昔の地図は古い

このエントリーをはてなブックマークに追加
そうではないと考えられる理由はいくつかある。まず第一に、粘土層の上と下の文化の類
似――たとえば焼成煉瓦などだ。つまりこの洪水は文明を一掃したわけではない。ウーリーは
この洪水の規模を400×200マイル(約640×320キロ)、つまりペルシア湾から現在の
バグダッドの北までと見積もったが、それでもそれは基本的に局地的な災害に過ぎない。

考古学者マックス・マロウアン(アガサ・クリスティの夫)は、1931年と32年にニネヴェを発掘し、やはり洪水
の痕跡を発見した。彼の推測によれば、この洪水は紀元前3500年ごろのもので、おそら
く「ギルガメシュ叙事詩」で語られているものだという――つまりジョージ・スミスが聖書の洪水と
考えたものだ。だがニネヴェはウーリーの洪水の範囲内にある。だからこれもまた、聖書にある大
洪水と言うより局地オ的な洪水のようだ。

その後、1990年代半ば、アメリカの科学者ビル・ライアンとヲルター・ピットマンが、まったく新しい大洪水
の候補地を提唱して、考古学会を驚倒させた――黒海だ。

これについて述べる前に、地中海が常に存在したわけではないと言うことを説明しておく
必要がある。わずか2000万年前には、アフリカとヨーロッパはくっついておらず、アフリカは島だった。
それからアフリカは北上を始め、700万年前にヨーロッパと衝突し、構造プレートの間に地中海を閉
じ込めた。そして地中海に注ぎ込む十分な川もあったので、水は徐々に蒸発し、ついに地
中海は事実上、消滅してしまった。地中海はひび割れた泥と砂の乾いた盆地となったのだ。

およそ550年前、スペインと北アフリカが向き合う現在のジブラルタルと呼ばれる地点で、大西洋
が流入しはじめた。それは史上最大の滝となったに違いない。高さはナイアガラの50倍、水量
は1000倍に達した。数年のうちにジブラルタル海峡が出現した。
100,:2008/09/19(金) 08:04:40 ID:AxCE6vUY
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%B5%B7%E6%B4%AA%E6%B0%B4%E8%AA%AC
黒海洪水説 ... ンビア大学]]の[[地質学]]者[[ウィリアム・ライアン]]と[[ウォルター・ピットマン]]は、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AB%E6%B5%B7%E5%B3%A1ジブラルタル海峡

実に奇妙なことだが、1970年まで、地中海がそんなに新しいなんて考えた人間は誰も居な
かった。この年、ビル・ライアンは深海掘削舟グロマーチャレンジャー号に乗った。地球の磁場の逆転の
証拠を求めて、海底から錐芯試料を採取するのが目的だ。彼等の引きあげた資料は、純粋
な塩だった――長い管状の海塩の塊だ。これによって、地中海がかつて干上がった「海類
平原」だったことは疑いの余地がなくなった。そこに突然、海が注ぎこまれたのだ。科学
者は最初これを受け入れようとしなかった――だが証拠は圧倒的だった。

一年後、ライアンは海洋学者ヲルター・ピットマン、それに若いイギリスの研究家ジョン・デューイは何も考え
ず、それこそが洪水伝説の下かもしれないね、と言った。言ってしまってから、それが起
こったのは地上に人類が現れるはるかいぜんだと気づいた。だがライアンが洪水の話を始めた
ので、デューイは――半ば冗談で――その証拠を見つけてみろ、とあおった。ライアンとピットマンの
研究はこうして始まったのだ。

ライアンもピットマンも大学で「ギルガメシュ叙事詩」を学んだことがあったので、とりあえずこれを
出発点とすることにした。再現してみると、ギルガメシュがウトナピシュティムを探しに行くとき、彼
は日没の方向へ歩いていったと書いてあった。

