレスをベタベタ貼り付けて
議論の足を引っ張る心配がない分ネットより優れてますよ
ぶっちゃけストーリーとか、映像より音の方がゲームにとって重要だと思う。
更にその音より、触って楽しい、遊んで楽しいの方が重要だけどね
覚醒水準について語らないのは「それは前提だから」なんですけどね。
それは「眠たくなるようなシロモノはエンターテイメント性が低い」
って言ってるのと何ら変わりはない。当たり前。
あなたの理論についていえば、個々の考え方で面白い点はあると思うんだけど、
そのことを持って何を考えたいのか、という点が不明瞭。
ゲームがなぜゲームであるのか、ということを考えられないのであれば、
シナリオがなぜシナリオであるのか、ということも考えられないはずです。
あと、最後にヴント曲線が否定されたのか、という点を簡単に説明すると、
要するに、「刺激というのは順序によって反応が変わってくる」ってことを、
全く無視してるんですよ。馴化(慣れ)の問題もあるし、
慣れてくると閾値、つまり感じられる最小限の刺激量が変化してしまう。
感覚がマヒするというのは、実体験として分かるでしょ?
刺激は常に同じ反応を呼び起こしはしないんです。
3億円宝くじで当たった直後の金銭感覚を考えてみて下さい。
絶対的に中庸な刺激なんてものは存在しないんです。常に前後との比較がある。
で、宿題になっていた「ゲーム性」と「プレイ性」なんだけど…
○ゲーム性は、予めゲーム内で決められている、
プレイヤーの行動(とフィードバック)の結果もたらされるもののバランス。
○プレイ性は、プレイヤーが実際にプレイする時、
プレイヤーの行動(とフィードバック)の結果もたらされるもののバランス。
つまり、ゲーム性とは、プレイヤーが頑張れば上手くいく…
というような仕掛けがゲーム中にあるかかどうかということ。
プレイ性は、実際にプレイヤーが頑張ったとしても、
その操作性やプレイヤーの力量により、楽しさを感じられないということ。
そうなると、ゲームらしさ(ゲーム性)とは何か、という議論においては、
プレイ性は分離しても構わないような気もします。
マーケティングの話になっちゃうしね。どれぐらいの難易度がいいのか、みたいな。
ただ、コンピュータゲームの場合、このプレイ性が、
それ以前のゲームに比べて、ゲーム性に接近したのは確かだと思います。
見逃してた。長文失礼。
>>831 >「好きな人に告白された」というような快はネットでは得る事ができない。
>それは基本的には現実世界でのみ得られる快だが、共感性、つまりシナリオを
>利用すれば限定的ではあるが似たような感情を鑑賞者に与える事は可能。
すいません、今ようやく、あなたがいいたいことが分かりました。
あなたは、人生の代用品を求めてるのか。
だから、シナリオが関係しない(人間関係を描かない)ものを評価できない。
さらに、テトリスのような極度に抽象的なゲームを評価できないんですね。
しかしそれならば、このスレッドはあまりに違いすぎる。
「シナリオに最大限共感できるゲームとは」的スレッドを立ち上げては?
いや、皮肉じゃなくて、本当にそう思ってます。
そのスレッドなら、僕もちゃんとどんな演出があるか、ちゃんと考えますよ。
ナラティブ系心理学の知識を披露してもいい。(大して知らないけど)
個人的にはゲームらしさとゲーム性は別個にするべきだと思う。
ゲームらしさっていうのは各人の価値観で決めていい、その人のプレイしてきた
ゲームや環境、それこそヒトソレゾレってやつでいいんじゃないかな。
でもゲーム性の高さっていったらやっぱ双方向性の高いものをイメージしてしまう。
言い換えるとプレイヤーの意思がモニタ上に反映される度合いの高さ。
ラノベ系ADVよりもテトリスのほうがゲーム性が高い、これに異論のある人は少ないと思う。
今は時代の流れ的に敷居の低いもの(覚えるルールが少ない、あるいは難易度が易しいなど)が
求められてる。前提としてゲーム性の高さ=面白さではないからゲーム性が重視されないのは
仕方ないのかもしれない。
844 :
821:2006/08/28(月) 12:32:16 ID:apSUjcxn
>>841 プレイ性という言葉の定義がいまひとつピンとこないけど、ゲームが持って
いるゲーム性を、プレイヤーがどの割合で楽しめるかの指標ってこと?
プレイヤーの技量で変化し、最終的にはゲーム性全てを受け入れられる
大きさになるようなイメージを持ったけど。
ただまあ、ゲーム性とは分離していいということで納得してもらえたの
なら、この件に関しては基本的にもう言うことはないです。
すっかり落ち着いちゃったみたいなので、自分がずっと気になっていた古い
話(
>>692,
>>721)にレスしちゃう。書いた人はもう見てないだろうけど。
小説を読むことにもルールはある。縦書きのものは右からめくって右上から
左下へ字を追う、というものだ。読者はそのルールに従っているから、作者の
意図した通りにシナリオを取り込める。そして、ルールでは1通りの行動しか
許されていないので、読者には選択肢が無く自由も無い、即ちゲーム性が無い。
ルールは運動の記述であるが、運動は連続して初めてストーリーを感じる
ものとなる。ゲームのキャラクターがAからBへ動いた、これがストーリー。
小説を同列で言うなら右上から左下へ文字を追った、これがストーリー。
小説のシナリオが決まっているのは、将棋の歩が歩であると決まっているのと
同じこと。
つまり小説で変わらないのは、シナリオの内容でなくてルールに従った読者の
行動で、行動に自由を与えているゲームとは相容れないものである、という
最初の結論にたどり着く。
846 :
ニセイチ ◆tMNr3FMQg. :2006/08/31(木) 18:42:53 ID:x19kQdpa
>>844 イメージ的にはその通りで、ゲーム固有であるゲーム性に対して、
個々のプレイヤーがそのゲーム性を受け取った時の出力がプレイ性って感じ。
>>845 そうそう、重要なのは「運動は連続して初めてストーリーとなる」ってとこ。
僕はずっとそういうようなことを言いたかったんですよね。
で、ゲームと小説のことについて考えたんだけど、一つ思ったのは、
「ゲームをやり終えた人」にとって、その体験は、結局小説を読むのと同じように、
一直線の体験であったかのように感じるのではないか、ということ。
つまり、なにをどうしようと、シナリオってのは一直線で、
それをインタラクティブに掘りあてさせるカタチにするか、
小説のようにストレートに提示するか、その差に過ぎないって気がする。
だからこそ、ゲームにとってストーリーというのは諸刃の件。
単にストーリーを一直線に進ませないための妨害に過ぎないゲームシステム、
みたいな感覚、持ったことないですか?
>>843 むしろ、ゲーム性の考え方が変化しつつあるんだと思う。
まだその変化って時系列の話までいってないんだけど。
本当に自分でも不思議なんだけど、買う前までは「ツマンナソ」と思い、
やりはじめても「やっぱツマンネ」と思ってた「おい森」を、
結局、この1カ月、毎日必ずやり続けている自分がいるんだよね。
だからこそ、ゲーム性とはなにかを考え直すためにも、
このスレッドに粘着してるんだけどね。
でも自画自賛じゃないけど、おい森をやると、ゲーム性ってのは、
結局バランスなんだって強く感じるなぁ。(
>>690、
>>720)
縦読み?
>>840 >覚醒水準について語らないのは「それは前提だから」なんですけどね。
その前提についていつまでも延々と議論してるようだから
あえて覚醒水準の話を振っているのですが・・・
難易度とかゲーム性とか、そういう話って要は全部覚醒水準に関係する話でしょう?
何故ゲームは簡単過ぎるとつまらないのか?
というと情報負荷と覚醒水準の関係があるから。これはもう断言してもいいね。
あと何故プレーヤーの介入が少ないと「ゲーム性が低い」と感じるのか?
これだって情報負荷と覚醒水準の関係があるからだと思う。
脳の覚醒系は感覚器からの入力だけでなく大脳皮質からの入力も
受け取るので、外からの刺激しかない娯楽(垂れ流しの物語を鑑賞する娯楽)より、
外への出力も必要な娯楽の方が高覚醒を維持しやすい。
>>849のように考えるとゲーム性の正体がある程度見えてくると思うね。
まず、過去にゲームと呼ばれていた娯楽はプレーヤー自身が
ストーリーに関与するという特徴があったと思う。
外から脳に流れる情報量より、脳から出力される情報量に着目して考えて、
この「脳から出力する情報量」が即ち「ゲーム性(プレイ性?)」
であり、何故ゲーム性が高いと心地よいのか?
というと「脳から出力する情報量」も覚醒水準に深く関係するから。と。
ただし、別の視点。例えばゲームの本来あるべき定義からゲーム性を考えるとか、
ゲームの歴史的な経緯からゲーム性を考えるとか、
そういう話になると覚醒水準は使えないけどね。
ゲーム性を考えるとしても、その文脈によって考え方が色々と変わってくる可能性があるってことかと。
>そのことを持って何を考えたいのか、という点が不明瞭。
特にこれを考えたいっていう風な具体的なものは無いw
>ゲームがなぜゲームであるのか、ということを考えられないのであれば、
>シナリオがなぜシナリオであるのか、ということも考えられないはずです。
ゲームとシナリオの違いは何か?というと、
「プレーヤー自身のストーリーを楽しむ」のか
「仮想世界のストーリーに共感して楽しむ」のか、という点が違うだけでしょう。
テトリスのような一見ストーリーが無いゲームであっても
ストーリーの定義を「欲求充足過程」という風にちょこっと拡張してやるだけで
実は同じ論理で語れるようになる。
だから俺の中では「ゲーム」と「シナリオ」の区別は殆ど無いと言ってもいいね。
結局重要なのは「ストーリーは何?」という事なので、
ゲームであってもまずストーリーに着目する。
>>852の続き。
つまり、ゲームであっても物語論を使って語れるはず。ってこと。
なのだけど、現状そうなっていないよね。
文学なんかで研究されている物語論は文章で書かれる物語研究が
殆どで映画やゲームなど現代的な娯楽に対してはあまり研究されていない。
特にゲームについての研究は少ない(というか見た事が無い)。
あと物語論とは別に、ゲームはプレーヤーがストーリーに
介入するという性質上遊び研究も取り入れないといけないが
遊びと面白さの関係でキーになるのは覚醒水準で、
それは難易度やゲーム性の議論が延々と続く事を見ても
その重要性は皆認識しているところだと思う。
(無意識的に認識している人が大半のようだが・・・)
で、ストーリー(=欲求充足過程。つまり「快」)と、
覚醒水準ってのは感情ラベリングに必要な二大要素であるわけで、
心理学の知識、とりわけ次元説がゲームの面白さを考える場合に
ベースとなる考え方だと思うわけさ。
ただし、次元説は言わば感情(面白さ)に関する基礎知識であって
面白いものを作るための方法論は別。
面白いものを作るための論理が物語論になると思う。
文章で書かれたストーリーの描かれ方を論じるだけの古典的な物語論ではなく、
映像メディアのストーリーはもちろん、音楽などの演出が面白さに与える影響や
「遊び」や「対戦」などの要素、つまり「現実世界のストーリー」まで考慮した
新しい物語論の構築が必要だ。
それが実現して、初めてゲームの面白さをきちんと語ることができるはず。
俺が考えているのはまさにそれなのだよ。
>あと、最後にヴント曲線が否定されたのか、という点を簡単に説明すると、
>要するに、「刺激というのは順序によって反応が変わってくる」ってことを、
>全く無視してるんですよ。
刺激に対する感受性が絶対的なものではない事くらい、
ブント曲線を考えた人も多分気が付いていたのではないかな…
「中庸な刺激が快」というのは、各個人の感受性の違いまで
考慮した上での中庸な刺激でしょ。
まあ論文とか直接読んだ訳ではないから「多分」としか言えないが…
>>842 >すいません、今ようやく、あなたがいいたいことが分かりました。
>あなたは、人生の代用品を求めてるのか。
人生の代用品を求めているとまでは言わないが、
ただ人生で数度あるかないかというような強烈な感情
(感情というより情動と言った方が適切?)を求めてはいるかもな。
人がより強い快に向かうのは当たり前だ。
単なる暇潰しで人生で数回あるか無いかというような強烈な感情を
体験できるなんて素晴らしいじゃないか。
少なくとも単なる暇潰し以外何も無いゲームよりはずっといいね。
>だから、シナリオが関係しない(人間関係を描かない)ものを評価できない。
別にそんな事は無い。
例えばテトリスだってよいところもあるってちゃんと評価している。
ただ、人間関係や社会性が関係しない快は「低次元な快」ってのは認識しておくべき。
欲求階層説によると、食欲や睡眠欲のような、
社会性が絡まない生理的な欲求はあらゆる欲求の最下層にある
低次元の欲求という事になっているんだよね。
「暇潰しへの欲求」も、食欲や睡眠欲と同じくらい低次元の欲求で
確かに人間にとっては必要なものだけど、
満たされたから素晴らしいと言えるかというとね…
「お腹すいた時に何か食べて食欲が満たされた」
「眠い時に寝て睡眠欲が満たされた」
「暇な時に暇を潰して覚醒を維持した」
そういうのは人にとっては単なる生理に過ぎないわけで、
暇潰ししかないゲームをあまり高く評価する気にはなれないな。
>さらに、テトリスのような極度に抽象的なゲームを評価できないんですね。
抽象的なゲームを馬鹿にしているつもりは無い。
俺はリアリティーが面白さを削ぐ可能性について過去何度も語ってきたからな。
(特に音楽とリアリティーと面白さの関係が重要。
現実世界では殆どのシーンで音楽などは流れていないから、
音楽がリアリティーを殺してしまう事がある。
リアリティーが高いと「強い演出」が難しくなる訳だ…
面白さ=ストーリー×共感度+演出
という式をまた書いてしまうが、多少リアリティー(共感度)を下げても
共感度低下分を演出項で補う事ができればトータル的な面白さは落ちない事になる。
音楽は強く感情を喚起する演出なので、多少のリアリティー低下よりも
音楽劣化の方が面白さにとってはダメージが大きい)
>しかしそれならば、このスレッドはあまりに違いすぎる。
別にそうは思わない。
むしろ、ゲームらしさをゲーム性と絡めてしか語れない方がおかしいと思わない?
