『会津』は福島県から出て行け。会津県にしろ

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1名無しさん@お腹いっぱい。
地理的に中山峠・甲子峠から西側は「会津県」である。
「会津」があるために、福島県が向上しません。
ちなみに裏磐梯は福島県です。
ドキュソ会津民族は要りません。
2名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/11 00:21:44 ID:pImE9xOv
裏磐梯は会津県だろ、絶対。
3名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/11 00:47:21 ID:nbb9HhlS
>>1
DQNはお前だ馬鹿。
会津は福島県。
4名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/11 01:15:53 ID:ANpa2sew
>>1は要りません。
5名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/11 01:46:06 ID:pImE9xOv
会津は新潟県に入った方がいいかもしれませんね。
6名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/11 01:52:22 ID:LSCzO6yI
>>5
ていうか、新潟県(越後)の東蒲原郡は江戸期には会津領で、明治の中ごろまでは旧若松県だった。
ぶっちゃけ、会津、中通り、浜通りがそれぞれ別の県だったのだ。

今でも東蒲原郡はアクセントが新潟弁である以外は会津弁そのものだ。
7名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/11 15:41:23 ID:ANpa2sew
>>6
東蒲原郡が新潟県に移管されたときは、
若松県は既に旧福島県及び磐前県と合併してた。
県庁移転問題が揉めた結果の移管。
8名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/12 19:40:31 ID:6vujn7Lb
>>1は長州塵
9名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/12 21:02:09 ID:9XSWoCTJ
郡山の安積疎水は政府が肝入りで開発されたが
会津封じのために郡山をでかくしようとしたんだろうね
10名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/13 02:19:04 ID:D0KTvHAC
>>1
お前が一番いらないよ。
リアルではどうしようもない阿呆なんだろうね。
11名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/21 03:02:01 ID:LmALT1uG
郡山市湖南町はどっち?
岩瀬郡の一部も会津領でなかったっけ?
長沼町勢至堂とか天栄村とか。
12名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/21 08:56:42 ID:ZFQhZWLX
廃藩置県で県をまとめる時、福島県は、本来なら県庁所在地は会津、県名も会津になるのが妥当だったが、
薩長土肥の、奥羽越列藩同盟側=東軍側への報復で、過疎地の福島市に県庁が置かれ、県名は福島になったんだよ。

最初から西軍側であった藩は、県庁所在地名を県名にして、県名と県庁所在地名が一致しているが、
東軍側であった藩は、薩長土肥が東軍側へ報復した為、
県庁が過疎地に置かれ、県名に郡名とかが使われ、県名が県庁所在地名と違う名前になっている。
(ただし、東軍側でも敵対行為が少なかった藩や、天領では、一部、例外がある。)


実際にそうなっているか検証してみよう。

都道府県を選択後、○○県を表示をクリックすると、
地図の右下に県庁所在地の市名が表示されるので、それで確認できる。

http://www.mapfan.com/addreference.cgi
13名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/21 10:06:14 ID:vCe6sRFm
江戸時代〜旧3県合併ごろも、福島は養蚕産業で賑わってたわけだが。
14名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/21 17:01:22 ID:LmALT1uG
実際、当時は二本松の方が人は多かったと思われる。

二本松>白河>福島>郡山
15名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/23 00:50:12 ID:crwkI73M
>>14
>二本松>白河>福島>郡山
須賀川、本宮はどの位置だったんだろう。


二本松から県庁を移す際、なぜ中心に近い須賀川や本宮ではなく
さらに北の福島が選ばれたのか、詳しく解説してる資料見たことないんだよな…
解説するまでもなく当時はそれが妥当だったから、と解釈したんだけど。
16名無しさん@お腹いっぱい。
郡山への移転運動は、福島に置かれて以後の運動であって、
3県合併時、福島に白羽の矢が立つのは妥当だったんでは?

絹は当時の重要輸出品目であるし、東北一の繭集産地でもあるし、当然ながら有力な商家もいただろうし。
人の数はともかく経済的優位性は福島だったんでしょ。