生成文法批判

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269国語の先生
不本意ながら↑流れ的に一番私のことを特定しやすそうなので……
仕事にあきるとついついここを開いている自分がいます。

この板にある「田中君が妹が……」スレをじっくり読んでみたら、
「考えていくとだんだんOKになっていく」人々のプロセスがまざ
まざとつづられていて、私的にはタイムリーで面白かった。
で、ひとつ思ったのですが、「最初は非文だと思ったけれど、考え
ていったらいいのではないかという気がしてきた。」という現象が
起こる用例の中には、
  1. 表層構造から一意の内容に無理なく到達しがたい→非文と判定
    どこがいけないのだろう、本当に表現したかった内容は何だろう
    と思索し始める
というアプローチが、
  2. もし「○○○」という内容を意図していながら、眼前の表層構造
    が出来てしまっているとしたら、一般に「○○○」を表現するた
    めのあり得べき表層構造との違いは何だろう、と思索を進める。
となり、やがて、
  3. 「○○○」を表現するため、表層構造生成のプロセスごとに
    適用されるべきルールは何であり、今考えているこの文は、
    許容できる範囲のプロセスを経て生成されているだろうか。
    ひとつひとつは間違った手続きではないように思われる
               →やっぱり非文じゃないや
という思考の過程を経るものがあるのではないかと思います。
ただ、1→2までと3では、アプローチが実は180度?転換しているよ
うに思えるのです。(例えば「○○○」の扱いが、理解側の到達点から
表現側における所与の出発点へと変質している)

私の不勉強ながらの印象では、生成文法のアプローチはかなり3に
偏っているような気がします。
そして、言語を理解するプロセスが生成するプロセスの逆関数(←喩え
です)である(そしてその逆も)かどうかについて、私は明確な答え
を知りません。
検証の意味として1.=2.=3.なのか?そうではないのか?
(あ、流れに有機的な発展をもたらさないのであれば私向けのレスは
特段けっこうです。)