1 :
名無し象は鼻がウナギだ! :
2001/04/06(金) 18:14 と言うのを耳にしましたが、 私まったくの素人なんで意味がわかりません。 どなたか説明していただけませんか?
2 :
実習生産 :2001/04/06(金) 18:31
ただ、 主語を無くして言っても伝わるから、 正式なとき以外はそう言ったりするだけじゃないの?
や、ありがとうございます。
>>2 いえ、文法的に「主語」が存在しない、って意味です。
たとえば、学校で教わる「主語−述語」って文法は誤りだって。
4 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/06(金) 19:50
一般的にいわれている、〜は、〜が=主語ってのは 欧風SV文法にあわせて無理やり「主語」らしいところを探して 定義しただけってあの話? 〜は=話題の範囲の提示、〜が=話題の焦点の提示だしねぇ。 いちがいに主語というくくり方を日本語に求めるのは危ういってことなのでしょう。 接続詞だってないって話もあるし(日本語の接続詞は使われ方は独立語だって)
5 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/06(金) 20:09
翻訳ソフトの研究開発者が、日本語には主語がないと考えたほうが翻訳ロジックを組み立てやすい、 と言っていたのを読んだ覚えがある。
6 :
かかり助詞 :2001/04/08(日) 03:33
三上章が「象は鼻が長い」などの著作によって「主語廃止論」 という仮説を唱えました。英語の主語は、動詞との一致や、 疑問文では助動詞に飛び越えられるという特徴がありますが、 日本語の文法を見ると、「主語」という概念でとらえられるような 文法事象がないということです。故三上先生が職業としては 数学教師だったこと、また常識に真っ向から挑戦する仮説、それを 唱える強い文体などのため、はじめは誰にも相手にされませんでした。 後の研究では日本語の「主語」は「自分」の先行詞になれる、 「おーになる」という尊敬語の尊敬対象になる、などの文法的特徴が あるので、日本語にも主語はアルのではないかと考える人もいます。
というより「一般言語学的」に主語の定義をしなければ無意味です。 たとえば、日本語と英語で主語の定義が違えば、その場合、主語のあるなしなど問題にならないでしょう。 そもそもその用語で同じ事象を指していないんですから(藁
8 :
かかり助詞 :2001/04/08(日) 06:57
>>7 三上先生の主張は、「日本語では主語が定義できない」という
ことなので、それが正しいとすると、「日本語と英語で主語の
定義が違う」ということ自体があり得ないことになります。
「一般言語学的」って、どういうこと?
9 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/08(日) 08:26
暗黙の了解、あるいは話者間の了解による省略と、素直に解すればよいのでは。 ラテン系言語であるポルトガル語は、主語を頻繁に省略します。
>>8 かかり助詞というHNから察するに,日本語学しかやってないようですね.
言語研究を志す人間がそれぞれの専攻言語を有するのはごく当たり前でしょうが,日本語が「言語」という「類」の一「種」であることを忘れていませんか?
「一般言語学的」にというのは,言語一般に与えられた定義を公理として,そこから普遍的な準拠枠を構成して諸言語の分析・説明を試みることです.
その定義に外れた構造は,それぞれの個別言語学で処理すればいいわけです.
日本語でも英語でも何でもいいんですが,それらが「言語」という記号で指向される対象である限り,そこに共通の普遍的構造(音韻構造なり統辞構造なり)が認められなければ論理上「言語」と称されえませんよね.
そうなると,そもそも「言語学」という学問の成立する基盤がなくなります.
つまり日本語学の立場から英語の構造を語ることができなくなるわけです.
もっと簡単に言えば,わたしが「はさみ」で犬を指しているのに対して,あなたが猫を指しているのであれば,議論の成立する基盤が存在しないということです.
>>ポルトガル語では,一般的に「主語」といわれるものが現れていなくても,動詞形態素としての「人称」が統辞論的に動詞を限定して主語の機能を果たしています. それを主語が省略されたと考えるのは単純でしょう. ここは一応学問的な議論の場ではないんですか?
動詞形態素は動詞様態辞の誤りです.
なんか学問の基礎について自分の頭で考えたことがない人ばっかなんでつまんないです. 後は楽しくおしゃべりしてね.
15 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/08(日) 11:45
>>12 学問として学んだことはありません。
一人称、二人称であれば動詞の活用でほぼ一目瞭然、主語が特定できる。
しかし、三人称ではそうではなく、省略だと思うが。
(ポル語を話している上での実体験)
源氏物語だって、尊敬語・謙譲語の程度によって主語・話者が読者に
分かるからこそ、主語を省略している、いや明記する必要がないので
はないでしょうか。読者との了解が成り立っているからである。
学問的にはどうなんですか?
16 :
15 :2001/04/08(日) 11:52
↑更に言えば、コンテクストによる省略が日本語では多用されている。 IMEの話も出たが、自分でプログラム(アルゴリズム)を作ってみれば 分かるだろう。 ないものを補うのは扱いにくい。ならば、主語がないものとして アルゴリズムを作る方が楽であり「実用的」である。
>>15 わたしがいっている主語とは統辞論的な概念で,述語を限定することによって,その述語を言語的に可能な言表として成立させる役割を持った形態素(群)を指します.
たとえば英語の I live では I を省けば live は発話として成立しません.
この意味で日本語に主語は存在しません.
ポルトガル語の場合はどうかというと,たとえば a Maria canta では Maria と動詞の活用形に含まれる3人称という形態素の2つが主語の機能を担っており,この2つは同格におかれています.
他方 canta では,動詞の活用形に含まれる3人称形態素のみが主語の役割を果たしています.
つまり canta では主語が省略されているのではなく,a Maria が主語の機能を果たしていないだけなのです.
そして,この場合3人称を形態素として取り出すことができるのは,3人称を含む動詞活用形 canta が1人称や2人称を含む動詞の活用形 canto@` cantas と形式的に異なっているからです.
あなたがおっしゃっている主語の省略とは,文脈や状況によって,3人称形態素と同格におかれる他の表意単位(Maria)が用いられないことだと思いますが,いかがですか?
anta に3人称形態素が含まれているといえるのは,
1人称,2人称,3人称・・・といった動詞を限定する形態素は,それが形態素である
3人称という形態素自体が主語の機能を
18 :
↑ :2001/04/08(日) 14:17
心臓マヒかな? 大丈夫?
19 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/08(日) 15:07
20 :
1です :2001/04/08(日) 16:08
すこし私には難しい話になってきてしまいましたが、一生懸命読ませていただいています。
>>17 さんは途中で話が切れてしまったようですね、続き是非、読ませてください。
私は学校で単純に、これを主語と呼ぶ、という習い方をしてしまっているので、
そうか主語って呼ぶのね、と言う理解しかありませんでした。
そもそも、言語学(国語学ではなくて)で「主語」はどう定義されているのか、
定義はされていなくてもその考え方の発祥はどこなのか、興味あります。
この板の名無しの由来でもあるだろう、三上章さんの「象は鼻が長い」、
恥ずかしながら、題名は見たことありますが、読んだことがありませんでした。
この機会に読んでみます。
21 :
かかり助詞 :2001/04/09(月) 01:21
なんだか、すごい剣幕の人が書き込みしてますね。どうやら、 8さんが「一般言語学」というのは普通、汎言語的研究と呼ばれる 分野のことのようです。私は別に日本語学しかやってないわけじゃあ ないけどな。というより、私は生成文法が専門です。日本語学では ありません。 汎言語的な主語の定義というのは難しい。例えばComrieが Language universals and linguistic typology (Univ of Chicago Press)の5章で問題にしているけど、はっきりした定義は出して おりません。というより、出せないのでしょ。言葉に関する理論 というのはあくまで、実際の個別言語を分析していって想定する ものなので、理論が「ばば〜ん」と、「これが主語だ」とすることは あり得ません。 日本語の主語に関する考察は、柴谷まさよし(漢字を忘れました) 薯「日本文法研究」大衆館にもあります。柴谷先生は、日本語にも 主語はある派です。 三上先生は非常に鋭い方で、「日本語に主語はない」というインサイトは 生成文法にも動詞句内主語仮説として取り入れられてます。 それと、ポルトガル語や、日本語での主語の省略ですが、これは 「日本語(その他)に主語があるかないか」とは別問題です。 たとえば、省略された主語でも「自分」の先行詞になれる(太郎が来た。 自分(=太郎)の妹を連れていた)のだから、発音しない代名詞 のようなものがあると考えるのが妥当です。
関係ない質問を挟んで申し訳ないんだけど、かかり助詞さんに質問。 「一般言語学」って言語学の世界ではそんなにマニアックな用語じゃないと思ってたんだけど、「(生成以外の)言語学」と「生成文法」ってそんなに(お互いの用語がすんなり通じないほど)温度差があるんですか?
>>21 生成だったんですよね・・・
どうやら,言語学(というか学問分野すべての基礎にある)主観と客観の問題についてまともに考えたことがなさそうですし,うわずみの理論だけを追いかけてらっしゃるようなので話が平行線をたどると思います.
24 :
>21 :2001/04/09(月) 05:51
よく御存じの御様子なので一つ、「自分」についてついでに お聞きしたいことがあります。一見、横道にそれますが、 御存じの通り、日本語の「主語」と「自分」はよくお互いの 証拠として議論されますので、それほど無関係でもないと 思うのですが。 >たとえば、省略された主語でも「自分」の先行詞になれる(太郎がきた。 >自分(=太郎)の妹を連れていた)のだから、発音しない代名詞 >のようなものがあると考えるのが妥当です。 これは理論的にみると、可能な処理のひとつですね。 でもそれは、「自分」の先行詞は、その「自分」を含む同一の 文の中に存在しないといけない、と仮定する場合ですよね。 そう仮定しないといけない理由と言うのはあるんでしょうか? 生成文法などでは、常に抽象的なものを想定するんですが、 あれが、どうも馴染めないんです。。。 単に語用論的な推論によって先行詞は分かると思うし、 そうなると抽象的な代名詞を仮定する必要も、同一文ないに 先行詞がないといけないという仮定をする必要もない。 ようするに二重の仮定をせずに済むと思うんです。 さらに、もし、「太郎が来た」、の次の文が、 「自分の妹を連れていたので驚いた。」 だったら、自分=話者の可能性もありますよね。 文脈以外に先行詞を決定する術はないように思うんですが、 その場合推論ですよね。となると、推論がどのみち必要に なるのに推論のメカニズムでなくて、統語論的に説明しようと するのはなぜなんでしょうか?統語論は最も確実な推論(含意も 含)の手がかりを与えてくれているだけのように思うのですが。
25 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/09(月) 07:24
僕は角田太作「世界の言語と日本語」(<あってるかな?)を読んで、 日本語と英語の主語の違い、というか「主語」という観念について 勉強させてもらった覚えがあるんだけど、誰か角田先生の主語論については コメントないですか?角田先生の主語論をもっと緻密にしたのが VanValin&LaPollaのSyntaxの6章のような気がしますが。。。
26 :
(・∀・) :2001/04/09(月) 07:27
>>23 優良スレ候補なんだから、低級な煽りはやめれー。
「かかり助詞」氏のレス期待age
27 :
かかり助詞 :2001/04/09(月) 09:12
順番に答えましょ。
>>22 用語の違いというか、一般言語学という分野自体が、
言語学にはもはやないような気がするのですが。汎言語学的な
研究とは、greenbergなどがやっている類型論です。私は
言語学の勉強を始めて12年かな、もう少しになるかも
知れませんが「一般言語学」というのは学部の一般教養で
そういうタイトルのコースがあった。それ以外、聞いたことない
分野です。ソシュールのような古い時代の言語学の名残だと
思われます。生成文法なんかの「普遍文法」に関する仮説
というのは、そもそも人間の言語ならなんでも適用する
原理なはずだから、わざわざ「一般言語学」っていわない。
>>23 をとばして
>>24 「自分」の先行詞が話者等になるのは
正確にいうとlogophorという、照応表現とは別の物と
考えられております。英語の-selfというのもeveryone
except myself would be interested in the partyてな
具合にlogophoricな使い方が出来る。照応表現とは
全く別の性質を持つ物です。
で、確かに生成文法ではやたらと、「実際には発音しない物」
を仮定します。それを仮定することによって有意義な一般化が
可能な場合のみに仮定するわけです。しかし、「実際には
発音しない物」というのは、究極的には「言語習得が
なぜ可能か」という事に答えようとしている生成文法には
非常に面白い物です。なぜなら、「実際には発音しない物」
は「子供がそれらを聞いてその特徴を経験から学ぶ」
ことが出来ないので、それらの持つ特徴というのは、
普遍文法の持つ性質を直接的に反映していると考えられ
るからです。
>>25 角田先生の本は読んだことないな。読んでみます。
28 :
(・∀・) :2001/04/09(月) 09:52
29 :
吾輩は名無しである :2001/04/09(月) 12:59
主語の定義と、「主語がない」の意味(明示されないことも多い/そもそも 存在しない)が論者によってまちまち。論者はこれを明確にしたうえで ご議論を。
30 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/09(月) 13:31
門外漢ですまぬが、 本多勝一の「日本語の作文技術」(だったと思う、文庫で出てるやつ)のどこかの脚注に 日本語には主語がないことを論証してる人がいて、これに反論できなきゃ 小学校の先生と言えども主語という言葉を使えないはずだが・・・ みたいなことが書いてあった記憶がある。そこには三上章も出てきてたと思うけれど、 その論証してる人は、別人だった気がする。
>>23 生成文法に対する反感はお察ししますが、ものには言い方があると思います。
>>28 私の専攻である科学哲学(クーン以降)の立場から言わせてもらいますと、解釈学への道を切り開きうるソシュール言語学に比べて、生成文法的な認識方法のほうがむしろ19世紀的な古い実証主義の流れを汲んだ擬科学的な思考形態であると思われます。
生成文法を専攻なさっている方に質問すると、実はソシュールの原典も読まずに時代的前後関係のみにとらわれて「古い」とおっしゃられている場合が多いようですがいかがでしょうか?