もしもギルガメシュがペルシア湾にほど近いウルクに住んでいたなら、彼は洪水の証拠を探すのに西
ではなく南に向かうはずだ。ウーリーの洪水は2つの川の土地に限定されているが、それは南
北方向に、というか少なくとも北西から南東へと流れている。
101,:2008/09/19(金) 08:12:07 ID:AxCE6vUY
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%AD%E6%B5%B7 地中海
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%A3%81%E6%B0%97 地磁気
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A4 ジョン・デューイ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%B9%BE ペルシャ湾
ライアンとピットマンが何を探しているかというと、大西洋がジブラルタルに流入した出来事のような
ことが、はるか新しい時代に再び起こったのではないかということだ。それが起こるため
には、ジブラルタル海峡のようなボトルネックが必要だ。それがまず封印され、その後、海圧によっ
て無理やり突破される必要がある。

地中海地域には、その候補地は一つしかない――トルコの北にある黒海だ。これはボスポラス海
峡と呼ばれる細長い海峡によって地中海と隔てられている。ライアンとピットマンは、デューイの問い
に答えるために、ここは調べてみる価値はあると考えた。

黒海は深さ1マイル(約1・6キロ)のサラダ・ボウルのようなものだ。ドナウ川、ドニエストル川、ドニアプ
ル川などから流入する淡水はその上層部分を流れ、地中海に注ぎ込む。サラダ・ボウルの底の部
分には重く濃い塩水があり、これは死海のそれに近い。

このために黒海は「呼吸」が妨げられ、地中海の青さに対して暗緑色を呈している。生命
は比較的少ない――ときに「死の海」と呼ばれる所以だ。そしてギルガメシュもまた、「死の海」
を探しにいったと書かれている。ライアンとピットマンにとっては有力な材料だった。

1680年、イタリアの科学者ルイージ・マルシリは、黒海に二つの潮流があることを発見した。一つは表
面、もうひとつはそのはるか下である。ライアンとピットマンはマルシリの実験を追試してみた。長い
綱の先に石を詰めたバスケットを取り付け、さらに浮きをつけて沈めるのだ。
102,:2008/09/19(金) 08:41:37 ID:AxCE6vUY
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%82%A6%E5%B7%9D ドナウ川
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AB%E5%B7%9D ドニエストル川
あるところまで沈めていくと、バスケットは逆方向に流れている潮流にぶつかり、それまで南
下していた浮きは一転して北上し始める。もしもライアンとピットマンが正しいなら、この北向き
の潮流が流れ始めたのはおよそ9000年前、黒海が淡水湖だったころだ――このとき、上昇
した地中海から海水が滝となって流れ込んだ。

同僚たちはこの滝仮説に賛同しなかった。彼等の考えによれば、黒海は地中海によて「底
上げ」されたのであり、しかもしれは極めて緩慢なプロセスで、恐らく何世紀もかかったとい
うのだ。

洪水説の検証にはちょっとした問題があった――ロシア人だ。黒海には彼等の軍艦がうようよ
居て、当然ながら、アメリカ人による科学調査はそれを装った偵察なのではないかと懸念
した。1990年の冷戦終結によって事態は好転したが、ライアンとピットマンに最初の転機が訪れる
のは1993年3月19日のことだった。

そのきっかけは、ペトコフ・ディミトロフというブルガリア人からの手紙だった。それによると、今か
ら9750年前には、黒海の海面が今よりも100メートル低かったと言う証拠があるという。
小型潜水艇で黒海に潜ったディミトロフは、海面下110メートルのところにある古代の海岸を発
見した。これが化石化していたという事実は、海岸が洪水によって沈んだと言うことを示
している。もしも海面が徐々に上昇してきたのなら、打ち寄せる波は海岸を浸食していた
だろう。
103,:2008/09/19(金) 08:47:20 ID:AxCE6vUY
111 KB
その直後、第二の幸運が訪れた。モスクワのP・P・シルショフ海洋学研究所による黒海調査へ
の参加要請だ。その目的は、ウクライナのチェルノブイリ原発事故による国会の汚染調査だった。

