昔の地図は古い

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さらにもうひとつ別の暦があり、これを「長期計算法」と呼ぶ。その単位は、すでに見た
ように20日である360日を「トゥン」、20トゥンを「カトゥン」、20カトゥンを「バク
トゥン」と呼ぶ。1バクトゥンは14万4000日だ。13バクトゥンは1「大周期」も
しくは1「地球年」で、その終わりにはすべてのものが破壊され、再び始まる。現在の地
球の周期は紀元前3114年に始まったので、紀元2012年12月に終わる。

またマヤ人は天王星と海王星も知っていた。ともにヨーロッパでは19世紀半ばにようやく発見
されたものだ。ロバート・テンプルは、彼等が何らかの望遠鏡を持っていたと考えられている(こ
れはシュメール人にも言えることだ。彼らは土星の周囲に円を描いたが、それは肉眼では絶対に
見えない)。


マヤの残虐な人身供儀、、、、

奇妙なことに、文明の担い手としてマヤ人は特に傑出していたわけではない。20世紀を代
表するマヤ研究の権威であるエリック・j・トンプソン教授によれば、この文明は書くも驚くべき天
文学知識を示しながら、車輪やアーチを知らず、1袋のトウモロコシの重さを測ることもできなかっ
た。」さらに、多くの研究者が指摘しているように、マヤ人は進歩とか発達と言うものがない。
彼らの後期の芸術や建築は初期のものとまったく同一に見える。
41,:2008/06/03(火) 06:17:28 ID:2F0aZjCp

だがこれにかんしては、マヤ人自身が答を出しているー―彼らの知識はもともとヴォターンから
もたらされたものであり、彼は大破局の後に東からやってきたのだ。

ヴォターン――別名ヴィラコチャ、ククルカン、ケツァルコアトル、コン・ティキなどー―に何が起こったのか?伝説に
よれば、彼は策略によって再びこの地を追われ、筏に乗って西へ去っていったいつか必ず
帰ると言い残し、さらにその場所まで特定していた。だからこそ、信じられない偶然だが、
1519年にスペイン人ヘルナン・コルテスと手下たちがまさにその予言された海岸ベラ・クルスに上陸し
たとき、アステカ人-―マヤ人の子孫――は彼を神の再来だと信じ、何の抵抗もせずに蹂躙され、
滅ぼされたのだ。

そしてこの信じがたい、ありえないような偶然を見れば、われわれはメソアメリカのインディオたち
がなぜそれほどまでに星星に固執していたのかが解る。彼らは天が未来を予言してくれる
ことを信じて疑わなかったのだ。

だがもうひとつの理由もあるー―不合理な恐怖だ。ある朝目を覚ますと、太陽が地平線に
現れない。彼らはそんな日が来ることを恐れていた。そのときには風が吹きすさび、豪雨
が降る。そしてかつて何度もあったように、大地は洪水の下に沈む。彼らを暦に固執させ
たのは、この「空が落ちるときへの恐怖なのだ。なぜなら暦こそ、神を慰撫するための儀
式の正しい日付を定めるものだからだ。

42,:2008/06/03(火) 06:18:42 ID:2F0aZjCp

そしてその神々を慰撫する方法とは、人身供儀だった。生贄は石板の上に横たえられ、神
官は石のナイフでその胸を切り開する。それから肋骨のしたに手を突っ込み、鼓動する心臓を
抉り出して高く掲げるのだ。

これをみれば、メキシコをー―そして後にはペルーをー―侵略したスペイン人が、この迷信深い野蛮
人を拷問したり虐殺したりすることに良心の呵責を覚えなかった理由がわかるだろう。彼
らは、生きた心臓を抉り出すような習慣を持つ連中に対しては、何をしてもかまわないと
感じたのだ。

もっともそのスペイン人がいかに残虐かつ冷酷だったかは、ウィリアム・H・ブレスコットの「メキシコ征服
史」(1843)に詳しく書かれている。これは読むのに相当の心臓を必要とされる本だ。
われわれはアステカ人-―マヤ人の後継者――に対して申し訳なく思いがちだが、それでも次のよ
うな話を聞けばどうだろう。

アステカ人の第8代皇帝アウィソトルは、ある神殿の奉献のために8万人の捕虜を人身御供にするこ
とを命じた。水路は血で溢れた。虐殺は4日間にわたって休みなく続けられた。それから