32 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/10(火) 11:45
興味深い展開の31にさらに期待あげ
33 :
1ですが :2001/04/10(火) 21:59
対立する考え方があるのはわかりましたが、 例え、話が平行線になりかかったとしても、 そういう主張の対立がある、という事ははっきりするでしょうから、 もう少し続けてお話いただけると嬉しいです。 「象は鼻が長い」はまだ手に入れていません。 入門本などを立ち読みしましたが、そういうのだと 日本語の文法の解説に「主語」と言う言葉をなんか避けるようにして 述語にかかる「主体」とか「主格」とか言ってるのが多いんですね。 で、最後に「主語はあるとも、ないとも言われている」みたいな結び。 まだどちらの説とも定着していない、ってことなんでしょうか、これって。 ちょっとびっくりです。
34 :
匿名希望さん :2001/04/10(火) 23:29
ラテン語も、人称代名詞が主語となることは 原則としてないぞ。 イタリア語も同様(最近は、主語を使う人もいる らしいが、イタリア語はあくまでも余技の ひとつなので、そこまではよくわからぬ)。
35 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/10(火) 23:52
>>34 さん
29さんの根本的な提言をご一読ください。
36 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/11(水) 01:19
湯川恭敏先生が、だいぶ昔にいろいろ書いてた日本語の主語論を読んだことが ある人はいますか?
37 :
かかり助詞 :2001/04/11(水) 02:13
立場上、生成文法のデフェンスをします。生成文法の方法は 福井直樹薯「自然化学としての言語学」にその理論的基盤などが 記されています。基本的には、反証可能性に基づく演繹法をとって います。この点では、物理学などの他の化学の分野と同じです。 たしかに、私はソシュールの原書を読んだことありません。 (正確には「一般言語学入門」などはソシュールの死後、弟子がまとめた 物じゃなかったっけ?)解説書なら読んだことある。生成文法と 最大の違いは、ソシュールは言語を法律などと同じ「社会的な約束ごと」 捉えていたことだと思います。
38 :
かかり助詞 :2001/04/11(水) 02:25
37のつづき。 これに対して、生成文法は言語を人間の持つ知識(I-language) と考えています。二つの立場の根本的な違いは、生成文法は 「言語に関する知識全てが経験によって得られたものではない、 生得的な知識、(いわゆるuniversal grammar)もある」と考えているところです。 たとえば、(1-3)は文法的なのに(4)はそうではない。 (1) なぜ 太郎が 車を 直したの (2) どう 太郎が 車を 直したの (3) なぜ 太郎が 車を 直さなかったの (4) *どう 太郎が 車を 直さなかったの (1ー3)が文法的なので、そのパターンにしたがっている (4)も同様、文法的になるはずだけど、(4)は悪い。 こうした知識は、子供が与えられたデータから帰納的に 得られるはずがない。だから、何らかのUGの原理が (4)をrule outしている違いないと考えられるわけです。 ソシュール的な言語観ではこうした事実が捉えられない。
39 :
かかり助詞 :2001/04/11(水) 02:36
チョムスキーは哲学的には「自分がやっていることはデカルト派の 言語学だ」と言っています。デカルトはご存じのように「心身二源論」を 展開し、心と体を別ものとしました。チョムスキー以前、スキナーは 言語を刺激に対する反応によって得られる知識と考えていました。しかし、 これでは上で書いたような複雑な文法知識を子供が習得するという ことが説明できない。スキナーもある意味で「デカルト派」だったわけですが、 チョムスキーとは全く逆の立場でした。スキナーは「言語は刺激に対する体の 反応」と考えていたのに対し、チョムスキーは「言語は生得的な心(脳)に 内在する知識であり、それが与えられた言語環境によって日本語になったり、 英語になったりする」と考えたわけです。
40 :
かかり助詞 :2001/04/11(水) 02:43
話しが脱線していますが、私は23さんに反論するつもりは毛頭ありません。 私個人が、「表面だけを追っている」て中傷を受けても、痛くもかゆくもないし。 ただ、「生成」という侮蔑的な言い方は避けて、「生成文法」とか 「生成言語学」と言ってほしい。私だけでなく、多くの研究者が情熱をもって 取り組んできたやり方をさげずまれるのだけはがまんなりません。
41 :
名無しさん :2001/04/11(水) 03:03
>>38 > (4) *どう 太郎が 車を 直さなかったの
「直さなかった」んだから「どう」も何もないだろ、
という理由でダメ。という説明ではいけませんか。
生成文法がUGを想定することには賛成するけど、core grammarの領域が
大きすぎると思う。
42 :
かかり助詞 :2001/04/11(水) 03:34
>>41 そこいら辺の事をもっと詳しく考えるのが生成文法です。
「どう」だと、(4)は非文法的だけど、同じような意味の
「どういうふうにして」だと悪くない。
(5) どういうふうにして 太郎が 車を 直さなかったの
これはどうしてか?さらに、「なぜ」でも否定辞をつけると
悪くなる場合がある。
(6)太郎が [花子が 車を なぜ 直したと] 言ったの
(7)*太郎が[花子が 車を なぜ 直したと] 言わなかったの
こういうのをどう説明するか、仮説をたてて検証していくわけです。
43 :
(・∀・) :2001/04/11(水) 04:00
補足の横レス。
>>41 たとえば太郎は車を全部一人で修理したのであって、修理屋に頼んだのではない、
とするじゃん。
この場合の修理屋に頼んで、という方法を尋ねたい状況(どういう方法では修理
しなかったのか、って)も現実にはあってもおかしくないけど、人間言語はそれを
(4)のような疑問文で尋ねることを許さないような仕組みにあらかじめなってるって
こと、ね。
ついでだから
>>38 の(3)のような文についても俺がよく授業で使うネタを書いちゃお。
英語だとnot〜because...が該当するんだけど、John didn't laugh because he was sad.
は、
i)悲しかったので、笑えなかった、
ii)笑ったのは悲しかったからではない(別の理由があった)
の二通りの解釈があるけど、becauseの部分をwhyで尋ねて Why didn't John laugh?
と言えば、ii)の解釈(どういう理由で笑ったのではないのか)は出てこれない。
同様に(3)でも、よく考えてみると
i)修理しなかった理由はなにか
ii)どういう理由では修理したのではないのか
というあってもおかしくなさそうな二通りの解釈のうち、ii)は未然に阻止されている。
(3)と(4)は、文法文・非文法文のコントラストみたいに上ではいわれてるけど、実は
そうではない、ってか、それだけではないと思う。両方とも否定のスコープの中から
wh-adjunctを取り出すことが禁じられるという同じ現象を例証している、ってのが
まず第一にあって、それから、たぶんVP要素として否定のスコープ内にしか基底生成
されない「どう」の場合は、どうあがいても結果は非文になるものの、「なぜ」の場合は、
最初から否定の外側に位置していると解釈した場合にだけ、このような「否定の島」の
効果が回避され、僕らは普段はそれに対応する合法的な解釈=(i)にしか気付かない、と
いうことだと思うんだけど。
44 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/11(水) 05:02
>>38 生成文法の最大の間違いは、まさに反証可能性に基づく仮説−演繹的研究法を採っていることにあると思います。
まず第一に、反証可能性が成立するためには、データ群が理論系と独立していることが前提です。
これは当然のことで、もしデータが理論に依存しているなら、データによる理論の反証(検証可能性は不可能として問題にはならないのですか?)など欺瞞に過ぎないからです。
つまり生成文法においては、データはデータとして理論の外部に客観的に存在し、認識主観は理論とは無縁にそのデータを観察によって収集できる、という仮定が要請されていることになります。
しかしながら、ご存知の通り、言語事象をたとえば物理現象としてみる限りそれは連続体であって、物理的観点からそこに事象の分類原理をもちこむことはできません。
したがって、そこに言語学的データを読み取るには、それ以外の視点が「あらかじめ」存在し、その観点の下に組織されたいわば「プレ理論」の準拠枠によって、人間の知覚的データが言語事象として組織化されていることになります。
この視点こそ、まさに人間がことばの事象をことばの事象として見つめるまなざしといえましょう(ソシュールの「講義」に始まるヨーロッパ構造主義はこの視点が何であるかを執拗に追求してきました。他方、生成文法の場合、言語単位はいかにして「与えられている」のでしょうか?)。
一般的に言って、データ=事実というものがそれのみで即自的に存在するわけではないことは、たとえば、人間の歯は何本かという問いに対する科学的な答えを考えるとよくわかるでしょう。
多くの方は、観察を行えばよい、すなわち実際に口の中をのぞいて数えればよいとお考えになるでしょう。
科学的な手順とはまさにその通りですが、その手順が成立するには、それに先立ってこれを1本の歯として数えるという取り決めがなければ不可能です。
生成文法に話を戻すなら、問題は、研究家たちが措定する仮説群が、先に述べたあのプレ理論とまったく同一のプレ理論の上に構築されているということです。
つまり、この時点ですでに反証可能性の基盤は存在しないのであって、仮説−演繹法に基づいた真理への漸進的接近という19世紀的な概念はひとつのフィクションにすぎないことになるのです。
45 :
(・∀・) :2001/04/11(水) 05:36
46 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/11(水) 05:56
生成文法を「有意味なフィクション」として、つまり「抽象的・理論的に構築された虚構界を通して現実世界に働きかけようとする試み」として理解されている方が生成系の方にいらっしゃるとは思っていませんでした。 自分が話を聞いた方がそうした認識をお持ちではなかっただけなんですね。
47 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/11(水) 06:31
>そもそもデータ(反例)が理論の反証になるとは生成系の誰も思ってないと思うよ。 あの、とすると「反証可能性」の反証ってのは何を指すんですか? 関連スレからすると専門家が理論を背景として考えた作例ってことになるんでしょうか。
48 :
46 :2001/04/11(水) 07:02
>>45 かんれすれでのレスに対してです。
>>科学はひたすら客観的に絶対真理を追求するものだ、なんてゆーのはマッカなウソですよ。
>>生成文法だってなんだって所詮はたくさんある中の一つのモノの見方を提示しているに過ぎないんだから。
>>自然世界に働きかけて俺らに理解しやすいように変形し、加工し、仮想現実世界として再構築する方法を提示してるだけで、その点ではすべての科学理論は実は等しく虚構なんだよ。
というご発言から、虚構世界の構築の動機を「実践性」に求めていらっしゃると判断してしまったのですが、早まっていましたか?
>>早い話が、俺らが今肉眼で見ている現実世界(と思っているもの)だって、唯一絶対の真実の世界ではなくて、俺らの脳内にでっち上げられた仮想世界でしょ?
唯一絶対の真実でないことはもちろん同意しますが、まったくのでっち上げではありえません。
そうなると、生成文法のみならず、人間の営みの根底にある「確かめ」と「確信」の基盤が消失するからです。
この確かめと確信の基盤こそは、人間にとって疑い得ない現実であり、ことばの営みそのものを可能にしているのではないでしょうか?
49 :
46 :2001/04/11(水) 07:08
48をあげたのは46が誤解である可能性が高いのではと思ったからです。
50 :
かかり助詞 :2001/04/11(水) 07:32
>>44 44さんが正しいとすると、たとえば物理学の様な学問も科学ではないこと
になるのでしょうか?物理では自然界に存在する事象がその研究対象で、
それをもっともよく説明できるような理論を反証可能性に基づく演繹法で
さぐろうとしています。これと同様に、生成言語学でも、native speaker
が直観的に語の連鎖を文法的/非文法的と判断できる事を可能にする能力を
作るような理論を作ることを目標にしています。言語のデータが理論に
依存しているのではなくて、理論がデータに依存しているわけです。ですから
「理論Aが非文法的と予測するのに、実際は言える文」なんてのは
反例なので、理論Aが反証されるわけです。
51 :
44=46=48=49 :2001/04/11(水) 08:10
>>50 >>言語のデータが理論に依存しているのではなくて、理論がデータに依存しているわけです。
44で私はなぜデータが理論に依存しているか(正確にいうと相互依存なんですが)、反証可能性の原理的不可能性を簡単に述べています。
アンチテーゼを述べるときは論拠に対する論理的な反駁をお願いいたします。
(・∀・)さんが紹介してくださった関連スレ
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=gengo&key=973488716も参照なさってください (同じ生成系であるかかり助詞さんと(・∀・) さんで根本的な認識論的断絶があるのは面白いですね)。
>>44さんが正しいとすると、たとえば物理学の様な学問も科学ではないこと
になるのでしょうか?
物理学は明らかに科学です。
それは物理学を初めとする自然科学が46で述べた意味での「有意味なフィクション」として、人間による世界の組換えに寄与しているからです(わたしはそのようなものを科学と考えています)。
生成文法については、それで何が変わったのかが?なので、疑似科学的な思考形態と述べたわけです(パラダイムの問題は省略)。
かかり助詞さんのようなお考えこそがまさに論理実証主義の名残かと思われるのですが(煽りではありません)。
52 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/11(水) 08:12
心身二元論
53 :
51 :2001/04/11(水) 08:34
心身二元論は心の世界(意識)と身の世界(物質)を因果系列でつなごうとしている時点ですでに二元論ではないんですよね。 チョムスキーはどんな意図でそうした用語を持ち出したんでしょうか。
55 :
(・∀・) :2001/04/11(水) 09:41
>>50 あれぇ、そんな単純な話しでしたっけ?
理論はデータではなく、理論によってしか反証できない、ってのはどうなの?
>「理論Aが非文法的と予測するのに、実際は言える文」
まずat stakeなのは理論A自体ではなく、Aが採用している個別の原理Pなり
制約Cなりの妥当性で、しかもそれはPなりCなりを損なうことなく補助仮説の
導入によって解決されることが多い。問題の例を含めてより広範の事例をより
エレガントに扱える対抗馬P’、C’を出さないとPやCは痛くも痒くもないよ。
それから元レスでの争点の一つは、文法性の判断が困難・不明確であるような場合に、
自分の仮説の予測に従って文法性を決めることの是非だったと思うけど、現象
自体にはその理論データとしての価値はあらかじめ決まってはおらず、特定の
理論を通した解釈を施して初めて意味が生まれる、という視点から、そのような
「都合のよい判断」を研究の進行上必要な段階として、ある程度擁護できると思う。
例えば「係り結び」スレに出てたPCCとMLCの違いだけど、
What do you wonder who saw?
