現在の口語には、「係り結び」はない?

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1名無しさん@1周年
スレを立てるほどでもないかも・・・と思いましたが、
気になることがあるので、書きます。
文語文法にはあって、口語文法にはない現象がいくつかありますが、
そのひとつが「係り結び」だと思います。
ただ、例えば、
「AさんとBさんは、生きた時代こそ違え、まったく同じ思想を持っていた」
という文の、「〜こそ」に続く「違え」という形、
これって、意味からすると、ここにこんな形が使われる必要はありませんよね?
と考えると、これは「係り結び」(の名残)かなぁと思うのです。
2名無しにゃーん:2001/03/13(火) 10:24
こそ違え=違えども
3名無しさん@1周年:2001/03/13(火) 13:34
「〜することこそあれ〜」なんかもそうだね。
「ようこそいらっしゃいませ」は?
4吾輩は名無しである:2001/03/13(火) 21:11
要するにいくつかの熟語に化石的にのこっているだけ。
5名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/13(火) 22:05
>>3
それは違うと直感で判断。
「ようこそいらっしゃいませ」は、
「ようこそいらっしゃいました」と「いらっしゃいませ」の混淆。
「こそ」の結びは命令形ではなく已然形。
係り結びは中世に消失。
(ただし「は」+終止形、と言うのがあるという人がいるけどなんだかな)
「〜なさいませ」っていうのは近代(近世?)以後の尊敬の命令表現だろ?
6吾輩は名無しである:2001/03/13(火) 22:07
なぜ、家に帰ってきた人に、「おかえり」「おかえりなさい」っていうの??
7名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/14(水) 00:14
好きこそものの上手なれ
今こそ別れめ いざさらば
8名無しさん@1周年:2001/03/14(水) 00:34
1です。
>>3
>「〜することこそあれ〜」なんかもそうだね。
なるほど。
探せばあるってことですかね。
ほかにないでしょうか。
9衝動派:2001/03/14(水) 01:46
1さんの「生きた時代こそ違え」は、ちょっと置いておいて(スミマセン
彼こそ天才だ。森こそ最低の総理だ。
彼こそうるさい。森こそうざい。
などと「Xこそ・・・N/A」のように、「こそ」を使ったら「X=Yだ」的
copular文を使わなくてないけない、というかオブリガトリイになる
ように思うけど。
10名無しさん@1周年:2001/03/14(水) 02:27
>>9
そうだねぇ。
「こそ」の帰結に動詞、あるいは品詞を問わず否定形は使えないよね。
11かかり助詞:2001/03/14(水) 03:56
現代語にも係結びはシステマチックに存在すると思うけど、根拠は長くなるので書くのがめんどくさい。知りたい?
12名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/14(水) 09:48
知りたい。
13かかり助詞:2001/03/14(水) 11:45
>12 ではめんどチイけど書きましょ。
否定辞対極表現「だれも-ない」wh疑問文「何を-か」は
文中のとある要素が文尾に特別な形を要求するという意味で
係り結びに似ています。この二つが文中で共起するとき、
(1)  ??誰も何を読まないの?
(2)  何を誰も読まないの?
(1)の語順はちょっと非文法的でしょ。これがどうしてなのかは、
諸説入り乱れるところだけど、「誰も-ない」「何を-の」の各ペアを
線を引いて結んでみると、(1)は線が交差してしまうけど、(2)はいれこ式に
なる。そこで、「交差するといけません」という主旨の制約があるとします。
では、かかり助詞「こそ」を「何を-か」のある文中に入れてみると、
(3) 森首相こそ何を読んだの?
(4) ??何を森首相こそ読んだの?
といった具合に、(4)の方が(3)と比べて非文法的になる。(4)が
「交差するといけません」制約を破っているのだとすると、「の」
の後ろに「こそ」とペアになる何かがあるということになる。仮に
この「こそ」とペアになる物をFと表すと、(4)は(5)のように
「こそ-F」と「何を-か」というペアが交差しているから悪い
ということに出来る。
(5) ??何を森首相こそ読んだのF?
(4)はいりこ式なのでgrammatical。同様のことが(6-7)でも
言える。Fは疑問助詞「の」より右にあらわれるので、当然、
「の」より左にある否定辞「ない」よりも右にある。
(6) 森首相こそ何も読まない-F。
(7) ??何も森首相こそ読まない-F。
「こそ-F」「何も-ない」の関係が(6)ではいりこ式だから文法的で、
(7)では交差しているから非文法的。要するに、現代語でもここでいう
(発音しない)Fという物があって、それと呼応していると考えること
によって、(1-7)に統一的な説明が出来るわけです。Fは昔は
已然形として発音されてたけど、現代語では発音しなくなっただけのこと。
長くなったけど、解ったかしら。
1412:2001/03/14(水) 13:39
>>13

ありがとうございます。だいたい理解できました。
けどわからないところがいくつかあるので質問。

□いれこ式になる、「交差してはいけません」というルールがある、というのが重要なようですが、いわゆる文語文法でもこれは一緒ですか?

□「文中のとある要素が文尾に特別な形を要求する」のが「係り結び」を定義する重要な要素の一つのようですが、文語文法で「終止形を要求」なんて言われる「は」とか「も」は文語文法でFを要求しているのでしょうか。また現代語ではどうなっているのですか?

□現代語の「こそ」の場合の「発音しない(F)」ですが、

  (6)森首相こそ何も読まない-F。

を少し変えた次のような文の場合、

  (6)'森首相こそ何も読まない-F-よねぇ(のだ/に決まってる/らしいよ)。

と理解すればいいですか?

面倒くさそうなことを聞いて申し訳ありません。
15かかり助詞:2001/03/14(水) 14:52
>14文語文法にも「交差してはいけません」制約があるかどうかは解りません。native
文語speakerがいないからジャッジが出来ないからです。ただし、「交差してはいけません」
制約は英語なんかにもあります。からきっとuniversalな物で、文語文法にもあったと思います。
「は」も何らかの文末要素(ここでは仮にT)と呼応していると思います。例えば「こそ」と
共起する場合、(1)はいいけど(2)はよくない。
(1) 森首相こそその原稿は読んだTF。
(2) ??その原稿は森首相こそ読んだTF。
wh疑問文と、否定辞体極表現との共起制限については自分で
お考えください。alsoの「も」もこれらのphraseと一緒にあらわれる場合、
共起制限があります。他に現代語の「さえ」なんかも同様の制約があります。
文尾にある「よねぇ」なんかの要素とFやらTやらがどちらが右にあるか/
左にあるかという問題は、どうやって調べたらいいのか解らないので
解らないというとこです。
とにかく、係り結びはなくなったのではなくて、発音しなくなった
だけだというのが結論です。琉球語/方言にはまだ発音する係り結びあるしね。
16名無しさん@1周年:2001/03/14(水) 20:36
ふむ、面白いですね。
と言うことは、現代語でも「係助詞」って言うのは
「係り結び」もしくはそれに類する文法的現象を
引き起こすものをまとめて「係助詞」と言うのですか?
17かかり助詞:2001/03/15(木) 00:09
>16
そう考えてもいいと思います。勿論、国語学なんかでは、whの
「何を」「誰が」etc.、否定辞対極表現の「誰も」「森首相しか」
なんかは「かかり助詞」とは言わないでしょうけど。ただ、同じ
共起制約に従うのだから、同じ種類のカテゴリーと考えた方が
自然だと思いますが。
18名無しさん@1周年:2001/03/15(木) 00:19
1です。
13さん、15さん、話が難しくなりましたねぇ・・・。
ついていけない・・・(涙)
でも、あおりのつかないいいスレになってることに感謝。
19あおりではないが……:2001/03/15(木) 01:02
>>13=15
線形順序で考えた「交差」と階層構造上のそれとは、head-final型では
一致しない、という問題に気付きつつも、それを避けて簡潔に説明しよう
としているあんたは偉いです。
で、やっぱり統語的制約は線状性にsensitiveって結論っすか?
20かかり助詞:2001/03/15(木) 03:07
>19
19番さんは素人ではないな。階層構造での「交差」というのは
pesetskyのMIT博士論文で提案されているpath containment conditionというのが有名ですが、日本語の様なhead-finalの言葉を考えると、線状性のほうがより多くの事実を説明できます。
チョムスキー先生なんかは、狭い意味でのシンタックスにはlinear orderは関係ないって言っているけど、ここでの結論が正しいとするとlinear orderに言及するような制約があるので、チョムスキー先生は間違いということになる。もう一つの可能性としては、「交差してはいけません」という制約は狭い意味のシンタックスにかかる制約ではなくて、language processingの制約と言う可能性もあるのだけどね。
21名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/15(木) 10:35
>>15で挙がっている、

