昔の地図は古い

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世界最高の精密な暦


パリでマヤの専門家と夕食をともにしたモーリス・シャトラン――「ニネヴェ定数」を研究したNASAの
科学者――は、マヤ人と呼ばれる奇妙な民族のことをもう少し調べてみようと決意した。彼
らは紀元前3世紀にメキシコに現れ、紀元900年ごろに忽然と歴史から姿を消す。

マヤは文字通り逆説の塊だ。車輪すら知らなかったにもかかわらず、その暦と天文学の知識

は彼等が知的な超人だったことを示している。そしてシャトランによれば、彼らもまた15桁に
及ぶニネヴェ定数のようなものを知っていた。

元来のニネヴェ定数と同様、ここでも考古学者たちはマヤの神殿の石に彫られた巨大数を発見し
ていた、そのうちの二つは、マヤの至聖所というべきグアテマラのキグリアにあった。

だがその数が発見された当時のヨーロッパ人は、世界が紀元前4004年に想像されたと信じてい
た。この数字は、大主教ジェイムズ・アッシャーが聖書にあるすべての日数を足し合わせてはじき
出したものである。そんなわけで、マヤの巨大数のような数字に注意を払う学者は一人も
居なかった。だが、シャトランは、これらの数字――340億2000万と1474億2000万――
を見て、直ちに興味を惹かれた。
36,:2008/06/02(月) 22:54:45 ID:juwXtHW+

彼はこれを日数であると推定した。マヤ人は暦を日数で勘定するからだ。最初の数字はおよ
そ9300年で、もうひとつはおよそ4億390万年だ。シャトランはすぐに前者がニネヴェ定数の15
倍であり、後者が65倍であるということに気づいた。このことはつまり、当然ながらマヤ人
が春秋分点歳差をよく知っていたということを意味する。

この驚くべき民族は一体何者なのか?

彼らを発見した、というか再発見したのは、ラモン・デ・オルドニュスというスペイン人修道士だ。彼
はメキシコ南部のチャパスにあるシウダード・レアルという町に住んでいた。1773年、70マイル(約112
キロ)先に、ジャングルに飲み込まれた都があるという話を聞く。果たして彼はジャングルの中
に、一種のピラミッドを含む壮大な遺跡を発見した。後のその遺跡はバレンケと呼ばれるように
なる。彼はそれを蛇の都と呼んでいた。というのも、そこには蛇の彫刻があるといわれて
いたからだ。

オルドニエスは、その都の始祖であるヴォータンなる人物についての本を読んだことがあった。それ
はキチェ語で書かれたマヤの本だった。この本は1960年ごろにある神殿で発見されたもの
だが、地元の司教ヌエス・デ・ラ・ベガはただちにこれを火中に投じてしまった。だが幸運な
ことに、彼は燃やす前にその一部の写しをとっており、オルドニェス修道士はその内容の一部を
発見することができたのだ。
37,:2008/06/02(月) 22:56:07 ID:juwXtHW+

ヴォータンは何世紀も前に新世界にたどり着いた、長身で髭面の男だ。彼の生まれた故郷の都
は中東にあり、ヴァルム・キヴィムと呼ばれる。写本によれば、彼が故郷に戻ったとき(彼は少
なくとも4回は帰省している)、その都では土地の人が天に届く塔を建てようとしていた。
もしこれがバベルの塔のことなら、その都とはバビロンであり、年代は恐らく紀元前2500年
ごろだ。

このバビロンとの繋がりが事実なら、ヴォータンを支配者兼教師として受け入れたマヤ人がニネヴェ定
数を知っていた理由もわかる。マヤ人はヴォータンを神と見なした。彼の象徴は蛇だった。彼は、
また別の名前でも知られることとなったー―ヴィラコチャ、コン・ティキ、ケツァルコアトル(翼ある蛇)だ。

ティアワナコのカラササヤの前にある「沈める寺院」の中に、長身で髭を蓄えたヨーロッパ人の像がある。
これは偉大な教師ヴィラコチャとされていつが、ヨーロッパ人であることは間違えない。というのも、
原住民のインディオは髭を蓄えることはできないからだ。もしもこの像が実際にヴィラコチャであり、
ティアワナコが紀元前1万年よりも以前から存在しているなら、彼が新世界に到達したのはバビロ
ンの建造よりも遥か以前と言うことになる。さらにもうひとつの伝説によれば、何らかの自
然の大災害の後、白い神が東からやってきたと言う。これはもしかしたら、アトランティスの洪水
から逃れてきたもののことかもしれない。
38,:2008/06/02(月) 22:57:25 ID:juwXtHW+