が文法的か非文法的かは、PCCを採るかMLCを採るかで決まるのであって、
そのような分析装置のないところでいくら議論しても無駄でしょう。(この文が
フツーではないことは誰でも賛同するだろうけど、それが「非文法的」なのか
どうかは、全然違うレベルの問題だからね。)また、もしこの文を文法的とした
ほうが一般性の高い理論が構築できると分かり、従ってこの文は文法的なんだと
なっても、それはMLCへの反証にはならない。MLC自体も、関与する素性の解釈
(不)可能性を含め、いくつかの先行仮説群の上に機能するもので、それらを
修正することはいつでも可能なんだからね。
56 :
(・∀・) :2001/04/11(水) 09:45
>>48 >この確かめと確信の基盤こそは、人間にとって疑い得ない現実であり、ことばの
>営みそのものを可能にしているのではないでしょうか?
表現が僕にゃ高尚過ぎて(^^ゞ よく理解できてるとは思わないんですが、僕が常々
感じている、科学=言語、ということと近いんですかね。
「でっちあげ」というのは表現がまずいかもしれないけど、僕らが認識している
外部世界は、認識主体である僕らと独立してあるのではなく、僕らの働きかけに
よって初めて生まれるんだ、ってことかなぁ? ヒトとして生まれた以上、
僕らはこれこれという話し方、言語による世界の認識の仕方しかできないんだ、と
いう部分に生成文法は関わることになるんだと思う。
徹夜明けで頭が逝きかけてるので、後ほどまた。
57 :
かかり助詞 :2001/04/11(水) 10:20
「日本語の主語」から大きく逸脱して科学論になっているけど、 私の「科学」の解釈と51さんの解釈が違うことにこの論争の根本 があるとみた。私は科学を「反証可能な理論体系」と考えている。 51さんのいう「人間の世界の組み替えに寄与しているかどうか」は 関係ないと考えております。私が51さんのいうことをきちんと 理解してないのかも知れないけど、例えば私の規準からすると、 共産主義とか、フロイトの精神分析は科学ではない。なぜなら、 反証が出来ないからです。51さんの規準からすると、こういう 理論体系も科学ということになるのでは? だから、生成文法が採用している科学観というのはポッパーの いう科学です。それが最近の科学哲学のなかで古くさい物なのか どうかは勉強不足で知りませんが。 なんだか、大変なことになっちゃったな。私は、係り結びの スレットで中心になっていた本人なので55にもコメントします。 その前におなかすいたから何か食べないと。
58 :
かかり助詞 :2001/04/11(水) 12:29
血糖値を上げて戻ってきました。
>>55 -6私が上で言った「理論Aの反例=理論Aの反証」は
55さんの言うように「パラダイムの一部の理論Aの反例」
という意味です。したがって、基本的に55さんに賛成。
たとえば、MLCを採用しているミニマリストが、MLCでは
説明できない現象にでくわしたとしても、ミニマリストその
物をあきらめちゃう必要はない。MLC(もしくはそれを定義する
一部の概念)が間違っているかも知れないからです。そう
いうときにはMLCを定義し直すか、それに変わるよりいい代案
を示せばいい。あるいは現象の解釈が間違っている場合もある。
>>54 デカルトの心身二元論というのは(物質としての)体を心とは
別にしようという考えで、その二つを関係づける物ではないよ。
スキナーは行動主義のもと、「体(=物質)」のみが科学的
考察の対象になり得るのであって、「心」というのは科学では
踏み込めない領域だとして、「心」を完全に無視した。
チョムスキーは全く逆に、「言葉は人間精神にとって
生得的であり言葉を研究することにより、人間精神の
言葉に関する部分を理解する事が出来る」としている
わけです。
59 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/11(水) 12:51
>>30 本多勝一、家にあったんでさがしてみた。以下引用。
そして、日本語にいわゆる「主語」が存在しないことを、最近の言語学の成果をふまえて
徹底的に究明し、ほとんど「とどめを刺した」といいうる研究に、湯川恭敏氏の「日本語と
『主語』の問題」(同氏『言語学の基本問題』第六章)がある。今なお「主語」というような
言語を愛用している人々は、文法学者であれ中学の先生であれ、湯川氏の論考をすべて
反論しつくしてからでなければ、もはや「愛用」できないはずなのだが……。
(「日本語の作文技術」朝日文庫 p.143 助詞の使い方)
60 :
59 :2001/04/11(水) 12:57
>>36 この
>>59 の湯川恭敏は、湯川恭敏先生
>>36 と言う人と同一人物?
だよね?
何してる人ですか?この人。
(下の名前、何て読むの?)
たしかに「日本語には主語がない?!」というテーマとは大きくずれてしまいました。
でも、ここ最近の話は、主語という概念で言語学は何をしようとしているのか、言い換えれば、言語学は自らの用語体系を持って何をしようとしているのかという問いに対するさまざまな答えにもなっているのでそれなりに興味深いのではないでしょうか?
(といって言い訳したりして。すみません)
「早い話が、俺らが今肉眼で見ている現実世界(と思っているもの)だって、唯一絶対の真実の世界ではなくて、俺らの脳内にでっち上げられた仮想世界でしょ?」
<「唯一絶対の真実でないことはもちろん同意しますが、まったくのでっち上げではありえません。
そうなると、生成文法のみならず、人間の営みの根底にある「確かめ」と「確信」の基盤が消失するからです。
この確かめと確信の基盤こそは、人間にとって疑い得ない現実であり、ことばの営みそのものを可能にしているのではないでしょうか?」
主観−客観二元論から出発した場合、認識する主観が、自らの外部に世界が存在するということ、そしてそれがどのような世界であるかを論証することは不可能です。
認識主観はつねに己の内側に閉じ込められているからです。
このとき、主観と客観の対立を外側から見て、主観の認識が客観に一致していること(客観的であること)を判断できるのは、いわば神のような存在でしかありえないでしょう。
だからこそ、ご存知のようにデカルトは人間の認識の確実性を保障するために、つまり主観と客観をつなぐために神の善意をもちだしたわけです。
とはいっても、人間は外的世界の存在を疑い得ないし、そして自らの意識に映ずる世界像が主観の恣意によってでっちあげられたわけのものでもありません。
自分の意識に映ずる世界像がでっちあげだと考えるどんな懐疑論者だって、東京タワーの上から飛び降りたり、目の前を走っている車の列に身を投じたりはしないしょう(自殺したいと思っているならともかく)。
これは、その世界像の中に人間の意思をねじ伏せる形で外部からやってきている要素があり、その要素を人間は疑わざるを得ないからです。
そして、そのような要素があるからこそ、人間は自らのうちに生じた日常的な(あるいは学問的な)疑いをその不可疑的要素によって確かめることが可能なのです。
さらに、世界はかくかくしかじかのものであるという確信、そしてこの確信が他人の意識にも存在するであろうという確信が、言語の使用を人間に可能としている一要素なのではないかと思います
ってな意味で「でっちあげられた」ということばを解釈してしまいました。
>>58 たしかにそうですね。
わたしは、神話も、一般的に科学といわれている営みも、原理的には境界線がないんじゃないかと思っているので((・∀・)さんもたぶん同じような考えなんじゃないですか?)
さて、科学論史的にいうとポパーはウィーン学派的な論理実証主義の流れを引き継いだ旧科学哲学といわれる立場に属します。
他方、それに対して(・∀・)さん的な考え方は、パラダイム論を提起したクーン以降の新科学哲学という流れに属しているように思われます。
横槍を入れてすみませんでした。 主語の話を続けてください。
61の「・・・これは、その世界像の中に人間の意思をねじ伏せる形で外部からやってきている要素があり、その要素を人間は疑わざるを得ないからです」の「疑わざるを得ず」は「疑うことができない」の間違いでは?
64 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/11(水) 17:33
ポパーを論理実証主義といっしょにするのは乱暴すぎだと思うけど
あと科学と非科学の境界線がないのだとしたら
>>51 で語った
疑似科学うんぬんの話はなんだったのか。
>>63 その通りです。
>>64 ポパーを論理実証主義と一緒にしたつもりはさらさらございません。
ただ、彼の論理実証主義批判は、あくまで後者と土壌を同じくした内部批判に過ぎないことをお忘れなく。
その意味で「ウィーン学派的な論理実証主義の流れを引き継いだ」といってなにか問題があるのでしょうか。
つぎに「科学と非科学の境界線がないのだとしたら・・・」という点ですが、神話を非科学と考えていらっしゃるようですね。
私はそのようなことをいったつもりはまったくないんですが・・・
もし神話が非科学ではないのだとすれば、「神話も、一般的に科学といわれている営みも、原理的には境界線がないんじゃないか」=「科学と非科学の境界線がない」という等式は成立しないでしょう。
66 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/11(水) 23:12
ごめん、じゃぁ神話がなぜ出てくるのかわからない。どういうこと?
どういういみで原理的に境界がないという意味?
あと
>>65 の考えてる科学と非科学の境界は
>「有意味なフィクション」として、人間による世界の組換えに寄与してい
るかどうかでいいの?
それだといわゆる科学でもごく一部しか含まれなくなると思うけど。
それと
>
>>58 > たしかにそうですね。
ていうのはどの部分に同意したの?
67 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/12(木) 08:47
主語のスレなので、主語のことについてお聞きしたいことが あります。 多くの人が生成文法の枠組みで日本語を分析していますが、 生成文法では「主語」はどう定義されるんでしょうか? もしご存知の方がいらっしゃったら教えてください。 生成文法がモデル化しようとしているUniversal Grammarに 「主語」という観念はあるんでしょうか?(普遍主語?) もし主語というのが個別言語ごとに規定されるものなら どのようなパラメーターが関わるのでしょうか? さらに日本語の主語はどのパラメータが関わっているんでしょうか? それともこのような疑問は生成文法の枠組みではそもそも意味を 成さないのでしょうか?
68 :
かかり助詞 :2001/04/12(木) 09:45
>>67 哲学的な話は苦手だけど、こういうのは得意です。
チョムスキー流のNP、CPのようなものを基本的なカテゴリー
とする文法理論では、[NP@` S]というのが「主語」の定義です。
Sに直接支配されている、NPという意味です。今風にいうと
TP-Specですな。
生成文法でも「関係文法」やブレズナンの「語彙機能文法」
なんかは「主語・目的語」といった文法機能を原始的な
(これ以上分解不可能な)概念として取り扱っています。
チョムスキーにとって、主語は[NP@`S]という派生的な
概念ですが、こういうところが枠組み間で、大きく
違いがあります。
日本語の主語は、TP-Specにあがらずに、VP内に
とどまっている・とどまっていられる、と考えられています。
すなわち、主語はどの言語でも、VP内に基底生成され、
英語のような言語ではEPPだかなんだかを満たすために
TP-Specにあがる。日本語では、VP内にとどまっていられる
というわけです。だから、日本語の主語という物は、
主語っぽくないのだ、というのが、三上先生のインサイトを
踏まえた、福井直樹さんの博士論文、黒田先生のwhether
we agree or notの骨子です。
69 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/12(木) 12:30
猫には手が何本あるか。猫を観察しても、手が何本かはわからない。前足2本は ある意味で手だが、あるく時地面に接するものを手というか? ともいえる。 日本語に主語があるか、も同様の問題でしょう。猫に手はない、といってしまうより、 猫の「手」と人間の手を比べるという具体的な作業をする方が生産的であろう。68さん にあるように、英語と日本語で「主語」のステイタスがちがう、これこれこのようにちがう、 という方がよい。勉強になりました。 >68さん。 A「太郎は車をスティル直してない」 B「え? 太郎は車をどう直してないの」 A「まだ直してないといったんだよ」 のような場合もあるのでは? 「どう直してない?」はそう「悪い」とも思えません。また、「どんな非文も、 それが自然であるようなコンテクストを想定できる」という主張が成立するの ではないでしょうか。 最後に、ソシュールの言語観とUGの発想は、両立しないわけでは無いと思います。 UGから、様々なパラメータを指定することで各ラングが成立するということに なると思いますが、ある点に関しなぜ日本語ではこれこれのパラメータを取るのか。 と問うなら、それはconventionだ、ということになるのでは。 古文のインフォーマントでした。
70 :
かかり助詞 :2001/04/12(木) 13:31
69さん、なかなか鋭い。「どう直さなかったの」みたいなのは 文脈によりよくなることがあります。例えば、「エディソンが 電球を作るのに幾度も失敗した。しかし、エディソンはそれを 失敗ととらず、「私は電球を[どう作れないか]をまた一通り発見 したのだ。」といった。」というのは、私は実際の英語の文で 見たことがあります。 主語に話を戻すと、英語ではhimselfは主語だけでなく 目的語も先行詞にとれます。 (1) John-i told Bill-j about himself-i/j. これに対し、日本語の「自分」は目的語を先行詞にとれません。 (2) 太郎-iは 次郎-jを 自分-i/*jの部屋で 殴った。 なので、日本語の「自分」はsubject oriented anaphorと 呼ばれています。中国語のziji(漢字を知らない)などもそうです。 不思議なことにsubject oriented anaphorは、それ以上細かい 形態素にわけられないmonomorphemicな語ばかりです。だから、 「自分自身」のような、複雑なのは目的語も先行詞にとれます。 中国語でもzijiは主語だけだけど、tazijiは目的語でも先行詞に なれる。同様の現象がノルウェー語その他、世界の多くの 言語に観察されます。 ならば、日本語の主語は「'自分'の先行詞になれる物」という 定義が出来るかも知れない。この定義にとって問題となるのは、 次のような文です。 (3) 山田先生は 自分が留守にしている間に、 家が 火事で 焼けてしまった。 (3)の山田先生を主語といいたいかどうかわかりませんが、 「自分」の先行詞になれるので、この規準だと主語と いうことになっちゃう。
71 :
(・∀・)→(´Д`;) :2001/04/12(木) 17:30
ふぇー、学年始めはとても忙しいにゃ〜。
>>70 >「自分自身」のような、複雑なのは目的語も先行詞にとれます
それはないでしょ。「彼自身」と混同してる。
ziji = 自己、taziji=他自己(他=彼)だったと思うよ。
今晩まとめてレスの予定です。
72 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/12(木) 20:52
>生成文法でも「関係文法」やブレズナンの「語彙機能文法」 >なんかは「主語・目的語」といった文法機能を原始的な >(これ以上分解不可能な)概念として取り扱っています。 関係文法や語彙機能文法では守護をどう定義するんですか
73 :
(´Д`;) :2001/04/12(木) 22:40
ダメだ、ゆっくり考えてる時間も気力もないや。
とりあえず手短かに。
>>61 ほか
>わたしは、神話も、一般的に科学といわれている営みも、原理的には境界線が
>ないんじゃないかと思っているので((・∀・)さんもたぶん同じような考え
>なんじゃないですか?)
