365 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/29(金) 03:06:57 ID:eiDwPJKU
縄文人の鼻は高いというよりデカイという印象。
狭くて高いのは食物の影響があるのでは?
要は軟らかい食べ物を食べる上流階級は鼻が高くなる傾向がある。
江戸時代でも肖像画には高い鼻の人が多い。
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/29(金) 03:16:42 ID:CcBmkCAL
>>365 上流階級
三条実美 岩倉具視?山縣有友?
江藤新平?
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/29(金) 05:33:35 ID:eiDwPJKU
やわらかい食べ物を食う若い世代は親父世代と比べると
顎が細く小顔だが鼻も高いかな?
>>363 >お前は他人の前歯の裏まで見せてもらったのか?
歯の裏はキスの時に舌で
やってみ 縄文の人も弥生の人も
自分との違いに軽く衝撃受ける
自分のは24時間ふれてるからなおさら
弥生系で鼻と背が高くタレ目のタイプは控えめで頭が良いイメージで
背と鼻が低くツリ目で頬骨張ったタイプはヤクザのイメージ。
で双方とも中身は冷酷な感じ
一方縄文系はヤンキーも多いがゆったりして意地悪では無いイメージ
山本キッドも小柄で話も訥々だから格闘家と知らない奴から
なめられそう 沖縄の成人式も悪と言うより頭悪いだけのようなね
>>359 桓武天皇とか後醍醐天皇とかわりと濃いイメージがあるが
今の皇室も皇太子家以外はそこそこ濃いような
370 :
お願い:2008/08/30(土) 11:26:27 ID:f7j6X3SH
縄文人は鼻が高いんじゃなくて彫りが深いんだろ。関西に意外と縄文系がいるってのもただ地方からきたやつがたくさんいるだけじゃないのか
確かに縄文人の特徴は鼻の高さよりも目元の彫りの深さだな
ただ彦麻呂とか芸人のシャンプーハットの突っ込みの人みたいに
出目気味でも鼻が高いと外人っぽい顔に見えたりするから不思議
相武紗季も関西だけど、かなり縄文系。沖縄とかによくいそうなタイプ。
相武紗季は完全に弥生系でしょう。ただし関西は確かに濃い人も多いと思う。関西はなぜか縄文と弥生があまり混じってない。
愛撫はどちらかというと南方ぽいな
相武紗季は弥生系じゃあないと思う。
骨格は扁平だけどパーツは濃い、どちらとも言いがたいタイプかな
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/08(月) 15:30:02 ID:0csh4A27
縄文人はアラブ系。シュメール人、ユダヤ人、スキタイ人の血が入っている。
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/08(月) 15:47:25 ID:ulEe0Xti
>>380 こんなの一般人レベルだろ
どうせ出すなら平井堅やサッカーの長島や本並出せよ
二重瞼率の統計で奈良より京都のほうが高かったけど
実際京都と奈良行ってみたら奈良のほうが圧倒的に縄文顔が多かった
特に吉野以南の山のほう
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/10(水) 14:07:51 ID:xy6dHwcH
関西には近畿外から集められた部落民がたくさんいた。そして、近現代まで貴族階級と交わることもなくほとんどなく現代にいたる。
圧倒的平安顔と平井賢なみの濃ゆい顔の2系統が関西にはたくさんいる。もちろんそれらが交わった日本人の平均顔もたくさんいる。
俺の見た部落の本はアイヌなみに濃い顔の人がいた。あと個人的に隠岐が濃いと思う。
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/11(木) 11:52:20 ID:BuLfs63u
>>384 同意。ツングース顔が主流だと思う。
関係ないけど韓国人、中国人の男は体毛薄いよね。
朝鮮系の部落も結構あるからな
京都の崇仁地区なんかも同和だけど実は住人のほとんどが在日
>384
それは朝鮮系部落民。
最近までの部落はほとんどが朝鮮系。昔からあった部落(すでに消滅)はつれて来られた大和以外の民族。
別に近畿に縄文系がいても、
関東・東北に弥生系が少なくなくても、不思議とは思わんが。
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/14(日) 12:25:03 ID:MvCe2qkT
>>390 ●●首都圏は「弥生系」7割 日本人ルーツの研究に新手法、ミトコンドリアDNAから構成比●●
