「面白さ」の定義があやふやであると思う。
>>493のエリスなどは「面白さ=快楽水準」と
捉えているフシがあるけど、世の中には、
とても快楽水準を押し上げる効果があるとは
思えない娯楽も沢山あるんだよね。
ホラー映画とか、遊園地のジェットコースターとか、旅行とか。
そういうのは「面白い」とは呼ばないかもしれないが、しかし
娯楽として認められている。
だから、面白さとは、快楽水準ともう
一つ覚醒水準も含めるべきだろう。
ゲームでよく言う、「熱い」「脳汁が出る」と呼ばれるような
状態は、覚醒水準が刺激されている状態なはずで、
覚醒水準を面白さの一部として認めてやることで、
この世に存在する大体の娯楽の面白さは説明が付く。
またしても俺専用の落書きスレと化したな・・・
もう俺のレベルになればこの世に存在する大体の「一人用ゲームの面白さ」
には説明がつけられるけど、まだ「多人数プレイゲームの面白さ」
については、明快な説明が付けられない場合も多い。
それに、物語中のミクロな人間関係が感情に与える影響についても、
知っておく必要があるだろう。
俺が勉強したのは感情心理学であって社会心理学ではないんだね。
という訳で、今後は多人数ゲームの面白さも極めていくために
社会心理学も勉強しようかと思う。もうこのスレは用済み。
さて、これを読むと、何故携帯ゲームにおいて、
テトリスのような、据え置きでは絶対に売れなさそうな
ゲームが携帯ゲームにおいては売れてしまうのか、説明が付く。
暇(=低下した覚醒水準属性を持つ感情)を潰すために遊びが存在する、
という事を説明するのがエリスの最適覚醒水準理論。
暇な時間をお手軽に潰せる覚醒水準上昇ツールが求められている、
という事だね。
無論、俺らは、ゲームには覚醒水準だけでなく、もっと強い感情、
快楽水準を上昇させる可能性がある事を知っているから
携帯ゲームを据え置きの代わりとして遊ぶなんて事はしないし、
携帯MP3プレーヤーの方がもっとお手軽に
暇な時間の覚醒水準上昇には向いていることも知っている。
だから、携帯ゲームを必死に遊ぶなんて事はしないが・・・
ここまで論じたのは、「遊び」ではなく、「鑑賞」だった。
創作物に共感して楽しむ暇潰しを主に取り上げてきたのだけど、
自発的に遊ぶ、「遊び」についても考察する必要があるか。
遊びとは何か?
プレーヤー自身が主人公となり、楽しむスタイル。
とでも定義しようか・・・
「鑑賞」は、物語に主人公が存在するけど、
「遊び」はプレーヤー自身が主人公。
「面白さ」という視点においては、「鑑賞」も「遊び」も同じ。
要は感情が喚起されるかどうかが問題なのだから。
ただし、プレーヤー自身が主人公である、という事は、
脇役もリアル友達や、あるいは見知らぬネット対戦者等の
第三者でないといけないだろう。
「一人遊び」では、最適覚醒水準以上の感情喚起は無いと思う。
快楽水準は、人又は社会が強く関係している。
コンピューター相手では報酬回路が働かないというのは
もう実験で明らかになっているので、快楽水準を刺激するためには、
リアル人間か、あるいは物語上の仮想人物が登場する必要があるだろう。
快楽水準においては、社会構築主義的な視点が絶対必要。
覚醒水準では、社会性が関係無い可能性もあるから、
一人遊びでとりあえず最適覚醒水準までは持っていくことは出来る・・・
「驚く」という感情は、社会性関係無しに起こりうる。
ただ、単に「驚く」のは、覚醒水準が一瞬上昇するだけ。
しかも、予測された刺激で驚く事は無理だから、
単純な驚きを娯楽とすることはできない。
音楽も、覚醒水準を上昇させる可能性があるが、
一般的に聞かれる音楽は、歌詞付きの音楽であって
歌詞の無い、単なる刺激としての意味しかない音楽に、
どの程度価値があるのか・・・
歌詞の無い音楽、例えばゲームのBGM等は、
BGMが、過去の感情を想起させるから成立し得るのだと思う。
遊んだ事無いゲームの音楽など聴いても、それは単なる「刺激」
以上の意味は無い。
と考えていくと、「刺激」にはどの程度の商業的な価値があるのか?