神話を宗教に置き換えてもいいですか。
絶対真理に関わるのではなく、身の回りに起きている現象に対する一つの解釈方法を
提案するもの、という点では科学と宗教は同じだと思う。ただ、その提案がどのような
形式で行われるのか、が違う。個々の事象の間に関係性を定義し、普遍性のある命題を
出して、再演性や予測可能性を保証するのが科学、それを求めないのが宗教、かな。
>「人間による世界の組換え」
というのはものすごく大げさなように聞こえるけど、世界の解釈方法、加工方法と
いうのと同義だと思うので、同意。
>世界はかくかくしかじかのものであるという確信、そしてこの確信が他人の意識にも
>存在するであろうという確信が、言語の使用を人間に可能としている一要素
その確信(共同幻想?)の起源や根拠として、種としての同一性や、それゆえの感覚
器官や認知能力の共有性があって、その一つにUGもあるのではないでしょうか。
74 :
かかり助詞 :2001/04/12(木) 23:24
>>71 その通り、私の勘違いでした。「自分自身」はsubject
orientedで、long-distance不可でしたっけ。私はここいらへんの
文法性の判断が苦手なせいか、どれがどれだか覚えていない。
語彙機能文法の主語はこれ以上分解できない原子的概念なので、
定義されておりません。チョムスキーはN、Pなどの伝統的な
文法でいう「品詞」を原子的概念としたのに対し、ブレズナンは
主語、目的語、述部、といった文法機能を原子概念としたわけです。
Joanたん、、、ハァハァ、、、、
76 :
ん? :2001/04/13(金) 00:56
>>70 >「どう直さなかったの」みたいなのは
>文脈によりよくなることがあります。
とすると
>>33 の話はどうなるんですか?(1)〜(4)まで全部言えることになるので問題設定にあまり意味がなくなるような。
他の3つだって文脈によって不適切になるのは一緒だから、(4)だけ特別視する基準がよくわからないのですが。
って主語からはずれてるのでsageときます。
77 :
ん? :2001/04/13(金) 00:57
78 :
かかり助詞 :2001/04/13(金) 02:04
>>76 そこいら辺は慎重な議論が必要ですが、70の例では
文脈によって、「どう」が「ない」のスコープの外側に出る解釈
が可能になったため良くなるのだと思います。「こいつ何を言っているんだ?」
と思ったときは「なにいってるかわからん」と言ってくれれば
もう少し詳しく説明します。
79 :
ん? :2001/04/13(金) 02:43
んー。わからないです。
>>41 で挙がってるような解釈から解放されるってことだと思うんですけど、その肝心の(4)が言えない場合の解釈って具体的にどう解釈する場合かってのがよくわからないんです。
80 :
かかり助詞 :2001/04/13(金) 03:18
「どう」はVPにつく様態の副詞です。だから[どう車を直す]がひとまとまり。 それに「ない」がつくと[[どう車を直す]ない]という形になります。「どう」 はそのさらに外側にある「の」と関係づけられる。生成文法的に言うと、 「の」のSpecに動く。「どう」が「ない」を飛び超えられないのだとすると (所謂inner island)、(4)はダメなことになる。 (43)さんが言うようにbecauseはふたとおりの解釈が可能です。 [[ not fix the car ] because -] のように「直さない理由」という意味と [ not [ fix the car because -] のように「直したのだけどーという理由ではない」 という意味です。 「どう/how」は様態の副詞なので、通常notの下/内側にある。けど、文脈により [どう[車を直さない]]のような構造がとれるようになるのだと思われます。そうだとすると [CP[どう[車を直さない]]の]の構造で、「どう」が「の」に動くとき、階層的には 「ない」を飛びこえないので文法的と言うわけです。 46の(7)が悪いのは、「ない」が主節についていて、「の」がさらに そのうえにあるので埋め込み分にある「なぜ」は「の」のspecに上がる際、 「ない」を飛び超えざるを得ないから非文法的。
81 :
ん? :2001/04/13(金) 04:02
わざわざズレた質問へのお答え、ありがとうございます。
えーと、[どう[車を直さない]]ってのは「どういう手段はとらないのですか」てなニュアンスですよね。
で、よくわからないのは[[どう車を直す]ない]ってのを別の表現で平たく言うとどうなっちゃって「変」なのかっていう点です。
この場合の「非文法的な文」てのはつまりどういう言い回しが否定されてるのか、というのが知りたいんです。
それが単に「私を産んだ母は、私を産む10年前に亡くなった」のように、論理的に矛盾しているから許容されない文なのであれば意味の問題だから文法の問題ではなくなりますよね。
>>41 さんの意見はそういうことなんじゃないかと思ったんですが、そういう矛盾しちゃってる解釈がうまいこと思い浮かばなくて、じゃあ「そうではなく、文法的な問題」なのかな、とも思ったんですが、そもそも先に「言える」という判定をしてしまったので「どう非文法的なのか」がわからないんですよ。
「どういう文脈なら言えない」のか、でもいいんですけど。
82 :
ん? :2001/04/13(金) 04:37
あ、「文脈」って言っちゃったら意味の話になるか…
えーと何て言ったらいいんだろう…
「どう 太郎が 車を 直さなかったの」が不自然だなって直感はまあ働くんですが、その不自然さって
「どう 太郎が 車を 直したの」
に感じる、「まあ意味はわかるけどあんまりしないよなーこんな言い方」と同じなんですよ、僕の場合。
だからこれが文法的なら「直さなかったの」も文法的なんじゃないかって思えちゃうというか。
で、「意味はわかるけど」を具体的に「直したの」についてどう解釈してるのかっていうと、[どう[太郎が車を直した]の]ってな感じかな、と。
これ「直さなかったの」と同じですよね。
「どう」って疑問で使う限り[どう車を直す]というまとまりじゃなくて、[どう[車を直す]?/φ/の/か/etc.]じゃないかとも思うのです。
だとすると「
>>38 の(4)だけ言えない」っていう前提がどうもおかしくなるような…というところでしょうか。
83 :
41 :2001/04/13(金) 04:46
「ない」が「車を直す」にかかっていれば、車を直していないわけですから、 その様子を問うことは無意味ということになります(ただ、強引に考えると、 車を直すかわりに行った何か他のことの様子が問題になっているような気が しないでもないですが)。 「ない」が「どう」にかかっていれば、「車を直す」は否定されておらず、 したがって、車は直されていて、実際に行われなかった車の直し方を問題に することもできるようになります。 私は、(4)の文単独では、前者の解釈しかできないように感じました。
84 :
41 :2001/04/13(金) 04:59
41のUG云々の部分は、段落をかえて書くべきでした。
これは日頃思っていることで、その前の部分とは関係ありません。
失礼しました。
ついでですが、
>>83 の後者の解釈を採用するとして、
(a) どう 太郎が 車を 直さなかったの
(b) 太郎が どう 車を 直さなかったの
(c) 太郎が 車を どう 直さなかったの
とすると、(a)より(b)と(c)はだいぶ不自然さが減るように思えます。
でも、「なぜ」の場合は位置を変えても自然さに変わりはないですよね?
時間が時間なので(笑)、妄想かもしれませんが、これも不思議です。
85 :
かかり助詞 :2001/04/13(金) 05:36
[[どう車をなおさ]ない]という解釈が「論理的に矛盾している ようなきがする」というのは、「わざわざ、なんでそんないくとおり も答えが可能なことを聞くんだ」ということでしょうか?それなら、 「太郎が 何を 直さなかったの」だって、いくとおりも答えがありうる けど文法的だ。私は質問の意味を理解してないかな。 84 もう一つwhがあるともっと良くなります。 太郎が 何を どう 直さなかったの? はほぼ完全に文法的だと思うけど。
86 :
ん? :2001/04/13(金) 06:38
あれ?僕だけレベルが低いせいか飛ばされちゃってるのかな。 41さん、再登場ありがとうございます。「どんな感じに直さなかったのか、その『直さなかったっぷり』『放置しまくりぶり』を教えてくれ」というニュアンスになるのがちょっと想像しづらい状況だから、意味的に(論理矛盾とまでいくかはともかく)不自然に感じるのが当然、ということでしょうか。 >かかり助詞さん 飛ばしたわけじゃなかったらしつこくて申し訳ないですが、[どう車を直す]というまとまりではなくて[[どう]車を直す[ ]]と考えるのはダメですかね。 構造も「直さなかった」と一緒になってすっきりすると思うんですけど、ダメだとしたらどういう不都合があるんでしょうか。
87 :
(´Д`;) :2001/04/13(金) 12:20
またまた余計な横レス。
あれ、「ん?」さんはひょっとしてあべこべに解釈してるのかも。
>[[どう車を直さ]ない]
は直すことは直すんだけど、それはどういう手段を使わずに直すのか、で
>[どう[車を直さない]]
は車を直さなくて、その直さない様子を尋ねている。
前者は、人に頼んで直したんじゃなくて自分で直したんだ、の「人に頼んで」の
部分が答えになる。
後者は、他に用事があると嘘を言って直さなかった(修理を拒んだ)、の「他に用事が
あると嘘を言って」の部分。
前者は
>>85 で言われてるように答えはいくつもありそうだけど、「何を直さなかった
の」と同様、D-linkされているかecho question的な解釈だとかなりよくなると思う。
「どうは直さないのか」だと俄然良くなる。
>>69 の
>A「太郎は車をスティル直してない」
>B「え? 太郎は車をどう直してないの」
>A「まだ直してないといったんだよ」
はecho questionで、しかもスティル(イェットかな?)は上のどちらでもないように
思うけど。(あえて言えば後者かな)
>>70 の
>「私は電球を[どう作れないか]をまた一通り発見 したのだ。」といった。」
是非原文を知りたいんだけど、これは上の後者の場合でないのかしらん。
88 :
考える名無しさん :2001/04/13(金) 12:44
大切なのは、車をどう直すかではなく、どう直さないかだ。直せばお金がかかる。 直さず何とか乗り続けることを考えよう。
89 :
考える名無しさん :2001/04/13(金) 12:46
I still haven't bought a new car. (Progressive)
90 :
(´Д`;) :2001/04/13(金) 13:45
例文提供多謝。
>>88 [ どう [[ 直さずに ] 済ます ] か ]みたいにdecomposeすると分かりやすいね。
>>89 なるほど、確かに否定のスコープの外にある。
91 :
ん? :2001/04/13(金) 19:32
sageなくてもいいかな。
>(´Д`;) さん(?)、88さん
どうもありがとうございます。そう解釈するんですね。勉強になりました。
最初の疑問に戻りますと、[どうなおさ[ない]]でも[どう[なおさない]]でも文としてOKなんですね。
で
>>38 の(4)の文、[どう 太郎が 車を 直さなかったの]が非文法的というのは、この語順の時の話ですよね。(「太郎が」「車を」の位置を変えたり無かったりすると問題無いので)
で、ダメなのは[[どう 太郎が車を直した]の]の否定、[[どう 太郎が車を直さなかった]の]の時、という話でいいんでしょうか。(また間違ってそうだなぁ)
けど[[どう 太郎が車を直した]の]と[[どう 太郎が車を直さなかった]の]との不自然さの度合いって、同じくらいじゃないかなって思うんです。
で、頑張れば意味が取れる度合いもそんなに差があるとも思えないのです。
前者は普通「太郎が車をどう直したの」が一番落ち着きます(「どう車を」の方が落ち着く人もいるかな)し、後者も「太郎が車をどう直さなかったの」が自然だって話はもう出てますよね。
どうも僕にはどっちも同じじゃないかって思えてしまって、この二つで後者だけ「非文法的」と判断する基準がまだわからないんです。
92 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/13(金) 20:22
だから後者だけ非文とはいえないのさ。
93 :
かかり助詞 :2001/04/14(土) 00:15
「ん?」さんを飛ばしたつもりないのだけどな。
87さんの説明が正しいすぅ。問題の解釈は「直したことは
直したけど、どう直したわけではなかったの」という意味です。
この解釈では「どう太郎が車を直さなかったの」は非文法的。
すなわち、この文はそういう意味には取れない。言い方を
かえれば「バッテリーを代えることによってです」みたいな
答えが出来ない。
91の「太郎が車をどう直さなかったの」が文法的だとしても、
「太郎がどう車を直さずにすましたの」という意味しかない。
だから、「バッテリーを代えることによってです」という答えは
出来ない。出来るのは「太郎は(自分の車を直さないで)
次郎の車を借りることにしたんだ」みたいな答え。
こんなんでわかるかな。
>>87 もとの英文はI found yet another way how I cannot
invent light bulbs.だったかな。見たときにメモしとけば
よかったけど、しなかったから簡単には見つけられません。
すいません。87さんは同業者のようだけど、私も知ってい
る人なんでしょうか。
94 :
ん? :2001/04/14(土) 11:53