母親から子供にそのまま受け継がれる遺伝子「ミトコンドリア(mt)DNA」の型の分布から、
母方のルーツが「縄文系」の人と「弥生(渡来)系」の人の構成比を求める計算式を、住斉(すみ・ひとし)・筑波大名誉教授(生物物理学)が考案した。
7地域、約3000人を対象にしたデータによると、首都圏では弥生系が約7割と多数派で、
東北や南九州など縄文社会が発達した地域では縄文系が7〜6割と多かった。11月の日本人類学会大会で発表する。日本人の成り立ちを探る新たな方法として注目されそうだ。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0808/04/news069.html 関東は弥生だらけ
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/14(日) 12:29:19 ID:MvCe2qkT
関東人は東北の威を借りて縄文ヅラしてるしてるけど、結局首都圏は日本屈指の弥生文化圏
近畿や瀬戸内、北九州は縄文と弥生の混血が多い=現代日本人の象徴
弥生だらけの首都圏は日本ではない
日本人と呼べるのは、先住民族である縄文人と縄文+弥生の混血である現代日本人だけだから
いわゆる顔が青白くて薄い病人顔は関西より関東の方が多いと思った
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/14(日) 14:39:24 ID:C0cK+HOR
ドランクドラゴンの鈴木のような顔が関東顔だというわけですね
ボンクラ学者まだ縄文、弥生人だやってんのかよw
ゴマカシの二極論やってると超大国連中につけ込まれるぞ。
>>393 蒙古斑がケツじゃなく顔に出て青くなったような顔は関東に多い
首都圏が弥生って、
なんか標本まちがってね?
関西からみたらやっぱ縄文だわ。
でも関西人から見ても東京はそんなに濃い顔が多く見えない
万葉と渡来人の里・狛江郷を巡る道
http://homepage3.nifty.com/k_harada/komaego/komaego.htm 調布から狛江にかけては古くは狛江郷と呼ばれた。高麗(朝鮮半島)から
先進文明を携えた渡来人が多数住み着き、狛江と言う地名が生まれた。一方、
特産物(調)として朝廷に献上した布地を調布と言ったことから調布の名が
生まれた。調布を作る技術は、これらの渡来人達が伝えたものと思われる。
万葉の昔、狛江郷一帯は麻の栽培がさかんで、麻から織られた麻布は白く
柔らかくするために多摩川で晒された。万葉歌に詠われた様に、高台から
多摩川を見下ろせば、白い素足を覗かせた里の娘達が多摩川の流れで調布を
晒らす光景が見られたことであろう。狛江郷における渡来人の足跡は、
深大寺の創建にまつわるロマンスや狛江百塚等に見ることが出来る。
http://namekohouse.run.buttobi.net/musashino/fkoma.htm 今でもここには金子 姓が多く、地主は皆渡来人の子孫だという。それに昭和に
入って宅地開発される前は、周辺に古墳も多く残っていたそうだ。ちなみに
現在私が住んでいる練馬の豊玉周辺には 白井(しらい)姓がやたらと多い。
そもそも地名に 馬と付いている練馬は、日本に馬を持ち込んだ朝鮮渡来人と
かかわっていることは多いに考えられる。今、丁度渡った黒目川の新座側、
練馬との境には馬場 という地名が残っている。天宝七年(1836)に出版された
『江戸名所図会』では、この黒目川を 黒馬川 と呼んでいる。さらに、現在の
和光市白子あたりから黒目川をはさんで、柳瀬川まで続く起伏のある武蔵野段丘
は、古来立野(たての)の駒と呼ばれた名馬の産地として有名で、天暦五年(951)の
『後撰集』を始めとする多くの勅撰和歌集にも詠まれた牧野だったことが述べら
れている。この立野という地名は、現在では東久留米市を流れる黒目川の支流、
立野川にのみその名を残しているが、藪のような草原が広がり、不毛の地と思わ
れていたかつての武蔵野を、渡来人達が逆に馬の放牧の適地として利用したこと
は想像に難くない。恐らく我が家の近所、練馬に多い白井さん達は、立野で馬の
放牧を生業としていた新羅系渡来人の子孫達なのだろう。
久我山の秦氏
http://dumbwaitersite.hp.infoseek.co.jp/komaefile/HATA.HTM 久我山には、秦(はた)姓が多い。
古代の秦氏は新羅(しらぎ)系の渡来人であった。秦氏は、新羅より渡来した
弓月君を祖とし、この秦一族の秦川勝は、聖徳太子に使えていた舎人(とねり)
としてよく知られている。久我山の住宅地図をみると、秦を名乗る家は久我山
