>>391 126 :白馬青牛まあ、時代的にゃ4,5世紀が重要じゃ。列島は、弥生期以上に
世界的北方民族南下征服の古墳時代の 世界史的現象の時代じゃけんのう。
埴原和郎氏も、人類学的にも弥生期より古墳期の渡来系の影響が強いとされる。
http://pdf.lookchem.com/pdf/22/d482d1c7-898d-4669-b310-3002e0d21133.pdf 古墳時代
「古墳時代の特徴の一つは, 弥生時代に比較して渡来系集団が急増したことである。」
と、弥生期の一部の地域と違い、古墳期の大量移住は、世界史の事例から普遍じゃ。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/tetudy03922kouen.htm 片山一道氏も、
「学会の主流は弥生時代に大量に朝鮮半島から渡ってきて日本民族ができたと
いう説を展開しています。高校の日本史の教科書にも単なる仮説を書いて
います。しかし神戸のシンコウ遺跡、近畿地方の弥生時代の遺跡の骨を
調べた限り、そうではないのではないか。弥生時代は朝鮮半島経由で文化が
輸入されましたが実際には人間はそんなに来ていない。
山口県の土井が浜、北部九州は渡来人は大きな影響を持ったことは確かです。
国家というものが形成される前後あたりに影響は強くあったのではないか。
そういう意味で国家形成時期、騎馬民族はやってきたという私なりに
レトリックで書いています。渡来人は日本の歴史に大きな影響をもたらしたと
思いますが、弥生時代の始まりではなく国家が始まる頃、古墳時代に影響が
あったのではないかというのが私自身の仮説です。」と、
人骨からは、弥生期縄文系の方が圧倒的で古墳期の大量渡来で日本人が
成立する。
ほいから五胡時代の中国。
http://www.3guozhi.com/zaka2/ss2.html 「関中には100余万の人口があるが、構成比は、戎狄が半数を占める。」
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kikajin.htm 「もうひとつ考えられるのは、五胡十六国の一つの前秦で氐族の符健が
351年長安に入り国号を大秦として翌年皇帝となり、3代皇帝符堅は次々と
諸国を併合して華北全土に大帝国を築き上げる。
しかし、383年肥水の戦いで大敗北を喫して長安を放棄して衰退に向かい
394年後燕に併合される。滅亡後に流浪した前秦国人末裔が百済経由で
396年の来朝は、氐族が漢土西方出身で年代的にも符合する。」
http://www.mekong.ne.jp/column/eguchi/eguchi44.html 「前秦とは歴史上の呼び方で、建国者であるチベット系の民族の王である
符建は国号を「大秦」と定めました。
『日本書紀』に応神天皇14年のとき、弓月君(ユツキノキミ)が百済より
移民を率いて来たことが記されています。弓月君は「移民集団は新羅に
阻まれて加羅の国に留まっている」と応神天皇に苦情を訴えました。
『新撰姓氏録』には弓月君は融通王と見え、秦始皇帝の子孫とされています。
融通王は結局、127県の百姓という大集団を率いて倭国に移住し、彼等は
秦氏と呼ばれ、これは秦始皇帝の子孫というよりも、大帝国が瓦解した後の前秦の
王族集団と考える方が適切ではないでしょうか。」