>かかり助詞さん 疑ってすいませんでした。 けどやっぱりピンと来ません。 何がピンと来ないかというと、 「どう太郎が車を直したの」「バッテリーを替えたらしいよ」 ってのも十分不自然じゃないかなぁ、と。 そりゃまあ意味は取れるんですけど、けどたとえば日本語が母語でない留学生がこうしゃべってたら「語順がちょっとおかしい」といって直すでしょう、と。 これは文法的にOKでいいんですか? それからもう一つ。「どう直さなかった」という表現だけで「直したけど、この手段は取っていない」の含意があるってのはもともと論理的に無理がないですかね。 これが言えないのが本当に意味(論理)の問題ではなくて文法の問題なのかってのはやっぱり気になります。「直した」の否定は確かに「直さなかった」ですけど、反対語ではないんだからきっちり裏返しの意味が全部出てくる方がおかしいと思うんですよ。 「否定」ってのがどういう意味を持ってるのかってのは厳密には僕はよくわかんないですけど、「直した」を全部否定すれば「直したが…」なんて出てこられなくて当然じゃないかなって思いました。 「どうは直さなかったの?」のように(形だけじゃなくて文脈でもいいかな)対比の表現で部分否定にするから言える内容なんじゃないでしょうか。 「みんな次郎のやり方じゃ直らないって言ってたけど、結局太郎が直したんだね。太郎はどう直さなくて、どう直したの?」 てのならまあ、普通こんな発言には遭遇しないと思いますけど、一応自然に聞こえますよね。
95 :
ん? :2001/04/14(土) 12:01
例文微調整。 「どう直して、どう直さなかったの?」 の方がいいかな。何が言いたいかというと、文の構造の問題というよりも意味とか論理の問題ではないかなぁという気がするということです。
96 :
かかり助詞 :2001/04/14(土) 13:21
>>94 -5Kuno & Takamiがlinguisitic inquiryに三年くらい
前だったかな、こういう事について94-5さんのような路線の
論文を書いたから読むといいよ。私個人はそういう路線に
懐疑的だけど、そういう考えが間違えだということは私は
今のところ示せない。だから、どっちが正しいの、なんてあんまり
問いつめないでいただきたい。昔、rizziが日本に来たとき、
「それでもこれはsyntaxの問題だ」って内容のトークしてたけど。
それと上で書いた「なぜ/why」と「ない/not」の現象を説明する
のは意味的な事だけでは難しいです。
一般に様態の副詞というのは主語に先行していると確かに
少し不自然だ。「手際よく太郎が部屋を掃除した」というより
「太郎が手際よく部屋を掃除した」の方がいい。から、
「どう太郎が車をなおしたの」というのが不自然と感じる
気持ちも分かります。しかし、それはまた別の原因に起因する
別問題なので、一緒に考えない方がいいと思う。
97 :
(´Д`;) :2001/04/14(土) 14:17
>「直した」の否定は確かに「直さなかった」ですけど、反対語ではないんだから >きっちり裏返しの意味が全部出てくる方がおかしい たとえば「太郎はこのやり方で車を直さなかった。」だと、直すことは直した、 そもそも直さなかった、の両方の解釈ができるのに、それが「どう直さなかったの」に するとなぜ前者の読みが消えてしまうのか、がそもそもの問題提起だったよ。 文脈を適当に与えてやると前者の読みができる場合もあるのは、それが「どうは」 みたいに対比を出しやすい文脈で、ちょうど「このやり方では直さなかった」が 前者の読みを要求するのと同じでしょう。 >文の構造の問題というよりも意味とか論理の問題ではないか その「意味とか論理の問題」の多くは構造に由来するものである、論理意味は 統語構造から読み取られるのであり、ある意味解釈がおかしい、不可能だと僕らが 感じるのはそういう解釈に対応する統語構造(生成文法でいう論理形式LFはあくまで 統語構造であって意味構造ではない)やその出し方(派生方法)に問題があるからだ、 というのが生成文法の基本的な考え方の一つ。 たぶん「ん?」さんは論理というよりもっと語用論的な要因を言いたいのだと思う けど、そういったことよりももっと基本的な部分で、言語のありえる構造を厳しく 制限しているものがあるわけです、はい。
98 :
(´Д`;) :2001/04/14(土) 14:19
「主語」の話しがどっかへ逝ってしまって、怒ってる人もいる(笑)と思うので、 ちょっとネタふり。 外出の通りチョムスキー流だと「主語」「目的語」なんていう文法関係概念は あくまで便宜上の派生的概念なので、理論的には「主語は普遍的に存在しない」、と いう極論も成り立つと思う(爆) では、便宜上の「主語」とは何か、とりわけこのスレの主旨からすれば「文の主語」 とは何か、だけど、今の枠組みだと、Spec(TP)位置を占める要素、Tとφ素性の一致を 結ぶ要素、の二通りの考え方ができる。 たとえば虚辞thereやアイスランドなんかのquirky Case subjectが「主語」かどうか は、どちらの定義を採るかで変わってくるけど、特に日本語の場合、Spec(TP)への 顕在的移動があるかどうか、素性一致があるかどうか、のどちらもが争点になって おり、さらに多重ガ格やmajor sujbect、ニ格主語などのせいで、主語を明確に 特定することが困難なのも、「日本語には主語はない」と言われることの一因だと 思うわけです。 たとえば、次の各文で「主語」はどれでしょう、ときかれたら、どうしよう(笑) 1) 太郎が妹が美人だ 2) 太郎が腹が黒い 3) 太郎に妹がいる 4) 太郎に金がいる(要る) 5) 太郎が英語を話せない 6) 太郎が英語が話せない 7) 太郎に英語が話せない 8) 英語が太郎に話せない (○○さん、出番ですよ!)
99 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/14(土) 14:20
100 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/14(土) 21:37
「話題の提示+叙述」で片が付く話じゃないの? なんで、こうも主語の存在にこだわるのかな。「主語+述語」という視点と「話題の提示+叙述」という視点が並立していて、言語によって、どちらがより顕在化しているかじゃない。 ちなみに、生成文法とやらで、タガログ語を解説してみてよ。タガログ語は、日本語以上におもしろい言語だから。 印欧語の呪縛から離れたら。
101 :
名無しさん@1周年 :2001/04/14(土) 22:10
>>98 の例文はあまり普通に見られることはなくて
どれも「は」とかを伴うのが自然だと思うんですけれど。
102 :
かかり助詞 :2001/04/15(日) 01:01
98さんには私が誰だか解っているのかな。わたしは98さんが だれだか解らない。ナンか嫌だな。 100「話題の提示+陳述」だと以下の文ではどれが主語なんでしょ。 (1) 太郎が その本を 読んだ。 (2) 太郎は その本を 読んだ。 (3) 太郎が その本は 読んだ。 「は」は「主題」のマーカーだけど、例えば(3)では「その本」が 主題だから主語? タガログ語は基本的にはVOS言語。だけど、この言語でもSが本当に 主語なのか、あるいは主題なのか解らない。動詞にいろいろな 形態素をつけて、(英語の受動文のように)目的語を主語にしたり、 また別の(circumstantialと呼ばれる)形態素をつけたりして locationとかを主語に出来る。勿論、こういう言葉を生成文法で やっている人もいます。 101一般に、単独の文には主題がないと座りが悪い。98の文が少し悪い のはこのため。それ自体は「主語」とは別問題です。生成文法では 最後に「こと」をつけて「文」を「名詞」にすることによって、 主題のない座りの悪さをさけるのが慣例になっております。 たとえば「太郎が妹が美人な(こと)」ちゅー具合だ。
103 :
ん? :2001/04/15(日) 05:24
主語の話に戻ったから、sageますね。じゃあ書くな、と言われそうですけど答えてもらっといてわかったのかどうか返事もせずに消えるのも失礼なので。
>>96 ありがとうございます。ご紹介の論文(ですよね?)、探して読んでみたいと思います。僕には難しい上に見つけるまでに時間かかるかもしれませんけど、努力します。
>しかし、それはまた別の原因に起因する
>別問題なので、一緒に考えない方がいいと思う。
はい、わかります。わかりますけど、「非文法的」ってのはどこから始まるのかな、と思いまして。
それで気になったのでした。
>>97 >たとえば「太郎はこのやり方で車を直さなかった。」だと、直すことは直した、
>そもそも直さなかった、の両方の解釈ができるのに、それが「どう直さなかったの」に
>するとなぜ前者の読みが消えてしまうのか、がそもそもの問題提起だったよ。
「太郎はこのやり方で車を直さなかった」は普通は「そもそも直さなかった」の方じゃないですか?
直した場合は「太郎はこのやり方では車を直さなかった」が普通で、「は」が無いのに同じ意味が解釈できるのはやっぱり文脈に依存していて「どう」の場合とあまり変わらないような。
「このやり方で」と一つに「やり方」が限定されてるから「どう」より対比の意味が取りやすいけど、「どう」の方が文脈に依存する度合いが強いのは「どう」と「このやり方で」の違いではないんですか?
104 :
ん? :2001/04/15(日) 05:33
>「太郎はこのやり方で車を直さなかった」は普通は「そもそも直さなかった」の方じゃないですか? あ、すいません。よく考えたら両方この言い方でも普通ですね。でもどっちが普通かってのはないですけど、やっぱり直した解釈になる方が文脈を前提としてる点では「どう」と一緒だと思います。 「どう」と「このやり方で」の違いに行き着きそうに見えます。
105 :
100 :2001/04/16(月) 03:45
>>102 > 100「話題の提示+陳述」だと以下の文ではどれが主語なんでしょ。
> (1) 太郎が その本を 読んだ。
> (2) 太郎は その本を 読んだ。
> (3) 太郎が その本は 読んだ。
> 「は」は「主題」のマーカーだけど、例えば(3)では「その本」が
> 主題だから主語?
俺は、「主語の存在に、そんなにこだわらなくてもいいんじゃいの?」といっているのに、なぜ、こんな質問をなげるのかなあ?
言語の本質は「情報の伝達」なのであって、伝達する必要がなければ、主語はなくてもよいというのが基本。
日本語に関して言えば、主語はあるけど、いつもあるとは限らない。別になくても言語として不自然ではない。
タガログ語の場合は、フォーカスをどこに置くかという事でしょ?
目的語やlocationが主語になっているか?
106 :
しゅご :2001/04/16(月) 05:39
無いなんて言えません。 むしろ、逆でしょう。 どんな文にもあるのです。 少なくとも、日本語の文ならば、 主語無しに、成立することはありえません。 1の方に、申し上げます。 よく考えてください。 主語抜きの文を日本語と呼べるでしょうか?
108 :
(´Д`;) :2001/04/16(月) 08:04
>>100 =105
失礼ながら生成文法の考え方を理解していないゆえの的はずれな書き込みをしていると思われ。
まず再確認してもらいたいのは「主語」というのは派生的概念であって、ある現象をまとめて
記述するのに便利だからそういう呼び方をしているというだけ、ってこと。
いわば「主語特性」とでも呼べるような特性のクラスタを示す文中要素が諸言語に見られると
いうことだが、大事なのはそのような特性をもたらすメカニズムの正体であって、
>>1 さんの
最初の関心はともかく、生成系の視点からは「日本語に主語はあるか」ってのは、そのような
特性を示す要素は日本語にもあるのか、そしてその背後にあるメカニズムが他の言語における
ものと同じであり、普遍文法研究にとって有意義なものであるのかどうか、ってこと。
(余談だが、そのメカニズムの一つとして素性一致があり、日本語にもそれがある、という
ことを「係り結び」スレで議論していたのだよね >「かかり助詞」氏)
「印欧語の呪縛」ではなく、印欧語の分析では有効な「主語」という概念が、日本語なり
タガログ語なりにも同等に有効かどうか、有効でなければより包括的で一般的な概念をどのように
定められるか、を知りたいからこそ「日本語に主語はあるか?」なの。
で、タガログ語では、英語などの主語が示す諸特性のうち、一部はトピック要素に、他の一部は
深層主語(今風にいうとSpec(vP)を占める要素)に、分散して現れるらしい。
これは、英語だけ見れば全部まとめて表層主語に帰せられそうな特性を、さらにきめ細かく区分し、
それぞれをもたらすメカニズムを特定する上で有益。生成文法はそれをちゃんとやってるよ。
まずはためしに下記論文を読んでみるとよいよ。
E. Guilfoyle. Phrase structure and passive. In K. Leffel and D. Bouchard@` eds. Views on Phrase
Structure. Kluwer 1991.
>伝達する必要がなければ、主語はなくてもよい
必要があろうがなかろうが、省略できるものとできないものがあるんですよ。それを支配する原理に
興味を持つ人が生成文法をやってるだけのこと。
109 :
かかり助詞 :2001/04/16(月) 14:16
108氏に同意。「日本語に主語はあるか」という問題は 言い換えれば、「日本語文法に主語という概念を導入す ることにより何かの事実群を統一的に説明できるか」 という事です。そのひとつ(の可能性)が、上で書いた 「自分」の先行詞に関すること。 言語の本質が「情報伝達」というのも、どうかな。言語の 機能の一つが情報伝達というのなら解らないでもないけど。 「主語を言わなくても文脈によって主語が解る」というの だったら、目的語だってナンだって、確かに省略可能なの だから、目的語や他の物もないことになる。
110 :
1 :2001/04/16(月) 14:54
ごぶさたしておりました。
あまりに私の理解できる範囲を越えた議論だったため、
口を挟む余地もございませんでしたが、少しだけ。
どのへんだったかはわかりませんが
「日本語の主語と英語の主語は違う」*1みたいな言い方で
日本語の主語を容認されるような発言をなさった方がいらっしゃったように思いますが、
(誤読だったら申し訳ありません。)
であれば、そもそも英語の解析で先に利用されている「主語」という概念や語を
「日本語」に適応するのは無理がある、と思われました。
(これは、あくまで*1を前提とした場合です)
>>108 さんのおっしゃっている
「印欧語の分析に利用される「主語」という概念が、日本語の解析に有効なのか?」
というのは、単純にある程度の効果があるという意味ではなく、
究極的には、日本語に印欧語にみられる「主語」構造を持っているのか、どうか?
と捉えてよろしいでしょうか?