 (2) ??その原稿は森首相こそ読んだTF。

っておかしいですか?「はずだ」なんて続けるとごく自然に感じるんですが。どちらかというと

 (1) 森首相こそその原稿は読んだTF。

の方が違和感があるような。
22かかり助詞:2001/03/15(木) 11:27
>21
13=15です。そう言われると自信なくなってきた。
(3) 誰も その原稿は 読まない
(4) その原稿は 誰も 読まない
はどうでしょう。私見では(3)の方が悪いと思うけど。100回くらい
声を出して読んでいたら、全部いいんじゃないかと思えてくるから、
他のみなさん3回くらい読んで判断聞かせて下さい。私は、やっぱり、
上記21でサイトされている(2)のほうが(1)より悪いと思うけど。
ところで、私はこういうところに書き込みするのは、この一連の
係り結びに関することが初めてです。今までネットは見て楽しむだけで
書き込んだことありませんでした。非常に楽しんでおります。どうも
ありがとう。
23名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/15(木) 12:01
>(3) 誰も その原稿は 読まない
>(4) その原稿は 誰も 読まない

個人的にはどちらも違和感は特に感じないなぁ。
「は」にそんな制約あるんだろうか。

無いとしたら「は」は係助詞から外れるか、その制約は「係り結び」とは別の話とするかのどちらかになると思うけど、どうなんだろう。
24名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/15(木) 12:18
 俺は誰も信じない。

 誰も俺は信じない。

だと最初の印象だけなら「俺は」が前に来た方が自然な気がするけど、

 もう、誰も俺は信じない。

あたりは特に違和感はないかな。

 (もう)誰にも俺はとめられない。

 俺は(もう)誰にもとめられない。

てのも。
25かかり助詞:2001/03/15(木) 15:00
みなさん、あんまりコントラストないようなので、23さんのおっしゃるように
「は」をかかり助詞とは別物と見なした方がいいように思えてきました。

「は」には2種類あることが知られています。一つは主題の「は」
(英語で言えばspeaking of)、もう一つは対象の「は」(太郎は来たけど、次郎は来ない)です。
もしかするとこのどちらかだけでもかかり助詞でしょうか。上記の(3)や24さんの
「もう誰にも俺はとめられない」というのは対象の意味しかないように思います。
もしそうだとすると、こう言った例文で主題の意味がないのは、主題の「は」は
かかり助詞で、「交差してはいけません」制約のためと考えられるけど。対象の「は」は
かかり助詞ではないのかな。

判断に自信がもてないので、主張にも自信がもてません。
26名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/15(木) 15:31
「しか」とくれば、ふつう「ない」だな。
27名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/15(木) 16:00

 誰も その原稿は 読まない (…けどあの原稿は読むだろう)

が、少なくとも対照の意味では非文ではないという判断に同意します。
「主題の「は」として考えると非文」かどうかは判断がしづらいです。
28名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/15(木) 16:43
「しか」も関わるかどうか、主題の「は」は制約が同じようにあるか、ついでにまとめて検証。

  実は、彼女は君しか呼んでいなかったんだよ。

  実は、君しか彼女は呼んでいなかったんだよ。

  実は、彼女こそ君しか呼ばなかった張本人なんだ。

  実は、君しか彼女こそ呼ばなかった張本人なんだ。

4番目以外は言えそう。だから「しか」に制約はありそう。
問題は2番目。2番目の「彼女は」は主題でしょうか?
呼ぶ立場にある人が彼女以外にありえない文脈でも2番目は成り立つと思うので主題かな。
でも「君しか」が前に来たことで「君しか」の強調のされ具合は強くなってる。

 これは俺しか持ってないんだ。

 俺しかこれは持ってないんだ。

も一緒で、「俺だけが持ってる」のをとことん自慢したいときは後者が選ばれそう。
そういう意味では、後者の「これは」は一番言いたいことではないから、厳密には主題でないのかもしれない。

 もう誰も俺は信じない。

もその仲間かな。この「は」の違いも別用法として区別すれば、「主題の『は』」には制約があると言えそう。

けど「語順の違いによる強調される位置の違い」まで別用法にしていいのでしょうか。
29名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/15(木) 16:48
もう誰も俺は信じない。

はどちらが主格と解釈されるかという問題も絡むのでは。
30名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/15(木) 17:09
そんなこと言ったって、もうだーれも俺は信じないからね。信じないよ、そんな話。

は「主格=俺」かな。「誰も=主格」だとすると

金かしてくれなんて言うつもりないのにさ、あいつら会ってすらくれないんだ。あいつらもう、誰も俺は信じないんだ。

かな。なんか変だけど。「俺のこと」に添削したい。例が悪いのかな。
31名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/15(木) 17:13
そんなこと言ったって、もうだーれも俺は信じないからね。たぶん俺には貸してくれないんじゃないかなぁ。

の方がいいか。「主格=誰も」。でもやっぱり「俺を」か「俺のこと」に添削したい…。
32かかり助詞:2001/03/16(金) 00:48
やっぱり、主題の「は」か対象の「は」かというのは判断が難しい
ところのようですね。alsoの「も」だと、もう少しはっきりした判断が
出来ると思う。

(1)  ??太郎しか その本も 読まない-M
(2)   その本も 太郎しか 読まない-M

(1)は(2)に比べて悪い。「も」に呼応する「発音しない結び」をMと
表すと、(1)で「しかない」と「も-M」が交差するには「ない」より
後ろに-Mがないといけない。wh疑問文では

(3) ??誰が その本も 読んだの-M?
(4) その本も 誰が 読んだの-M?

(3)の方が悪い?だとしたらMは「の」よりさらに右にあることになる。

「こそ」とはどうだろ。

(5) 森首相こそ その原稿も 読んだ-M-F。
(6) ??その原稿も 森首相こそ 読んだ-M-F。

判断が正しいとしたら-Mは「こそ」とペアになる前出-Fよりは右
と言うことになる。
33名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/16(金) 02:56
>>32の(2)を見ると対象か主題かはっきり区別つきませんが(5)を見る限りalsoの「も」って対象(「その本までも」てニュアンス)でもいいんですかね。
だとすると(3)が良いような気がします。(4)はやや不自然。

「その本もさぁ、誰が読んだんだろうね、ずっと置きっぱなしだけど。」

て文脈(ちょっと極端にしてみましたが)を与えると自然だと思うけど、これalsoとはニュアンス違いますよね。
alsoでしかも主題というのを考えようとすると…

「(あの本は太郎しか読まない。)その本も太郎しか読まない」(32の(2))に対応するはずだから…

 「あの本は誰が読んだの?その本も誰が読んだの?」

でしょうか。でもこの場合もやっぱりalsoとは違うような。
34名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/16(金) 03:03
あれ?

「その本(について)も(お聞きしますが)誰が読んだの?」

てニュアンスは主題でalsoの意味?違う?うーん。混乱。
35かかり助詞:2001/03/16(金) 03:46
32です。32の最後のラインは-Mは「こそ」とペアになる-Fよりは*左*の間違いです。訂正します。
alsoの「も」には主題/対象という読みはないと思うけど。

森首相も ゴルフを した。

と言ったときの「ほかにもゴルフした人がいる」という含意があるけど。
33さんの判断が正しいとすると、ーMというのは疑問の終助詞「の」より左ということになります。ないーMーのーFの順番だね。
36どうでもいいことだが:2001/03/16(金) 04:07
対照、ですよね。
対象って書いてあると"object"を連想してしまう・・
37かかり助詞:2001/03/16(金) 08:19
>36
その通りでございます。失礼しました。漢字苦手です。よく小学校のころ漢字が書けないので残されてました。
38名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/16(金) 14:42
あ、それで>>33が混乱してるのか。
39かかり助詞:2001/03/16(金) 15:18
ところで、已然形結びの「こそ」は現代語でもあるけど(そして、ここでの
結論が正しいと-Fという発音しない結びが現代語にもあるけど)、
「ぞ」「なむ」「や」「か」というのは現代語ではないよね。
「これぞお宝」みたいな風には言うけど、これも化石化した表現で
体言止めになっているせいでどういう結びになっているかもよく
解らない。現代語には連体形と終止形の形の上での区別がありませんが、
その、連体形・終止形の形態の違いの消失と「ぞ」「なむ」「や」「か」の
消失というのは歴史的に同じ時期だったのかな。国語学とかに詳しいひと
こういうこと知りませんか?今度は漢字間違えてないといいな。
40名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/16(金) 16:54
大雑把に言うとだいたい同時期というかリンクしているという見解になっています。
院政・鎌倉期ころに連体形終止法が普通の文終止にも使われ始め、狭い意味での係り結びが乱れてくるのもこの時期です。

