音節、拍、モーラ

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59名無し象は鼻がウナギだ!
 まずは、音節をどのように定義するかが問題です。
 私は先ほど、話者の言語意識を利用したいわゆる<主観的・内省的>方法によって音節を決定すると述べました。
 この基準に対して、生理学的・音響学的データをもとに、より<客観的>な音声学的基準にもとづいて音節を決定すれば主観的<あいまいさ>を排除することが可能なのではないかとの反論があるかもしれません。しかしながら LADEFOGED(1975;3rd ed.1993)を例にとれば,pp.243-244 では「この本のいたるところで音節の概念が言及されてきたが,この用語は一度も定義されてはこなかった.その理由は簡単である.誰もが同意する音声学的な音節の定義は存在しないからである・・・ほとんどすべてのひとが,どれが音節かを指摘することはできても,それを定義できるものはほぼ皆無である・・・興味深いことに,いかなる言語についても,ある語なり,ある文なりに音節がいくつあるかを突き止める客観的な手順を述べることは難しい」と述べられており,同書の pp.243-249 において,これまでに提案されてきた音節理論のいくつか(sonority,prominence,chest pulse を基準とする音節規定)を取り上げ、そのどれもが完全に満足のゆくものではない理由を示しています。
 つまり、この著者による限り、現時点では普遍的な<客観的>基準をもって、すべての言語における音節を決定できるような理論は存在しないのです。
 もっとも、同書 p.247には「音節は話し手の行っている活動の観点から定義されるのが最善であるように思われる」と書かれていることから、彼自身はそうした客観的定義の可能性を信じているようですが、私自身としては、むしろ、そのような形で音節を定義することが、そもそも原理的に可能であるか否かを問う必要があるように思われます。
 なぜでしょうか。
 それは、ことばを対象とする学の領域においては、自然科学の領域以上に実在論的前提の有効性が疑わしいからであり、より具体的には、生理学的・音響学的データの中に音節の境界が<客観的>に−客観を反映するものとして−存在するがゆえにそこから音節を取り出せる、との前提を疑ってかかる必要があるからです。
 むしろ、ある与えられた固有語の母語話者である私たちは,そのようなデータ以前に当の固有語において何が音節であるかを主観的に知っており、それに対応する事実をデータに見いだそうとする結果、データ内に音節の境界らしきものを設定できるようになるのではないでしょうか。
 しかし、それぞれのデータごとに、そこで音節を決定しているように見える事実を取り出しても、それがすべてのデータにおいて一致するかどうかは保証の限りではありません。ですから、そうした事実のどれかに依拠した音節理論によって抽出されたいわゆる<客観的>音節が、それぞれの母語話者にとっての主観的音節、すなわち、私たちの意識にもっとも直接的に与えられた音節と一致すると限らないのは当然です。
 いいかえれば<客観的>音節に先立ってすでに<主観的>音節が話者にとって、そして、その証言が研究者にとって妥当されているということであり、したがって、どのような観点から<客観的>に音節の定義を行っても、その具体的な適用結果としての<客観的>音節はどれも話者の意識にもっとも直接的に与えられた<主観的>音節との合致いかんによって妥当性を得るほかはないということです。
 
60名無し象は鼻がウナギだ!:2001/04/07(土) 19:58
(続き)
 ここでみなさんの誤解を生まないように注意書きをしておくと、<客観的>音節といっても、それは音節がそれ独自の組織をもって、話者の意識の外に、それとは無関係に客観的実在として在るとの意味ではまったくありません。あくまで科学実在論の立場から、すなわち音節は客観として実在し、それは科学的方法において認識可能であると確信する立場から,何らかの理論的操作を経て得られた事実としての音節のことです.
 したがって<客観的>音節もまた主観的に構成された事実であることはいうまでもありません.
 しかしながら,そうした<客観的>音節は,一般的にそう考えられているのとは逆に,話者の意識から直接得られる主観的音節に較べてより多くの憶見と推測を含む事実なのです.
 どの音声学者も、客観主義的な基準で得られた音節を問題にした後、「実際の」音節は、と口にします。
 では,そのように自明のものとして与えられた<実際に存在する>音節なり音節数は,いったい,どのように<在る>のでしょうか.
 それらが彼らの客観主義的から導かれたものでないことはいうに及ばないとしても,彼らが紹介しているその他の生理学的・音響学的・聴覚的な<客観的>定義(内破と外破,音声器官の筋肉の緊張増大と緊張減少,などの基準による定義),および,その他の可能性として考えられる<客観的>定義から得られたものではないこともまた明らかです.
 なぜなら,彼らは音声学書において,そうした類の定義の妥当性こそを問題にしているからであり,したがって何らかの<客観的>定義によって得られた音節なり音節数は,その他の<客観的>定義の妥当性を判定する根拠とはなり得ないからです.
 このように考えてくると,いま問題となっている音節なり音節数は,当該言語の母語話者の意識に端的に与えられた事実の報告を記述者が受け取ったものか,あるいは記述者の意識に与えられた事実でしか有り得ないことになるでしょう.ではそのどちらなのでしょうか.
 もし,先に述べたように,それぞれの人が自らの母語の音節の何たるかを知っているのだとすれば,記述者が異なっても,ある与えられた言語を記述するにあたって,記述者がみな,その言語の母語話者による<母語を対象とした音節意識の自己記述>を用いれば,多少の揺れはあるとしてもその時点で共通の基盤を得ることになります.
 一方,同じ仮定に立てば,たとえば,ポルトガル語の言表を前にしたときに記述者の意識に現れる音節なり音節数は,それぞれに異なる母語を話す記述者の音節意識の違いによって異なる可能性があるので,<客観的>音節の判定をする共通の基盤とはなり得ないでしょう.
 また,いまの仮定を否定して,母語の違いに関係なくすべての人がそれぞれに異なる音節意識をもつとするのであれば,音節が何であるかを確かめる基盤そのものが存在しなくなるので,彼ら音声学者が行っているように<実際に存在する>音節なり音節数について語ることはできなくなります.
 だからといって,逆に,母語の違いに関係なくすべての人が同じ音節意識を持つとするならば,言語学者・音声学者であろうとそれ以外の人であろうとそれには関係なく,どの記述者がいかなる言語の言表を前にして同じ結果が得られるはずですが,現実にはそのようなことはありません.
 これを要するに,客観的定義によって得られた音節の妥当性を判定するのは,話者の意識に直接与えられた音節,より正確には,話者によるその自己記述を,記述者が受け取ったものでしか有り得ないでしょう。
 こうした事情をより一般的な形で述べると次のようになります.
 まず第一に,学問的に構成された事実の明証性は日常的な経験世界の中にのみその根拠を置くということ。
 第二に,学問的事実とは,その存在を理論−仮説群−そのものに負っているがゆえに,日常的に妥当する経験事実以上の憶見・推測が含まれているということです.
 音声学者たちが,インフォーマントによる音節意識の報告を基盤として,<客観的>基準で得られた音節の是非を検討するのは,まずもって,自らの母語に関する音節意識が音声学者自身にとって疑い得ない事実であり,それとの類推によって,他者の音節意識をも疑い得ないものと確信しているからなのです。
 
61名無し象は鼻がウナギだ!:2001/04/07(土) 20:31
このような定義が有効であるのは、それによって得られた音節によってアクセントの位置が定量的に決定できるからです。
他方、たとえば、東京方言の母語話者がこのようにして得た音節は、等拍単位としてのモーラに一致します。
理由は簡単で、この方言では、たまたま音節が等拍のリズムで実現されるからです