そういう意味なら、その後の
>>109 でかかり助詞さんが言われる
「日本語文法に主語という概念を導入す ることにより何かの事実群を統一的に説明できるか」
に繋がっていく、ということは理解できます。
(そのあとの自分の先行詞などの話はまだ、理解できていませんが)
スレをたてた私がいちばん、話の流れを理解できてないようで申し訳ありません。
111 :
1 :2001/04/16(月) 15:03
>>107 ついでの素人の横槍ですが、
>>106 さんの文章じたいが、
主語を欠く文章例として書かれているような気がしました。
違ったらごめんなさい。
よーし、生成文法に勝てるよう頑張るぞ。
113 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/16(月) 23:37
「ない」と「明示しない」を混同している・・・
114 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/17(火) 00:17
>>113 「示されない」ものは存在し「ない」。
顕かに「暗示」する構造があれば、存在すると言っていいが、
その論拠なしに「明示しない」と言い切るしかないのは、
君の妄想の中にしか存在しないから。
115 :
(´Д`;) :2001/04/17(火) 01:02
>>113 うん、基本的なとこをちゃんと整理しとかないと議論が空転するね。
>>110 そういうふうに理解してくれていいです。
日本語の「主語」といわれているものと英語の主語を比較して、「主語」の
概念をより限定的にできるという気がするの。
英語の定時制能動文の主語は通常
a) vP内最上位Specに基底生成され
b) Tとφ素性の一致関係にあり
c) その反映として主格素性を指定され
d) EPPによりSpec(TP)に顕在的に移動
という別個の特性を全部同時に満たしているんだけど(他にもある?)、他の
いろんな言語や、あるいは英語でも他の構文(受動文、中間動詞文、虚辞構文etc.)
では、文主語はこれらの特性を部分選択的にしか示さない。
で、例えば主語指向性の照応語の先行詞になる、ならない、は上の諸特性のうち
どれと直接的に関係しているのか、を突き止める上では、そのような部分選択的な
ケースを調べたほうが有効だね。もし日本語の主語がSpec(TP)に移動していない
なら特性(d)は照応語の先行詞としての資格とは無関係なんだ、みたいに。
ちなみに「主語でなくても「自分」の先行詞になる」ということが出てくるスレ↓
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=gengo&key=966427337&ls=50 相互リンク希望、なんてね。
116 :
名無しさん :2001/04/17(火) 01:25
「日本語にVPはあるか」
「日本語に一致はあるか」
「日本語に変形はあるか」
このへんの問題って、以前よく見たけど、最近はどう扱われてるんですか。
>>115 のように(a)-(d)の特性を手がかりにいろいろ考えるなら、その前に
こういう疑問を解決しないといけないですよね。
117 :
しゅご=106 :2001/04/17(火) 02:28
>>111 @`1
わたしは金がほしい
わたしは金がない
「ほしい」の主語は?
「ない」の主語は?
では、
「ここは 眺めが 良い」
の「良い」の主語は?
118 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/17(火) 03:29
「お姉ちゃん、私ね、お願いがあるんだ」 栞は生まれた時から難病を患っており、今まで入退院を繰り返していた。 そのため、学校にもあまり行く事はない。 楽しいことなんて何もなかった。――なんのために私は生きているんだろう。 窓から見える庭で子供たちが楽しそうに遊んでいる。それを見るたびそうつぶやいた。 そんなある日、姉の香里が一台のノートパソコンを持ってきた。 栞のその足で外の世界を見てくることはもうできない。でもインターネットなら―― 香里はそう考えた。そして香里は栞にあるBBSを教えた。 そう、2CHである。 「でね?ここをおして・・・・そうよ。出来るじゃない!」 香里の懇切丁寧な教えもあって栞は2CHの隅々まで食い入るように読んでいった。 「お姉ちゃん!ありがとう!こんな良い物をプレゼントしてくれて!」 栞は今までで見せたことのないようなとびきりの笑顔で香里に笑いかけた。 それからめったに笑わなくなっていた栞はよく笑顔を見せるようになった。 しかし彼女の誕生日も間近に迫ったある日、栞の容体は急変した。 好きなパソコンを取り上げられICUに運び込まれた。 それから栞は生死の境をさまよった。家族全員で連日病院に泊り込んだ。 ようやく栞が目を覚ましたその日、喜びにあふれる家族を担当医が呼び出した。 そして栞はもう長くないこと、なにかあの子に思い出を残してあげるようにと告げた。 「お姉ちゃん、私ね、お願いがあるんだ」泣きむせぶ香里に栞はそういったのだ。 「なぁに?栞。何でも言ってごらん。」「私、2CHがみたいな」 香里は素直に栞の要望を聞き入れた。そんなことでこの子が喜ぶなら――と。 手の筋肉がすっかり衰えてしまった栞はおぼつかない手つきでパソコンを起動させた。 そしてブラウザを起動させ2CHに入った。闘病生活で大分衰弱した栞の体は マウスを動かすだけでも重労働だ。胸のあたりが痛い。苦しい。目が霞んできた。 そう、この時栞は最後の力を振り絞っていた。これで死んでも良い。2CHが見れるなら。 目が霞んで今何処の板にいるかわからない。でたらめにマウスをクリックした。 そして最後の力を振り絞って画面に目の焦点を合わせた。 「!?・・・こんな・・こんなのが最後・・!?こんなのってないよ・・・!!!」 ガクッ ピーーーーーー 彼女の最期を告げる心電図の非情な音。 「・・・・・栞!?」「栞っ!しっかりするんだ!」栞は目を閉じたまま返事をしない。 画面には「庭で栞がアイスを食ってます!助けてください!!!!」の文字。 「うわあぁぁ!!!栞ーーっっ!!」 その時窓の外に雪が降っていた―――
119 :
1 :2001/04/17(火) 12:57
なんかしくじったかな。
本人はマジメにやってるつもりでしょ、と言うだけのつもりだったのだけど。
>>106 【主語が】 無いなんて言えません。
【真理は】 むしろ、逆でしょう。
【主語は】 どんな文にもあるのです。
【文というものは】 少なくとも、日本語の文ならば、
主語無しに、成立することはありえません。
【私は】 1の方に、申し上げます。
よく考えてください。
【我々は】 主語抜きの文を日本語と呼べるでしょうか?
>>117 【わたしは】 金がほしい
【わたしは】 金がない 【ここは】 眺めが 良い
以上、【 】で閉じられた部分が、
私が学校で習った文法で言う主語です。
間違いはあるかもしれませんが。
>>119 そうじゃなくて
わたしは 【金が】ほしい
わたしは 【金が】ない ここは 【眺めが】 良い
【 】で閉じられた部分が主語じゃないの?
「わたしは」「ここは」が無くても【意味は】ある程度は分かるけど、「金が」「眺めが」を省略したら意味不明だし。
121 :
名無しさん :2001/04/17(火) 14:43
「省略したら意味不明」という基準は、項(arguments)に対して使う ものでは?
122 :
1 :2001/04/17(火) 14:53
>>119 すみません、一個ちがいますね。
×【主語が】 無いなんて言えません。
○【私は】 (主語が)無いなんて言えません。
たとえば 「今日は、天気がいい。」 って文で 「天気」=主語 「いい」=述語 「今日は」=連用修飾語(英語で言う所の福祉苦) だよね?
124 :
1 :2001/04/17(火) 15:03
>>120 じゃあ
わたしは 金を 欲する
わたしは 金を 持たない
ここは 眺めも 良い
は、どうですか?
>>124 わたしは(主語) 金を(目的語) 欲する(述語)
わたしは(主語) 金を(目的語) 持たない(述語)
ここは(連用修飾語) 眺めも(主語) 良い(述語)
126 :
1 :2001/04/17(火) 15:08
質問ばかりですみません。
>>125 じゃあ
ここは 眺めも 香りも 静けさも いい
は?
ここは(連用修飾語) 眺めも 香りも 静けさも いい  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 主語
128 :
1 :2001/04/17(火) 15:57
129 :
1 :2001/04/17(火) 16:20
なんだか楽しくなってきてしまったので、 申し訳ありませんが、さらに質問させていただけませんか? ここは 眺めも 香りも 静けさも 心地よい
130 :
世界@名無史さん :2001/04/17(火) 17:05
ここは(連用修飾語) 眺めも 香りも 静けさも 心地よい  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 主語 いやまて、ひょっとして心地が主語なのか。
131 :
1 :2001/04/17(火) 17:54
すみません、さらに質問です。
ここは 心地よい
ここは いい
海は いいなぁ おっきくってさぁ。
因みに「心地よい」は、そのまま一語で形容詞だそうです。
世界史板からご苦労さまです。ありがとうございます
>>130
132 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/17(火) 19:56
>>116 日本語にVPはある(と生成文法家は一般に考えています)。
Saito & Hoji 1983 NLLTの論文あたりが古典的な文献かと。
日本語に変形はある(と生成文法家は一般に考えています)。
Saito 1985 博士論文 MIT あたりが古典的な文献かと。
日本語に一致は...
Kuroda 1992 (Kluwerから出てる本) は無いと主張しています。
ただし、日本語のhonorific agreementをTと主語の一致と同じ
ようなメカニズムでとらえようという提案はあるようです。Googleで
Japanese honorific agreementで検索するといくつかヒットします。
これに関して特にメジャーな論文というのは、不勉強のせいで知り
ません。ごめんなさい。
133 :
1 :2001/04/17(火) 22:12
>>120 ああ、たしかに一つ違う解釈ができますね。
(ここにあったはずの) 【金が】 ない
134 :
かかり助詞 :2001/04/18(水) 03:54
個人的に忙しくしてまして、書き込み出来ませんでした。 一般には「が」や「は」が付くものが主語と考えられていますが、 これが、この2ー3日のレスで話題になっていることだと思うます。 「可能」の意味のある述語の文中ではいろいろなものに「が」が付けます。 (1) 太郎が 明日が 都合が 付けられる。 <ー> 太郎が 明日 都合を 付けた。 もし「が」が付くものが主語だとすると、(1)では3つ主語があることになる。 上で書いた「自分」のテストを当てはめて見ると、「が」にマークされた 目的語っぽいものは「自分」先行詞になれないことが分かります。 (2) 太郎が 花子が 自分の部屋で つかまえられる。 (2)には「太郎=自分」の意味はあるけど、「花子=自分」の 解釈はありません。 いっぽう、「に」でマークされている(3)の句も「自分」の先行詞に なれます。 (3)太郎に ピアノで 自分の曲が 引ける(こと) だから、「自分」のテスト(「主語とは、自分の先行詞になれるもの) を使うと、(2)の「花子が」は主語ではないけど、(3)の「太郎に」 は主語と言うことになる。
135 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/18(水) 09:28
>>134 かかり助詞さんへ
確認させていただきたいのですが、
1. X is 主語 if Xが「自分」の先行詞になれる
2. X is 主語 only if Xが「自分」の先行詞になれる
3. X is 主語 if and only if Xが「自分」の先行詞になれる
のうち、どの立場をとっていらっしゃるのでしょうか?
既に立場を表明済みでしたらごめんなさい。
もし1あるいは3の立場をとっていらっしゃるとすると、次の例の
「太朗を」が主語だと考えるのでしょうか?
母親の自分への期待が太朗を憂鬱にしている
(「自分」=太朗という解釈で、私にはOKです。)
もし2の立場だとすると、Xが「自分」先行詞になれるという事実
だけをもって、Xを主語だと断定することはできませんよね。
ちなみに、「太朗にピアノで自分の曲が弾けること」という文で
「太朗に」が主語であるということには同意しています。
136 :
(´Д`;) :2001/04/19(木) 02:20
かかり氏忙しそうだから場つなぎにネタふり。 >太郎に ピアノで 自分の曲が 引ける と同様 1) 自分の曲が太郎にひけない もよい。これは主格目的語がスクランブルして文頭に出ただけだろう。 では 2) 自分の曲が太郎には難し過ぎる。 3) 自分の噂が太郎にとってはショッキングだった。 4) 自分の家族が太郎の一番の宝物だ。 とかになると、どうだろう。これらの「太郎」も主語?
137 :
かかり助詞 :2001/04/19(木) 02:25
135とってもいい質問ですね。私は1。の立場を考えていました。 「母親の自分への期待が 太郎を 憂鬱にしている」という例は、所謂「心理述語(psych predicate)」の例です。英語でも、心理述語文は主語の中に 再帰代名詞が出てこれます。 (1) Pictures of himself worryed John. いっぽう通常の述語だとこういう「逆行再帰代名詞」は出来ません。 (2) *Pictures of himself hit John on the head. Belletti and Rizziはこうした事実に基づいて、(1)の主語はもともと 目的語より左(句構造で下)にあったものが上がってきたものだと考えました。 「母親の。。。」という文にも同じ分析が当てはまると思われます。
138 :
(´Д`;) :2001/04/19(木) 02:38
お、なんだ行き違いかい(藁 昔は逆行束縛は心理動詞の専売特許みたいに思われていたけど、そうではなくて実は 使役述語が一般に示す特性。B&Rの非対格分析は今ではほぼ完全に否定されていると 思う。 2) 自分に対するいじめがついには太郎をその凶行に走らせた。 3) 自分が病気かも知れないという心配が太郎を保険に加入させた。 4) 自分についての雑誌記事が太郎を大爆笑させた。
139 :
あみ〜ごみ@名無しさん :2001/04/19(木) 11:08
>>138 「一体何が彼をそうさせたのか」みたいな文だな
140 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/19(木) 22:52
141 :
かかり助詞 :2001/04/20(金) 01:23
136どうも。お互いに多忙なようで。たしかに「自分」のテストは あんまりよくないようですな。元々の問題は、「日本語の主語とは 何か」という事がよく解っていないので、「自分の先行詞になれる 物は主語」という定義をして、「では136の2-4の太郎のような のも主語かと言われると、それ以上答えられなくなってしまう。 もう一つ、別のテストがあって、それが「自分」のテストと全く 同じ物を主語と規定するのなら、もう少し信憑性のある議論が 出来るはず。その一つの可能性が、「[お-なる]という尊敬語の 尊敬対象になれる物が主語である」というテスト。 1) 太郎に ピアノが お引きになれる。 何て具合に「に」句も尊敬対象になれる。 136の(2-4)には、述部の性質上、「お-なる」というのは 付けにくいな。どなたかやってみて。 138その通りで御座います。
142 :
>138 :2001/04/20(金) 01:47
>2) 自分に対するいじめがついには太郎をその凶行に走らせた。 >3) 自分が病気かも知れないという心配が太郎を保険に加入させた。 >4) 自分についての雑誌記事が太郎を大爆笑させた。 自分=主語に戻るんですが、ついでにお聞きしたいんですが、 5) 自分に対するいじめが原因で太郎はその凶行に走った。 6) 自分が病気かも知れないという心配から太郎は保険に加入した。 7) 自分についての雑誌記事に太郎は大爆笑した。 だと、心理動詞でも使役でもないと思うんですが、 どう説明されるんでしょう。目的、理由も逆行束縛 OKということでいいんでしょうか。 副詞句はなんでも逆行束縛OKなんでしょうか。 自分=主語に戻ってしまいますが。。。 副詞句の自分が主節の主語以外を指せますかね、ところで?