つまり連体形での文終止がごく当たり前になってくると、「連体形で呼応」というタイプの係り結びはその効果が薄れるというか、あれ?間違えた?というような錯覚を生んだようです。

その証左とされるのが、「ぞ」の結びを従来の終止形で結んだりする「結びの乱れ」と呼ばれる例。「ぞ」などは強調表現ですから、結びが当たり前だとたぶん効果が薄れてしまうのでしょう。(古代語ネイティブではないのでこの辺は推測ですが)
もちろん「乱れ」が定着したわけではなくて従来通りの「結び」も見られて「間違い」扱いですが、それなりに用例数はあります。
連体形で文を終えるのが普通になってくると言うことは、従来の終止形で文を終えることが逆に珍しくなってきたということでもあるので、ときどき入れ替わってしまったわけですね。

ちなみに「ぞ」「や」「か」は消失ではなくて終助詞として文末で使われるようになった、という説もあります。

「こそ-已然形」は今でも残存が見られるように、廃れていった時期は連体形で結ぶものよりも後です。その辺りからも終止形・連体形の同形化と係り結びの話は関連がありそうだと言えると思います。
41名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/16(金) 16:58
ちょっと補足。

「結びの乱れ」ですが、「ぞ-終止形」以外に已然形で結んだ例もあります。
42名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/16(金) 17:05
さらに補足。

院政・鎌倉期にはすでに話し言葉と書き言葉の距離は大きかったようなので、「効果が薄れる」という言い方は適切じゃないかもしれません。
43名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/16(金) 18:15
ただし琉球方言では係り結びが生きていて(ドゥ助詞とガ助詞がそれに当たる)、

 係り結びの弱まり(終止形にも係る)が観察されているが、終止形と連体形の区別がある。

 終止形と連体形の区別がない地域でもドゥ助詞とガ助詞が文中でよく用いられる。

という事実があるので、「終止形と連体形が同じ形になったから(狭い意味での)係り結びが消滅した」と単純には言えません。
早めた、ということはあるんじゃないかとは思います。
44名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/16(金) 18:40
琉球方言といわゆる標準語は歴史的な変化の過程が違う(つまり事情が違うかも、ということ。)し、標準語化政策の影響も考慮すべきかもしれないので43の理由だけでスパッと切り離せる問題でもないですね。

まだまだ検討が必要でしょうね。
45衝動派:2001/03/17(土) 00:09
すごく面白い。なので、蒸し返すようで気が引けるんですが、「こそ」に関して
21さんの(2)に関する判断を除くと、「こそ」句が文頭に来ていないのは皆??の判断
となっているようなんですが、それは何故なんでしょう?文末Fの後に来る「空結び語」
がないから、と言う理由なんでしょうか?

例えば、次の(1)なんだけど、(2)以下の文と比較してどう判断されるんかな?

(1)森首相がX計画こそ破棄した(こと)
(2)森首相がX計画も破棄した(こと)
(3)森首相がどの計画も破棄しなかった(こと)
(4)森首相がどの計画を破棄したのか(知らない)

僕の判断だと、(2)-(4)に比べて、(1)は不自然です(でも自信なし)。が、もしその
判断がどこか正しいところがあるとして、これは、交差制約では扱えないんじゃないかと
思うんだが。

「こそ」文は英語の分裂文のような感じがしてます。やはりコピュラ文的(苦笑)。
inversed pseudocleftというか。その「空のものがある」と言うのにはすごく同意ですが。
13の(4)とか(7)とかが変なのは、分裂文の前提節から抜き出すのが変なのと同じじゃ
ないかなと(まだまだ漠然でスミマセン)。
46かかり助詞:2001/03/17(土) 00:36
>40-44どうもありがとうございます。大変勉強になりました。
もっと普段から国語学の文献を読んだり、あるいは貯金でもして
沖縄あたりにフィールドワークにでも出かけないといけないと
思わされました。まあ、ぞ・なむ・やetcがかかり助詞として使われなく
なったのと連体・終止の形態の上での消失には、「歴史的に
どうやら関係があるらしい」というのが解ったというのは儲け物です。
というのが
琉球語・方言は既にendangered language(日本語でなんというのだろう、
絶滅危機言語?)だと思われますが、日本の政府、沖縄のコミュニティ
あたりで保護運動とかしてないのかしらん。あるいは国立国語研究所
とかが、やるとカネ。
琉球語は日本語の過去を探る上でも貴重な資料だと思うのだけど。アイヌ語
保護運動というのは聞いたことあるけど、琉球語保護運動というのは聞いた
ことないぞ。
47名無しさん:2001/03/17(土) 02:54
http://bun109.let.osaka-u.ac.jp/~sbj/elprindex.htm
こういうプロジェクトはありますよ。
48ヌゥヌゥヌヒ韵鱧:2001/03/17(土) 03:28
>47ヌェヌァヌ「ヌァノvノ酲WノFノNノgヌンヌネヌ?ヌユヌンヌネヌテヌ=ヌ*ヌタナB?ユ箒?ヘヌテ險舳躬ヌ=
ナu聊袁ヌテ鵆苟ナvヌサヌメヌιテヌ夘ンヌネヌ*ヌ「ヌ「ヌテヌ=ヌ*ヌ卩Bナi?裙ヌテ躱蠡?淺�菻ヌ�ヌηj
?コヌテ?ーヌ�ヌェヌァヌ「ヌァ?ー褂?*狠ヌ*ヌ「ヌァヌテヌ夘ンヌ。ヌι�ヌ「ヌ「ヌ=ヌオヌツナB
>45ナuヌアヌェナvヌ*ヌ「ヌァヌテヌユ綽鍼韵鱧ヌテナuヌゥナ^ヌテナvヌハヌヒヌ�礒ヌ?ヌンヌネ?fナAナ[Fヌ*
ノyノAヌ*ヌヘヌネヌテヌ=ナAナuヌアヌェナvヌ吝ェヌフヌヘヌネ?�ヌユナ[Fヌ吝ェヌフヌヘヌァヌネ燿ヌ??ツヌエヌ*ヌサヌ「ヌ*
ヌ「ヌリヌサヌ「ナBヌSヌTヌテナiヌPナjヌユナiヌアヌ*ナjヌ*ヌ「ヌァヌテヌ咏=蜆ヌ?ヌャヌ「ヌι「ヌネヌ*ヌ�?苓C雕
ヌ?ヌサヌ。ヌι「ヌミヌ*ナB?苓C雕ヌユナ[Fヌユ?*ヌゥナAナuヌゥナ^ヌテナvヌ�鴿ヌιサヌ「ナBヌ*ヌ*ヌカヌ固A
(1)ナ@*[鷙鰓?萇? jヌゥヌチ ヌ�ヌチヌ。ヌ* ヌゥ] ノSノ翹t籌瀛袿
ヌサヌメヌιテヌユ?*?IナBヌ*ヌサヌフヌA?苓C雕ヌテ?�ヌ*ヌ「ヌァヌテヌユ?*?ィ?*ヌ=ヌ「ヌァ
S/IP/TP燿ヌテ?ツヌエヌ*ヌオヌゥヌサヌ「ナBヌ貮ゥヌチナAナuヌゥナ^ヌテナvヌ�鴿ヌιサヌリヌヘヌ固A
ヌェヌヘヌハヌヒ?ツヌエヌ*ヌサヌ「ヌ*蟐ヌフヌヘ?貮サヌ「ナ[Fヌ�鑰ヌιアヌヘヌサヌ「ナBヌ貮ゥヌチナAヌSヌTヌテ
ナiヌPナjヌユ?�?/ヌサヌテヌ貮*騅ヌァヌリヌォナB?リヌ?ナiヌQナjヌ�ノ_ノナナB
(2)ナ@*[鷙鰓?萇アヌェ ヌ�ヌチヌ。ヌ* ] ノSノ翹t籌瀛袿
?苓C雕ナi蔔藐?�ナjヌテヌサヌゥヌ=ヌ�ナAヌェヌテヌサヌゥヌ?ヌ*ヌチヌ?ヌ�鍄ヌ夘ンヌヘヌ?
ナuヌアヌェナvヌ�ヌゥヌサヌヒ?�?ァヌ?蟐ヌフヌヘヌιアヌヘヌミヌ*ナB
(3) [鷏?*ヌ? [ 鷙鰓?萇アヌェ ノSノ翹t籌瀛袿ヌ* ヌ�ヌチヌ。ヌ*ヌ*-F] ?メヌ*ヌ*] ?キ
ヌアヌヘヌユヌ�鍄ヌ?ナ[Fヌ吝ェヌフヌヘヌァヌネヌ*ヌ�ヌ=ヌ*ナB
ヌSヌTヌ*ヌメヌユ?*?ィ?*ヌテ?fヌ夘ンヌネヌ*ヌ*ヌテヌ=ヌツヌ。ヌ*ノeノNノjノJノ翩サヌオヌ?
ヌサヌヒヌミヌオヌ*ヌ吩Fヌ*ヌメヌ?ヌフヌゥヌネヌハヌァヌ?ヌゥヌ班「ヌι「ヌ。ヌ*ヌャヌ�ヌヒヌ=ヌ*ナB
49kakari-joshi:2001/03/17(土) 03:32

Sorry but the above messasge is garbled. Something is wrong with my computer at work.
I will rewrite the message when I get home. Please delete it.

