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名無しさん必死だな:
「ゲーム界のゴッドファーザー」山内溥(77)
京都の花札・トランプ屋を世界的ゲームメーカーに押し上げた男。
現在のゲーム市場の礎を築き上げた男。
しかし一方で、その強権的手法や放言に批判も多かった。
そんなゲーム史における彼の功罪を考察してみましょう。
「遊び方にパテントはない」
これを取り上げたNHKスペシャル「新電子立国」のNHK担当者が
今度立命館の講演に出るから、ちょっと興味ある
1927年(昭和2年)11月7日京都に於いて、父・稲葉鹿之丞(工芸家の息子)母・君(きみ、積良の長女)との間に長男として生まれる
任天堂創業以来、山内家三代で初めての男の子で博(後に溥と改名)と名付けられ大事に育てられる
博が5歳の時、鹿之丞が山内家から出奔、行き先をくらましてしまう
博は母親(離婚直後から子会社で働いた)からも離され、祖父母の元で養育されることになる
彼は、全国的な花札ブランド任天堂の御曹司として、厳しくも甘やかされ、自由に伸び伸びと育つ
1940年、中学に入った頃、太平洋戦争が始まり、学徒動員令によって軍需工場で働く
戦時中食料難の時期でも(祖母の蓄えで)米飯を食べられ、監督官に米飯を持参し苦作業を免れた
彼が徴兵年齢に達した頃、日本の敗戦色が濃厚になり、やがて終戦
1945年、早稲田大学法学部に入学する
また縁談により、稲葉美智子と結婚
彼は大学生活を東京で送る
自由で贅沢な生活を謳歌している頃、祖父積良が病で倒れ彼は22歳で家業(社員100名程度のカード会社)の後を継ぐことになる
彼の青年期に於ける一番大きなショックは、1956年(昭和31年)世界最大のカード会社「USプレイングカード社」への渡米視察での出来事だった
「業界最大と言われるだけに、さぞ大きな会社だろう」 と期待に胸を膨らませていた彼の目の前に現れたのは、ただの中小企業に過ぎなかった・・
彼はそこで「カードを生業にする限り、こんなもんか」と落胆し、カード(花札・かるた・トランプ)ビジネス環境の小ささ、狭さを思い知らされる
娯楽用品が「必要不可欠でないもの」であり、浮き沈み(当たり外れも)の激しい業界であることを知った彼は
食品産業、タクシー・ホテル経営、教育・育児用品等、様々な業種に挑戦するが、どれも失敗に終わる
結局、娯楽産業で再出発することになり会社に理工系を採用しはじめる
横井軍平のハイテク玩具がヒットを続けるが、商品寿命が短く数年で消えていく
70年代中盤にマイコンが安価になる
横井のマイコン内蔵携帯玩具 「ゲーム&ウォッチ」が爆発的ヒットする
山内は、「ゲーム&ウォッチ」の大ヒットで得た40億もの資金をカセット式家庭用ゲーム機の開発に投入する
ハードウェアの機能性を高め値段を原価割れギリギリまで抑え、ソフトは宮本茂らが中心となり制作する
家庭用ゲーム機戦国時代に現れた 「ファミコン」は、その値段・機能性・良質ソフトにより軌道に乗り、サードパーティに開放して
市場管理システムによる支配下に置き、ゲーム市場を拡大・独占した
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名無しさん必死だな:
ワケワカラン