143 :
(´∀`) :2001/04/20(金) 03:28
(ハンドルフェース(?)また変えたよ)
>>142 (5)〜(7)の例はなんのことはない、原因を表す副詞句が移動で文頭に出ただけのこと。
「太郎は自分に対するいじめが原因でその凶行に走った」ってのが移動前で、表層語順
はどうあれ「自分」は元の位置で束縛されている。これは再構築(reconstruction)効果
とと呼んでるもので、上の
>1) 自分の曲が太郎にひけない
も本質は同じだよ。
で、142さんはもう気が付いたと思うけど、使役文は引き起こされる下位事象を
埋め込んでおり、被使役者項はその下位事象内の主語にほかならない。
「太郎を凶行に走らせた」は「「太郎が凶行に走る」ことを引き起こした」
みたいに。これは心理動詞もまったく同じ。だから、使役文の被使役項が「自分」の
先行詞になれる、というのは一部はこのような主語性によって自然に理解できそうだ
けど、問題はむしろその先。(続く)
144 :
1 :2001/04/20(金) 03:41
>(´∀`) さん、かかり助詞さん
少しづつ、話の輪郭がぼんやりながら見えてきそうです。
(土台になっている生成文法などの理論の背景は、よくわからないのですが)
「お−になる」の話もやっと何を言ってるのかわかりました。
それを根拠にできるかは、なんだか疑問ですけど。
続き、楽しみにしてます。
くだらない「主語はどれ?」レス挟んで、すみません。
>>140 それは別にもういいです。
>>139 答えてもらわなくて構いません。
145 :
かかり助詞 :2001/04/20(金) 03:59
(1)には、「主格目的語」と呼ばれる、「が」でマークされた句があります。 (1) あの学生は 山田先生が 好きだ。 この山田先生が「主語」であるかどうかを決めるのに、尊敬語を使って見ると、 (2) あの学生は 山田先生が お好きだ。 みたいに、「あの学生」を尊敬しているような、語用論的にへんてこりんな 文章になる。すなわち、「山田先生」は「が」でマークされているけど、 この「尊敬語」のテストからすると主語ではない。 「自分」のテストを使うと、 (3) あの学生は 山田先生が 自分の学校で 一番 好きだ。 のように、「自分」の先行詞は、「山田先生」でなく、「あの学生」になる。 すなわち、「主格目的語」は尊敬語テストだけでなく、「自分テスト」から しても、主語ではない事になります。
146 :
(´∀`) :2001/04/20(金) 04:05
おっと話しを先に進める前に、 >副詞句の自分が主節の主語以外を指せますかね、ところで? の件なんだけど、やっぱり被使役項は「自分」の先行詞になる。 a) 太郎が花子に [ 自分の家の前で ] 逆立ちさせた。 b) 太郎が花子に [ 自分の誕生日が来る前に ] プレゼントを選ばせた。 ん? (b)はどうかな。俺は「自分=花子」も平気だけど、ダメな人いる?
147 :
かかり助詞 :2001/04/20(金) 04:50
146の使役文は、 太郎が 花子に-i [PRO-i 自分-i の家の前で 逆立ちする] させた。 のような構造になっていて、「自分」の先行詞は、「花子に」ではなくて、 「花子にコントロールされているPRO」ではないかね。
148 :
(´∀`) :2001/04/20(金) 05:21
>>147 「二格」causeeと「ヲ格」causeeの構造上の違いは確かにあるけど、「二格」が
主節内要素だという積極的な証拠はないように思う。かりに主節要素だとして、
それはどういう位置にあることになるのだろう。落ち着くべき項位置がないように
思うけど。また「ヲ格」でも「自分」の先行詞になるから、被使役項が「自分」の
先行詞になれる、ということに変わりはないよ。
a') 太郎が花子を [ 自分の家の前で ] 逆立ちさせた。
二重ヲ格制約のせいでヲがニに変わってるだけの場合もオッケー。
c) 太郎が花子に [ 自分の家の前で ] 車を修理させた。
あ、それとも「ヲ格」も主節にあるというのかな?
脱線しまくるけど
>>145 「〜に…が」パターンの存在文ではどれが敬語化を引き起こしてるのか分かりにくい
場合があるね。
d) (ご自分の)研究室に山田先生がいらっしゃる
e) 山田先生に(ご自分の)立派な研究室がおありになる
f) 山田先生に立派なご子息がいらっしゃる
(d@`e)はいいとして、(f)ではどっちが尊敬の対象なんだろね。
149 :
吾輩は名無しである :2001/04/20(金) 11:36
fの場合も山田先生への敬意でしょ? cf.「山田先生にたいへんお馬鹿なご子息がいらっしゃるのは残念だ」
150 :
(´∀`) :2001/04/20(金) 14:03
>>149 うん、同じことを俺もすぐ考えたんだけど、でも
「山田先生に有能な秘書がいらっしゃる」とか
「優秀な指導学生がいらっしゃる」とかは
言いにくいでしょ?
馬鹿息子でも山田先生の身内の人間ということで
敬意の対象になってるような気もしたんよ。
family relationshipはinalienable possession
みたいな特別の関係なのかな。
しかし「愛人がいらっしゃる」は言えそうだな。
擬似家族か?(笑
テスト
152 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/20(金) 15:18
ゼミに招かれた講師のおっさんが、講義を終えた後、皆に向かって、 「いやあ、さすが山田先生のゼミには優秀な生徒さんがいらっしゃる。」 とお世辞交じりに言った。 これの敬意の対象は誰になります?
153 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/20(金) 19:01
>>149 の例は「お馬鹿なご子息」のように、述語「いらっしゃる」
の主語に「お」「ご」がついてるから「いらっしゃる」が使えて
いるのでは?
1. 山田先生にとんでもない馬鹿息子がいらっしゃるのは残念だ
だと、(私にとっては)気持ち悪い文になってしまいます。
>>152 の場合も「優秀な生徒さん」の部分をnegativeなものに
代えると、やっぱり気持ち悪くなります。
2. いやあ、さすが山田先生のゼミには怠け者の生徒がいらっしゃる。
2の場合、皮肉にしか聞こえません。山田先生を尊敬していて、
尊敬する先生のゼミに怠け者の学生が集まって残念だってことを
言いたくても次のようには言えない気がします。(本質的には1の
場合と同じですね。)
3. 山田先生のゼミに怠け者が(集まって)いらっしゃって残念だ
>>152 の例の敬意の対象は、(話者の意図としては)山田先生だという
気がしますが、それは山田先生のゼミ生に対して敬意表現を使用する
ことで、間接的に(?)山田先生への敬意が出てきてるような印象を
受けます。
154 :
149 :2001/04/20(金) 19:24
>>153 ありがとうございます。
その場合の尊敬の対象は、おっしゃる通りかも知れません。
学校の公式行事に招かれた来賓が
この学校には、たくさんの元気なお子さんがいらっしゃる。
今日、私はあなたがたに、ひとつだけお話ししておきたい事があります。
・・・
あるいは
この学校には、まことに素直なお子さんばかりだが、
中には、たいへん生意気なお子さんもいらっしゃる。
私は特に、そういうお子さんにお話しておきたいことがある。
・・・
って言う時は、尊敬(嫌味も含めて)の対象は、お子さん、って感じしません?
155 :
153 :2001/04/20(金) 20:31
>>154 半分(?)同意します。聞き手(子供)に対するrespect/ironyを表す
のに、154>>のような言い方ができるという点については、完全に
同意します。
ただ、同じ例でも子供に対して敬意表現を使うことで、間接的に
学校、あるいは、行事そのものに対する敬意を表している(話し手
は子供に対して敬意を払っているわけではない)という解釈も可能
だと思います。
直感的な話になってしまって恐縮ですが「お...なる」とか「いら
っしゃる」等の敬意表現は、その主語に対する敬意(皮肉)を表す
読みしか、私には感じられません。上で言っていることと矛盾する
ように聞こえるかもしれませんが、私が言いたかったことは次の
ようなことです。
1. これらの敬意表現は形式上、その主語に対する敬意を表す。
(だから「お馬鹿なご子息」だと救われるけど、「とんでもない
馬鹿息子」だと気持ちが悪い)
2. ただし、ガ格主語がpositiveなものであったり、中立的なもの
である場合、形式的にはガ格主語に対する敬意表現を使うことで
ガ格主語以外のもの(典型的にはその所有者や、ガ格主語より優位
にあるもの)に対する敬意を含意することができる。(この場合、
話者がガ格主語に実際に敬意を払っている必要は無い。)
きちんと伝わる書き方ができているかどうか、いまひとつ自信がない
のですが...
156 :
149 :2001/04/21(土) 01:12
たびたび有難うございます
>>155 気持ちの悪さ、と言うのはわかります。
ただ、なんか主語の存在云々は別として
尊敬の対象というテストが有効なのかなぁ、とふと思ったです。
157 :
(´∀`) :2001/04/21(土) 01:25
う〜ん、俺もだいたい153さんの感覚に近いかなぁ。 「AにBがいらっしゃる」(AもBも人間)だと、まずAも尊敬される人で、 かつBも(B自身の資質およびAとの特別な関係によって)敬意を表される べき人でなければならない、ってなところだろうか。 ただ、B=主語と決めつけられるかどうかは少し疑問。 「山田先生に自分そっくりの息子さんがいらっしゃる」 「自分」との関係で言えば「山田先生」が「主語」のはずだからね。 Bがいくら立派であってもAがダメなら「いらっしゃる」は使えないしさ。 「あの史上最低男には皮肉なことに世界一の名医と謳われる立派な 弟がいらっしゃった」……絶対おかしい。 つまり「いらっしゃる」はA/B両方を主語にする、っつか、両方と一致して いるdouble agreementかも知れない、なーんてね。 このあたりはひょっとすると日本語の多重ガ格やmajor subjectとうまく 結びつけてまとめて扱えるのかも知れないね。
158 :
(´∀`) :2001/04/21(土) 01:31
で、昨日の
>>143 の続きなんだけど、心理動詞を含む使役構文の被使役者が「自分」の
先行詞になれることを、被使役者が引き起こされる下位事象の主語であることだけで
片づけるわけにはいかないのは、まず第一に「自分」より先行詞のほうが構造上十分
上にあること(定義は省略するけど、専門用語で先行詞が「自分」を「c-command」
すること)をどうやって保証するかという問題があるから。
a) 自分の友達が [ 太郎が天才だと ] 主張した。
「太郎」は埋め込み文中の主語だけど、主節主語内の「自分」より低い位置にあるので
その先行詞になれない。
しかし例の使役文では
b) 自分の噂が [ 太郎を思いっ切り笑わ ] せた。
みたいに埋め込み文中の主語が主節主語内の「自分」をc-commandしているとしか
思えない。(「太郎」が主節要素だとしても同様の問題は残るし、英語の類例では
被使役者は補文要素であることはほぼ間違いない。)
書いていて気付いたんだけど、これは埋め込み文が定時制節であっても成り立つようだ!
c) 自分が書いた下らない論文が [ 太郎が実はバカであるということを ] 証明してしまった。
俺は「自分=太郎」でオッケーなんだけど、みなさんどうでしょ?
159 :
(´∀`) :2001/04/21(土) 01:34
二つめの問題は、上の事と実は密接に関係あるんだけど、このような逆行束縛が許される のは、使役文でも、その主語が意図を持たない「原因」である場合に限られ、意図的に ことを起こす「動作主」ではだめだ、ということ。 心理動詞が逆行束縛を許しやすいのは、主語が無生物で最初から解釈が非意図的な原因 に限られている場合が多いからなんだ。 d) 自分の噂が太郎を困らせた。 他方、主語が人間だと意図的動作主としての解釈が優先されやすいので、心理動詞でも 逆行束縛は出にくい。 e) 自分の母親が太郎を困らせた。 母親がわざと困らせている場合は(e)は非文。だけど、ちょっと頑張って「母親」を 単なる「原因」と解釈すれば(アル中の母親のことで太郎は困っている、みたいに) 逆行束縛も成立する。 関連することはD. PesetskyのZero Syntaxって本で詳しく論じられていて、その一説明 方法も提案されているけど、まあ、いずれにしても非使役項と使役項の両方を考慮に 入れ、両者の構造上の相対関係をちゃんと理解しなければ逆行束縛現象は説明できない と思われる次第です。
非使役項→被使役項、っす。
161 :
かかり助詞 :2001/04/21(土) 09:04
お久しぶり。 日本語の使役文のcauseeは主節の要素です。例えば、 (1) 太郎が 花子に/を 急いで 走らせた。 は「[急いで走る]ことをさせた」という意味と、「走ることを 急いでさせた」という二つの意味がある。「急いで」をcausee より前に出した、(2)にはその前者の意味がない。 (2) 太郎が いそいで 花子に 走らせた。 同様に、使役文でないコントロールの構文でも、(3)はambiguousだけど、(4)は違う。 (3) 太郎が 花子に 急いで [PRO 走るように] 命じた。 (4) 太郎が 急いで 花子に [PRO 走るように] 命じた。 副詞の修飾に必要とされる構造がsisterhoodなら、(2)(4)で 「急いで走る」の解釈がないのは、matrixのphraseに先行 しているから。
162 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/21(土) 14:08
>>158 >c) 自分が書いた下らない論文が [ 太郎が実はバカであるということを ] 証明してしまった。
>俺は「自分=太郎」でオッケーなんだけど、みなさんどうでしょ?