48
50かかり助詞:2001/03/17(土) 10:07
どうも上では失礼しました。ひどい文字化けです。
一般に絶滅の危機に瀕している言語の保護というのは、その言語が
話されているコミュニティでやった方がいいのではないですカネ。
具体的には、沖縄の小中学校で「琉球語」の授業やるとカネ。東京の
江戸弁を含め、各地方語を学校で教えるのは、ふる里創成案なんかより
よっぽど意味のある政策だと思うけど。
ところで45さんの(1)は最後に「こと」がついているため、連体修飾
(関係節)になっています。連体修飾節には(1)のように疑問終助詞「か・の」
などをつけることが出来ません。
(1) [森首相が 誰に 貰ったか] ゴルフの会員権
すなわち、連体修飾節は「か」がつけるほど大きくない。そのため、
そのさらに外に付く、「こそ」とペアされる-Fがあり得ないので45
の(1)はアウトだと思われます。連体修飾のなかに埋め込み文が
あったら「こそ」もその中に出て来れます。-Fが埋め込み文にあり
得るからです。
(2) ?[新聞が [森首相が 会員権こそ 受け取ったと-F] 報じた] 翌日
一方、文頭でも連体修飾のなかでは「こそ」はあらわれません。連体修飾は
-Fがつけるほど大きくないからです。
(3)  [ 森首相こそ 受け取った ] ゴルフ会員権
噛み砕いて説明しようとしているのでかえって分かりにくいかも知れませんが、
もしよかったら、もうちょっと生成文法の用語を用いて説明します。
51衝動派:2001/03/17(土) 11:46
>50さん
ありがとうございます。よく分かりました。

45の(1)などの「こと」は関係節にする意図でつけたのではなく、話題要素
のない独立文(つまり、いきなり主語をGAでマークすること)による不自然
さを避けるためにつけたものです。一種の補文標識なのでしょうか?
「森首相がその計画も破棄したことは、驚きだ」といった文での「こと」
です。

で、50での(2)なのですが、僕にはやはりこれも変に聞こえてしまうんです。
どうやら自分は一貫して「こそ」句はclause-initialの位置に限ると
判断しているようです。だんだん自信がなくなってきていますが。
というわけで、もう少し自分の判断がはっきりするまで静観します。
お騒がせしました。

ところで(3)は非文ですよね?昔、久野が関係節化と話題化の共通性を
議論していて、関係節は話題化を経由して派生されると分析してたことを
思い出しました。それによると、50の(3)のステータスは次の(3)'のと
同じなのかも知れませんね。

(3)' (その)ゴルフ会員権は [森首相こそ受け取った]
52かかり助詞:2001/03/17(土) 15:11
45さんが「こと」をつけた理由は解っておりました。「こと」補文標識
ではなくてnominalizerでしょう。「文」にはtopicがないと座りが
悪いので、「こと」をつけて名詞にするわけです。

要するに関係節はTP/IPくらいまでしかないから、CPや「こそ」
をlicenseするCPの上のprojection(ここでの名前はFP)を必要とする
「かかり助詞」は、関係説のなかに出て来れないのだね。topicの
「は」が関係説のなかに出て来れないのも、「は」とペアされるprojectionが
TPより上にあるからでしょぅ。

(1) *[太郎は買った] 本
(2) 花子に [ 太郎が その本は 買った と ] 伝えた人

50の(2)は例文として不出来だと思いますがこんな例は
いかがでしょ。

(3) *[ 太郎こそ 買った ] 本
(4) [ 花子に [ 太郎が その本こそ 買った と] 伝えた ]人

私は(3)はダメだと思う。

51の(3)'ですが、確かにそういう分析もできると思います。ホントに
正しいかどうかはかなりの検証しないといけないけど。

53半素人の19:2001/03/17(土) 16:25
うほ、なんかしばらく見ないうちに優良スレに成長してるのら!

>>50
(1) [ 専門家こそ読むべき ] 本
みたいにモダリティがはいると関係節内に「こそ」がでてこれると思うけど、
これはモダリティが補文構造を取るということかしらん?
でも、たとえばコントロール構造だとしても
(2) [TP 専門家こそ [CP/TP PRO t 読む ] べき ] 本
みたいになって、Fが出現する場所がなさそう。

それから、話しをむしかえすようだけど、
>>20
>線状交差のほうが多くの事実を説明できる
というのは、オイラ的には???だな。
線状交差の違反例は>>13自身や後の他の人のレスにもあるように「ちょっと
おかしい?」てな程度だが、階層交差制約はsuperiorityたらECPたらを経て、
最近はMLCに還元されるべき、強い逸脱性をもたらすものということになってる。
MLCはsuperiorityとsuperraisingなどは同じクラスに属するものという現象の
まとめ方・切り方を提案してるんだけど、オイラはとりあえずこの見方を受け
入れるので、そのMLC(の前身であるPCCなど)を取り込む形で線状交差制約を
立てることは、overgeneralizationに思える。
(昔 *that-tがECP違反だとされてしまったみたいな、ね)
もちろん、線状交差制約がそもそもシンタクスの原理ではない、とか、narrow
syntax内に線状性は定義されない、とかは別問題。
スレ違いなので、この話しはここまで。
54かかり助詞:2001/03/18(日) 00:49
53の(1)は
[TP [FP [CP 専門家こそ 読む]-F] べき ] 本
とすれば-Fが出てくる場所があるじゃないすか。

ちょっと専門的な話になるけど、理論言語学というのはあくまで
事実を説明するための言語理論をたてようとする物です。仮に
「すごく不器用にみえる理論A」と「非常にエレガントな理論B」が
あって、AもBも同じ事実を説明できるのなら、Bを選ぶべきです。いわゆる
occam's razorという科学全般の原理のためです。しかし、Aの
方がBより多くの事実を説明できるのなら、Aを選ぶべき。言語学は
経験科学であるからです。

上で線状交差で説明した例に類似する例は最近ではpesetsky(2000)
"Phrasal movement and its kin"でMLC(に類似する原理)を使って
説明されていますが、あれは間違いだと思う。どうしてかはあんまりにも
長くなるので書きませんが、基本的には線状交差で説明できる事実をMLCでは説明
できないからです。

それと、PCCとMLCは基本的に別物です。MLCは
wh-i...wh-j...t-i...t-j
のような構造をrule outするけど、PCCはしません。

ちょいと係り結びから逸脱しているのでここまでにしときます。

55なかば古語ネイテイヴ:2001/03/18(日) 01:48
文語文法では「は・も・ぞ・なむ・や・か・こそ」をかかり助詞とするのが一般
ですが、これが不当であることはその筋の研究者には常識です。「は・も」には
文末の活用形を規定する力はありません。アホな本には「は・も」なら文末終止形
と書いてありますが。
実際には「こそは」「もこそ」「もぞ」と並べることも可能です。例はいくらもあり
ます。他方、たとえば係り助詞「や」と係り助詞「こそ」が共起すること
はありません。(「や」にはかかり助詞でないものもあり、それと「こそ」はキョウキします)。
したがって、入れ子ならokということはありません。

大臣こそさはのたまひしか。→よし。「しか」は「き」の已然形。「は」は文末
を規定しない。なお、古文は現代語より語順の自由度が高いという事実があります。
実際、「うつくしく姫君を思ひきこゆ」(=姫君をうつくしく思ひきこゆ)など全然ok.
文のfocusが文のはじめの方にあることを、古文はあまりいといません。なおかかり助詞は、
(例外も多いものの)文のfocusに付くことが多いということが言えます。


大臣はたれにかのたまひし。→グラマテイカル。
たれにか大臣はのたまひし。→グラマテイカル。
大臣こそたれにかのたまひしか。→アングラマテイカル。あるべうもあらず。
大臣こそたれにかのたまひし。→アフオルテイオリこれも良からず。(いれこなら
よいが、キアスムはまずいのが普通だから)