例えば「ゲームらしいシナリオ(ストーリー)」だって語ろうと思えば語れるはず。
現に、小説と映画とゲームでは、描かれるストーリーに大分違いがある。
そうした観点からゲームらしさを語る事が何故出来ないかと。
君はナラティブとか言ってるから物語論もちょっとは詳しいみたいだが、
物語論を勉強した人なら、メディアの違い、「物語の語り方」や「視点」の違いなど、
そういう物語の描き方や描かれる物語の内容の違いという観点から
ゲームらしさを語る事くらいはできるだろう。
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/yamaguci/seminars/2003/ocu/narratology01.htm またリンク貼ってしまうが、↑みたいな論点からゲームらしさを分析した場合、
物語の構成要素中のどういう要素がゲームらしいのか?
まず「現実世界の物語」まで考えることが必要だろう。
そうしないと、現実世界のゲーム、スポーツやテーブルゲームなどを考えられない。
あと、テトリスのような一見物語が無いとしか思えないゲームであっても
物語の要点を「欲求を充足させる過程」という風にすればテトリスであっても
物語論で語れるようになる。
(この世のあらゆる事象の流れを「物語」であるという風に
物語の定義を広めててテトリスの物語を語ることも
不可能ではないかもしれないが、それだとおそらく考を
整理しきれないので物語を「欲求充足過程」という風に考えることにした)
ゲームというメディアはコンピューター上で動くのが多いので、
物語の表現手法という点ではとても優れている。
他のメディア、例えば映画はシステムの柔軟性が低いので
プレーヤーが物語に介入する事が出来ない欠点がある。
小説は映像表現が殆ど無いが、「文字によるキャラの心情表現」などは簡単。
これは映像メディアには無い長所。
「文字によってのみ可能な表現」「映像による直感的な情景表現」
「プレーヤーがストーリーに介入することによる共感上昇」
「主観視点による高い共感」「強い演出」
「描かれるストーリーは高次元である(社会性、人間関係が多分に関与するストーリー)」
これら全てをゲームで表現可能なのか?っていうのが問題。
これら全て表現可能なゲームジャンルは少ないが、しかし表現可能なジャンルはある。
それはずばりノベルゲー。(ギャルゲエロゲ含む)
物語論的な分析に従えば、これら原始的なジャンルが実は優れているのではないかという結論が導き出せる。
俺は過去何度もノベルゲーこそ至高のジャンルと語ってきたが、物語論は俺の考えを裏付けてくれるのさ。。。
実際、涙を流すほど強い情動を与えてくれるゲームは圧倒的にノベルゲーが多い。
例えば俺が直近で遊んだ「この青空に約束を」でもやっぱり何度か泣いてしまった…
遊び始めた頃は「何だこの変なキャラ」「こんな話ありえなーい」とか感じても、
例えばりんなシナリオの最後のほう合わせ石をりんなに手渡して再会を誓う場面とかで
やっぱり泣いてしまうわけで。
ええ話や―(;´Д⊂ヽ って泣けるのは圧倒的にノベルゲーが多い。
あと音楽もいいな〜〜って思うし。。。
きちんとした主題歌付けてくれるゲームは素晴らしいっす。
ちょっとくらいのギャルゲチックな違和感など、これら強烈な快にくらべたら些細な問題。
消費者の求めている物は何か?というのが問題と思うのさ。
テトリス的な、単なる暇潰し以外何の快も無いゲームなどはっきり言って今の時代殆どニーズが無いだろう。
面白さと売上はイコールではないから無名なゲームより有名なゲームが売れてしまうのは仕方ないが、
でも強烈な快を与えてくれるゲームが日の目を見ないのは実に問題だと思う。
消費者の求めるものは「面白さ」なのだから、新作は売れないとかオタきもいとかゲームらしくないとか、
そんな叩きは無視してでも強い快を与えるゲームを重視し続けるべきなのではないか???
そうしないと消費者は気持ちよくなってくれない。
気持ちよくならないとリピートが無い。
リピートが無いと、ゲームは徐々に廃れるしかない。
良いゲームをきちんと評価するシステムの確立と合わせて、
そういう面白さ重視の戦略を取ってくれるハードがあってもよいと思うのさ。。。
テトリスバカ売れしてますが
>>qIEZCT8S
書きすぎ。お前は一日レス3回までな。
866 :
名無しさん必死だな:2006/09/01(金) 22:05:02 ID:xtBC2Wyq
ゲームらしさ→定義できないので終了
「消費者が求めてるのは面白さ」と言っておきながら
「○○は売れている」と言うと「面白いゲームが売れるとは限らない」
凄いなこいつは
何が凄いのか解らないね。
当たり前のことを語っているだけなのに。
俺個人としては間違いなくゲームに面白さを求めている。
俺だけじゃなくて、殆どの人はゲームに面白いものを求めてはいると思うけど
しかし「何が面白いか」をどうやって知るのかが問題。。。
売れそうなゲームなら糞ゲーでも高得点を与えてしまう
ファミ通レビューなんかは問題外だけど、
その他のゲームレビューサイトにも問題があると思う。
1.ゲームの評価方法の問題
2.ライトユーザーがそうした情報を知ることが出来ない問題
1の問題。
どうゲームを評価するのか?という問題。
大抵のゲームレビューサイトではグラフィックス、サウンド、
ストーリーなんかでゲームを評価しているけど
グラフィックスが良いなら良ゲーなのか?というと違うはず。
ゲームのジャンルなんかによってもゲームを評価する方法は
違ってくるはずで、全てのゲームを同じ評価軸で評価しようとする場合
グラフィックスやサウンドやストーリーのように、
固定化された軸でしか評価出来ないのは明らかに不適当。
まず、基本的にゲーム評価軸は可変であるべき。
携帯機のゲーム、据え置きのゲーム、オンゲーなんかを同じ
「グラフィックス」「サウンド」っていう項目で評価しようとするのは無理がある。
で、この問題を唯一解決しているゲームレビューサイトが「エロゲ批評空間」だったりする・・・
あそこではゲームを評価する際にまずゲームを評価するためのPOV(視点)を登録するからね。
沢山あるPOVの中から、「このゲームはどのPOVで評価できるのか」が解る。
「感動できるゲーム」「エロいゲーム」「音楽がいいゲーム」っていう風に
ゲームに○○を求めている場合、どんなゲームを買えばいいのかが解る唯一のサイト。
ゲーム評価軸の問題はいいとして、最大の問題。
「ライトユーザーがそうした情報を知ることが出来ない問題 」
これはプラットフォーム運営者にも問題があると思う。
プラットフォーム運営者は良いゲームをユーザーに知らせるための
システムも考えるべきでしょう。。。
良いゲームをユーザーに知らせず埋もれさすのは
プラットフォーム運営者にとっても明らかに不利益。
まあゲームを評価するシステムを確立する事は、
知名度だけの糞ゲーを売ってる会社にとってはマイナスになるけど
それは自業自得なので構わない。
874 :
ニセイチ ◆tMNr3FMQg. :2006/09/03(日) 15:08:39 ID:V/CME524
ID:qIEZCT8SおよびID:NObnZy3j氏。(同じ人ですよね?)
僕の言いたいことはもう全て言ってあるし、
それを理解出来ないのなら、まあそれは仕方がないですね。でも最後に一つだけ。
言葉の意味がコンピュータにおけるフォルダのような構造を取っている、
と仮定した場合、「ゲーム」という言葉の含むものと、
「ストーリー」という言葉の含むものとは明らかに違いますよね?