もちろん、すべて推測にすぎない。だが、ただひとつ動かしがたい事実があるー―マヤ人が
一種のニネヴェ定数、すなわち歳差の数を知っていたということだ。 
1841年、マヤ文化はそれにふさわしい名声を勝ち取ることとなった。その直接の原因は、若
きアメリカの弁護士ヨン・ロイド・スティーヴンズだ。彼はそれ以前から中東旅行記で知られていたが、
今度はメキシコへ行って有名な遺跡を自分の目で見ようと決意した。彼の旅行記「中央アメリ
カ旅行の出来事」は、一夜にして彼に名声をもたらした。そしてまた、友人であるフレディック・
キャザウッドによるジャングルの都の挿画は、マヤの建築を世界に知らしめたのだった。

マヤ人の作った世界最高の精密さを誇る暦-―1年を365日とするローマのユリウス暦よりもはるかに
精密であるー―では、1年が365・2420日とされていた。これほどの正確さはまさに
仰天ものだ。

初期のマヤ人-―つまり、ジャングルの中に都を築き、紀元890年にどういうわけかこれを放棄
してしまう以前の、いわゆる「古典期」のマヤ人は、何ゆえにこれほど精密な暦を必要とし
たのだろうか?現代われわれの一年はセシウム時計に基づくものだが、365・2422日になる。1
万分の2長いだけだ。

39,:2008/06/02(月) 22:58:28 ID:juwXtHW+

さらに、マヤ人はゼロの記号も発明していた。それは数字に必要不可欠な基本要素だが、ギリシ
ア人もローマ人もゼロを持たなかった。これはさほど重要なこととは思えないかもしれない
が、十進法がなければ、1桁ごとに十倍ずつになっていく記数法で数を表すことは困難だ。
ローマ人は1944と言う数字を書くのに、MCMXLIVなどと書かなくてはならないのだ。

マヤの天文学はまさに壮大だー―あまりに複雑、かつ精確で、もしも火星の学者がたまた
まそれを見ていたら、マヤ人こそが地球最高の科学者だと思っただろう。
我々は太陽の運行によって年を数える。マヤ人もそうだ。だが彼らの暦には金星、木星、土
星の周期も採りいれられている。地球の年に関しては、彼らは、3つの独立した暦を導入す
ることによって、エジプト人、ギリシア人、ローマ人ですら解き得なかった問題を解決した。

彼らの太陽暦は360日、そこに定数外の5日が付加されている(とはいうものの、前述の
ように彼らは正確な太陽年の長さをしっていた)。それに加えて354日の太陰暦があり、さ
らに「ツォルキン」と呼ばれる特別の「聖暦」があった。これは魔術や儀式に使われるもので、
1年の長さは260日。これを各20日ずつの13月に分ける。

これら3つの暦が並行して用いられるわけだが、当然ながら、通常の年がようやく終わり
に近づいた頃には、ツォルキンはすでに二年目に突入している。ゆえに彼らの「世紀」は3つの
小周期がすべて1巡する周期で、52年である。「金星年」(584年)には、ほかの2つの
世紀(104年)が1巡する。
40,:2008/06/03(火) 06:16:26 ID:2F0aZjCp

さらにもうひとつ別の暦があり、これを「長期計算法」と呼ぶ。その単位は、すでに見た
ように20日である360日を「トゥン」、20トゥンを「カトゥン」、20カトゥンを「バク
トゥン」と呼ぶ。1バクトゥンは14万4000日だ。13バクトゥンは1「大周期」も
しくは1「地球年」で、その終わりにはすべてのものが破壊され、再び始まる。現在の地
球の周期は紀元前3114年に始まったので、紀元2012年12月に終わる。

またマヤ人は天王星と海王星も知っていた。ともにヨーロッパでは19世紀半ばにようやく発見
されたものだ。ロバート・テンプルは、彼等が何らかの望遠鏡を持っていたと考えられている(こ
れはシュメール人にも言えることだ。彼らは土星の周囲に円を描いたが、それは肉眼では絶対に
見えない)。


マヤの残虐な人身供儀、、、、

奇妙なことに、文明の担い手としてマヤ人は特に傑出していたわけではない。20世紀を代
表するマヤ研究の権威であるエリック・j・トンプソン教授によれば、この文明は書くも驚くべき天
文学知識を示しながら、車輪やアーチを知らず、1袋のトウモロコシの重さを測ることもできなかっ
た。」さらに、多くの研究者が指摘しているように、マヤ人は進歩とか発達と言うものがない。
彼らの後期の芸術や建築は初期のものとまったく同一に見える。