せっかくなので宣伝です。http://www5b.biglobe.ne.jp/~gikobun/

56名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/18(日) 02:08
キアスムは、カイアズマスのことです。
57死ね死ね団:2001/03/18(日) 02:38
う〜ん、院生か若手教員がカキコしとるようじゃの。

>>54
もともと経路包含条件と最小連結条件は出発点が違う
からね。交差制約を樹形図に置き換えようとしたのが
経路包含条件だし、最小連結条件は Rizzi の RMP が
MPに取り入れられたものだからね。

ところで、ふつーの人向けに一言。
このスレで議論されている問題を論じる場合、いわゆ
る「とりたて詞」や「極性表現」などが絡む現象を古
い日本語で観察される係結びと同種のものとみなして
よいものかどうかという根本的な問題があるのですが、
生成文法家は同じように考えるのが慣例です。それは
英語のwh移動のように日本語でもLFでの素性移動によ
る照合が行われていることを示すのに好都合な現象だ
からです。
58ド素人の53:2001/03/18(日) 03:48
>>54
思わぬレスがついたので、調子にのって質問ちゃん。
まずオイラが>>53で「〜べき」をコントロール構造に
したのは、deonticの「べき」は(epistemicと違って)自身の
主語を要求すると思ったから。
例えばオイラは割と自由に数量詞の作用域の曖昧性を認めるたちで、
(1) 3人の学生が2冊の本を買った。
だとambiguousなんだが、そんなオイラでも
(2) 3人の学生が2冊の本を買うべきだ。
となると、3>2の読みしかない(ような気がする)。
なら、「専門家こそ」も上位節に基底生成されるのが自然かな、
と思ったんだよ。

あと自分で言っといてナンだけど「べき」の補語がCPまで投射
してる、というのも自信ないし、「読む」と「べき」の間にFが
挟まってて、複合動詞形成は大丈夫なのか、ってのも心配。
(Myers' generalizationみたいなの)ま、これはどうでもいいっす。

それから、
>Aの方がBより多くの事実を説明できるのなら、Aを選ぶべき
ってのは、そのより多くの事実がAによって説明されるべきものである
という理論的主張を行ってるわけで、それを吟味する余地や必要は
常に認めておかないと、ね。できるだけ多くの事実と辻褄のあう
ストーリーが最優先なら、障壁や統率は簡単に棄てられなかったはず。

>MLCは wh-i...wh-j...t-i...t-j のような構造をrule outするけど、PCCはしません。
補足説明希望(具体例たのんます!)
「MLC(の前身のPCC)」というのは、A-bar関係限定からA関係へも拡張、
ってつもりなのら。もちろんwh-in-situのLF移動を前提にしなければ
PCC分析はworkしないとかの相違はあるが、上の構造に関しては差が
見えましぇーん(悲
59かかり助詞:2001/03/18(日) 05:52
う〜ん、ここにきて急に批判や質問が増えてきたな。答えるのも大変だ。
55の方はいくつも誤解してます。いれこ式とか共起というのは「こそは」
みたいに一つのフレーズに両方が付くと言うことではないぞ。
「は・も」は現代語でも(現代語の「こそ」と同様)、文末に特定の
形態を要求しないけど、それでも「発音しない形態」と呼応しているというのが
ここでの主張です。古語でも「発音しない形態」があったのかも知れない。
「大臣こそさはのたまいしか」というのは、交差制約からするとokとなるはずだぞ。
「さは大臣こそのたまいしか」というのはダメになるはずだけど。もう一度、一番
上から読んで誤解を解いて欲しい。それと、「研究者の間では常識」という論法は
どうかな。常識が常に正しいとは限らないのだから。古語で「は・も」も終止形の
かかり助詞という本がバカかどうかは書いた人に会ったことがないから解らない。

58の(1)/(2)にホントにそういうスコープの違いがあるか、modalの「べき」
CPより大きい補分をとれるか、58さんの言うようにmodalが「3人の学生」
なんてargumentとれるのか、など考えてみないといけない問題です。から、
現時点で深入りはやめときましょ。
58の第2点について。生成文法の歴史というのはある意味で記述的な妥当性
と説明的な妥当性のコンフリクトの歴史です。chomsky先生は「言語習得の
説明」を求めて、rule systemからprincipleのシステムへ、さらにミニマリスト
ではprincipleを可能な限り減らすという、路線を歩んでます。だからといって、
昔の理論が説明していたことを新しい理論が全て説明できるわけではない。
barriersやECPとかを使って説明してきたことを何とかして説明しなくては
ならないのだけど、ミニマリストではどうやっていいのか解らないことが
沢山です。ただし、事実を説明出来ない理論は意味がないので、何とかして
既知の事実だけでもミニマリストで説明しないといけないのだけどね。

たとえば、MLCはwh-island conditionを説明できます。

(1) ? Which table-i do you wonder what-j John put t-j on t-i?

matrixのQ-Compにとって、whatの方がwhich tableより近いので、which
tableはmatrix CP-Specに動けないわけです。ところがHuangの博士論文で
指摘されているように、adjunctをwh-islandのなかから抜き出す方が(1)より
ずっと悪い。

(2) *why-i do you wonder [ what-j John put t-j on the table t-i ]

MLCではどちらも(同じ程度に)悪いことになり、なぜ(2)の方が悪いのか
説明できません。

それと、pesetskyは(1)がいれこ式になっていて、交差している(3)は(1)より
悪いということに着目して線状交差制約、その代案であるPCCを提案したわけです。

(3) ?*what-j do you wonder which table-i John put t-j on t-i

MLCでは(1)も(3)も同じように悪いことになる。ここいらがMLCとPCCの
システムの違いの一端です。

係り結びに話を戻したいなぁ。韓国語も「交差制約」ってあるんだけど、
韓国語に係り結びってあるか知っている人いない?

60ズブの素人の58:2001/03/18(日) 07:48
>>59
くどいんだけど
>MLCは wh-i...wh-j...t-i...t-j のような構造をrule outするけど、PCCはしません。
の説明にはなってないようなのら。
実は単にindexふり間違えただけだったりしないのかぁ?
61無知を恥じています。:2001/03/18(日) 09:51
55です。
たしかに「さは大臣こそのたまひしか」は「大臣こそさはのたまひしか」
よりも許容度が少し下がるように思いますが、非文ではないとおもえます。

大臣はさこそのたまひしか。

はまったく問題ありません。

「は」「も」がほかの「係助詞」とずいぶんちがった性質を持っていること、
その意味で同じ枠に入れるのはスマートでないということは動かないと
思うのですが。
また、「主題」の「は」と「対照」の「は」の区別は最終的に維持でき
るものではないでしょう。
また、語順の自由度の高さを思うと、交差性の有無はやはり本質的
ではないように思われます。これは無論しろうとの無根拠な勘
にすぎないというべきかもしれません。 
62かかり助詞:2001/03/18(日) 16:19
60さん、確かに私のタイポです。wh-i...wh-j...t-j...t-iとするべきでした。
訂正してお詫びします。すいません。
それから、61さん、無知を恥じていなんかいないで古語の係り結びについて、
いろいろ教えていただきたい。古語のintuitionがあるほど出来るというのは
貴重だ。で、以下の例に本当にコントラストはありませんか?

(1)大臣はさこそのたまひしか
(2)さこそ大臣はのたまひしか

現代語でも非常に微妙な違いだと思うけど、私はやっぱり(1)相当の
(3)は悪いと思う。

(3)  ??太郎は その本こそ よんだ。
(4)  その本こそ 太郎は よんだ。

「は・も」は確かに他のかかり助詞とは違います。しかし、
「こそ」も「ぞ・なむ・や」なんかとは違うし、否定辞対極表現
wh-疑問詞なんかもまた違うでしょ。それぞれが違うけど、全体として
同じように扱えるというのは理論にとっていいことじゃあないかな。
たとえば「自動詞や他動詞いろいろあるけど、動詞は動詞なんだ」という
のと同じようなモンでしょ。
主題の「は」と対照の「は」の違いがないというのは抽象的なので
コメント出来ませんが、確かにどっちがどっちか判断しにくい
違いではあります。
で、だれか韓国語の係り結びについて知りませんか?
63あぼーん:あぼーん
あぼーん
64あぼーん:あぼーん
あぼーん
65名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/19(月) 19:22
春休みかぁ…… ┐(´ー`)┌
6661:2001/03/20(火) 10:57
>(1)大臣はさこそのたまひしか
>(2)さこそ大臣はのたまひしか

>現代語でも非常に微妙な違いだと思うけど、私はやっぱり(1)相当の
>(3)は悪いと思う。

>(3)  ??太郎は その本こそ よんだ。
>(4)  その本こそ 太郎は よんだ。

太郎はその本をこそ読んだのだった。
その本をこそ太郎は読んだのだった。→どちらもよさそう。

私こそ、そのことではあやまるべきなのです。
そのことでは、私こそあやまるべきなのです。→どちらもよさそう。

太郎はその本こそ読んだが、それ以外は実は読んでいなかった。
その本こそ太郎は読んだが、それ以外は実は読んでいなかった。→むしろはじめの
方がよいか? こちらも悪いというのではないのですが。


主題を示す「〜は」という部分と、焦点を示す「〜こそ」という部分とでは、前者が
さきに来る方こそ、情報の流れという点では自然ではないでしょうか?