ロシア人もまた面白い発見をしていた。国会の北、幅4マイル(約6・4キロ)の海峡を隔てた反
対側にアゾフ海がある。まるで破滅した泡みたいに、黒海から溢れ出しているのだ。ロシア人は、
この海峡をまたぐ鉄橋の建築を計画していた。そしてその岩盤の深さを調べるために、水
底に穴を開けたのだ。

水底の堆積物の下にあったのは、さらに深さ200フィート(約60メートル)に及ぶ亀裂だっ
た。この海底の峡谷は、川、恐らくはドン川によって造られたに違いない。ドン川は今はアゾ
フ海の北を流れているが、この川がこの渓谷を造ったということは、かつてアゾフ海は乾いた
土地であり、そこをドン川が縦断して、当時は氷河期の小さな湖だった黒海に住んでいたと
いうことだ。

そこでライアンとピットマンはロシアの舟アクアノート号に乗り組み、ついに黒海の底を調査する機会を得た。
心配の種は、ロシアの専門家たちがそういう洪水は無かったと考えていたことだ――ただ、氷

が溶けた水が北から流れ込んだために、黒海の水位は徐々に上昇したのであり、同時に地
中海もまた、最後の氷河期の氷が溶けたために水位が上昇し、この二つの海は最終的には
一つになったが、その際に巨大な瀑布が出現したわけではなく、単に両者を隔てていた「ダ
ム」の上までゆっくりと水位が上昇したに過ぎないという。
104,:2008/09/20(土) 10:46:21 ID:NEU6F5C5
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%96%E3%82%A4%E3%83%AA%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80%E4%BA%8B%E6%95%85チェルノブイリ原発事故
だが黒海を航海すればするほど、そんなことはありえないということが明らかとなってき
た。高度に発達したロシア製の機器が、海水の下に沈んだ古代の海洋と河床の存在を示したの
だ。さらに海底から採取した錐芯試料は、日光によって乾燥した固い泥と、その上に積も
ったやわらかく黒い泥とを明瞭に区別した――古い泥は実際、乾燥しているように見えた。
そして両者の接点には、瀑布によってもたらされた地中海の甲殻類がいた。かつて潟や沼
であった箇所は、腐敗する植物層から生じたガスを依然として放出し続けていた。

もう疑いの余地はない――確かに突然の大洪水があったのだ。500万年から600万年前に、
乾いた土地だった地中海を海に変えたのと同じ様な大洪水が――ピットマンの試算によれば、
それはナイアガラ瀑布250個分に相当し、地中海からの流入速度は毎時60マイル(約96キロ)
にも達した。

ライアンとピットマンがBBCのために製作した番組は、そのインパクトを目に見える形で描き出
した――淡水湖であった黒海沿岸の住民たちは、両海を隔てていた土地を歩き回り、ある
日、ほんのわずかな水が崖から噴出して居るのに気づく。ためしに飲んでみると塩水だ。
翌年には、その水量は2倍になっている。と、見る間にその流れは荒れ狂う怒涛となり、
あっという間に両海の協会を破壊してしまう。これによって水位は、恐らく毎日1フィート(約
30センチ)ずつ上昇しただろう。水位の上昇から流れるためには、毎日1マイル(約1・6キ
ロ)ずつ北に移動する必要があったはずだ。そして最後に遠い高台から、水没した土地を
振り返ることになる

(黒海大洪水の歴史。氷河が溶け始めた紀元前一万二千年ごろは、淡水の黒海からマルマラ海、
そしてエーゲ海に水が注ぎ込んでいた。

氷河の融解が進んでエーゲ海が上昇すると、海水がマルマラ海へ注ぎ込む。

そしてついにボスポラス海峡が開き、海水が黒海へと大量流入した。黒海大洪水である。)
105,:2008/09/20(土) 10:49:03 ID:NEU6F5C5
ライアンとビットマンによれば、こうしたことが起こったのは疑いの余地はない。巨大な洪水が、
小さな氷河期の湖を黒海に変えたのだ。だが、それはいつのことか?