オッケーじゃない気がするんですが、そういう「自分」の先行。
語り手が別に居て、その語り手が心ならずも太郎がバカであることを証明してしまった、
としか読めない気がします。いかがでしょう。
自分=太郎を成り立たせるには、せめて
自分が書いた下らない論文で[太郎は実はバカであることを]証明してしまった。
かな。これって構造的には同じことかしら?
163 :
(´∀`) :2001/04/21(土) 18:45
>>161 ども、ども。ではあえて屁理屈こねるから、暇な時に反論して下さい。
なるほどきれいな議論なんだけど、それはcauseeの表層位置が主節内ということしか
示しておらず、始めから主節要素とは限らない。補文内に主語として基底生成されて
からobject shift的に移動したともとれるよ。Lasnik & Saitoの英語のECM分析等、
「かかり」氏ならよく知っているはず。
で、causeeは補文主語PROのコントローラとして主節に基底生成されるとして、では
そのcauseeはどういう項位置を占めるんだろ。どんなθ-roleか、でもいいけど。
また、その場合、逆行束縛の束縛子はcauseeなのかPROなのかどっちだろ。
a) 自分の噂が花子を [ PRO 爆笑s ] ase-ta
もし「主語」でもないcauseeが先行詞だというなら、同じようにそれは主節の副詞要素
内の「自分」も束縛するはずだけど、そうはならないみたいだ。つっても、うまい例文
作るのが難しいんだけど、
b) 太郎が花子を自分の希望通りに [ PRO 走r ] ase-ta
で、「自分の希望通りに」が「走る」ではなく「走らせた」全体にかかる場合、
その希望は太郎のであって花子のではありえない。つまり、花子としては太郎が
自分にランニングを命じることを希望しており、太郎がそれに従って花子を走らせた、
という解釈は出てこない。
まあ、これはあまりいい議論じゃないけど、要するに
[ 花子を [ ec 走ら ] せる ]
でecはPROなのかtraceなのかの違いで、これは最近のHornsteinみたいにコントロールを
移動に統合するならどっちでもいいことになるのかな。
>>162 ダメだと言ってもらえて、内心ホッとしてるです。オッケーだと、ちょっと説明できそう
にないからねー。ちなみにちょっとだけ違う
c) 自分が書いた下らない論文が太郎をバカと証明してしまった。
だと、だいぶよくなるのではないですか。
>>163 >c) 自分が書いた下らない論文が太郎をバカと証明してしまった。
これなら、太郎が「自分」で先行してる、とも読めると思います。
165 :
かかり助詞 :2001/04/22(日) 10:18
>>163 その通りです。161の話はraisingの可能性も残します。
しばらく考えてから、何かに気づいたら詳しい返事をします。
何にも気づかないかも知れないけど。
163の「自分の希望通りに」というのは意味的に「走る」ではなく、
「走らせる」にかかるのではないかな。もう少し、いい例文で
同じようなテストしてみないと。私もいい例文が思いつかないけど。
しかし、なんで私がLasnik&Saitoに詳しい事なんて知ってるんだ。
一体、163氏は誰なんだ?私には会ったことありますか?なんだか、
マジックミラーで見られている犯罪者みたいな気がして嫌だな。
166 :
(´∀`) :2001/04/22(日) 14:22
>>165 あはは、俺はあなたが誰か全然分かってないから安心していいよ。
これまでの書き込みの内容から、生成文法が専門で新しめのこともよく知ってる
人なのは明らかだから、当然L&Sも知ってると思っただけだよ。
「自分の希望通りに」……「花子が自分が走りたいように走る」ことを太郎がさせる、
という解釈ならオッケーでしょ?
167 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/04/23(月) 20:50
ネタふり(になるかな?) 自分が書いた論文が太朗をバカだと証明してしまった。 太朗が書いた論文が彼をバカだと証明してしまった。 自分が病気かもしれないという不安が太朗に健康診断を受けさせた。 *太朗が病気かもしれないという不安が彼に健康診断を受けさせた。 「自分=太朗」あるいは「彼=太朗」としたときの、私の個人的な 判断です。
168 :
(´∀`) :2001/04/24(火) 03:37
いや、167の例は生成文法でもよく議論されたケースなので、もし167さんが生成文法を 知らずにネタふりされてるなら、ビツクリですね。 英語でも同じなんですが、 a) The rumor that John will be arrested annoys him. b) The realization that John will be arrested annoys him. で(b)だけ、John = him の解釈ができない。両者の違いはrumorとrealizationですが、 realizeするのはJohn本人だがrumorの主(?)は世間の人、という点に注目して、 the realization〜の背後にある c) John realizes that John will be arrested. がそもそもおかしい(専門用語で束縛原理Cの違反)ということで説明されると思います。 >*太朗が病気かもしれないという不安が彼に健康診断を受けさせた。 この例でも不安を感じているのが太郎本人であるので、同様の問題が起きるんでしょうね。 無理やり「太郎本人はそんな不安は感じていないが、世間のみんなが、あるいは家族が あまりに心配がっているので」みたいにとれば、よくなるのではないですか。
169 :
167=~ChimpL :2001/04/24(火) 10:27
>>168 ネタ自体が理論を背景にしてるから、やっぱりわかっちゃいます
ね。別に他意があって、生成文法を知らないふりをしていたわけ
ではないのでご容赦ください。
で、もうひと押し。
「rumor/realization/不安」などの場合には、
その主(?)が誰かということで、PROなりなんなりを想定して
説明できますが、
[PRO(j) rumor ... John(i) ...] annoys him(i)
*[PRO(i) realization ... John(i) ...] annoys him(i)
これは、束縛理論を仮定する限り、ある意味であたりまえの現象
と言って良いですよね(ある環境で「自分」の生起が許される>
その環境で「自分」が束縛される>同じ環境に指示表現が生起す
ると、その指示表現も束縛される(はず)>その環境に指示表現
は生起できない(はず))。
むしろ、興味深いのは「自分」のような照応形と「太朗」のよう
な指示表現が同じ環境に現れ得る場合ですよね。
自分がバカだという噂が太朗を悩ませた。
太朗がバカだという噂が彼を悩ませた。
covert cliticization of 「自分」?
あと、以前に(´∀`)さんが挙げていた次のような例ですが、
自分がバカだという噂が太朗の頭痛の種だ。
これが一番やっかいに見えます。どう考えたら自分をc統御する
束縛子が手に入るんでしょうね?cascadeを拡張すると、何とか
なりそうなんでしょうか?
170 :
(´∀`) :2001/04/25(水) 03:18
う〜ん、なんだかうまく誘導されてしまった気がするけど(笑) >自分がバカだという噂が太朗を悩ませた。 (a) >太朗がバカだという噂が彼を悩ませた。 (b) 「噂」自体にはPRO主語なんかを考えずに、(a)では「太郎」が「自分」の直接の先行詞 であり、c-commandが派生のある段階で成立していると考えたいですね。どうやって c-commandしているかは、Pesetskyの提案も含めていろいろあるので、まあそのへん は省略、と。 ところがご指摘のように、同様に考えると(b)でも「太郎」が「彼」にc-command されてしまい、原理Cに抵触してしまうことになる。 派生のどこかで満たされていればよい原理Aと異なり、原理Cは派生のいかなる段階でも 違反が生じてはならないものと考えられているので、問題は深刻なんですよね。 ところが、日本語ではどうもこれ自体があやしい。 (c) *彼が [ 太郎がバカだという噂を ] 否定した。 (d) [ 太郎がバカだという噂を ] 彼が t 否定した。 (d)でもreconstructionにより原理Cの違反が生じている、とはちょっと思えないん だけど、どうですか。きれいな説明はすぐに思いつかないけど、指摘された問題は 心理動詞の逆行束縛のケースに限定されない、もっと一般性のあるものだということは 言えると思う。例えば日本語の「同格節」「内容節」は付加要素であり、counter- cyclicにmergeされてもよい、とかいうことが考えられるかも知れない。 cf. [ 太郎が見つけた論文を ] 彼が t 友人に紹介した。 (たぶん169さんはこれだけで何のことか分かる人ですよね。)
171 :
(´∀`) :2001/04/25(水) 03:21
次に >自分がバカだという噂が太朗の頭痛の種だ。 (e) のケースだけど、俺の知り合いに以前、これを論文で扱った人がいます。残念ながら 今手元になく、内容をはっきり覚えてないので(ゴメン○○氏!、って、まさか169= ○○ナノカー?)ちょっと自分風にアレンジしながら……。まずは次のような例。 (f) [ 太郎の責任感 ]が自分を追いつめた。 (g) [ 太郎の友人 ]が自分を追いつめた。 (f)では「太郎=自分」の解釈が(g)よりはるかに出やすいと思うんだけど、これはDP 全体が無生物・非人間で「自分」の潜在的先行詞ではない場合に、DPのSpec要素が DPの外側へc-commandすることがある、ということを示している。 「太郎」のφ素性が「責任感」の不完全なφ素性を抑えてそれに取って代わっている、 ないしはDP全体に浸透しているということなんだろうけど、とにかくこのような specifier-bindingが成り立つことは事実。 そうすると(e)でもとりあえず「太郎の頭痛の種」の中の「太郎」がそのDPの外側まで c-commandすることはありそうだ。あとは(e)が使役文ではなく、コピュラ文だという 点がネックになるんだけど、上の知人がいってたのは、(e)は(h)に等しいということ だったような気がする。 h) 太郎の頭痛の種は自分がバカだという噂だ。 (e)はLF移動かなんかで(h)相当の構造に写像されると提案し、その後はSpec-binding や他の何らかのメカによって「太郎」が「自分」を束縛する、というようなことだ と思うのですが……。この論文、もしご希望なら後で調べてお教えします。
172 :
~ChimpL :2001/04/25(水) 13:26
>>170 条件C違反の再構築効果の有無に関するLebeauxの分析に帰着させること
ができるかもってことですよね。
>>179 (c@`d)のコントラストは確かに
あると思います。ただ、釈迦に説法を承知であえて言うと、次のような
コントラストも確実にありますよね。
(1) 太朗が病気かもしれないという噂が彼を悩ませた。
(2) *太朗が病気かもしれないという不安が彼を悩ませた。
「不安」についてもPRO主語を仮定しないとすると、名詞によってその
内容節のcouter-cyclicなmergeを許す場合と許さない場合があると
言わなくてはならなくなりそうですが、いかがでしょう?もしそうだと
すると、predictabilityをどうやって保証するかが気になります。
(´∀`)さんが「...考えられるかも知れない」とおっしゃって
いる気持ちは理解しているつもりです。揚げ足を取るつもりではなく、
話が広がっていけばうれしいなと思っての発言だとご理解ください。
そもそも条件C違反の再構築効果って、英語でも人によって差がある
らしいですね。Lebeauxはcomplement-adjunct asymmetryっていう
切り口で、この現象を切り分けようとしていたけれど、Lasnikはそんな
asymmetryは存在しないって言ってますしね。今のところeverybody's
problemなんでしょうね。
もうひとつ、私は(2)と次の例とでコントラストを感じるのですが、
(4) 花子が太朗が病気だと疑っているかもしれないという不安が彼を悩ませた。
このコントラストがrealなものだとすると、これって、代名詞を深く
埋め込んだときにweak crossoverの効果が無くなるのと同じことなんで
すかね?
173 :
~ChimpL :2001/04/25(水) 13:40
>>171 私、○○さんじゃないです。○○さんって誰だかわかりませんが、
この手の現象に関して論文書いたことないですから。○○さんの
論文には興味があるので、sourceを教えていただけるとありがた
いです。(掲載されている雑誌名と出版年だけで結構です。それ
だけわかれば、あとはこちらで見つけられますので。)
英語でも似たようなことがあるというのを、どこかで見た気がす
るのですが、出典を忘れてしまいました。たしか、X's YのYの性
質によって、あたかもXがX's Yの外側の要素をc-commandしている
ように見える場合があるらしいです。(うろ覚えの記憶なので、
全く間違っているかも知れませんが...)
174 :
(´∀`) :2001/04/26(木) 02:23
>>172 >(2) *太朗が病気かもしれないという不安が彼を悩ませた。
>>168 でも書いたんだけど、その不安が太郎自身のものではなく、周りの
人間のものという解釈に限定すると、だいぶameliorateされるように思う。
「太郎が病気かもしれないという家族全員の不安が彼を悩ませた。」とか。
(4)も同じでしょう。「噂」と違って「不安」のような心理状態は必ずその
経験者項・知覚主体が存在しており、それがPRO主語の存在を保証するのだと
思います。で、そのような外項の存在が「不安」の内容節の内項としての
ステータスとも何らかの形で連動しているとしたら、わりときれいな分析が
でてきそうですが、ちょっと強引すぎるね、だはは (^^ゞ
まあ、日本語では英語ほど厳密に原理Cが働かないというのは割とよく
観察されていることではありますが。
それからreconstructionに関するargument/adjunct asymmetryについては
LI 26にのってたC. Heycockの分析がお薦め。
>>173 見つけたよ。「現代日本語研究」3号(大阪大学現代日本語学講座)と
いうのにのってる某論文です。(俺はそことは無関係の人間だから、念のため)
Spec-bindingはReinhartが Everyone's mother loves him. みたいな
ケースを論じたのが最初のように覚えてるけど、中国語のzijiがらみでも
けっこう議論されてたっす。
175 :
~ChimpL :
2001/04/26(木) 08:20 >>174 ありがとうございました。探してみます。