情報の流れという点では、〜さきに来る方こそ・・・・・。

(1)(2)は、やはりどちらも問題ないと思えます。

一般的に言って、「〜は」と「〜こそ」の語順に関しては、主題(ないし対照)
を強調する必要があれば、こちらを前置するのが自然、というように、語用論的
な見地から考えるべきではないでしょうか?
67かかり助詞:2001/03/20(火) 14:06
63-65がウンコの詩みたいの載せるから、このスレはもうおしまいだと
思っていたよ。
私個人は62の(3-4)の判断は正しいと思うけど、同時に、非常に微妙なので
どちらもいいという人がいるのも解ります。上の21-35くらいにも、この判断に
同意しない人沢山いるしね。
勿論、どのような文法判断にも統語的制約だけでなく、語用論てきなファクターも
関係してくるはずです。そのどちらかが、あるいは両方が文法性・容認可能性
を決めるわけですが、実際にどちらがresponsibleなのかを決めるのは、一つづつ
統語的、語用論的要因を排除していったりする、きめの細かいコントロールが
必要です。最終的には理論が決めるしかないのだけど。
確かに、「は」と「こそ」の共起制限は、例えば「しか-ない」と「こそ」の
共起制限より弱いので、交差制約以外の何者かが関与しているのか、あるいは、
もうちょっと交差制約を洗練する必要があるのかも知れない。
ところで、66さんの「強調される要素は前置」というのはどこから出てきたお話でしょう?
情報の流れ(旧から新へ)と言うのとは相反するように思いますが。

68名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/21(水) 14:49
ちょっと横やり入れますが。

>>67

なんか理論に現実の現象を合わせようとしてませんか。
>>62の(3-4)」「>>21->>35くらい」見る限り、そして俺の判断ではかかり助詞さんの解釈は思いこみなのではないかとさえ思えてしまう。
「は」に交差制約が無ければならない理由って何ですか?「こそ」に制約があるのは納得できるんだけど、「は」はどうもわからない。「あるかもしれないので検討に値する」というのならわかります。

「情報の流れが旧から新へ」ってのもどんな時でも厳密にその流れ通りではないと思う。
強調される要素が文の前の方に来る傾向(もちろん来ない状況もある)というのは実際にあるわけだし。
69おむすび:2001/03/21(水) 15:46
>「情報の流れが旧から新へ」ってのもどんな時でも厳密にその流れ通りではないと思う。
>強調される要素が文の前の方に来る傾向(もちろん来ない状況もある)というのは実際にあるわけだし。

いわゆるcleft sentenceは新→旧の配列と言えませんか?
70死ね死ね団:2001/03/21(水) 20:42
君たち「情報の新旧」と「情報の重要度」を混同しちゃ
いないかい。ついでに言うと、前提と焦点や主題と題述
なんかも混同されがちなので注 注 注!
7166:2001/03/22(木) 11:49
>67さん。
主題を強調したいときは目立つように文頭に置くことが多い、という
ことを言っただけでして・・・。主題が文のあとの方に来ることもむろんあるけれども、
そのような場合、その主題は省いても差し支えないことがおおいでしょう。
省くと誤解がありそうな主題部分は、文頭に来やすい、ということはいえるでしょう、
というようなことです。当たり前のことなので、かえって恐縮です。

>70
物騒なことを言わずに、啓蒙してください。

 

72かかり助詞:2001/03/22(木) 12:49
ええっと、まず、68さんへの返事。確かに再三言ってきたように、
そしてみなさんから指摘を受けているように、「は」に関する
交差制約は非常に弱くて、もしかしたらないかも知れない。ただ、
私の知っている人で、「は」について論文書いた人がいたから、その人に
一応敬意を示したいだけです。
私は機能主義言語学はもう7、8年やっていないから、イマイチ自信ないけど、
いわゆるプラハ学派のいう、情報の新旧というのは、「傾向」なので
あって、絶対的な原理ではないはずだぞ。こんな私でもそれくらい解っている。
一方、「情報の重要度」という概念については、私は全く通じていない。
これはどういう概念で、何を説明できるのかな。70ばんさん当たりが
説明してくれると助かる。あるいは何かliteratureを紹介していただきたい。
more or less important informationとか言うのを久野先生か
高見先生の書いた物でみた気がするけど、それでしょうか。
で、誰か何とかして、係り結びに話を戻していただけないかな。
7366:2001/03/22(木) 19:20
「しか」とあれば連用形「なく」しか来ない、仮定形「なけれ」しか来ないという
ような現象があるのならば、それに「係り結び」という名をつけてもいいけれども。
74名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/22(木) 20:05
係り結びの定義ってのが問題かなぁ。

 ・古代語で「係り結び」と一般に呼ばれてる「ぞ・なむ・や・か・こそ」だけを絶対の基準として「係り結びとは何か」を考える。
 ・それらは単にわかりやすい「形」で現れているのに過ぎず、共通の原則を持つものが他にもあると考えて、新たな定義を探る。(古代語の「係り結び」ごと定義し直す)

この辺を整理しないと話が錯綜するよね。
75かかり助詞:2001/03/23(金) 12:02
74さんの二つ目の方向性、「共通の原則を持つ物を係り結びとする」
に一票。理由はそれがこのスレで主張してきたことだから。
こういう方向性では、係り結びは英語のwh-移動なんかと同じ物と
考えることが出来るし。よく、国語学の文献なんかで目にする、
「係り結びは印欧語にはない、日本語特有の現象」(例えば大野すすむ、
「係り結びの研究」)なんてのは間違いだと思う。
76吾輩は名無しである:2001/03/23(金) 15:21
「しか〜ない」などを広義の「係り結び」に含めると、
味噌も何たらも、なんて言われてしまいそう・・・。
狭義の「係り結び」の特殊性を考えると、概念としての拡大には慎重である方が
よいのでは?
オオノのような発言は、ある言語的事実の特殊性を「日本精神の特
殊性」に拡大するニュアンスがありそう。拡大することにつきまといやすい、
あるうさんくささを物語っているともいえる。もっとも、私のこの
論じ方も、あるものをもっと大きなものの一例と見なすのであり、
同罪かも。
77名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/24(土) 03:10
結局「しか〜ない」やwh-疑問文などの特徴と、古代語の狭義の「係り結び」が本当に共通してるかが問題になりますね。

たとえ共通点は一部あっても、それに加えて「係り結びにしかない特徴」が「形」以外にあるのなら別にすべき。(無いなら含めるのも可)
そしてそれでもその特徴を含むものが「ぞ・なむ・や・か・こそ」以外に見つかるのであれば含めるべき。
ただし「形に現れている」というのも無視できない特徴ではあるので「狭義係り結び」という概念を取り払うことにはさらに検討が必要。

という所でしょうか。「ある共通点でくくれる」だけだと極端な話(本当に極端だけど)「『言語』でくくっておしまい」まで拡大可能ですし、言語学から飛び出して行くことも可能なので慎重さは必要。
もちろん共通原則を探す方向性は適切だと思うし、「係り結びの再定義」は是非やるべきだと思う。

にしても「拡大」って麻薬的な魅力があるなぁ。
7855=66=76:2001/03/24(土) 09:46
結びが連体形になる方は、起源的には倒置だといわれているわけですが、
そしてそれはそうでしょうが、何でも起源から説明できる、説明すべきだと
いうのは科学的というよりむしろ形而上学的ですね。起源を問うてはならない・・・


たとえば「なむ〜連体形」には複数の機能が重複して
いるはずですが、その大きなひとつが、文の「焦点」に付いて、文の焦点を
明示するというものでしょう。この機能の一部は現代語「が」に
うけつがれています。

これなむ都鳥(なる)→これが都鳥だ
これは都鳥なり  →これは都鳥だ

きのふなむ、それ見はべりし。→現代語ではfocus「きのふ」
は声調が示す。「なむ」はfocus−marker(?)として機能している。
きのふ、それなむ見はべりし。

