昔の地図は古い

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73,異界への扉を開くシャーマンの儀礼

失われたインカ文明の痕跡  、、、


ラジオとTVのブロードキャスターであるロス・サーモンは、失われたインカの世界に魅了され、かのパーシー・
フォーセット大佐のように、失われた都を見つけるたびに出た。彼は、プリマスのBBCで働いてい
て、私もときおりプレゼンターとしてBBCには顔を出していたので親しくなったのだ。南ア
メリカの失われた都の伝説は、リオデジャネイロの国立図書館にある「第512番手稿」に由来す
る。それは1760年代に同館の蔵書となったものだ。まるでコナン・ドイルの冒険物語のようだ
が――実際、フォーセットの探検がコナン・ドイルの「失われた世界」(1912年)の元ネタとなった―
―それは実際にはポルトガルの財宝ハンターが10年にわたって中央ブラジルをさすらった記録だ。

手稿によれば、ハンターたちは巨大な石のブロックで造られた廃都を発見した。彼らは援軍要請の
ために文明社会にメッセージを送ることを決め、彼等の発見の話は地元の飛脚によってバイアの
総督に伝えられた。だがそれに対しては何の動きもなく、以来、手稿はずっとその図書館
にある。小説家イアン・フレミングの兄であるピーター・フレミングは、「ブラジルの冒険」(1933)に記さ
れている遠征に出かける前に、その図書館でそれを読んだ。また、ハロルド・ウィルキンズの「古
代南アメリカの謎」(1946)にも全文収録されている。
著名な旅行家にして冒険家であった

パーシー・フォーセット大佐はこの手稿を読み、1925年1月、「失われた都」を求める旅に出た。し
して1925年5月、彼はブラジルのマトグロッソで消息を絶った。ほぼ間違えなく原住民に殺され
たのだ。彼の足跡をたどろうとする試みは数多く行われているが、一つとして成功した者
はない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%80 巨大アナコンダ
74,:2008/07/09(水) 09:38:52 ID:Xs7BKDvF
とはいうものの、ロス・サーモンが失われた都に興味を持つようになったのは、フォーセットとは何の
関係もない。第二次世界大戦中を軍隊で過ごした彼は、冒険の人生を夢見るようになり、
気がつくとベネズエラの牛の放牧場で働いていた。その後、彼は隣接するコロンビアの放牧場を負
かされるようなった。ここで彼は、スペインのコンキスタドールと、彼等が征服した部族に関する記
録を読みはじめる。山地に住むインディオに関する記録の中に、「イニカ」と呼ばれる民が「青眼」
(白人)に追われ、ジャングル奥地で生活することを余儀なくされたが、いつの日か戻ってき
て侵略者を皆殺しにする、という情報があった。「イニカ」というのは、もしやインカのことか?
かくして探求が始まった。

BBC旅行番組の製作で彼はかつてコチャバンと呼ばれたインカの都市を訪ねるべく、ボリビアに
やってきた。高い山々や乾いた河床を踏破し、彼ともう一人のイギリス人は、インディオの若者の案
内で都の痕跡のある場所にたどり着いた。今ではすっかり植物にに覆われている。だがそ
こで古い工芸品を見つけた彼らは、自分たちこそが世界で最初にこれを発見したと確信し
た。地元のインディオは祖先の例を恐れてそこに足を踏み入れようとはしないのだ。だが同行
者が熱のために瀕死状態となり、コチャバンバ遠征は延期せざるを得なくなった。

というわけで、サーモンが再びボリビア探検に出たのは何年も後のことだった。彼の目的は財宝
ではない――ただ、古代文明が存在したという証拠だけだ。

ボリビア・アンデス東方のベニと呼ばれる一帯でドキュメンタリーを撮影していた彼は、一面の運河と丘
のような塚(マウンド)のある広大な平原を発見した。これはまさしく今は亡き文明の痕跡の
ように思えた。。毎年、この平原は1メートルほど冠水するので、インディオたちは塚を築いて、排
水が引くまでそこで生活していたのだ。

ビル・ドノヴァンというアメリカの学生が、1962年に飛行機からこの塚を発見したが、学会の機関
に調査に向かわせることは出来なかった。衛星写真によれば4000基ほどの塚が確認で
きるが、考古学的調査はまったく行われていない。
75,:2008/07/09(水) 09:44:19 ID:Xs7BKDvF
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%A9 アイマラ族