と疑問に思ってしまう。
一見刺激としての意味しかない音楽などは、実は歌詞に快楽水準の成分を多少含んでいる。
歌詞の無い音楽、例えばオーケストラの音楽などは、今では商業的な価値は無いのではないか・・・
スローテンポで覚醒水準をあまり刺激しない音楽ジャンル、例えば「演歌」などが
廃れているのを見ると、覚醒水準を面白さの一成分とすべき、なのは明らかだけど、
感情としての価値を考えてみた場合、「覚醒水準」は「快楽水準」に若干劣るのではないか。
携帯ゲームで、何故、単純な覚醒水準上昇ツール的な
ゲームが未だに売れ続けるのか?
携帯ゲームで、快楽水準の刺激は難しいから。であると思う。
一人で遊ぶ場合、物語にて仮想キャラを登場させないと
快楽水準の刺激は無理だが、仮想キャラとの関係性で、
快楽水準の刺激を行うためには、長い物語が必要。
仮想キャラとの利害関係を長々と描かなければいけない・・・
遊戯時間の限られた携帯ゲームで、長い物語を鑑賞させるのは難しい。
で、快楽水準の刺激が無理であれば、無理なものに注力せず、
割り切って覚醒水準上昇ツールに特化するのもアリ、なのかもしれない。
任天犬などは、携帯ゲームであっても、
犬を飼うという「物語」がある。
メテオスなんかも、単なる落ち物ゲームだけど、
惑星を救う(確かそんな物語がある)という物語性がある。
(かなり弱い物語だが・・・)
その他GBAで出ているゲームでも、単なる「刺激」でしかない
覚醒水準上昇ツールは実は少ない。かもしれない。
抽象的であっても、何か現実世界との接点がある物語ばかり。
俺の理論 物語の面白さ=物語×共感度
と照らし合わせても、現実世界と全く接点が無い
共感度ゼロの物語は面白さもゼロであるはず。
エリスの最適覚醒水準理論は、暇という苦痛を潰すためには
暇潰しツールが必要というのを論じてるだけであって、
それ以上の面白さを論じるためには役に立たない。
感情は、空想でも喚起される。
よく言われる、脳内補完という奴だな。
携帯ゲームでも、当然、脳内補完は有効。
一方、据え置きのゲームは、脳内補完を期待するのではなく、
「究極の仮想現実」を最終的には目指すべきであると思う。
しかし、究極の仮想現実を目指して、リアルに作られた物語であっても
携帯ゲームにおいては、画面が小さ過ぎて、鑑賞者は究極の
リアリティとは取る事ができないかもしれない。
リッジよりも独太の方がまだ鑑賞者にとってリアリティがある物語なのかも・・・
携帯ゲームにおいては、脳内補完を期待するのもアリで、
下手にリアリティーを追求するのは上手いやり方ではないかもね。
さて、
物語の面白さ=物語×共感度
とする。で、「遊び」とは、プレーヤー自身が主人公である物語と定義する。
これは、物語の共感度、という観点から考えるとどうなのか・・・
物語の共感度というのは、物語への感情的理解度であるはずで、
物語の主人公がプレーヤー自身であった場合、
当然物語への感情的理解度はMAXとなる。
多少、物語がしょぼくても、感情的理解度MAXならば、
しょぼい物語でも面白く感じるはず。
で、ここで一つポイントなのは、プレーヤー自身の物語とは、
何もゲームを遊んでいる時間帯だけではない、という事だろう。
日常生活全てがプレーヤーにとっては物語。
ゲームで遊んでいる時間は、物語の一部。
つまり、日常生活を物語の一部として取り込む、という手法もあるはず。
例えば、脳トレで、「お前の脳年齢は○歳」みたいなことをゲームに言われるのは、
リアルプレーヤーにしてみれば、当然感情を喚起する言葉。
単に無意味な刺激を与えるのではなく、
リアルプレーヤーに対し、意味の強いメッセージ(刺激)を
投げかけてくるゲームは、秀逸な遊びと言える。
「遊び」とは、物語はつまらないが、共感度は高い。
面白さ、という観点で考えてみた場合、それ程悪くないんだね。
なにここチラシの裏?