しばしば「強調」といわれますが、この概念はあまりに漠然としていますね。
79かかり助詞:2001/03/24(土) 14:26
私論を押しつけるようで申し訳ないけど、小生の上での主張が
正しいとすると、現代語の「こそ」「も」(それから非常に
controversialな主題の「は」)はどれも、発音しない
morphemeとペアされていることになる。音がないだけであって、
統語的に存在する(と仮定することによって言語学上有意義な一般化
が可能な)のであれば、「しかない」やwh-疑問文も「こそ」「も」
も同じ範疇にするべきではないの。
例えば、英語の主語と動詞の一致では、haveとbeのようなのを除く
本動詞の場合、三人称単数現在の時にしか発音する一致はない。けど、
統語的にはI go、you go、we goの時も「一人称単数」「二人称
単数」(生成文法で言うファイ素性)と言う具合に「発音しない一致」
をしていると考えるわけでしょ。それと同じなのでは。
78さんは国語学って感じの人だな。小生は生成文法を背景としているので
国語学的な方法論とかに余り明るくない。しかし、このスレに誘発されて
国語学の「とりたてし」に関する論文なんかも読み始めてます。
面白いと思うところもあるし、納得いかないこともある。まあ、
生成文法と国語学はお互いの誤解に基づいて喧嘩しちゃうことが
多々あるので、それをさけるためにもよく読む必要ありとみました。
80吾輩は名無しである:2001/03/24(土) 19:50
国語学では、起源を問うななんていうしゃれたことはいいません。
焦点なんてこともあまりいわないのでは? 実はよく知りません・・・
81名無しさん23:2001/03/26(月) 00:43
副助詞や副詞の文末との呼応と
係りむすびを同一視するなんてむちゃくちゃ。

古典語知らないやつが下手なこといわない方がいいよ。
82名無しさん:2001/03/26(月) 01:30
>>81
類型論や生成文法での「比較統語論」をやってる人は、その言語のことを
よく知らないで(知らないからこそできる場合もあるが)議論を進めている
ことがあるので、気をつけないといけませんね。自戒をこめて。
83かかり助詞:2001/03/26(月) 04:37
>>81
ほらね、国語学(というか古典研究)の人も生成文法を理解もしないで
「むちゃくちゃ」呼ばわりするでしょ。どうしてむちゃくちゃなのか、
理由が書いてないので解らないけど、こういう風に「古典知らない
シロートは黙ってな。」形式の事いわれるとさすがに聞きズテなりません。
まず、どうしてか聞かせていただきたい。その際に、上からこのスレを
きちんと読んで理解してから、「シロート」呼ばわりしていただきたい。
第一、ここでの主張は現代語に関する主張なので、「古典知らないやつは
黙っておけ」呼ばわりされる筋合いないぞ。
84名無しさん23:2001/03/26(月) 05:33
むちゃくちゃってのは言い過ぎたかな
だけど、こんなにいろんなものをひっくるめることが
何か有効性を持つのかな。
まあ、古典語の係り結びといわれてるものもそれぞれの
係りと結びの関係なんかが等質的なものだという保証は
ないのだし、いろいろ似たところがあるものを比べてみる
のはいいけれど。

あと、国語学といってもとりたて詞とかいう人と係り助詞という人とで
かなり見解が違うので注意。
85名無しさん23:2001/03/26(月) 05:48
現代語に関する主張なら、係り結びとか係助詞とかいわない方がいい
ついでに形に出ない「は」「も」も扱わないで、「とりたて詞」に限るべきでしょう。
係り結びっていいだすといろんな意味でたいへんなことになると予想されるので。
81の最後はそういうことで、別にシロート扱いってことじゃないよ。
86名無しさん23:2001/03/26(月) 06:23
>>85
>、「とりたて詞」に限るべきでしょう。
は、「その他の、「とりたて詞」に限るべきでしょう。 」
87名無しさん23:2001/03/26(月) 06:24
係助詞も副助詞も同じだという人のために係助詞の特殊性を
一つあげておきます。
「か」は、それ一つで疑問文にしちゃいます。で、これは文末に
来てもよく、それは現代語の終助詞の「か」と同じものです。
こんなこと、ほかでは考えられないでしょう?

かかり助詞氏はずいぶん緩い共通性しか見ようとしてないみたい
なので、それだったら上の違いも些細なことかも知れませんが。

では、うるさい国語学徒は消えます
88かかり助詞:2001/03/26(月) 07:09
>>83-87
やっぱり、議論がかみ合わない。とりたて詞と係り結びの用語の
違いというのは、いろいろ国語学の文献をみた限りでは「文末の動詞が
特殊な変化形(已然形とか連体形)していれば係り結び、そうでない
ものはとりたて詞」ということらしい。それなら、上での主張は、
「「こそ・も」の場合、現代語でも発音しないnull morphemeがある」
というものなので、係り結びという用語使ってもいいでしょ。
言語学は現象に名前つける命名学とは違うので、用語の違いなんて
どうでもいいことだけど。いっそのこと、「係り結び」とか
「とりたて詞」なんてのもやめて、別の名前つけてもいいくらいだ。
それに87の「緩い共通性」というのもなんだかわけワカランぞ。
何を持って緩いといっているのか、その規準も解らないけど、
否定辞対極表現、wh-疑問文、「こそ」などの共通性は
上で言ったように交差制約にしたがうだけではありません。
87の言っている「か」の特殊性も具体例がないのでコメントの
仕様がない。係り助詞も副助詞も同じだとは言った覚えが
ないけど、そもそもそういう古典文法的な範疇設定を
信じていないのは事実です。
89名無しさん23:2001/03/26(月) 07:26
かえってきたよ。
緩い共通性っていったのは、
文末との呼応があるものをなんでも
ひっくるめて扱おうとしているだけに
しか見えないから
90名無しさん23:2001/03/26(月) 07:28
>文末の動詞が 特殊な変化形(已然形とか連体形)
>していれば係り結び、そうでない
>ものはとりたて詞」ということらしい。

なんか違うぞ。係助詞と係り結びがごっちゃだ。
用語の混乱のせいでおたがいわけわからん。
91名無しさん23:2001/03/26(月) 07:33
「か」の話、
係助詞には文中用法と文末用法があるの。たいてい。
文中用法は文末に特殊な形を要求する。これを係り結びという。
係助詞じゃなくて係り結びだけを問題にしてるの?
92名無しさん23:2001/03/26(月) 07:36
広辞苑からコピペ。上が文末用法で現代語の「か」と同じ形。
万葉集1「少女らが玉裳の裾に潮満つらむ―」。
万葉集15「吾妹子がいかに思へ―ぬば玉の一夜も落ちず夢いめにし見ゆる」。
93名無しさん23:2001/03/26(月) 07:45
なんか勘違いしてたかも
55
>「は・も」は現代語でも(現代語の「こそ」と同様)、文末に特定の
>形態を要求しないけど、それでも「発音しない形態」と呼応している
>というのが ここでの主張です。
この主張だけなら、それはそれでいいと思う。
いろいろひっくるめるから味噌くそ一緒にしちゃってるように見える。
94名無しさん23:2001/03/26(月) 07:53
>係り助詞も副助詞も同じだとは言った覚えが
>ないけど

ふつう、とりたて詞っていうと係助詞+副助詞なの。
95吾輩は名無しである:2001/03/26(月) 09:02
HE LOVES で主語とSが呼応するように、
I LOVE でも「発音されない形態」と呼応する。これは「ゼロ記号」と
いってもいいものでしょう。ゼロという明確な形を持っている。

「は」「も」は「発音しない形態」と呼応する。                
                 呼応して、ほかの語はそのような形態は持たない。
                 呼応すれば、「正しい」用法である。(例文としていっている)
                
ゼロ記号は、ゼロというシンギュラーな形を持っていますよね。
「発音しない形態」は複数イメージなのですか?

