昔の地図は古い

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、、、  コカイン・ミイラの謎  、、、





オッペンハイマーの仮説は正しいのかもしれない。だがもしも、チャールズ・ハプグッドもまた同時に正
しかったとしたら、世界規模の文化はすスタンランドの破局以前からすでに存在していたという
ことになる。ハプグッドの存在中から、彼の古代海洋民族説を裏づける証拠は発見され続け
ていた。中でも最も興味深いのは、コカイン・ミイラの話だ。

1976年9月。紀元前1213年に没した、最初の偉大なエジプトのファラオであるラムセス2世
のミイラが、パリに到着した。人類博物館の展示の目玉だ。彼は生涯の大半をヒッタイトとの戦
いに費やし、カルナック神殿の壮大な柱の間は恐らく彼の最大の記念碑だ。だがこのミイラを検
査したところ、状態が劣化していることが判明した。

そこで科学者たちに修復が依頼されたのだが、その一人である自然博物館のミシェル・レスコ博士
は、自らミイラの包帯の一部を電子顕微鏡で調べた。

(ラムセス二世のミイラ。菌類による劣化を防ぐため、さまざまな検査が行われた。その過程でタバ
コの種子が発見された。)
127,:2008/10/19(日) 20:55:14 ID:0iQKPAE4
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%BB%E3%82%B92%E4%B8%96 ラムセス2世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%AF%E7%A5%9E%E6%AE%BFカルナック神殿
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%A4%E3%83%A9ミイラ
驚いたことに、そこにはタバコの種子が発見されたのである。これは馬鹿げたことのように
思えた。というのも、タバコが始めて南米からヨーロッパにもたらされたのは、コリストファー・コロンブス
の時代であるはずだからだ。

博士がこの事実を発見すると、学会に風が吹き荒れた。エジプト学者たちは、その種子はパイ
プをふかしながらこのミイラを研究していた現代の科学者に由来するものだ、と主張した。そ
こでレスコはミイラの内側の深い部分から試料を採取した。そしてやはり、そこにもまた粒子が
発見されたのである。

それでも、専門家はそれがタバコであることを認めなかった。それは他の植物、例えばタバコ
科に属するヒヨスなどだろうというのだ。レスコにしてみれば、そんなことはありえないのだが、
彼女はあまり自分の意見を声高に主張しないことにした。

それから15年が経過した。当時、すなわち1992年、ミュンヘン博物館のドイツ人研究者たち
が、古代エジプト人がミイラ製造に用いた材料の研究を始めた。彼らは薬物の有無を調べるた
め、ある法医学者の助言を仰いだ。法医学者というのは、疑わしい遺体などを調べるため
に警察からお呼びがかかる人々だ。彼女の名はウルム法医学研究所のスヴェトラーナ・バラバノヴァ
博士。

博士に提供されたミイラはファラオのような有名人ではなく、紀元前1000年ごろにテーベで死ん
だヘヌト・タウイという女神官だった。タウイの墓は19世紀に盗賊の略奪を受け、そのミイラは芸術
好きなバイエルン王ルートヴィヒ一世に買い上げられ、ミュンヘンの博物館に寄贈されていたのだった。
128,:2008/10/19(日) 21:06:57 ID:0iQKPAE4
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%96%E3%82%B9コロンブス
ミシェル・レスコ博士はWIKIは出ないね、、、。スヴェトラーナ・バラバノヴァ博士もでないね、、。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%921%E4%B8%96_(%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E7%8E%8B)ルートヴィッヒ1世

バラバノヴァ博士はこのミイラを抗体反応に基づく検査にかけ、さらにミイラを構成するいくつかの
物質の分子量を分析、結果をグラフ化してみた。するといずれの検査においても、このミイラに
には保存料としてニコチンのみならずコカインが用いられていたのである。