では、「ゲーム」という言葉にはどんな意味が含まれていて、
僕たちはそれをどう解釈すべきか、ということを論じてきた訳です。
あなたのいうようにストーリーを含むゲーム(=人生の代用品)と、
テトリスのようにストーリーを含まない(=最適覚醒水準の維持)が、
普遍的に区分けできるのならば、それらは別の名前になっているはずなんです。
しかし、それらはどう考えても同じく、「ゲーム」の一種です。
このことが理解できないというのは、非常に残念なことです。
長文スレ読みたくねぇ
>>874 いいかね、ゲームを評価する軸が沢山あるように、
ゲームらしさを評価する軸だって沢山あるんだよ。
当然ストーリーだってゲームらしさを評価する一項目。
君はストーリーとゲームは別フォルダって言うけど、
その例えで言うならゲームフォルダの下にも沢山フォルダがあるということ。
ストーリーフォルダは、ゲームフォルダの下にもあって、
ゲームらしさを評価する項目になる。
このスレではまずシステム面でゲームらしさを語ったし、
歴史的な観点からもゲームらしさを語ったし、
プレーヤーの感情面からもゲームらしさを語ったし、
シナリオ面からもゲームらしさを語った。
その他にも面白さに関する基礎知識とか、
全ての娯楽を物語論にまとめて論じる手法とか、
欲求と面白さの関係とか、ゲームの評価手法とか、
etcetc...もう語りまくりですよ。
俺のチラシの裏をかなり披露してしまった。
>では、「ゲーム」という言葉にはどんな意味が含まれていて、
>僕たちはそれをどう解釈すべきか、ということを論じてきた訳です。
俺もゲームの意味とか特長はかなり語ってきたよ。
それで十分じゃないか。
大体このスレタイからして「ゲームらしさとは何か」っていう
滅茶苦茶曖昧なものであって「どういう観点から考えた場合の
ゲームらしさなのか?」が明確でないから
議論があっちに飛んだりこっちに飛んだりするのは当たり前。まとまる訳が無い。
しかし全体的には「ゲームらしいシステム」と
「ゲームがプレーヤーの感情に与える影響」からゲームらしさを
論じてる傾向はあったような感じはする。
俺にしてみればそれがわかっただけで十分。
>あなたのいうようにストーリーを含むゲーム(=人生の代用品)と、
だから人生の代用品とは思ってないっての。
大体、シナリオが人生の代用品なら小説や映画なんかは全部人生の代用品じゃないのかって。
あくまで「共感してるだけ」。
例えプレーヤーを自分で操作しようが、ゲームの主人公が完全にプレーヤーと
一致しない限り、感情伝達に共感を使用していることには変わらない。
「映画や小説は人生を描いても良くて、ゲームは駄目」って理屈は絶対に存在しない。
特に洋ゲー開発者なんかには↑は小一時間問い詰めたいところ。
ゲームで濃い人間関係を描いたゲームを作っても全然問題無いよって。
小説で描かれた物語をコンピューター上に持ってくるだけでも
面白さは全然違ってくるのに、あえて3Dの中を動き回るタイプのゲームばかり作るのは何故かと。
そのゲーム文化の貧弱さ加減も洋ゲーが日本で売れない(馬鹿にされてる)理由の一つだと思う。
あと、映画やドラマなんかでは恋愛描きまくってるのに
ゲームでは恋愛描いてはいけない(といような事をいう人が多い)っていうその理由。
映画ドラマ小説音楽全部恋愛を描いたものが多いのに何故ゲームだけ・・・
例えプレーヤーがキャラを操作できようが、プレーヤーとゲームの主人公が一致する事は100%あり得ない。
共感してるだけ。ゲームだけでなく、映画も小説もドラマも、共感を使用して感情を伝達している。
その事実をまず明確にしなければいけないと思う。
映画小説ドラマなんかで恋愛を描いているのはそれだけ恋愛が強く人の感情を喚起することだからであって
ゲームという優れたメディアを使って恋愛を描けば涙流しまくりの強い感情喚起が得られるのは実証済み。
そうした強い表現に向かわない、向かおうとしない人達の多さに辟易する。
テトリスの何が面白いのかと。アクションの何が面白いのかと。
そういう問い掛けにきちんと答えられない奴はテトリスやアクションを作ってはいけない。
実際、無意味な作業に勤しんで気持ち良いと感じてくれる人なんかそうはいないわけで、
「今までのゲームはこうだったから、これからもこういうのが受けるはず」
と、内心つまんねと思っていても、思考停止のフリをして似たようなゲームを作り続ける人達は
全員ゲーム作りを辞めて欲しい。。。
そうでなくて、例え原始的なノベルゲーであっても、ゲームで涙流したら
それは素晴らしい創作物なんだと素直に認めるべきである。
ほんと、皆もっと本音で語って欲しいと願うこのごろ。。。
俺は、正直本音と建前の落差が激しい現状にかなり嫌気が差しているのさ。
本音は「この青空に約束を」みたいなゲームをマンセーしたい。
場末の2chスレとか、blogじゃなくて、職場のゲーマー連中とも
涙流したゲームについて語り合いたいのさ。
まるで社交辞令のようにFFや三国無双や脳トレみたいな
無難な(あまり面白くない)ゲームを語り合うのはもうウンザリ。
隠れエロゲーマーじゃなくて、本気でよいと思ったゲームを語り合いたい。。。
隠れた名作ばっかりの現状が嫌だ。
いきなりエロゲ、ギャルゲ最高とか言い出した時点でネタだったのかと思ったら違うのか。
あなたはテトリスハイとか経験したことないだろう?大脳をバイパスして思考が直接ブロックを
コントロールして自分がロボットにでもなったかのように正確でハイスピードにも対応できるあの感じ。
ほかにもバーチャやスト2なんかで連勝を重ねたとき相手の思考が手に取るように分かったり
1フレームさえも体感できるような覚醒した状態を経験したことはないだろう?
ゲームに社会性や文化性がないと欲求として低次元とかホント自分からしたらなにがゲーマー気取りか
って思うんですけど。ゲームを知らない人間がゲームを語るなんて理解に苦しむ。
ノベルゲーこそゲームらしいとか言うのは勝手だけどもそれが誰にもあてはまるとか思わないほうがいいよ。
>俺のチラシの裏をかなり披露してしまった。
すべてのレスがそうじゃん。すこしは読む人間の側に立とうよ。馬鹿?
884 :
692:2006/09/04(月) 10:27:06 ID:644fzOq/
>>845 一応まだ見てますよ。
あなたの指摘を受けてからずっと考えてるんですけど上手く答えられなくて。
ただ自分としては
>>692でリプレイの例を挙げたように
読み方が1通りしかないからそれはゲームではない、というのは違うと思ってます。
もっと正確に言えば恐らく、ゲームかどうかは本・小説というメディアの扱い方にかかってるのではなく
書かれた内容に関係するんじゃないかと。
ゲームがメディア間を自由に移動するというジェスパージュールの定義をまた持ち出すなら、
絵画について描写した小説には全くといっていいほど絵画性というものがない、
それは完全に小説であるのに対し
ゲームについて描写した小説はそれより遥かにゲーム性を帯びているんじゃないか。
色々考えましたけど自分が現時点で言いたい事は多分こういう事だと思います。
小説とゲームは両立可能なんじゃないかと。
>>884 シナリオがメディアを越えるのは物語性が別の軸としてあるのと同様に、
ゲームがメディアを越えるのはルールが軸としてあるから、とジェスパー
ジュールは言ってる。木の駒を使った将棋とコンピュータでの将棋がゲーム
として全く同じなのは、ルールが同じだからであると。
ゲームをノベライズしたものは、ルールが変わっちゃうからメディアを
越えたとは言えないんじゃないの?
ゲームはプレイヤーの入力に対しそれに準じた出力を返すが、ストーリーを
つむぎ出そうとしている訳ではない。プレイヤーが、連続した入力と出力に
ストーリーを見出しているだけで、ゲームそれ自体にストーリーは備わって
いない。ゲームを文章化したものは、if文とかで構成されたゲームプログラム
みたいなものになっちゃうだろうと思う。
ゲームっていうメディアを使って人はいろんな欲求を解消できるわけだけど
それは全部仮想体験な訳です。そりゃ単なる暇つぶしとして機能してる場合がもっとも
多かったりするのかもしれないがゲーム自体必要としてないっていうかなんでゲームなんか
せなあかんねん。っていう人もいるわけ。
何が言いたいかっつうと疑似恋愛を必要としてる可哀相な人はリアル社会でもっと頑張れ。
キモいから。
なんでエロゲーマーが隠れるかっていうと例えば空気を読まない長文オナニーレスを連投しまくる
ような人間と同類と思われたくないからじゃないかな?
>>885 >ゲームをノベライズしたものは、ルールが変わっちゃうからメディアを
>越えたとは言えないんじゃないの?
メディアとしてのルールが変わってても運動としてのルール、
要するに内容にかかるルールは変わってないでしょ
同じ将棋の試合をテレビ画面に映したものと棋譜で表したものの違い、みたいに
勿論ノベライズって言っても程度の問題があるだろうけど
ハリーポッターのチェス描写と現実でやってるチェスと脳内チェスは同じだ、位までは十分言えると思う
あと本を読むルールが決まってるのは時間の流れを人為的に作り出す仕組みを作ってるだけの話で
これについては正直テレビの映像が何故動いて見えるか、程度の事でしかないんじゃないかな
>ゲームを文章化したものは、if文とかで構成されたゲームプログラム
>みたいなものになっちゃうだろうと思う。
要するにこれはルールの記述って事だよな
そういう方向じゃなくても個別の試合に関してなら棋譜や新聞記事みたいな描写は可能だと思う
で、そういう個別の試合についての描写を集めてどんどん一般化していくと
「足でボールを蹴ってゴールに入れて点多い方が勝ち」みたいな記述になるんだろうけど
これはルールの説明を含むと同時に
サッカーというゲーム一般に備わったストーリーの記述にもなるんじゃないか
>ゲームはプレイヤーの入力に対しそれに準じた出力を返すが、……
>ゲームそれ自体にストーリーは備わっていない。
問題はこの部分の見方の違いだと思う 入出力の運動をゲームに含めるかどうか
889 :
ニセイチ ◆tMNr3FMQg. :2006/09/05(火) 16:52:03 ID:iCh9xiwk
またもや横レス参入。
サッカーというゲームが、選手と観客(記述)で果たして同じことを意味しているか?
僕は違うと思うけど、しかしそれは同じ「サッカー」であるのも確か。
これから分かるのは、ゲームという定義時代には、
プレイというものが入っていないということが分かる。
つまり、ゲームというのは名詞で、プレイという述語が入って初めて、
僕たちが経験するゲームという概念になるんだと思う。
そうそう、そう感じたから「プレイ性」って考えたんだっけ、俺(←バカ)
だから、プレイヤーの入出力の運動は「プレイ」であって、
ゲームの中に含まれる概念ではないんじゃないかな。
僕の定義でいえば、それはあくまでモデルであって、行動そのものではない。
ゲームらしさ
でゲームとは、何かについて語るなんて凄いね。
定義できる人は本でも書いて欲しいです(マジ)
問題は「らしさ」の方じゃない?
「らしさ」ってなんなのさ?例えば「男らしさ」「女らしさ」
「中学生らしさ」「高校生らしさ」
ようするに 固定的難概念を押しつける為の
言葉だよね。「らしさ」って
「高校生らしくない」 なんて言われてもその人は高校生だろうし
「女らしくない」なんて言われてもその人は女だろうし
ゲームが定義できない以上 「らしさ」を語っても仕方ないと思う。
891 :
885:2006/09/05(火) 17:50:18 ID:5/2K4Ohc
>>887-888 将棋の棋譜って
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲2五歩 △3三角
こんなのだけど、これを見ても何も分からないよ?これだけじゃ本当に将棋の
ルールに則って書かれたものか判断できないし、そもそも将棋なのかも分から
ない。多分、コナン君ならこれ見て犯人を捕まえちゃうんじゃないかな?
ゲームはそのルールとルールから生まれるゲーム性で決まり、プレイヤーへの
入出力の口を開けた状態のところまでがゲームの範囲、というのが自分の考え。
プレイヤーがどんな行動をするかはルールでその範囲を決めているだけで、
実際にどんな行動をしたのかは含んでいない。
ゴールにボールを入れたら1点、ボールに手で触れたら反則、横のラインから
ボールが出たらスローイン。どれも将来そうなったらこうだと言うまでで、
実際には何事も起こっていない。なので、ストーリーはそこには無いとしか
言えないんだよね。
物語は時間の経過を書いているものだが、ゲームの時間は動いていない。
従って、同じルールで表すことはできない。こんな風にも言えるかな。
>>891 そのチンプンカンプンの記号を見て棋譜だと思ったりコナン君が犯人を逮捕しちゃったりって事が
ゲームのルールが書かれたものそれ自体でなく、その運動にかかってるって事ですよ。
同じ運動が異なるルールによって異なるゲームに変化してるって事です。
一方でルールやシステムだけがボンと置いてあったって、それはゲームじゃないと僕は思います。
トルコ行進曲の楽譜やCDが音楽でないのと同じです。プレイヤーによってプレイされないといけない。
プレイヤーがどんな行動をするのか決まってないとは思いますが、
何か行動をするというのは決まってると思うんです。そういう意味でシミュレーションでありモデルであると。
そのあらゆる行動における決まった道筋にストーリーがあるという考え方です。
要するに概念的な、抽象的な行動です。イデアという表現が一番合ってると思います。
あらゆるテトリスのゲームプレイに存在するイデアがテトリスだと自分は考えてます。
>ゴールにボールを入れたら1点、ボールに手で触れたら反則、横のラインから
>ボールが出たらスローイン。どれも将来そうなったらこうだと言うまでで、
>実際には何事も起こっていない。なので、ストーリーはそこには無い…
と言うより、「ボールがゴールに入ったら1点」と言い、それを理解した、文の内容を理解した時点で
頭の中ではボールがゴールに入って1点入ってると思うんですよ。観念的に。
要するにその可能性を描いてないとおかしいし、それは描ける。
「丸い四角形が上がりながら下がった」とかとは訳が違う。可能性がない事はルールに書けない。
複数の結末、つまり可能性の存在はゲームの条件に必須だった筈です。
部屋に死神が来てリンゴを食べた、と言えば実際には何も起こってなくてもストーリーは生まれてますよ。
逆に全く同じ運動について「死神が部屋に来てリンゴを食べる」ゲームとも理解出来うる。
楽譜にしろ棋譜にしろ、「内容を理解した」ってのはそういう事のはずです。
この内容の理解は逆に、サッカーやテトリスをプレイした時、それを見てる時にも働いてると思います。
今度は目の前で起こってる運動を観念的にエンコードしてやらなければならない。
そのためのルールです。これがないと目の前の運動はゲームにならない。
ところがそのルール自体がさらにシナリオや他のルール、つまり物理法則や常識を使って
観念的にエンコードできる。ここにストーリーが入る余地があると思います。
長いんで1行でまとめるとゲーム性とストーリー性は対立しないって事です。
>ルールやシステムだけがボンと置いてあったって、それはゲームじゃない
大事なのはこの部分ですよね。プレイされないゲームはゲームではないのか?
