昔の地図は古い

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49,ミジンコ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%BC#.E4.B8.96.E7.95.8C.E9.81.BA.E7.94.A3
メソアメリカから数千マイルかなたの南アメリカ西岸に、もうひとつの文明が栄え、そして滅んだ。
1987年2月、ある墓泥棒の1団が、ペルー北部のシパンという村にある「ピラミッド」(む
しろ瓦礫の山に見えたが)に押し入った。それは「月のピラミッド」と呼ばれていた。泥棒の
頭目がトンネルの天井にパールのようなものをつきたてると、突如天井が崩れ、黄金の雨が降り
注いだ。彼らはツタンカーメン以後、最大の宝物庫のひとつを発見したのだ。

泥棒たちは11袋の黄金を抱えてよたよたとうぼうした。全員が大金持ちになれるりょう
だったが、彼らは分け前を巡って争いを起こし、1人が射殺され、別の一人は警察に駆け
込んだ。隠して一味は逮捕され、その際に頭目は射殺された。だが不幸なことに、そのときにはすでに宝物の多くは売り飛ばされていたのだった。

それは誰の墓だったのか?考古学者たちは、月のピラミッドで最も重要なミイラを「シバンの長」
と呼ぶことにした。

ピラミッド群のあるランバイエケ渓谷のペルー人の間には、ナイムラップという王の伝承がある。彼は西
のほうからバルサ材の船に乗ってやってきて、信奉者たちを1マイル(約1・6キロ)ほど内陸に
連れて行き、チョットという場所に宮殿を建てた。

ケツァコアトルやコン・ティキと同様、彼もまた神として崇拝された。彼の死後、信奉者たちは彼をピラ
ミッドに埋葬し、彼は天高く飛んでいったと宣言した。古代の伝承を記録したカベーヨという名
のイエズラ会士によれば、ナイムラップの後に11代の王が続いたという。彼らもまた全員、ピラミッ
ドに葬られた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AF%E3%82%AB%E3%83%B3 月のピラミッド
50,:2008/06/04(水) 09:54:31 ID:K9Zmfxdk

これらがすべて終わったのは、最後の王であるフェムペレクが、美しい女の姿を借りた悪魔に誘
惑されたときだ。その後、神々は暴風雨を起こし、それから大旱魃がやってきた。これを
鎮めるためにフェムベレクは縛られ、海に放り込まれたが、もはやすべては手遅れだった。

冒険家トール・ヘイエルダールは、ピラミッドの盗掘が行われていた当時、偶然ペルーに居合わせた。ヘイエ
ルダールといえば、いまさらいうまでもないが、生涯をかけて「古代の航海者たち」の研究に
打ち込み、彼等が世界の大洋を航海できたということを身をもって示した人物だ。彼はウォル
ター・アルヴァという考古学者の案内で盗掘された墓を見学し、明るい青い眼を持つ黄金のマス
クを見せられた。明らかにペルー人ではない。これはナイムラップ王なのだろうか?もしそうな
ら、彼は東洋人でなかったということになる。

このピラミッドを建てたのは、モチェ族と呼ばれるインディオだ。彼らはメキシコのインディオの子孫かも
しれないが紀元100年から700年ごろに栄えた後、突然消滅した。その消滅の理由が明ら
かとなったのは1990年代後半になってからであるー―6世紀のペルーを、40年に及ぶ旱魃
が襲ったことが判明したのだ。エル・ニーニョによって引き起こされていた豪雨が途絶えたのが
原因だ。モチェ族は飢え死にするか、あるいは他の土地に去った。

アルヴァは、130マイル(約208キロ)ほど北のトゥクメというところにある、別のピラミッド群の
ことをヘイエルダールに教えた。そこでは17基のピラミッドがあるが、その泥煉瓦はすっかり磨耗
し、自然の丘のように見えた。そこにはシバンのような黄金の財宝はなかったが、同様に面
白いものが発見されたー―バルサ材の筏を描いた壁画だ。つまり、トゥクメのピラミッドを築いた
人々は航海者であったばかりか、かつて1974年にヘルエイダールがペルーからポリネシアへわたったと
きと同じタイプの筏を用いていたのだ。
51,:2008/06/04(水) 09:57:49 ID:K9Zmfxdk

メキシコのインディオ同様、モチェ族もまた人身供儀を行っていた。フワカ・デル・ルナと呼ばれるピラミッド
で見つかった。切断された人間の骸骨がそれを示している。奇妙なことに、これらは戦争
の捕虜ではなく、戦いに敗れたモチェ族の戦士なのだ。彼らは一度でも敗北すると、祖先への
生贄にされてしまったのである。まずかれらをかたどった粘土板が作られ、しかる後にす
さまじい棍棒の一撃によって彼らは脳をぶちまけられ、さらに山腹に投げ捨てられた。

これはある興味深い可能性を呼び起こすー―モンテ・アルバンの石板に描かれた犠牲者たちもま
た、球技場での「戦い」に負け、生贄として選ばれた人なのかもしれない。最終的にペルー
の征服者となったインカ人もまた、「神々への使者」として子供を選び、これを山の洞窟に閉
じ込めて凍死させるという風習があった。

1988年、すなわちトゥクメ調査の翌年、ヘイエルダールはもうひとつの奇妙な道に迷い込んだ。それ
は先史時代の航海者たちが、大西洋の海流を利用していたことを示すものだ。もう長い間、
彼はグアンチェ族という古代の部族に興味を抱いていた。彼らは長身のブロンドで、カナ
リア諸島のテネリフェに黒い石のピラミッドを造った。

専門家の一人であるアリシオ・ドス・サントス博士は、彼らの言語がインドの「ドラヴィダ語族」のそ
れに類似していると指摘している。彼等が海を嫌う羊飼いであることからして、彼らは家
族や羊を筏に乗せてカナリア諸島にたどり着いたに違いない、と博士は言う。つまり彼ら
はアトランティスの避難民であり、アントスによればそれはインドネシアのどこかにあったという。だがた
ぶん、彼の言っているのはアトランティスとは別の破局だろう。恐らくグアンチェ族はトールマンの彗
星が引き起こしたスタンランドの破局から逃れてきたと考えられる。
スペイン沖700マイル(約1120キロ)のところにあるカナリア諸島に、重い石造ピラミッド
があると聞かされたヘイエルダールは、取るものもとりあえずそれを見に出かけた。

そのピラミッド群はそれまで誰一人としてピラミッドだとは気づいていなかった。というのも、
それはメキシコのものと同様の会談ピラミッドだったからだそのひとつはテネリフェの中心にあったの
だが、そう思われていなかったのは、それから6つの段丘と平坦な頂上から出てきていた
からだ。ヘイエルダールはノルウェーの実業家を説得してこのピラミッドを買い取らせ、博物館を作らせ
た。