古いインカ遺跡の専門家であるヴィクター・ブストス博士がサーモンに語ったところによれば、これらの
証拠は「塚の文明」が最終的には排水のために塚を遺棄せざるを得なくなったことを示し
ているという。それは聖書の洪水のことですか、とサーモンは訪ねた。「おっしゃるとおりです」
とブストスは言った。
「この地球全体が洪水に飲まれたことを示す証拠は、世界中に圧倒的にあります。それは
今から1万年ほど前、異常な雨の後に起こったものです」

ブストスによれば、それは突然の破局ではなく、何十年も続いた浸水であるという。

サーモンはたずねた、「塚の文化はそれ以前のものなのですか?」。ブストスは認めた、「恐らくこ
こには、歴史を遥かに遡る文化があったのでしょう。洪水によって彼らはアンデスに追われ、
そこに最初のアンデス文化を築いたのです。何千年も前に」。

もう一人の考古学者、カルロス・ポンセ・サンヒネス博士がサーモンに語ったところによれば、紀元900
年ごろ、ティアワナコ一帯でアイマラ族による帝国が最盛期を迎えたという。それは恐らく、か
つてのギリシアやローマ帝国よりも大規模であったらしい。


私がアイマラ族に興味を抱いたのは、フレマスの「空が落ちるとき」がきっかけだった。現在もな
お、アイマラ語を話す人々は250万以上に上るが、フレマスによれば「1984年、ボリビアの数
学者イバン・グスマン・デ・ロハスは、コンピューター・ソフトウェアの発達の上で重要な一歩を記した。英語
を他の数ヶ国語に同時翻訳する際、アイマラ語をその媒介言語として使うことが出来ることを
示したのである」。

アイマラ語の構造は極めて厳密かつ単純で、「つまり統語法の法則が完璧に適用され、コンピューター
によって判読可能な一種の数学的記号で書き残すことが出来る。実際、一部の歴史家によ
れば、これほど純粋な言語は他の言語のように発達して出来上がったものではなく、まっ
たくゼロから開発されたものであるとしか考えられないという」
76,:2008/07/09(水) 09:49:30 ID:Xs7BKDvF

もしもモーリス・シャトランがこのことを知っていたら、間違えなく彼は、アイマラ語は異性人によって
コンピューター言語として作られたものだというだろう。

ロス・サーモンは、そのような考えを裏づけるかような興味深い発見をしている。ブカリラと呼ばれ
る古いインカの砦は、一見したところ大きな自然のピラミッドのように見えるのだが、彼はそこ
で2つの興味深い物体を発見したのだ。そのひとつは黄金製のインカの外科用ナイフで三日月
のような刃がついていた。もうひとつはペーパーバックの表紙くらいの大きさの薄い胸飾りだ
った。その表面に刻まれていたのは16の桝目で、まるで将棋版のようだった。それぞれ
の桝目の中に、角張ったシンボルが書かれていた。

サーモンのガイドを勤めていたケチュア族のワナクは言った、「これは私の祖先の言語です。彼らはこれ
で他の都にメッセージを送ったのです」。


インカ人は文字を持たなかったとされているが、サーモンはこれを見た瞬間、それが文字であると
確信した。後に彼は、このシンボルを解読できる人はいませんかとTVで呼びかけた。すると、
ポートレス在住のノエル・ビリングスというコーンウォール人が、夢でその答を見たと名乗り出た。彼のよれ
ばそれは数学的言語であり、優秀な数学者、測量技師、建築家によって作られたものだと
いう。サーモンはこのシンボルのかいどくに関してこれ以上の幸運に恵まれることがなかったが、
インカの言語の一つであるケチュア語族は、アイマラ語に極めて近いということは覚えておいて損はな
いだろう。そしてもしも、このシンボルがワナクの祖先のコミュニケーション手段であったのなら、サーモンの
発見は、遠い昔のボリビアのインディオたちがわれわれの想像以上の科学文明を持っていたこと
を示しているのかもしれない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%83%93%E3%82%A2%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3#.E6.96.87.E5.8C.96.E9.81.BA.E7.94.A3