彼女の発見はレスコのそれよりもさらに驚くべきものだ。モシモバノヴァが正しいなら、古代
エジプト人はアメリカ大陸東岸の原住民と接触していたのみならず、同じ大陸の反対側の沿岸
にまで達していたということになる。実際、古代ペルー人もまた、死体をミイラ化していたの
である。

コカインはアンデス原産だ。疲れ果てた旅行者がラ・パスやクスコのホテルに辿り着くと、まずは
コカの葉で入れたお茶が振舞われる。これを服用すると、たちまちのうちに高地特有のめ
まいが吹き飛んでしまうのだ。バラバノヴァのい発見によれば、エジプト人は3000年以上
前にコカインの防腐作用を知っていたようだ。

バラバノヴァ博士の分析は、レスコ博士のとき以上に激しい嵐を巻き起こした。彼女のことを単
なる空想化と決め付ける、口汚く侮辱的な手紙が殺到した。そこで彼女は分析結果の数字
とグラフを公にした。すると考古学の権威者たちは、第二防衛線まで退いた-―このミイラは何ら
かの汚染を受けて居るに違いない、と。このような批判に対して、バラバノヴァはさらに反論
した-―検体の汚染を防ぐのは法医学のイロハである、と。すると今度はまた別の反論がなされ
た。このミイラは、「捏造」、すなわちアラブのペテン師が作った贋作だ、というのである。だが、
放射性炭素測定法などによる測定によって、その非難もまた退けられた。
129,:2008/10/19(日) 21:14:38 ID:0iQKPAE4
この騒ぎに当惑した博物館当局は、すべてを無かったことにすることにした。だがバラバノバ
博士はさらに他のミイラも次々に検査し、それらの中に定期的にタバコとコカインを発見し続け
た懐疑派はなおも、それはかつてヨーロッパに存在した絶滅種のタバコだ、と強弁し続けた。が、
コカインの存在についての説明だけはどうしてもつけることができなかった。

この話を聞いて、1975年にブラジルにある「壺の湾」と呼ばれる湾の沖でローマ時代の壺が
発見されたと言う話を思い出した者もいた。実際、この湾からは何世紀にもわたって古代
ローマの壺が発見されているのだ-―沈黙したローマのガレー船のものに違いない。

とはいうものの、もしも古代ローマ人が大西洋を渡る航路の事を知っていたなら、ローマの歴
史家は確実にそれを記録に残していたはずだ。だからたぶん、このローマのガレー船は暴風雨に
吹き寄せられ、海流に乗って大西洋を越えてここまで漂って来たに違いない。トール・ヘイエルダ
ールの船であるラー号もまた、1969年にこの同じ西向きの海流に乗って大西洋を越えたの
だ。とはいえ、先のエジプト人の場合、発見される「コカイン・ミイラ」の数は膨大であり、それ
だけでもこの「漂流説」は成り立たない。

今のところ、これ以外に古代エジプトにタバコやコカインが存在したことを示すものは何も無い。
だから多分、これらの商品が定期的に取引されてきたわけではないのだろう。おそらく、
王や女王のミイラを保存し、その永遠の命を保証するためだけに、これらの薬品は目の玉の飛
び出るような値段でエジプトに持ち込まれたのだろう。

だがわれわれは不可避的に次のような結論に直面せねばならない-―つまり、古代エジプト
の神官たちは、3000マイル(4800キロ)の海の彼方に巨大な大陸があること、そ
して海流を利用すればそこに辿り着けると言うことを知っていたのだ。もしも彼等が南米
東岸に上陸し、それから森や高原や山々を越えてペルーに辿り着いたのではないとすれば、
海路でケイプ・オブ・ストームズを越えたことになる(あるいは、さらに長い太平洋航路を辿った
からだ)。ハプグッドの古代海洋文明にとっては、これ以上の証拠は無いだろう。
130,:2008/10/19(日) 21:26:32 ID:0iQKPAE4
次に示す「古代海王たちの海図」にある「ハジ・アフマドの地図」に関するハプグッドの話もま
た、ここで触れておく価値がある。