ディミトロフは、貝殻の放射性炭素年代測定に基づいて、それをおよそ9750年前のこととして
いる。だが、あるアメリカの研究所がこの貝殻を測定して見せたところ、ライアンとビットマンは大い
にショックを受けることとなった――特にライアンだ。彼はすでに、それを9000年以上前、つまり
紀元前7000年ごろとする講義を行っていたのだ。だが件の研究所の測定によれば、彼は
1500年も間違っていた。大洪水は紀元前5450年に起こったというのである。

この年代は、BBCの番組をみたあらゆる人をとまどわせた――ほかならぬ私自身もだ。
私としては、洪水は今から1万2000年前、プラトンのいうアトランティスの時代であって欲しかった
わけだ。なのにその5000年も後に起こったというのはまったくの当て外れだった。

ライアンとビットマンにとっては、この年代はある意味ありがたいものだった。そのころなら、そ
れこそ「ギルガメシュ叙事詩」と「創世記」に描かれた洪水に当たるからだ。確かにウーリーとマロウ
ワンはそれをはるか後においている。だが人間の記憶は長く保たれているのであり、この洪
水は文字というものが発明されるはるかいぜんから、吟遊詩人の歌によって伝えられてき
たものかもしれないのだ、、、、。

ライアンとビットマンはさらに、シュメール人は黒海大洪水の生き残りではないかとまで示唆している。
彼等の灌漑水路の知識は、黒海が淡水湖だった時代の名残だというのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B2%E6%B5%B7 エーゲ海
106,:2008/09/20(土) 10:51:22 ID:NEU6F5C5
当然ながら、彼等の同僚のほとんどは、いくらなんでもそれは言いすぎだと考えている。
洪水の生き残りが逃げるとしたら北のほうであって、南のメソポタミアというのはおかし
いんじゃないのか?これに対してライアンは言う、「ギルガメシュ叙事詩」の中でギルガメシュがウトナプシ
ュティムをを探して海へ赴くとき、彼は渡しもりの舟に乗るが、このとき渡し守は籠に石を詰
めて海に沈める――まさにライアンが水面下の潮流を調べるためにやったのと同じことだ。

BBCの番組で、メソポタミア神話と「ギルガメシュ叙事詩」の専門家であるスティファニー・ダリーは、こ
れを完全な空想だと切って捨てた。彼女によれば、「ギルガメシュ叙事詩」は埒も無い空想に満
ちており、これをそのまま現代メソポタミアのガイドブックとして使うことなど不可能だというの
だ。また、シュメール人がウルを築き始めたのは紀元前4000年以後のことで、黒海大洪水よりも
2000年近くも後のことだという。

だが1980年代に行われた一連の調査は、ライアンとピットマンが基本的に正しいことを示して居る
ようだ。たとえ「ギルガメシュ叙事詩」の洪水が黒海大洪水であるにせよ、あるいはそれより
もはるか南の洪水であるにせよ。

バルバドス島近郊のカリブ海では、珊瑚-―通常は水面から数ヤードのところに棲息する-―が水
面下10ヤード(約9メートル)のところにいることが知られている。これは、数千年前に
さんご礁が定着して以来、水面が徐々に上昇してきたことを示している。

1988年、ラモント=ドハティ地球観測研究所のリック・フェアバンクスは、この珊瑚礁から錐芯試料の採
取を始めた。最初の試料が浮かび上がったのは、1988年の謝肉祭の直前のこと。そしてそ
れは、大洪水が一度ではなく、3度起こったということを示していたのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%B0%84%E6%80%A7%E7%82%AD%E7%B4%A0%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E6%B8%AC%E5%AE%9A放射性炭素年代測定