もしそれがゲームではないとすると、プレイそのものがゲームであって、
ルールやモデルではないという結論に達するだろうから、
そうなると、プレイ、つまり時間的経過をゲームという概念に含むことになり、
ストーリーとゲームが一体化するという考え方に達する…
そうしてまた、そのプレイと一体化したゲームを現象としてとらえることにより、
より広い、観念的な「ゲーム」が成立する…という理解で間違ってませんか?
しかし、この考えから、プレイを想起するというようなことと、
実際にプレイするということが、イデア的な意味で同類項に分類される、
というのは一足飛びではないでしょうか?
簡単にいえば、ルール自体からシナリオなどを観念的にエンコードできるとしてしまうと、
結局のところ、ルール自体が埋没するというか、高度に社会的存在になってしまう。
まあそれこそが、メタフィクショナルな意味でのゲームといえるかもしれないが。
しかしそれは別に中核にあるものが「ゲーム」でなくても、
イデアとしては全く同じ構造を取りうると思うんですよ。
例えばゲームをクリアした後にそのプレイぶりを思い起こす、
というのにゲーム性を全く感じないということを僕は繰り返し言っています。
それはもはや、ただのストーリーに過ぎない。
それと同じく、ゲームを実際にプレイしているということと、
ゲームを記述するということ(または想起すること)は別物で、
むしろ、記述はストーリーだと思うんです。
まあヒストワール(歴史叙述)とストーリーは同じ語源だしw
結論を言うと、僕はあくまで、
「ストーリーとゲームは全くの別物だ」と主張したい。
対立すらしていない。次元、視点がまったく違う。
そういう意味では、僕は
>>891 >物語は時間の経過を書いているものだが、ゲームの時間は動いていない。
に賛成します。というか、これは素晴らしい表現だと思う。
ゲームは動かない。動くのはプレイ。
そしてプレイは動くために、時間経過が生じてストーリーが生まれうる。
とここまで書いて思ったけど、Wiiのコネクト24における、
(または64DDでやろうとした)、システムが変化し成長するゲーム、
というのは、ゲームシステム自体がストーリー化する、
という非常に斬新なことに思えますねー。
898 :
885:2006/09/06(水) 18:49:35 ID:MnnK/z52
>>892-894 棋譜を見ても人によってそれが何か判断が変わるのなら、将棋のイデアは
棋譜に宿っておらず、どこか別にあるのだろう。それがどこかと言えば、
将棋のルールこれしかない。何故なら将棋のルールは客観的に存在し、
メディアを越えて移動できるから。
音楽はプレイヤーがプレイしないと成立しないけど、トルコ行進曲は楽譜が
あれば成立している。それは、楽譜はトルコ行進曲をプレイするルールを
示したものだから。音楽がゲームで、トルコ行進曲が将棋のことだよね。
ゲームのプレイの範囲はプレイヤーに委ねられているのではなく、ルールで
決まっている。ルールが提示した選択肢のどれをプレイヤーが選ぼうが、
選ぶ前からどれが何点かは決まっていて、ゲームはそれを返すだけ。つまり、
ゲームにとってはプレイヤーの行動は特に意味がない。ならば、プレイヤーの
プレイとゲームは切り離されていると言えるのではないか。
ゲームのプレイとストーリー性は全然対立しないと思う。
>>895 ゲームとプレイの関係については、トンカチみたいな道具とその使用に近い関係だと考えてます。
トンカチは実際に使わなくてもトンカチとして存在はしてますが、
それが何故トンカチかと考えると、人間が釘を打つのに使うから、という前提が既に含まれている。
トンカチがああいう形をした、ただの物質として存在するには人間の使用は条件に入らないけど、
トンカチがトンカチとして存在するには人間の使用が条件に含まれる。って事です。
「プレイ」の意味にもよりますけど運動そのものはゲームではないと僕も思います。モデルに近い。
少なくとも運動=ゲームとは思わない。現時点ではストーリーも運動そのものではないと思う。
運動そのものを一般的に捉えたのがゲームを含む遊びで絶対的に捉えたのがストーリー、
その記述がルールとシナリオなんじゃないかと思ってますけど
ただ裏付けが少ないし、そこまで考えを広げる必要も無いと思います。そんな気がするだけです。
「別物」という言い方でも正しいとは思います。
ただ個々人の認識に関わる問題だとすればストレートに割り切れるものでもないと思う。
システムの成長については認識レベルでは当たり前に今までやってきてんですよね。
説明書を読まないでゲームを始めればルールが頭の中でどんどん継ぎ足されてくのが分かる。
説明書なしで分かるゲーム作ってる任天堂らしいと思います。積極的に取り込む辺りが面白い。
>>898 棋譜の例は確かにその通りだと思います。ゲームがゲームであるにはルールの認識が前提される。
>選ぶ前からどれが何点かは決まっていて、ゲームはそれを返すだけ。
要するに僕が言いたかったのは、この返す行為の質にストーリーが含まれてるって事です。
最終問題に1ポイントというルールと
最終問題に100ポイントというルールのゲームから得られるストーリーは全く違う。
それはルールを見れば分かる。楽譜から音楽が分かるのと一緒です。
ゲームはプレイされるものですけど、
プレイされない「生ゲーム」みたいなのは無いし、想像出来ないと思うんです。
読まれない本が無いのと一緒です。朗読にしろ黙読にしろ読者がいないといけない。
ゲームの条件にプレイヤーが含まれる理由はその事なのでは。
要するにお二人はトンカチは動かない、動くのは人間だとおっしゃってるんだと思います。
僕が言いたいのは、確かにその通りだけどトンカチには動く人間が内包されてるんだという事です。
>返す行為の質にストーリーが含まれてる
ここが一番違うところかもしれません。
というのは、それがストーリーになるのは「想起」の時点だと思うからです。
>>885プレイヤーが、連続した入力と出力にストーリーを見出しているだけ
例えばテトリスをやりましょう。「あの局面で間違えなければ」「ここで盛り返した」
というようなストーリーが僕の中に出来ているのは確かです。
しかしそれはゲームというものが紡ぎだす訳ではない。人間が勝手に感じる。
ゲームの質に含まれるのではなく、ゲームプレイで時間経過をする以上、
人間は勝手にそこにストーリーを見いだしてしまうのです。
ただ、「読まれない本はないのと一緒」という考え方、
ゲームとプレイを一体的現象としてとらえるというやり方は、未来がある。
ゲーム性はなくともプレイするという体験がそれをゲームたらしめる、
というゲームが、「お料理ナビ」「ひぐらしのなく頃に」など、出現しています。
なんにせよ、1000も近いこのスレッド終盤に、この議論が盛り上がる、
というのは非常に象徴的。現在の「ゲーム感」の変化を感じますね。
ひぐらしをゲームというにはちょっと抵抗があるなあ
読者への挑戦があるミステリもゲームに入ってしまいそう
そのあたりを含め始めると、先の展開を予想しながらストーリーを鑑賞する人にとっては
たいていの物がゲームになってしまう
「ゲームらしさ」で問題になるところの定義としてのゲームと
メディア(フォーマット)としてのゲームをこの場合はわけて考えるべきじゃないかな
904 :
885:2006/09/08(金) 17:36:51 ID:9fSJgHMF
道具と人の関係は一方通行でしかないと思う。使うことで人が道具に何かを
与えはしないから。
ゲームのプレイ範囲がルールで決まっているということは、ゲームの
ストーリーも既に決まっていると言える。既に決まっているのだから、
誰がどうプレイしようと、ゲームにとって特に意味は無い。
ゲーム開始直後の1手も終了直前の1手も、ゲームには等価値でしかない。
それを、さぁ始まるぞ、さぁクライマックスだ、と思っているのはプレイヤー
だけ。ストーリーは人の中にあるものだが、それだけを抜き出すと元に
あったものがゲームなのかシナリオなのか、定かではなくなる。となれば、
プレーヤーがゲームから得たストーリーの存在をゲームの定義(ゲームの
中にあるもの)としては語れない、ということになるのではないか。
ゲームを構成する要素を多く満たしているものがゲームらしいというのは
正しいことだが、現状ゲームらしいという言葉はそれに限ったことを言って
いないのもよく分かる。が、自分は頭が固いので「お料理ナビ」はただの
レシピ集でゲームじゃねぇぇ錯覚だ、としか言えない。
905 :
ニセイチ ◆tMNr3FMQg. :2006/09/08(金) 18:50:36 ID:QY20MEEs
>>904 お料理ナビもひぐらしもゲームじゃないと言えば楽なんですけどねぇ。
なんていうか、ゲームの文法というか操作体系というか、僕がいうプレイ性、
プレイする時のプレイヤーの行動とフィードバックの結果もたらされるもののバランス、
というようなものは、お料理ナビでは実現されてると思うんですよ。
食材「しいたけ」で選択→レシピ表示→選択、という流れで、
意思決定とフィードバックの流れはちゃんと出来ていると思うし。
もちろん、そんなものは世の中なんでもそうだ、といえばそうなんだけど。
ただ、そのゲーム特有の操作によるプレイ性の確保、というのを、
ゲーム性と「錯覚」してる人が世の中にいる、というのも事実だと思うし。
>>892さんの「ゲームというイデア」ほど壮大ではないにせよ、
そのようなものを表現するいい言葉が生み出される必要があるのかも。
ここまでは基本的に「ゲームの定義」について僕は考えてきたけど、
ゲームも含まれる、さらに大きな集合が生まれつつあって、
それの名前がないために、議論がすれ違うのかもしれないな、と。
>>883 まず、格ゲーとテトリスを同列に語るな。
格ゲーは対人戦メインと言ってもいいジャンルだがテトリスは基本一人遊び。
欲求の次元という意味では同列じゃないし、覚醒水準という観点から考えても
テトリスよりも格ゲーの方が優れているだろう。
情報負荷が覚醒水準に与える影響という観点から考えた場合、
人間相手の対戦は最適な情報負荷となりやすいからな。
情報処理能力が同レベルのプレーヤー同士の対戦は相手に与える情報負荷が自然と最適となる。
もちろん、テトリスでも対人戦は可能だけど、対戦が文化として根付いていないし、
テトリスの対戦は対戦相手と直接的に情報のやり取りをする対戦でないので
対戦相手の情報処理能力がプレーヤーへの情報負荷と直結しない問題もある。
>1フレームさえも体感できるような覚醒した状態を経験したことはないだろう?