に多く集まり、玉川上水をはさんだ隣の牟礼にも、秦野、波多野といった名が
みえる。
武蔵野を散策すると、帰化人と何らかの関係をもった地名の地域が各所にみら
れ、当時の開拓の一面をみることができる。多摩川畔の狛江も、刑部氏一族が
居住したところである。刑部氏は、その先祖を秦氏においているが、この狛江
を中心とした多摩川地域、府中、調布、深大寺、井の頭池も狛江の名でよばれ
ており、また三鷹市の牟礼の地も秦氏一族の居住したところである。
渡来人は、およそ九世紀頃まで、開拓し定住するためにたびたび関東平野に入
り、その持ちこまれた文化が重層してゆく。新羅系渡来人も関東に多く入って
いる。武蔵国でいえば、埼玉県新座市のあたりがその定住したところとされ、
『続日本紀』の天平宝字2年(758)條に、
帰化の新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人を武蔵の国の閑地に移す。
是に於て、始めて新羅郡を置く。
とあるように、新座という地名も、新羅とよばれていたのが、新羅が「しんら」
と読むところから、「にいら、にいくら、にいざ」と変化した可能性がある。
桜井氏のいうように、久我山の秦氏もその頃来た秦一族であったかというと、
出自を明らかにできる、そのようにいいきれる資料はみあたらない。口伝すらも
残っていない。
群馬の渡来人
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/josyu_004.htm 上毛野の豪族クラスの古墳で初めて横穴石室が採用された古墳で、
朝鮮半島の影響の強いものである。石室は榛名山の噴火で噴出した
軽い安山岩を壁にした。インカの石積のように切り込みを入れて石を
組み合わせている。床面は利根川の川原石。しかし、天井石を多胡碑と
同じ砂岩で作ったため、重さを壁が支えきれずに、天井石は崩落していた。
そのため盗掘がされず、歯などの骨片や豊富な副葬品がでたが、その中に
は藤ノ木古墳と同じ金銅製鈴付大刀や馬具がでた。さらに百済武寧王陵
から出土したものと同じ獣帯鏡や銅製水瓶などが発見されている。
この地域では5世紀後半以降朝鮮半島に関係するものが発見されているが、
綿貫の豪族はそれら渡来人集団を支配し、かつ大陸と積極的に交わった
人物であっただろうと考えられている。上野の豪族が大陸へ行っている
記録は日本書紀にも出てくる。
上野(群馬)
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2005/06/0506j1105-00001.htm 群馬県は全国でも有数の「古墳県」で、その数は1万基を上回るといわれる。
栃木県にも100メートルを超える大型古墳や群集墳が少なくない。これらの
古墳文化は6〜7世紀頃、古代朝鮮から渡来した新羅、百済、高句麗、伽耶などの
移住民勢力がもたらしたもので、朝鮮系統の様式と色彩が濃く、武具、馬具、
須恵器などの副葬品にも朝鮮渡来系のものが数多く見受けられる。
「群馬県にはカン、カラといった地名が多い。朝鮮半島との関わりがあった地域」
「多胡の胡は『外国の人』のこと。『外国の人がたくさん住んだ』と解釈する人
もいる」などと、古代朝鮮からの渡来人の影響について語る大工原さんの解説に、
参加者らはそのつどうなずいていた。
>>1 簡単な話だ。
弥生人は朝鮮人や漢人とは無縁のチベット系で南進で入ってきた民族だってこと。
チョン顔とかそんなんは、しょせん百済とか高句麗難民の渡来人程度なので、そもそも数として少しなんだよ
YAP+が縄文で弥生人はYAP-論とかあるけど、あれ間違い。
なんで弥生語話してる現代日本男性の大半がYAP+なのに、それが縄文優勢なんだ。
縄文人も弥生人も大陸では共にレアな特殊人種だったということ。
>>399 当時の朝鮮人はもう農耕化してるんでそんなに馬連れてきてはいないと思うぜ
どちらかといえば日本海側のツングース系の影響強い地域の方が大きいだろね
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/17(水) 22:47:17 ID:I5ISJHHo
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/09/18(木) 01:13:33 ID:TbzberM+
チョンがいくら頑張っても日本の植民地であったことは
変えようのない事実だ。
被支配者の奴隷根性は永久に消えない。
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/18(木) 17:14:06 ID:m5TF6MS1
>>404 じゃあ中国人、アメリカ人、その他全世界の人が反韓の理由は?