神官たちが死体の皮を剥ぎ、その脂肪を自らの肌に塗りつけ、皮を潜水服のように身にま
とった。続いて虐殺者とその家族は人身御供を食った。これらすべては信仰心ゆえの行為
であるー―などというのは明らかにばかげている。嗜虐的な殺人は一種の中毒となること
は、どんな犯罪者でも知っていることだ。
43,:2008/06/03(火) 06:21:05 ID:2F0aZjCp
アーティストでマヤの専門家であるホセ・アルグエリェスは、「マヤの要素」(1987)という著書の中で、
このような行為はマヤ人には当てはまらないと述べているが、捕虜を描いた図像は存在する
と認めている。だが、彼はマヤ人をこう弁護する。「領事や戦争よりも大事なことは、独自の
数学的体系によって地球の周囲をたどることだったのである」。

問題は、マヤ人自身が惑星の周囲を見つけ出したのではないということだ。彼らはそれを優
れた教師から教わったー―だから本当は本当はそれを自分の手柄にすることはできないの
だ。マヤ研究の権威であるシリヴァヌス・グリスウォルド・モーリーは、彼らを「地球上で最も聡明な先住
民」と呼んでいるが、それは誉めすぎというものだ。彼らは教えられたことをただ丸暗記
しただけであり、それでも世界の終末への恐怖ゆえにその知識を守ったに過ぎない。

彼等が車輪すら発明できなかったという事実こそ、彼らの実際の知的能力を物語っている。
長い大通りと広大な広場のある年に暮らしながら、牛に引かせる荷車があれば生活はずっ
と楽になるだろうということに思い至らないなんて、相当の馬鹿としか言いようがない。

マヤがどこから天文学を学んだのかという点に関しては、オルメカ人という推定が有力だ。この
メキシコ先住民は、おそらく紀元前2000年に遡るが、発見されたのは比較的最近のことだ。

1884年、考古学者アルフレド・チャペロは、メキシコ湾はベラクルス南部の沼沢地で、巨大な石の頭像
を発見した。1930年代初頭、マシュー・W・スターリングは、湿地帯の中ほどの木の生えた丘で
あるラ・ベンタと呼ばれる場所にその頭像の源を発見した。さらにその下生えの中に、高
さ100フィート(約10メートル)に及ぶ円錐型のピラミッドが隠されており、巨大な祭壇や頭像も見
つかった。
44,:2008/06/03(火) 06:23:18 ID:2F0aZjCp

1884年、考古学者アルフレド・チャペロは、メキシコ湾はベラクルス南部の沼沢地で、巨大な石の頭像
を発見した。1930年代初頭、マシュー・W・スターリングは、湿地帯の中ほどの木の生えた丘で
あるラ・ベンタと呼ばれる場所にその頭像の源を発見した。さらにその下生えの中に、高
さ100フィート(約10メートル)に及ぶ円錐型のピラミッドが隠されており、巨大な祭壇や頭像も見
つかった。

それらは、分厚く官能的な唇を持つ力強い黒人の顔だった。それはアフリカ人奴隷を表したも
のだと述べた考古学者もいるが、この頭像は奴隷にしては品格がありすぎる。そもそも、
重さ60トンもあるような奴隷の像をつくろうなんて人が居るだろうか?いずれにせよ、こ
の頭像は神か権力者の肖像だろうと考えられる。

結局、ラ・ベンタはオルメカ人の都であることが判明した。これはそれまで知られていなかっ
たメキシコ住民の種族だ。この都は紀元前1200年以来のものらしい。彼らはククルカンと呼ばれる
翼ある蛇を信仰していたが、恐らく彼らの祖先が何かを教わった神なのだろう。彼らの神
のひとつがジャガー人間だ。白いピラミッドは天文台で、長年の間に難解か位置をかえているこ
とが判明した。つまりオルメカの天文学者は歳差運動による天の変化を認識していたのだ。

そんなわけで、春秋分点歳差の知識と暦の知識をマヤ人に伝えたのは、たぶんオルメカ人だろう。
さらに、オルメカ人も人身供儀を行っていたので、彼らもまた大破局の再来を恐れていたよう
だ。だからこそ、彼らはその暦をひたすら精密化することに取りつかれていたのだ。