あるよ。何度もある。俺はエロゲーマーであると同時に格ゲーマーでもあるからな。
ゲームの体験量としてはエロゲーよりも格ゲーの方が多い。
しかし、格ゲーはゲーセンでないと遊べないという欠点があるからね。
(自宅で格ゲー遊ぶのはパッドやラグの問題がある)
自宅で対戦メインのゲームを遊ぶ場合、格ゲーよりもFPSやテーブルゲー(将棋やチェス)がメインとなる。
>ノベルゲーこそゲームらしいとか言うのは勝手だけどもそれが誰にもあてはまるとか思わないほうがいいよ。
ゲームらしいとは思わないが、しかしノベルゲーから得られた至高体験と言ってもいいくらいの
感動の数々は俺の心の中に焼き付いているわけで。
格ゲーも良いんだけどノベルゲーも良い。
いくら叩かれようが俺はこれらゲームを遊び続けるだろうね。
>すべてのレスがそうじゃん。すこしは読む人間の側に立とうよ。馬鹿?
というかこのスレの全てチラシの裏レベルの話だろw
>>886 >ゲームっていうメディアを使って人はいろんな欲求を解消できるわけだけど
>それは全部仮想体験な訳です。
「大半のゲームだって共感を使用して感情を伝達している」と
何度も書いているのに何が「全部仮想体験」だw。
人の言う事をちゃんと聞かずに喧嘩売るようなレス付けるな。
それとも単に理解力が低いだけ?
>何が言いたいかっつうと疑似恋愛を必要としてる可哀相な人はリアル社会でもっと頑張れ。
擬似恋愛というのがそもそも間違っている訳だがまあそれはいい。
掲示板のカキコから弱者と断定してしまうその短絡さも不問にしてやるよ。
問題はこういう誤解が世間に溢れているという事。
ギャルゲ(ノベルゲー)って実態としてはドラマや恋愛小説のゲーム版という性質が濃い。
ドラマで恋愛が描かれても鑑賞者は誰もキモイって叩かない。
しかしそれをゲーム化した途端、キモイ、オタク死ねの大合唱。
例えば、冬ソナが君望のパクリシナリオってのは一部で有名な話だが
何故冬ソナは良くて君望は駄目なの?
何故ドラマを楽しむのと同じようにゲームを楽しめないの?
ゲームは仮想体験、だからゲームで恋愛を描いてはいけない、というのは感覚的には解らなくはないよ。
ノベルゲーの選択肢は実態としてはシナリオを選択してるだけだが、
物語が描かれる視点が主観だと仮想体験という感覚を向上させるから。
(面白さという観点で考えれば、それ自体は問題とは思わない。むしろ素晴らしい事。)
ただ、視点がどうあれシナリオの質それ自体は映画もドラマも
ノベルゲーも似たような物だし、共感を使用して感情伝達しているのも同じ。
更に言えば、物語が描かれる視点が主観だとしても、ゲームの主人公は
プレーヤーでない事くらい承知した上で遊んでいるわけで。
ゲーム(仮想世界)の中の話と現実世界の欲求を混同するのが
当たり前であるかのように語る
>>886ほど酷い奴はそういないはず。
多分、
>>886は暴力ゲーだって反対な人なんだろうね。
PTAとか教育委員会の偉い人?
格ゲーも良いんだけど、ノベルゲーの強烈な感動も素晴らしいと思う。
格ゲーの快(最適情報負荷が与える高覚醒)は
プレーヤーと対戦相手の情報処理能力が問題になるけど、
ノベルゲーの快はプレーヤーの情報処理能力にあまり依存しないという
長所があるのでより一般的になる可能性を秘めている。
実際、シナリオ中心のメディア(映画やドラマなど)は幅広い層に楽しまれている訳で。
ゲーム開発コスト上昇問題の回避策の一つとして、
これらシナリオを楽しむゲームの普及を目指すってのがあるはず。
ノベルゲーなんかゲームらしくないや〜いってアホみたいな批判は無視できるが
ギャルゲー=キモイオタクの遊ぶゲーム、っていう偏見が
これらドラマ的なゲームの普及を阻む要因になってるのは問題だな。
これら強烈な快を与えるゲームがより一般的になるためには何かのブレークスルーが必要かも。
911 :
名無しさん必死だな:2006/09/10(日) 09:55:43 ID:tDfe4pzE
みんなゲームらしさを論じている中で一人エロゲーを語るな。
ちょっとは空気読もうよ。馬鹿?
912 :
名無しさん必死だな:2006/09/10(日) 10:26:17 ID:p3KnzckM
>情報負荷が覚醒水準に与える影響という観点から考えた場合、
>人間相手の対戦は最適な情報負荷となりやすいからな。
>情報処理能力が同レベルのプレーヤー同士の対戦は相手に与える情報負荷が自然と最適となる。
何を言いたいのかさっぱり。
自分だけ分かった気になってて、人に伝えるべき言葉がない。
国語力がない人だね。
結論として俺はギャルゲー大好きだけどオタクじゃないよと言いたいだけなんだとうけど。
オタの定義って何だ
「難しいこと考えずに楽しめる事」、でいいんじゃね?
ゲームは難しくなりすぎたのが今原点に戻ろうとしてるんだと思う
難しかろうがなかろうが面白けりゃそれでいい
>905
料理ナビは、ゲームらしさはあるけど
リアルにはみ出しているせいでコンピューターゲームらしさはない
ひぐらしの場合,既存のADV形式なのでコンピューターゲームらしくはあるのだけど
選択肢がないことによりゲームらしさがない、と思う訳です
これをゲームの範疇にいれるなら、DVDを例えばチャプターごとにみるのとの差が
かなり薄くなりますよね
ゲームらしさなんて人それぞれ
特定の定義なんてものはない
>>914 今のゲームの方が自由で好き
むかしは一見アクションっぽいのに実態はパズルゲームで
攻略方法が1パターンしか無いようなのが多かった。
昔のが難しいの多かったよ
ロクに説明もしないしね
>長文の人
いちいち返しが長いよ。いくつに分割すれば気が済む訳?
それでだれかの共感が得られると思うんならそれでもいいけどさ。
あと短絡的に弱者認定したわけじゃなくて状況証拠として充分でしょ。
それだけ長文書いてりゃ見たくないものまで溢れ出してるってw自覚がないのが一番性質が悪いよ。
一個真面目に答えるなら自分もノベルゲーやらないわけじゃないけど一般人からすれば
20〜30時間掛けてまで一つの物語なんて追ってられないの。密度が薄すぎる。
長編RPGだっていまやってるのは時間の余ってる学生かゲームが趣味ですって言える層くらいのもん。
あまりにも時代に逆行してる。
なにより感情を揺さぶってなんぼってのはエンタメ性であってゲーム性じゃないしそこを求めることは
別にゲームの正道ではないっちゅうの。
理屈だけで理解しようとして無理に知識をあてはめようとするから実際とのズレがありすぎるんだよ。いろんな意味で。
あなたの文面からはゲーマー的な視点を感じることが出来ない。
921 :
A助様@お兄やん ◆z2QBxsCmSs :2006/09/11(月) 06:17:02 ID:GU+dE8l1
くだらない論争をやっているようなので書かせてもらうが
メタルギア3サブシスタンスで映像ディスクってのがあるんだよ。
ムービーシーンをつなぎ合わせて3時間程度の観るメタルギアソリッド3。つまり映画だ。
で、俺はゲームを一切プレイせずその映像で楽しんだわけだが
正直、これならゲームをプレイしなくてもいいと思った。
めんどうなゲームをやらずにストーリーだけ堪能すればそれでいいんじゃないかと思ったわけだ。
この場合、いったいゲームとはなんなのだろうね。
922 :
A助様@お兄やん ◆z2QBxsCmSs :2006/09/11(月) 06:19:23 ID:GU+dE8l1
FFだってそうだろう。
ゲーム部分をおもしろいと思ってやってる奴いるのか?
もはや傍観者としてストーリーを追うのが目的なのだから
それなら映像作品にしてしまえば30時間かかるところを2時間で楽しめるとかな。
もちろん2時間のために七千円とか払うのは高いと思われるかもしれないが
やりたくもないゲーム部分をやる手間を考えれば楽に話だけ堪能できるほうが俺は嬉しい。
つまりここでもゲームっていったいなんだよってことになるわけだ。
>>1 操作して面白い、気持ち良い、楽しい、それがゲーム。
924 :
A助様@お兄やん ◆z2QBxsCmSs :2006/09/11(月) 06:22:44 ID:GU+dE8l1
>>923 では、具体的にタイトルを挙げて見てください。
そして、現在売れているソフトたちがそれに当てはまっているかどうかも回答する必要があります。
映像作品が見たいなら映画見ればいいのに
特にメタルギアが好きならプラトーンとか007とかエスケープフロムLAとか
926 :
A助様@お兄やん ◆z2QBxsCmSs :2006/09/11(月) 06:31:35 ID:GU+dE8l1
ゲームの映像作品と一般向けの映像作品は違うんだよ。
927 :
A助様@お兄やん ◆z2QBxsCmSs :2006/09/11(月) 06:34:09 ID:GU+dE8l1
つーか、メタルギア3は一言で言えばローエンドポリゴンキャラによるCG映画なんだが
それよりよほど綺麗なFFムービーよりはるかに楽しめたな。
ゲームだけに展開がいろいろあってそれを映像作品として短時間にするから凝縮されておもしろくなるんだろうな。
普通の映画じゃこうはいかないよ。
ゲーム中のムービーをつなぎ合わせるからこれだけおもしろいんだ。
>>924 カオスシード 風水回廊記
売れてるソフトについては俺は回答する義務は無い。
質問するなら1つだけにするんだな。
まあそういうB級嗜好みたいなのもいいんだけどね
ゲーム用に作られた映像でゲーム部分が無用ってのは
まあビックリマンチョコみたいなもんなんだろうね
930 :
A助様@お兄やん ◆z2QBxsCmSs :2006/09/11(月) 06:41:33 ID:GU+dE8l1
>>928 あぁ、大昔のゲームを美化するおたくによくありがちなパターンかね。
というか、別におまえに聞きたくて聞いたわけじゃないよ。嫌味のつもりだったのにつたわらなかったんだね。爆笑
931 :
A助様@お兄やん ◆z2QBxsCmSs :2006/09/11(月) 06:43:07 ID:GU+dE8l1
>>929 食いたくないチョコを食わないとシールがもらえないのはイヤだろう?
チョコなしでシールだけ売るほうがメーカーも客も満足すると思うんだけどねぇ。
そういう考えもあるわけで、ゲームってほんとに求められてるのかと思うわけよ。
つかそれは単に実写よりCG好きって事?
でも海外のCGムービーはどうしてもコミカル系になってるから
リアル等身のCGはゲームで見る、みたいな
それに言っちゃあなんだがメタルギアはゲームとしてはいいけど
映像としたら同人誌みたいなもんでしょ。特に3は
まだ続いてたんだ
インタラクティブじゃなきゃゲームではない
だがインタラクティブだからと言って必ずしもゲームになるとは限らない
934 :
A助様@お兄やん ◆z2QBxsCmSs :2006/09/11(月) 07:05:45 ID:GU+dE8l1
>>932 そりゃ規模も違うしはじめから映画として作ってるものとゲームからの抜き出しが違うのは当たり前だろ。
俺はゲームの中でムービーやデモが入ってるとひたすら退屈してしまう
どんな綺麗な映像でも、1分が限度だな。
それ以上垂れ流されると、早くさせろよってイライラしてくる
FFとかは長すぎるムービーが苦痛で、プレイが出来なくなった。
俺はゲームの中で上達したり試行錯誤して達成する事を楽しみたいので
あくまでもムービーはそれを高める物で、手短じゃないと
(苦労の末、綺麗な世界が復活するムービーとか)
長々と恋愛やら思想やらをやられると、それをプレイに絡めてゲームで表現しろよと思う
上手くかみ合わせた方が感動もでかくなるんじゃないの?一気に垂れ流すよりね
俺は動かして、達成感をメインに据えながらイベントを楽しみたいわけ。
ムービーはおまけにとどめておいてくれないと、何のためにゲーム買ったか分からなくなる。
そのゲームに付随した映像作品は、俺には退屈なだけなので、と。
ゲームらしさってのは、俺にはテクニックの上達で解いていく物や、トリックや戦法や仕組みを考えて
解いて行く物かな。アクションだったら自分の腕、RPG等だったら編成など
あと、日本の名作ゲームランキングが(ファミ通の)ほとんどRPGだったのは何でだろう
日本人がやたらRPG好きなのもあるけど、単に他のジャンルが難しいから?