407 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/18(木) 18:07:06 ID:jU032CAc
203 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/09/17(水) 16:21:21 ID:I5ISJHHo
奈良飛鳥寺のモデル、韓国の王興寺か 塔の構造、出土品似る 百済王の発願で577年に創建…朝日新聞
日本最古の寺院とされる飛鳥寺(奈良県明日香村)のモデルが韓国の王興寺ではないかとの見方が強まってきた。
王興寺は6〜7世紀に百済の都だった扶余(プヨ)にあった寺で、朝鮮の歴史書では600年以降の創建とされていた。
ところが、国立扶余文化財研究所の調査で昨年10月、金・銀・青銅の舎利容器が出土、そこに刻まれた文字から
百済王の発願で577年2月に創建されたことが判明した。
日本書紀によると、飛鳥寺は、577年11月に百済王から技術者が日本に送られ、588年に仏舎利が届いて造営を
開始、596年に仏塔が完成したとされる。今回の出土で二つの寺を結ぶ深い関連が浮かび上がってきた。
今月初めに遺跡を確認した大橋一章・早稲田大教授(仏教美術史)は、両方の寺に同じ系統の技術者がかかわった
のは間違いないとみる。「先行する王興寺を追いかけるように飛鳥寺の計画が進められたのだろう。百済は仏像や
お経を日本に贈ったが仏教は広まらず、寺を造らなくてはとの思いだったのではないか」
現地を訪ねた研究者の間では塔の構造や出土品、瓦の文様などもよく似ていると見る声が強い。飛鳥寺の別名が
法興寺、元興寺というのも王興寺との類似性が指摘される。
仏教は6世紀半ばまでに日本に伝わったとされる。本格的に受容されるのは飛鳥寺の段階からだが、建物は鎌倉
時代に焼失、仏舎利の行方もわからない。「飛鳥寺の舎利容器も王興寺の出土品と同じようなものだったはずだ。
なぞだった飛鳥仏教の具体的な姿が見えてきた」と大橋教授。調査は00年に始まり、今後10年は続く見通し。
だって大和はもともとアラハバキ神を奉じる物部王家の地でしょ。
大和に下った王族が物部氏になり、戦った王族が長脛彦ってだけ。
物部の始祖は先に大和に天孫降臨したと自称するニギハヤヒで、
長脛彦の妹と結婚して物部に連なったと彼らの創世神話が言ってるし。
で、四天王寺は物部の聖地を潰して立てたということだが(ニギハヤヒ降臨地である元磐船神社があったとされる)
あそこの旧名はアラバキだし、結局物部氏は大和朝廷に下ったあとも
大和の地で有力氏族だったし、守屋が討たれるまでアラハバキ信仰が残り、縄文系が強かったんだろう。
弥生人入ってくる前から縄文人の一番の人口密集地で栄えてた地なんだろね。
>>363 俺ぴったり噛み合せるよ。別にシャクレじゃないけど、ピッタリなのだ。彫りも深い。
歯医者で歯が若いのに磨り減りすぎてると言われた。縄文系強いってことかな?
最近は大阪から大規模な縄文時代の集落がたくさん発見されてきてるからね
大阪などは縄文時代にとっても大規模な生活地であったわけで
当然その系統も残ってるんだと思うよ
411 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/21(土) 15:32:52 ID:imxYhN2+
乾、湿の耳垢で縄文、弥生が分かれるのは有名だが、
花粉症で悩まされるのも弥生系って聞いた事があるが・・・。
弥生系が多い日本では、天気予報に花粉情報が出るほど、花粉の悩みを分かち合う
のを一般化しているが、少数派の縄文人としては、ピンとこない。
日本人の70パーセントは乾燥している耳垢の弥生系だそうだが、
数少ない耳垢がだらだらの油症の縄文の私としては、
需要が少ないからって、湿っている縄文用の耳掻きも、もっと開発して欲しい!
412 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/21(土) 23:31:56 ID:7q0GzLRx
413 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/21(土) 23:33:32 ID:7q0GzLRx
>>411 ああ花粉症って弥生系の特徴だったのか
道理でなったことなかったわけだわ