ああなんかもう何かいてるのかわからなくなってきた。
要はエリスの最適覚醒水準理論はそれ程役に立ちませんでした。
という事かな。ああ疲れた。
ああ読んでいてくれた人がいたんだね。
一人オナニーしてたところ。
「遊び」と「鑑賞」の違いについて、俺的視点から
何か考察できる事が無いかと思索していたのさ。
任天堂が標榜する「遊び」の面白さ成分を
分析し尽くせば、任天堂のゲームについて、
又は妊娠に対しても色々と煽れるようになるだろうw
無論、ここで語っているのは「面白い」であって「面白そう」ではない。
ゲームの売上については、面白いより面白そうが重要なので、
ここで語ることは携帯ゲーム戦争の行方を分析するにはほとんど役に立たない。
ただ、ゲーマーとしては、当然面白そうより面白いの方が重要なので、
俺にとっては凄い意味があるのだが。
「面白そう」とは何か?
というと、イメージ又は視覚による感情喚起、と定義できる。
さっきも書いたけど、感情を喚起するためには、必ずしも
何かの直接的イベントが必要というわけではなく、
過去を回想させるだけでも十分なんだね。
脳内イメージが感情に影響を与えることは、
心理学的にも証明されている。
「面白そう」については、それ程語ることは無いか・・・
面白そう、と感じるためには、当然ゲームプレイのイメージが必要。
(あと、絵やムービーでも感情喚起される可能性はあるが、
絵の美しさについては感覚的飽和点に達しているため、
絵はそれ程重要ではない。性能を見せつける、という意味では、
むしろ、「リアルさ」の方が重要)
ゲームプレイがイメージできる、という事は、何らかの
イメージソースが無ければいけないが、
これは、各個人の経験に大きく依存してしまう。
「面白そう」については、多少語れる事はあるかも。
「アイトイ」が何故ヒットしたか、について。
ゲームプレイのイメージが「面白そう」というのは、
さっき書いたけど、「ゲームプレイしてる人のイメージ」
も「面白そう」に含まれる可能性があるんだね。
アイトイは、ゲームプレイという観点では間違い無く
糞ゲーであったのだが、一部地域ではヒットしてしまった。
何故か?「アイトイで遊んでいる人」の絵が変だから。
変=非日常的、であって、非日常は一般的には
覚醒水準を上昇させる。
つまり、「面白そう」という事なんだね。
これは「太鼓の達人」なんかにも言える。
しかし、実際にプレイしてみれば、ゲーム自身は糞ゲー。
アイトイは、「面白そう」であって、「面白い」ではない。
本質的につまらないゲームは、長期的には生き残れないため、
この手の「面白いと誤解させる系」のゲームは大抵一発屋で終わる。
さて、この理論はレボにも応用できる。
レボのコントローラーは、遊んでいるイメージを消費者に
想像させることが出来れば、覚醒水準を上昇させ
「面白そう」と誤解させる事ができる可能性はあるだろう。
しかし、それは「面白そう」であって、「面白い」ではない。
レボコンが、新奇性以外の部分で、感情喚起に貢献できなければ、
主流派コントローラーとなはれないだろう。
「物語」が面白さの核心であるゲーム・・・
まあ、今市場に出回ってるゲームの殆どなのだが。
物語の面白さとは、人間関係等がもたらす利害関係、
それに関わる覚醒及び快楽水準にあるわけで。
入力デバイスは、関係無いんだね。
はっきり言って、ストーリーを追うタイプのゲームは、
レボコンが力になる事は無い、と断言できる。
レボコンを操作する際、当然通常のコントローラーと比べて、体を激しく動かす。
体を激しく動かす、という事は、覚醒水準の向上を齎す可能性はあるか。。。
しかし、それは、「プレーヤーの入力コスト」という観点からはマイナス。
画面の中で繰り広げられる物語の進行にとってマイナスとなる。
覚醒水準が上昇すると言っても、単にウザイだけ、とプレーヤーに
取られる可能性の方が大きいだろう。
さっきも書いたけど、感情価値という観点では、
覚醒水準より快楽水準の方が価値が高い。
レボコンは、覚醒水準を上昇させても、
物語による快楽水準の上昇の足枷になる事は許されない。
レボコンは、覚醒水準については、一応プラスに
働く可能性はあるが、快楽水準についてはどうなのか?