海外のランキングだとマリオやゼルダや格闘やら麻薬ゲーム・テトリスがベスト10に入ってるのに
その日本の国民性って、FFがどんどんムービーゲーになったみたいな
そういうのを支える素養があるんじゃないかなと思った
で?
結論は?
938 :
名無しさん必死だな:2006/09/11(月) 09:13:15 ID:IW7Ot77+
おめーが一番下らないよA助
ここは「ゲームらしさとは何か?」スレだ 「僕の考えた未来の求められるゲーム大発表」スレじゃねー
お前の意見は「メタルギア3のムービーは展開が二転三転して面白いなあ」ってだけじゃねーか
その展開の背後にゲーム性やルールがあるのか、どう親和してるのかとか せめてそういう話しろよ
939 :
名無しさん必死だな:2006/09/11(月) 09:17:07 ID:UiFaTELe
他のスレにあって言い得て妙だと思ったけどさ
面白い小説を書くために習字をならいにいったわけ
いや違うだろ
その例えでいくなら面白い小説を書くために日本語習ってるようなもんだ
面白い小説を書くために高価なペンを買いました。
日本語は話せません
って感じ
>>902 >>904 そこにストーリーを認識するのは人間だけど、そのストーリーを与える主体はゲーム、
という考え方も出来ると思います。
普段見慣れてるものが急に意味を持つようになったり、違う風に見えたりする場合と同じで。
ゲームが意味を与える、ってのが変ならGMや製作者と言い換えてもいいかもしれません。
そういう鍵を埋め込む事が出来る。
別にゲームの定義そのものについて、この部分でめちゃくちゃ不満がある訳じゃないんです。
ゲームの定義にストーリーが組み込まれてる、両者は対立しない。それだけのつもりでしたんで。
運動の記述の二つの形であるルールとシナリオには重複する部分が出る、という風に考えると
ゲームそのものじゃなくて記述に関わる問題、と処理した方がいいかもしれません。
「ゲームらしさ」にはそれほど関わらない、と蹴りをつけても構わない問題だと思います。
ストーリーを埋め込むと言っても極端な話テトリスのブロックが可愛くなったとか怖くなったとか、
そういう小手先の演出操作によってもストーリーは変わりますけど
僕が言いたいのはそこまでの話じゃなくて、例えばラインから出たらボールを手で投げ入れる、
ブロックが横一列揃ったら消える、こういうルールについては
人間の取る行動みたいなのが直接書き込まれてると思うんです。強制ムービーイベントみたいに。
AかBかどちらか行動が選べるとしても、
そのAとBのどちらかを選ぶという行為については全員が行わなくちゃならない。
将棋で何手目がクライマックスかはゲームを幾らひっくり返しても分からないにしても、
プレイヤーにクライマックスが訪れるという事はほぼ必然的に言えるんですよ。ゲームは終わるから。
そしてゲームが終わるのはルールによって記述され、決定してる。
つまり開始終了の1手の価値は違うと、既にゲームによって決められてる、とも言えると思うんです。
小説で描写にボリュームをかければそこが重要なシーン扱いされるのと似た考え方です。
>ゲームのプレイ範囲がルールで〜特に意味は無い。
これは逆だと思います。決まってるものに意味があり決まってないものに意味は無い。
正確にはメディアとして通用する部分のうち、特に決まってる所にしか意味は見出せない。
貴方がXである事やAやBを選んだ事は意味が無く、「AとBがXに比較される」事の方に意味がある。
ただ「意味の無さ」こそゲーム性の特徴だ、という話なら分かります。
>ストーリーは人の中にあるものだが〜定かではなくなる。
要するに走ってる人は急ぐ人の演技をしてるのか100m走に出てるのか分からない。
運動だけをゲームから取り出す事が出来るから運動は定義に含まれない、って事ですよね。
まず人の中にあるものだ、という定義はゲームにも当てはまると思います。ストーリーと同じく。
だから両者ともメディアを超える、実体が無い。「元々ゲームがあった」んじゃないという考えです。
「運動だけを取り出せるから定義に含まれない」については、
ゲームには運動が必要だが運動にはゲームは必要ない、という事ではないでしょうか。
>>942 >そこにストーリーを認識するのは人間だけど、そのストーリーを与える主体はゲーム
これにはちょっと反論したいのですが、というのも人間は、
時間経過があればなんでもそこにストーリーを見いだすからです。
つまり、ゲームらしさという観点ではなく、時間経過があるかどうか。
ゲームでしか出来ないものを突き詰めていくという考えを僕はとっているので、
時間経過が生み出してしまうものをゲームの定義とは呼びたくないのです。
といっても、もちろんゲームをプレイする時は時間経過をする訳で、、
それを最大限に利用したサウンドノベルというジャンルが成立していることから、
ゲームの定義ではないけれども重要な特徴の一つである、という言い方で、
妥協点が見えるでしょうか?
もっとも、「ゲーム」と「ゲームプレイ」についての比較検討は、
棚上げにしたままではありますが。
以下、宿題のためのメモ書きにつき、失礼。
「ゲーム」と「ゲームプレイ」。使われない道具はどうか?
トンカチを漬け物石の代わりにした場合、トンカチではなくなるのか?
鉛筆は使わなくても鉛筆だよな。
「その鉛筆取って」使ってないけど鉛筆と認識してる。
なぜ、ゲームや小説は「プレイされない(読まれない)のは存在しないと一緒」
と言われて納得感があるのだろう?
抽象概念(システム)だからか?鉛筆は物体であってシステムではない。
システムは物体と何が違う?なぜシステムは述語を必要とする?
抽象概念は述語を内包しているのか?それとも「プレイ」は外部に存在するのか?
自分で言うのもなんだけど、「プレイ性」って概念は
実はゲーム性を根幹で支えている重大なことなのかもしれない。考えよう。
勝ち敗けの要素が入ってることかねえ
ゲーム(ゲームシステム)とはストーリー製造基盤である、
という認識で問題無いだろ。
ゲームとスト−リーはあくまで別のものだと言い張るなら
「ストーリー」を「ゲームプレイ」と言い換えてもいいが
ただ「ゲームプレイ」はゲームの結果までを
含まないニュアンスがあると思うんだよね。
例えば野球なんかではスコアボードにちゃんと得点の合計を記入する欄がある。
RPGなんかでも、ゲーム開始からシナリオが進行して、
エンディングまでちゃんとシステム上で準備されているのが普通。
ゲームシステムは通常ゲームの結果まで考慮してデザインされるものでしょう?
だからゲームをゲームプレイ製造基盤と呼ぶのは若干違うかなという気はする。
まあこの定義だと「ストーリーを紡ぐシステムは全部ゲームか?」
というツッコミが入りそうだが、全部ゲームと言い切っていいんじゃないでしょうかね。
この定義で言えば、2chなんかもゲームと言える。
2ch上で交わされるコミニケーションはある意味ストーリーだから。
例えばゲハ板は住民がハード信者の役割を演じるMMORPGみたいじゃない?
あと「マネーゲーム」という言葉があるよな。
これは株とか先物とか通貨でゲームのように金を扱う様を指していると思うんだけど
「欲求を満たす為のシステム」という意味だと株や先物なんかも全部ゲーム的。
この定義なら、何がゲームとして成立可能なシステムなのか判断できる。
あまり従来のゲームっぽくないシステムであっても実はゲームとして成立可能なシステムは多い。
と書くと今度は「ストーリーって何よ?」というツッコミが入りそうだが、
個人的には「欲求充足過程」という認識。何故そういう定義になるのか?
というと、まず何がストーリーとして成立可能なのか?という事。
超広義には、この世全ての事象の流れ全てをストーリーとして扱える。
例えば木から枯葉が落ちる過程だってストーリーと言えなくも無いが、
しかし、木から枯葉が落ちる過程に何の価値があるのか?ということ。
ストーリーとは、一般的には「人にとって価値のあるもの」であるはず。
映画や演劇やゲームの過程が何故ストーリーと呼ばれ有難がられるのか?
それが人にとって価値のある物事の流れだからじゃないのかと。
では、人にとって価値のある物事の流れとは何か?
というと、ずばり欲求を満たす過程である。
だから、ストーリー=欲求充足過程、となる。
>>950で書いた理由とは別に、映画や小説で描かれるシナリオで
共通的なパターンがあることも理由。
平和な日々を過ごす主人公に何らかの問題発生
(主人公が欲求不満となる)
↓
欲求不満を解決するために色々頑張る
↓
クライマックスで欲求が満たされ、ハッピーエンド
大体、シナリオってのはこんな感じの流れ。
で主人公に鑑賞者が共感するから、シナリオは娯楽として価値がある。
じゃあバッドエンドはどうなのか?
例えばAIRなどでは最後観鈴が死んでしまう訳だが、
これって主人公の欲求が満たされたと言えるのか?という問題。
主人公の悲しみに鑑賞者が共感したなら
鑑賞者は不快な気分にならなければいけないはず。
しかし、実際にはこういう話は感動話として扱われる。
主人公は不快なはずなのに、何故鑑賞者は快なのか?
で、この疑問に答えるのがいわゆるカタルシス論なのだけど
その論は「感動で流す涙はストレスを洗い流す涙で、これが快」
不快なストレスを洗い流す涙が快、だから主人公が悲しんでも
鑑賞者は快、と以前は思っていた。
正直、俺個人もヒロインの死で感動する自分は下種という後ろめたさがあった。
エロゲオタクが屁理屈を語りたがるのはよくわかった
でも、よく考えてみる。
例えば、物語の中で主人公がヒロインと仲良くなって、でも交通事故か何かで
ヒロインが目の前であっさり(無残に)死んでしまう話。
これだと多分鑑賞者は感動出来ない。それどころか不快な気分になるだろう。
主人公は悲しみ、鑑賞者も一緒に悲しむ(不快になる)。
死別なら何でも快なのかというとそうではなくて、
物語の描き方によっては「不快な死別」もやっぱりあり得る。
感動的な死別と、不快な死別、一体何が違うのか?
ずばり、主人公とヒロインの絆の強さが確認できたかどうかの違いだと思う。
鑑賞者は、ヒロインの死で流す悲しみの涙を快として感じたのではなく、
主人公とヒロインの絆の強さに共感して感動の涙を流していたのではないかと。
ヒロインが死にそうという切羽詰った状況になり、そのような状況になったせいで
ヒロインとの強い絆を確認できたから、感動した。
感動の涙とは、人間関係(社会性)に関する強い快感情で
誰かの死でお涙頂戴とかそんな単純な話ではない。
悪いけどエロゲのストーリーなんてゲーム性と何も関係が無いと思う
そもそもストーリーそのものを語るスレじゃないだろ
>>953 何故屁理屈なのかその理由を語ってもらおうじゃないか。
屁理屈ってのは屁みたいな理屈だから屁理屈って言うんだろ。
お前俺の理屈は今まで曖昧に処理されてきた諸々のこと、
例えばゲームの定義とかストーリーの定義とか、
全部考えた上で更に面白さ(感情)についても考慮しているじゃない。
これほどまでに面白さを真面目に考えた香具師いるの?