1559年のトルコに出現したこの地図では、ヨーロッパの描写はあまり正確ではない。たとえば
地中海は実に異様な形をしており、そこから南に流れる水の行き先が紅海なのかペルシア
湾なのかも判然としない。ハプグッドによれば、アフリカの海岸線の正確さも、半世紀前のピリ・
レイス海図とは比べ物にならないという。

一方、この地図のアメリカ大陸は実に正確に描かれており、一見すると現代の地図のように見
えるほどだ。だが、コロンブスのアメリカ到着はこの地図の製作のわずか67年前に過ぎないと言
うのである。当時、この大陸はほとんどの部分が広大な未開地に過ぎなかったと言うのに、
地図製作者はどうやってこれほど正確な情報を得たのだろうか。特に、どうやって太平洋
側の海岸線をこれほど正確に引いたのか?ピサロとコンキスタドール(征服者)がペルーの海岸に上陸
したのは1532年、すなわちたった27年前のことに過ぎない。動考えても、そんな短
時間にここまで正確な情報を得られるはずが無い。

可能性は一つしかない。ヨーrッパの部分は、たぶんプレトマイオスの古くて不正確な地図に基づく
ものであり、一方アメリカの部分は古代のポルトラーノに基づいているということだ。そ
のポルトラーノは、実際にこれらの海岸線を知っていた人物が描いたものなのである。

これはもちろん、コカインやタバコを捜し求めた古代エジプト人だったのかもしれない。だがポル
トラーノを作った者が誰であれ、それはラムセスよりもはるかに古い時代のものだと言うこと
を示す証拠がある。

(ハジ・アフマドの地図。ヨーロッパの不正確な描写に比べ、アメリカ大陸の正確さは際立っている。
さらに不思議なのは、ベーリング海峡がなくアジアとアラスカが繋がって居ることだ。)

ハジアフマドの地図にはもう一つ奇妙な点がある。あたかも北極から見下ろしたかのようなこ
の図では、アジアとアラスカが繋がっているのだ。確かに、そこには細いベーリング陸橋は描かれて
いない。
131,:2008/10/19(日) 22:06:08 ID:0iQKPAE4
ベーリング陸橋というのは、ベーリング海峡を繋ぐ陸橋で、最後の氷河期の終わりに海面下に沈ん

だ。だが、もしもかつてこの大陸が現在と同様に離れていたのなら、両者の間に狭い間隔
を置くことは容易だったはずだ。だが、ここではこの通り両者が繋がっている。まるで幅
1000マイル(約1600キロ)の陸橋のようだ。


ハプグッドが紹介しているオクスフォードの科学者デレク・S・アランの指摘によれば、現在ではノヴヤ・ゼリムヤ島と呼ばれる島がシベリア沿岸に接続して描かれ、現在のノヴォシビルスク諸島もまた、乾燥
した大地として現されている。

言い換えれば、地図制作者は今から約1万4000年前の世界を示しているということに
なる。

だが、今から約1万4000年前に地図を制作したものとは何者なのか?

その答は推測でしかない-―が、多くの可能性が考えられる。まず「アトランティス人」の祖先。ス
ンダランド人。初期オーストラリア人。ティアワナコの建造者たち――ポナンスキーはそれを、それがまだ海面と
同じ高さにあった紀元前1万5000年のものと考えている。

だが大きな問題が残されている――なぜ我々の祖先は「海王たち」になったのか?少し想
像力を働かせれば、自分が氷河期の終わりの時期のクロマニオン人だったら、ちお考えることが
出来るだろう。氷が溶け、夏が次第に暑くなり、獲物が増え、魚を求めてどんどん沖へ出
て行くことが可能となった。だが、最初に大西洋を渡った元祖コロンブスとは誰か。そして大
西洋を横断した本家バルボアとは?そんな恐ろしいことに挑戦する勇気は何処から来たの
か?