快楽水準の中枢、脳の報酬回路は、社会構築主義的な刺激でないと反応しない。
レボコンが物語に、プラスの影響を与えるか?
と言われると、激しく疑問。
レボコンのように、単なる「刺激」じゃ面白さとしては弱いんだよね。
エリスの最適覚醒水準は、あくまで暇潰しを述べているだけであって、
暇潰しなんて、何だって構わない。
例えば、ちょっと歩くだけでも覚醒水準はある程度上昇するわけで・・・
現在、生き残っているメディアは、物語が面白さの核心であるメディアが多い。
それも当然と言えば当然で、一人で暇を潰すメディアにおいて、快楽水準を
刺激し得るのは、仮想世界を描く物語だけだからである。
ゲームおいても、RPGのような物語性の強いジャンルは概ね生き残っている。
俺がギャルゲーエロゲーこそ最強のゲームジャンルと公言して憚らないのは、
人間関係に起因する感情。まあ「快楽水準」の事なんだけど。
快楽水準を最も強く刺激してくれるのは、現時点ではギャルゲーやエロゲーだから。
しかし、
物語の面白さ=物語×共感度
この理論を信じるとするなら、ギャルゲーやエロゲーを
上回るゲームが存在するコトになる。
ギャルゲーやエロゲーは、仮想世界の物語だから、
共感度は現実世界より劣るのは間違い無い。
現時点では、俺にとってギャルゲーエロゲー以上の快楽水準
刺激ツールは存在しないが、ギャルゲーエロゲー以上の
共感度を持つ物語が存在すれば・・・
それは、ギャルゲーエロゲーを追い抜かすゲームになり得る。
多分、ギャルゲーやエロゲーを追い抜かす共感度を持つ物語とは、
現実世界の恋愛物語以外にないだろう。
しかし、現実世界においては、ギャルゲーやエロゲーのような
物語が存在するなんてまず無いわけで・・・
いやー誰か周囲にいい女いないかな〜とか思ったりして。
ああなんか書いてて空しくなってきたな。もうやめよ。
俺
小学校時代 スーパーマリオ
中学校時代 ドラクエ&FF
高校時代 スト2
大学時代 バーチャファイター2
どれも時代を築いた名作。
最近の高校生
小学校時代 ポケモン
中学校時代 ポケモン
高校時代 特になし
時代を築いた名作はポケモンしかない。
ようするに最近のゲームはブームになれるほどの面白さはないって事。
そりゃあ黄金時代に生きた人間なら現状では情熱も消えるってもんですよ。
物語の共感度、という観点から考えると、
子供に、大人が「面白い」と感じるようなゲームが
面白く感じないのはある意味当然と言える。
子供の脳内と、大人の脳内では、持っている情報が違う。
また大人と子供では処理できる情報処理能力も違う。
一部の大人が共感できる情報、例えば、「龍が如く」で舞台になっている
アンダーグラウンドな世界観は、子供には理解出来ない。
「なんか悪そうな奴らの物語」くらいの理解では、とても
感情的な共感な期待できるはずも無く・・・
530 :
529:2005/10/22(土) 21:40:10 ID:qiUjep5X
>感情的な共感な期待できるはずも無く・・・
↓
感情的な共感を期待できるはずも無く・・・
でした
「ピカチュー」のような、とても大人が共感できない
キャラが何故子供に受けてしまうのか?