あと、俺の論は「エロゲは何故これほどまでに感動するのか?」
という疑問から出発しているのだから俺の論に
エロゲが登場するのは仕方が無いんだよ。
エロゲは感動する(面白い)というれっきとした事実があるのだから
当然その理由も存在するはずで、その理由を明確にするための考察の数々なわけだ・・・
クレイジー
>>955 ゲーム性ってぶっちゃけ覚醒水準と情報負荷の関係だけで
説明できてしまう程度のものと思うんだけど。
ゲームシステムが人の感情にどういう影響を与えるのか?
まず、「システムが気持ち良い」という事はありえないと思う。
システムは人に快を与えないが、でも覚醒を与える事はあり得る。
人に刺激を与え続け覚醒を維持するシステムは考え得るからね。
(例:テトリスやパズルゲーム)
では、どういう刺激が人にとって最適な覚醒を齎すのか?
最適な刺激(情報負荷)が最適な覚醒を齎すのではないか・・・と。
最適な情報負荷を与え続けるシステムを模索する事が
即ちゲーム性の模索ではないか。。。
エロゲーでも探偵物でも
ゲームのストーリーに感動することは
別に珍しくはないと思うが
それとゲームらしさがどう関係するのかがよく分からん。
その話をアニメにしたって面白さは大して変わらんだろうし。
何度もプレイさせることで話自体をより深く語れたり、
同一時間軸の中にいくつもの可能性を提示出来るといった
コンピューターゲームが得意な部分を語るのならともかく。
しかし、人に覚醒を齎す事それ自体が実は「暇潰し」という名の快。
そこにテトリスやパズルなどのゲームが存在異議があったと思う。
覚醒の維持も結局のところ「快」が重要という結論に行き着き訳だね。
快、即ち人間が気持ち良いと認知可能なものは何かという論点が
やぱり一番大切だと思うのよ。
快って、とどのつまり欲求、欲求とは「人がゲームを遊ぶ理由そのもの」な訳です。
で、何故人はゲームを遊ぶのか?何がゲームを買う動機になるのか?
という所を突き詰めたいという欲求に駆られる。
少なくとも、俺個人は「ノベルゲーの感動を得たい」というのも
間違い無くゲームを遊ぶ理由なわけで。
ゲーム性を語るより、ゲームの感動、というかエロゲの素晴らしさを語ってばかりになってしまう。
>>959 いや、「らしさ」ってゲームの本質とかストーリーの本質とか
そういう話って実はあまり関係無いと思うのよね。
○○らしいって人の印象でしょ。
「らしさ」を語る場合、ゲーム論よりも「今までのゲームがどういう物だったか」を
紐解いたほうが早いのではないかと・・・
確かこのスレでも大分前にゲーム理論の定義を持ち出して
「過去のゲームはこういうものだったから○○がゲームらしい」みたいな話題になったよね。
アニオタがアニメ臭い絵からゲーム市場に興味を持って
エロゲーでチンコシコシコして涙流しながら考える事と
シューティングでカンスト目指して血管浮かび上がらせてた人では
相容れない物があるし、お互いに理解出来ない事もある
>>961 だから、あなたの例で言えば
アニメのエアとゲームのエアの違いこそが
ゲームらしさでしょ。
それほど曖昧模糊とした話じゃないよ。
>>963 まず選択肢の有無、あと物語が描かれる視点といった違いはある。
特にプレーヤーからの入力の有無はゲームらしさを決める大きな論点だとは思うけどさ・・・
でも、やっぱり入力の有無だって、過去のゲームは全部入力の有無があったから
ゲームらしさを決める要素に入力の有無が入るわけで。
もし、過去ゲームと呼ばれた娯楽に、プレーヤーからの入力が無い娯楽があったら
やっぱりプレーヤーからの入力だってゲームらしさを決める要素から外れてしまうでしょう。
965 :
964:2006/09/12(火) 01:25:55 ID:wo4FjKgT
>でも、やっぱり入力の有無だって、過去のゲームは全部入力の有無があったから
↓ 訂正
でも、やっぱり入力の有無だって、過去のゲームは全部入力があったから
書き過ぎるとまた長いと叩かれるのでもう寝る。
ごく一部の例外は外して語るのが
この手の議論の常識だと思うけどねえ・・・
967 :
885:2006/09/12(火) 12:28:53 ID:2EVt1wB1
>>942-944 将棋のルールをプログラミングしたら、ゲーム中は1つのルーチンを回ってる
だけで、逃げ道のない王手なら終了処理へ飛ぶ。プレイ中は常に1つのルーチン
しか動いていないから、どの1手も同じ価値。この例え分かる?
選択肢は全部選ばれることが決まっているから、その内1つを抜き出しても
意味は無い(どれでも同等の価値)。しかし、プレイヤーにとってはABどちらを
選んだかは重要であろう。等価なものを重要だと言うのは、何らかの変換が
プレイヤー内部で行われているからで、それがストーリーを見出すということ。
>運動だけをゲームから取り出す事が出来るから運動は定義に含まれない
“攻撃的な1手を繰り出した”というストーリーは、ゲームの中の運動に落とし
込めない、というのが言いたいこと。同じ1手でもプレイヤーの意識次第で、
攻撃的か守備的かが変わる。即ち、同じ1手でもストーリーが変わる。つまり、
ストーリーはゲームの中のものではない。
ゲームに可能性は書かれているけど、結果は書かれていない。可能性を積み
重ねてもストーリーとは言わないでしょう?
ちょっと快・不快が話に出てきたから書こうと思ったんだけど
所詮、快・不快って物理的には人間の脳で何らかの化学反応が起こって
それに対して身体が反応してるだけだろうから
そのメカニズムが明らかになるまではほとんど考えようが無いよ。
>将棋のルールをプログラミングしたら、ゲーム中は1つのルーチンを回ってる
>だけで、逃げ道のない王手なら終了処理へ飛ぶ。
そもそもこれにしても将棋のゲームに内包されたストーリー展開そのものだと思うんですよ。
「攻撃的な一手を繰り出した」というストーリーがゲームの中の運動に落とし込めないとするなら
それは「あらゆる一手が等価」である事を保障するストーリーが
ゲームの中の運動に落とし込まれてるからじゃないか、という事です。
>ゲームに可能性は書かれているけど、結果は書かれていない。可能性を積み
>重ねてもストーリーとは言わないでしょう?
可能性とは今、その場にある事実=結果ではないが事実になり得る・なり得た事だ、と考えるなら
「ゲーム中AかBのどちらかだけが選ばれる」というルールが示すのは
可能性ではなく結果だと思います。要はXにおいてYが行われてるのですから。
読まれた本、使われた道具、想起された思い出と同じく可能性の上に立つ事実ですが。
>>947でゲームの条件に「勝ち負けがある」と書かれてるけど
自分はコレに「負けても構わない(苦痛にならない)」という条件を足したモノこそ
「ゲームらしいゲーム」であると定義したい
昔からから存在しているゲーム… 将棋、チェス、トランプ、サッカー、鬼ごっこ…etc
これらのゲームは最初から誰しもが「負けること」が前提として成り立っており、
そしてこれらの多くは「負け」たからといってもペナルティが発生しないモノが多い
さらに言うのであればコレらのゲームは失敗を重ねた数だけ上達していくため
負ければ負ける程さらに深く楽しめるようになるという他の娯楽には無い特徴もある
マリオだってそうだ、最初から全面クリアできるヤツなんて居ない
スト2初プレイでベガまで倒せるヤツなんてまず居ないし
テトリスなんていつか失敗する事を前提に作られているゲームである
どれもこれもゲームと呼ばれるモノは
「失敗」して「成長」することが前提で作られているのだ
それに対しドラマやアニメ、漫画には「負け」や「失敗」は存在しない
故に「成長」する喜びもないし繰り返して見てもどんどん面白くなっていく事もない
ムービーゲーがゲームじゃないって言われてるのはこの辺の理由だろう
戦争や賭け事にも「勝ち」「負け」はあるが、本格的に失敗して敗北した場合には
殺されるなり餓死するなりして 死ぬか、ギリギリで生き延びたとしても、
命の保障を考えてもう二度とそれらのモノに 手を出さなくなるのが普通の人間だろう
リスクが命に関わる程高いと楽しむどころではなくなってしまうのだ
パチンコやマージャンがゲームであるかどうかはそれに掛けている金額が問題だと私は思う
また、じゃんけんやコイントスも「勝ち」「負け」が存在するが
こいつらは「負け」てもそこから得るモノが何も無いため、「成長」する事出来ないため
純粋に「負けの苦痛」を味わってしまうだけなのでゲームとして成り立たないのである
「価値のある負け」「将来性のある負け」
コレを与えてくれるものがゲームではないだろうか?
日常生活において「負ける」というのは中々遭遇しない出来事である(というか普通は避ける)
だからこそ人は「負ける」という事(曳いてはそれによる成長)に飢えているのではないだろうか?
「負けることを安全に体験できる」
これは数多くの娯楽の中でも「ゲーム」だけに与えられた大きな特徴だと思う
そして「負ける事自体がめっちゃ楽しい」と感じれるのであれば
それは最もゲームらしいといえるのでは無いだろうか?
そんな自分の一押しのソフトは「地球防衛軍」
みんな気持ちよく死にまくるがいい
雑文&長文投下スマソ
>>962 真理。
俺の言いたいこともそれ。
仮にエロゲも野球ゲームもテトリスも広義の意味でストーリーを紡ぐものだとして違いは何かって
いえばそれはリアリティだと思う。
インベーダーとメタルギアなんかじゃ同じジャンルで括れないくらいの隔世の違いがあるわけだけど
それはいいことばかりとは思えなくてより欲求に直接的であることはなんか即物的で俗物的な感じもする。
エロ本だとまだ可愛いけどエロDVDはさすがにちょっと引くみたいな、この感覚がわかるかどうかなんだけど。
ゲームのグラフィックはどんどんリアルを追及するんじゃなくてあくまでシンボルにとどまることでリアルで
出来ない代償行為をするという気恥ずかしさ、後ろめたさを薄める意味を持たせられると思う。
今あえてbit generationみたいなシンプルなソフトを出すってのは 敷居を下げるという意味だけでなく
そのへんのこともあるんじゃないかと思ってる。
デッドオアアライブを初めてみたとき感じた嫌悪感がいつの間にか見慣れて麻痺してってる
ことが歯痒い。
974 :
958:2006/09/13(水) 02:12:05 ID:aSdFjKiQ
本当にゲームシステムは快に影響を与えないのか?
「利得の分配方法」もゲームの性質に含まれる考え方ではないか、
という問題があると思った。
システムそれ自体が気持ち良いというのは無くても、
システムが利得をどう分配するのか決定する事はあり得る。
そういう意味ではゲームシステムも快に影響を与えている。
まあ
>>955はストーリーとゲーム性は関係無いと
決め付けてるみたいだから、そういう前提に立てば
>>958のレスでも問題無いとは思うが、
ゲーム=ストーリー製造基盤という定義から考えた場合、ゲーム性とストーリーは不可分。
ゲームシステム上で生産されるものはストーリーなのだから、
「利得の分配」もゲーム性に含まれる考え方なのは当然である。
>>958の考え方は「分配する利得がないゲームは覚醒にしか影響を与えない」
と言っているだけで、快の無いゲームが覚醒にしか影響を与えないのは当たり前。
しかし、実際問題、殆どのゲームは分配する利得、ストーリーがある。
(※利得=充足される欲求、として考えた場合の話。)
>>968 そのメカニズムはもう明らかになってる訳だが。
扁桃体が快不快の一次判断して、で前頭前野が扁桃体の一次判断を抑制する。とかね。
まあ報酬系に関わる脳の部位はもっと多いので細かく見ればもっと複雑なはずだが大まかにはそんな感じ。
脳トレで有名な川島教授とかも研究してるだろ。
ちなみに、この仕組みは心理学で気持ちのよいものを「快」とまとめて取り扱っているのが
正しいという裏付けでもある。
>>973 >真理。
>俺の言いたいこともそれ。
>>962の書き込みのどこが真理なんだw
ゲーマー的な感覚というか、ゲーマーの欲求が「高覚醒の追求」だとして話をすると、
何故2DSTGのような高い情報負荷を与えるゲームジャンルが廃れる?