子供は現実世界をよく知らないから、
「原始的な感性」に訴えるキャラが大人と比べて
受けやすいのだろう・・・
最近のゲームが、何故つまらなく感じるのか。
ストーリーを追うタイプのゲームが増え過ぎた、
というのもあるかもしれないな・・・
ストーリーは、プレーヤーが自分で作ったストーリーではない。
あくまで、創作者の作ったストーリーをなぞるだけ。
プレーヤーが関われるのは、どうでもいいような物語の細部。
これでは、一体何のためのインタラクティブなのかわからない。
操作せずに、ただ物語を見ているだけの方が、苦労しなくて
いいんじゃないのか・・・
例えば、「HALO」で、チーフが海兵隊員の前に立つと、
「邪魔だ!どけ!」みたいな事を仲間に言われる。
これは、製作者の作ったストーリーではない。
プレーヤーと、海兵隊員の間のストーリー。
チーフではなく、プレーヤー自身の操作に問題があって
海兵隊員に叱られた。つまり、プレーヤー自身が
物語の主人公であるとも言えるため、物語への共感度は当然高い。
ゲームの共感度を上げるためには、どうしたらいいのか、
HALOの例が一つの鍵であると思う。
プレーヤーの操作に対し、あれこれ文句言ったり誉めたりして、
感情を喚起してくれる仲間及び敵を増やす事。
創作者の作った物語をなぞっているだけじゃなくて、
プレーヤーの操作に対し、評価を下せる擬似人間関係を作る。
物語への感情的理解度とは、
つまり、感情喚起の元となっている背景全てを鑑賞者に理解させる事だろう。
受験で合格した、何故嬉しいのか?
合格して当然だったのなら、嬉しさより、落ちなくてよかったという安心が先立つだろうけど、
合格が難しいと言われて、それでも頑張っ合格したのなら、当然嬉しさが喚起される。
後者は、何故「安心」ではなく「嬉しい」のか?
「合格が難しいと言われて」「それでも頑張った」という記憶があるから。
安心が、嬉しさに変化する。
受験を物語化する場合、そういう背景事情を鑑賞者にきちんと理解させ、
つまり共感させ、はじめて、鑑賞者も嬉しいと感じる事が出来る。
何故、創作者の作ったストーリーをなぞるだけの
ゲームがつまらないのか?
自分の操作の結果得られた物語でない。
つまり、物語への理解度が低い、共感度が低い、から。
>>534のように、短い、物語自体はそんなに面白くない物語であっても、
共感度が高ければ、鑑賞者にとって面白い物語となる。
無論、「CLANNAD」アフターのような、物語自体が強烈で、
しかも感情的理解度が(俺にとっては)高い物語には及ばないが、
ゲームとして、どういう方向性が正しいのかと考えた場合、
「CLANNAD」より「HALO」の方向性が正しい、と言えなくも無い。
とりあえず、君に色んな意味での情熱が有る事はわかった。
長すぎるよ…もう少し短くしてくれ。
挙げている内容とかがコアすぎて分からない。
DQでもFFでも出来そうな話だけど。
あと、半分ブログになっているからブログにしちゃった方が潔いと思う。
他の人の意見はスルーしちゃってるし、ブログでやったほうがいいに一票。
それだけの量の文章が毎日書けるならサイトとして成立するだろうし。
掲示板は一人で長々と語るには向かない気が。
541に同意
今後の語りにも興味があるのでブログを望む
ブログだったらコメントもつけられるしな
まあ、その内作るかもね。暇が出来たら。