高過ぎる難易度はプレーヤーの情報処理能力をパンクさせるから
難し過ぎるゲームが嫌われるのは当然だが、
じゃあ難度落とした2DSTGが流行っているのか?と言われると違うよね。
「人はより気持ちの良い方向に向かう」のは当たり前。
覚醒にしか影響を与えないジャンルが人に与える快楽などほんの僅かということ。
より強い快楽に影響を与えるジャンル、
例えば格ゲーにゲーマーが向かうのは当然である。
つまりFF、ドラクエ、ポケモン、テトリス、マリオはエロゲーの何百倍も気持ちいいって事ですね
>>973 >ゲームのグラフィックはどんどんリアルを追及するんじゃなくてあくまでシンボルにとどまることでリアルで
>出来ない代償行為をするという気恥ずかしさ、後ろめたさを薄める意味を持たせられると思う。
リアルで無い事が面白さにプラスとなる点の一つはまさにそれだね。
例えば人がリアルに死んだら見てる人も不快になるけど、リアルに死ななければ不快さが軽減される。
>今あえてbit generationみたいなシンプルなソフトを出すってのは 敷居を下げるという意味だけでなく
>そのへんのこともあるんじゃないかと思ってる。
bit generationは行き過ぎ。あれはシンボル化というよりおっさんゲーマーのノスタルジーに訴えて
安物ゲーを高値で売ってしまおうという任天の下種さ加減がちょっと見え隠れしてる代物。
>>977 ゲーム買う理由で大きいのは「友達との会話のネタに出来る」って点なので
エロという時点で売れないのは仕方が無い訳だが、しかしギャルゲはもう少し売れてもいいと思うけどね。
実際かなり長い目で見ればRPGは廃れギャルゲ的というかラノベ的なゲームはもっと流行ると思うし。
何だかんだで従来のゲームらしいゲームの売上は落ちてきてるし。
任天ゲーの売上は落ちてないけど、これは任天ゲーが面白さで他のゲームに優るというより
売り方が他の会社より上手かったっていうそれだけでしょ。
ギャルゲーの市場も2001年をピークに減少してるんですけどこれについての見解は
>>969 プログラミングの例は、将棋のあらゆる手がゲームとして等価である証拠に
示したものなので、そこを理解してくれたなら先ずはOK。
>「あらゆる一手が等価」である事を保障するストーリー
って将棋で具体的に言うと何?自分にはさっぱり。ルールからそれを読み取る
のは理解できる。けど、ストーリーと言われると分からない。ルール1つ1つは
細切れだから、ストーリーになるからには何かが連続してるのだろうけど。
選択肢が結果に見えるのは、過去を振り返るストーリー目線だからでない?
選択肢は将来結果が出ることが約束されているものだけど、ゲームは永遠に
自分で結果を出したりしないよ。
あなたの言う、ゲームにプレイが内包されてるのは、道具に運動が内包され
てることの1つの例だから、それをゲームの定義として挙げるのは何にせよ
おかしいと思う。内包されてるかどうかは上のレベルで解決されるべき事柄
で、ゲームをゲームたらしめているのは別にあるということ。
>>976 例えの端と端なんだからそれが実際の人気とは異なって当然。
2Dシューターなんて究極のストイッカーだと思うが。
人離れが激しいのはゲーマーがいなくなったからじゃないか。
俺は自身でもゲームをするとともにゲーセンの店員が長かったんである時から
ゲーマーが減り代わりにオタクの客がメインに変わっていくところを直接見てる。
STGが時代に合わなくなってきてるのも事実だし娯楽間の競争でゲームにもお手軽さが
求められるようになってからは本当の意味でのゲーマーっていうのはもうほとんどいないのかもしれん。
そう、ゲーマーが減ってアニオタが増えたね。クソみたいな気持ち悪いゲームばかり。
ゲーマーが減るのは構わないがアニオタが横から入ってくるのは困る
985 :
名無しさん必死だな:2006/09/14(木) 20:25:22 ID:5t2fxv3d
>>982 つまりそれを「競技者」が減ったという方が正確だと思う。
ゲームらしさ、と呼ばれるここ20年くらいの錯覚の中心にあるのは
「競技性」であると思われる。
ただ、競技性は数学的というか、イデアな存在なので
グラフィックやサウンドなどの演出(演技性)でようやく具現化する。
さらにここに博打性(ランダム性や補正)が入ってくる。
そうなってくると「ゲームでしかできないこと」程度の意味にも受け止められてしまうので
論点が絞れない。
ちなみにTVゲームを競技種目として捉えるのは可能ではあるが、
状況的・構造的両面から、困難であると言える。
AoEとかUnrealとか実際に競技として成立してるTVゲームもありますよ
競技としての格ゲーはVFとともに衰退しちゃったけど
競技性の強い三国志大戦やMFCは今人気だし
ゲーム全体の方向性みたいな論を語るならもっと広くみなきゃだよ
>>986 e-sportsとかいう興行の存在なら知ってるよ?
でもあれが種目協会とか持っているかい?
新しい流行りゲームが出たらプロゲーマーそっちに乗り換えるんだろうし、
三国志対戦なんかのカード類も、結局はMT;Gのような失速を迎えるんじゃないの。
「ルールが完成して貰っては困る」というメーカーの恣意があるかぎり。
>>985 まるで囲碁や将棋に競技性が無いかのようなことを言ってるが正気か?
>>988 逆です。
囲碁や将棋のような抽象的な競技存在が「ゲームらしさ」の中核をなすものと言えるけど、
「(他メディアに比べて)TVゲームが最初にやったこと、TVゲームじゃないとできないこと」
というあまりに広範な意味も「ゲーム性」として大まかに扱われてしまっているので
それを錯覚と称しただけ。
長文書く奴は、もっと推敲してから書けやw
991 :
ニセイチ ◆tMNr3FMQg. :2006/09/15(金) 18:16:02 ID:jVxlgE05
>>969 >>981 サイコロを数回振ってみると、そこにストーリーが出現しますよね。
1の次に6が出て、「極端から極端かよっ」と思ったら3が出て、
そんで2が出た後また1が出たんで「2は見せかけだけかよっ」って。
でも、どう考えてもサイコロの目一つ一つはストーリーじゃない。
例えそこに目ではなく物語の切れ端が書かれていたとしても、
それ単体では(ゲームが生み出す)ストーリーではないと思うんですよね。
んで、プレイするということを考えてみたんですが、プレイとは、
どうやら「ゲームからストーリーが生まれる過程」といえるんじゃないかと。
つまり、ゲーム性にはストーリーは含まれないけれど、
プレイ性にはストーリーが密接に関わるということです。
つまり、ゲームをプレイする時のストーリー出現のバランスというのが、
どうもプレイ性なんじゃないか、と思ったんですよね。
(これなら、ゲーマー個人個人によって差が出るのも納得できるし)
ところで、誰か次スレ立ててもらえませんか?僕はだめなんです。
特に1のコメントとかは凝る必要はないんで。
>>992 おっ、サンクスです。
で、もう少し考えて整理してみました。
まず、僕が非常に納得できる考えとなっているのは
>>891氏の言葉
「物語は時間の経過を書いているものだが、ゲームの時間は動いていない」。
と同時に、
>>900氏のこの言葉も考えさせられた。
「(ゲームがプレーヤーに)返す行為の質にストーリーが含まれてる」。
この矛盾しているような言葉二つをなんとか統合してみるとすると、
「ゲームは静止しているがプレイは動いている」といえばいいかと。
ということは、ゲームをゲームとして考えるときに、
ゲームがなぜゲームなのかということを考えるだけではダメで、
ゲームがプレイされるとはどういうことか、も考えなければいけない。
つまり、ゲームの定義の中にプレイが入ってくるのではなく、
ゲームの定義と並立する形で、プレイの定義がなければならない。
そうして、その二つが広義の「ゲーム」を形作るのではないかと。
ここで思い出すのが、何度もシナリオ論を論じた人。彼は実は、、
「ゲーム」ではなく「プレイ」について語っていたのだ、と思います。
プレイの話ならば、全てがシナリオである、という考えは的外れではないし、
欲求充足、つまりプレイヤーが強烈な共感を感じるかどうか、という点で、
ゲームのあれこれについて語ることは十分可能です。
そしてまた、彼自身もプレイの話とゲームの話をごっちゃにしているので、
覚醒水準と欲求充足といった、次元の異なる概念を無理やりあてはめて、
抽象的なアクションゲームと、サウンドノベルを分けようとしていた。
もちろんこれは無理があるので、テトリスでも欲求充足の側面はあるし、
サウンドノベルでも覚醒水準から語ることは可能なんですが。
ということで、このスレッドのまとめみたいなことを語ってみましたが、
誰か反応してくれるかな。最近、誰も俺にレスしてくれないんだよなぁ…
>>994 >そしてまた、彼自身もプレイの話とゲームの話をごっちゃにしているので、
ごっちゃにしているつもりはないよ。
ゲーム=ストーリー製造システム
プレイ=ストーリーを紡ぐこと
何度も書いちゃうけど、ゲームってのはストーリーを製造するためのシステム。
注意すべきなのは、小説や映画みたいな単にストーリーを垂れ流すだけのシステムはゲームと呼ばない。
ストーリーの流れそのものを生み出すためのシステムという意味だね。
サウンドノベルだってストーリーを選択するシステムをプレーヤーに提供しているのだから一応ゲームと呼べるよ。
ただ選択肢無しのノベルゲーをゲームと呼べるかと言われたら疑問だけどね。
>>994 >覚醒水準と欲求充足といった、次元の異なる概念を無理やりあてはめて、
>抽象的なアクションゲームと、サウンドノベルを分けようとしていた。
>もちろんこれは無理があるので、テトリスでも欲求充足の側面はあるし、
>サウンドノベルでも覚醒水準から語ることは可能なんですが。
覚醒とか欲求ってのは面白さ(心理)という論点から考えた場合のゲーム定義。
無論、テトリスにも欲求充足の側面はあるし、ノベルゲーでも覚醒水準は問題になるよ。
心理という側面から語ればゲームだけでなく全ての娯楽を同列に語ることができる。
この考え方を更に発展させれば、物語論にだってまとめて語れる。
というようなことは何度も書いたつもりだったのだが。
ああこのスレも残り僅かだな。
次スレ行くか。
>>995 ほら、ごっちゃにしてるw
ゲームがストーリー製造システムだとしたら、
なぜわざわざストーリーを紡がなければいけないのでしょうか?
パン製造システムがあれば、パンを作る必要はないでしょうが。
>>996 全ての娯楽を同列に語ることは、
全ての娯楽を同列に語らない(つまり何も語らない)ことと同じですよね?
(いいものはいい、悪いものは悪い、的な言い方になる訳だから)
では、次スレで。
>>981 >>991 何て言うか、そのサイコロの目や将棋の一手を流れではない切れ端として認識する過程そのものに
ある種のストーリーが働いてる可能性があるんじゃないかと思ったんです。
しかもそれは将棋がクライマックスに向かう、サイコロの目が変わる意味でのストーリーと
全く同じように出て来る等価的なものなんじゃないかと。ただここから先はまだ全く考えてません。
システム的なものとしてのゲームとプレイ的なものを分けて考える、
その先に「ゲーム」があるという考えについては
(
>>981さんの言うレベルの問題はそれについての意見だと思います)
現時点では自分も同じように考えられると思います。
1000 :
◆mM9WALL8Ws :2006/09/17(日) 07:00:14 ID:mwej3gPe
1000GET
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。