96かかり助詞:2001/03/26(月) 09:39
生成文法と国語学者は理解し合えないのではないかという気がしてきた。
古語のかかり助詞に文中用法と、文末用法があることくらい、文献読んで
知っていますぅ。現代語の「こそ」は文中用法、wh-疑問文は文末用法
に類するのだろうけど、それが同じ制約のもとでinteractするから、
それらを何らかの自然類として見なさないといけないわけ。解った?
それをとりたて詞と呼ぶか、かかり助詞と呼ぶか、係り結びと呼ぶか、
趣向を変えて仮面ライダーと呼ぶかなんてどうでもいいことです。
「か」が付くと疑問文になるの何て当たり前だろう。他の、「ない」
とかは疑問文にならないけど、それは塩と醤油が違うのと同じで、
元々morphemeの意味が違うからだ。意味が違うから、統語的にも
別々に扱うべきではないなんてのは見当違いな主張だね。
>>95null morphemeにはいろいろあります。単複を表すnullmorpheme
もあれば、英語のwh疑問文なんかには、もともとQというのが文頭に付いていて
このQがwh句をひっぱるのだとされてます。Qは「私はwh疑問文だから
wh句を僕のところに持ってきてくれたマエ」というmorphemeです。
例えば、Q John saw who.->Who Q did John see?みたいにね。
日本語の「誰」などに呼応する「か」「の」もこのQを発音した物。
「こそ」に呼応するnull morphemeは上ではFと呼んだけど、
これはfocusの意味を込めてです。Fは「僕はfocusだから、focus
のある句を僕と呼応させてくれ」と言っているわけです。だから、
これらのnull morphmemeに単複があるわけではありません。
97名無しさん23:2001/03/26(月) 11:04
名前なんてそりゃどうでもいいんだけど
>それが同じ制約のもとでinteractするから
その制約が、係助詞に共通する制約よりずっと
緩くなっちゃってんじゃないかと言うことなんだけど。

副助詞も陳述副詞もWHも係助詞も制約が同じって、
みそもくそも見た目が同じっていうのとどれだけ違うの
98名無しさん23:2001/03/26(月) 13:21
どうでもいい名前だけど、その名前・分類が使われてきた背景には
それだけの理論と裏付けがあるわけで、
一方あなたがひとくくりにしようとしている類には、
そうすべきだと納得できるだけの理屈がないと私は思うのです。
共通性は誰でも気づくことでしょ。細かな制約としてあげるかは別として。
本居宣長は「はもぞ」なんかと一緒に「何」も係り結びに入れてました。

>「か」が付くと疑問文になるの何て当たり前だろう。
すごく当たり前なんだけど、こういうことをしてしまう助詞を
「しか」なんかの副助詞と同列に見るところが、表面しか見ていない
気がするのです。係助詞だけにまともに取り組めば「しか」と同じとか
いうだけではないものが取り出せるはずだと思うのですが。
99かかり助詞:2001/03/26(月) 14:32
私は「か」を「しか」と一緒にしてません。だからよく読んで理解してから
反論してくれと言ったでしょ。私が一緒にしているのは、「しか」と
それに呼応する「ない」の間にある関係、「誰、何etc」とそれに呼応する
「か・の」の間にある関係、「こそ」とそれに呼応する「発音しないF」
の間にある関係です。その呼応関係のメカニズムが、生成文法では
A-bar依存関係というのだけど、古語の係り結びに使われていたメカニズム
や、英語のwh-疑問文のメカニズムと同じじゃないか、というわけです。
その裏付けの一つが上で言った交差制約に関する事実です。他にも山とあるのだけど
ここで説明出来るようなことではないので、出してないだけ。
それと、国語学は知らないけど、生成文法ではなるべく多くの事象を
なるべく簡素な理論で説明できる方がいいの。なぜなら生成文法は
科学的なアプローチをとっているから。「今まで関係ないと思われていた
事象が実は同じメカニズム」という主張なのに、それを「みそもくそも」
何て言い方される筋合いありません。
「共通点は誰でも気づく」っていうけど、そんなことないだろ。事実、
こういう事をいろいろな角度から調べた論文が海外の学会誌にのるのだから、
「誰でも気づく」のだったら誰でも海外の学会誌に論文が載せられることになっちゃう。
それにここに出ている交差現象の一部は1990くらいから、生成文法の日本語研究家が気づいて
研究し始めたのだけど、じゃあ、何で国語学の人は「誰でも気づく」事に
気づかなかったんだ?
「理論なし」といわれるのも非常に憤慨で、もしホントにそう思うのなら
上でサイトしたPesetsky (2000) Phrasal movement and its kin、
MIT Pressとそこにサイトされている論文全部読んでから「理論ない」
といってくれ。英語で書いてあって、生成文法の理論が解っていないと
解らないけど、「理論なし」なんて言うからには、それくらい理解出来
るんだろう?
とにかく、文句は読んで理解してからにしてくれ給えよ。
100名無しさん23:2001/03/26(月) 15:56
「共通点は誰でも気づく」ってのはもちろん直感のレベルでしかない
わけで、それをばっちり理詰めで言えるんだったら有意義だと思いま
すよ。
でも共通点と同時に違いもあるから(結びのない)「は」「も」を副
助詞とは別に係助詞と呼んだりしてきたわけで、共通性の取り出しに
ばかり執心して違いを無視するようなのでは困るなあということ。
「関係」に違いはないって言う主張に見えるし。
(「関係」のありかただって助詞の性質の問題に行き着くはずだと思うよ)

まだ共通性を証明できた訳でもないでしょ。
古典の用例にでも当たって裏をとってください。
101名無しさん23:2001/03/26(月) 23:35
>間にある関係です。その呼応関係のメカニズムが、生成文法では
>A-bar依存関係というのだけど、古語の係り結びに使われていた
>メカニズム や、英語のwh-疑問文のメカニズムと同じじゃないか
私が言いたいのは古語の係り結びのメカニズムが「こそーない」と
同じだって主張しようというのは無理だろう。そこに共通性を見いだ
しても本質的でないし、そこに見られる共通性を持って係り結びを
再定義するなんてのはおかしな話(みそくそ)だってこと。
「こそーない」と係り結びの違いは命名の問題からだけど前から
論じられてきたところ。

>それと、国語学は知らないけど、生成文法ではなるべく多くの事象を
>なるべく簡素な理論で説明できる方がいいの。
そんなことはわかってるしその方がエレガントだってのは国語学
だって同じだと思うよ。だけど共通点だけに目をやってみんな同じ
メカニズムですでおわっていいわけじゃないでしょ。

「理論なし」といった覚えはなく、あなたの理屈に納得できないといった。
自分が常識に反する突飛なこといおうとしてるんだってことはわかってるでしょ?
102名無しさん23:2001/03/26(月) 23:46
あ、2ちゃんだから煽り口調に聞こえると思うけど
いやがらせするつもりじゃないからね。
生成の人が古典語に興味を持ってくれるのは良い
ことだと思うし。
都合の良い所だけ探して持ってきて持論の補強に
しようとかいう甘い考えはいやだけど。
103かかり助詞:2001/03/27(火) 00:45
やっぱり、理解してもらえない。「は」は上でも再三言ったように
よく解らないけど、「も」はnull morpheme、-Mと呼応している、
この点で「何」と呼応する「か」と同じメカニズムだというわけ。
で、メカニズム自体は同じだけど、全てが同じではありません。なぜなら、
「しか」は否定辞「ない」と呼応だし、それぞれが、「ない」「か」
-F何て言う、別々のmorpheme(国語学で言う動詞の相)と呼応して
いるのだから、その点で別々の振る舞いをするわけです。例えば、
上にも書いたけど、「こそ」や「は」は関係節のなかに出て来れない。
(1) *[その本こそよんだ] 人が いなくなった
(2) *[その本はよんだ] 人が いなくなった
これは関係節が小さすぎて-Fや「は」に呼応する-Tがあらわれえ
ないからで、逆にもっと内側の物と呼応する「しか」は「ない」さえ
関係節のなかに出ていれば出てこれる。
(3) [ その本しか 読まない ] 人
そういう違いもあるというのは上で言ったとおりです。
>>101「こそーない」って何だろ。「しか-ない」の間違いかな。
どうして無理なのかは解らないけど、ここでは「現代語」に
関する主張をしているので、古語で裏をとることは必ずしも
必要ではないと思われます。古語にはnativeがいないので、
informant workもできないけど、韓国語では交差制約あります。
琉球語には(発音する)係り結びが残っていて、いまでも
speakerがいるので、上にも書いたけどinformant workは
やってみたい。
それと、「理屈に納得できないからだめだ」というのは、生成文法の世界では
通用しない論法だ。ある理論がダメだと言うには、その理論が説明できない
事象を指摘するか、悪くともその理論より簡素な理論で同じ事象が説明
出来ることを示さないと。
104名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/27(火) 02:19
あの、お二人で話が白熱してるところ申し訳ないんですが。

>>103

>ここでは「現代語」に関する主張をしているので、古語で裏をとることは必ずしも
>必要ではないと思われます。

呼応関係や交差制約が現代語で見られることにはとりあえず文句は無いんですけど、それが古代語の「係り結び」と一緒だ、という主張はどこから出てくるんでしょうか。どこにもそんな保証は無いわけですよね?

現代語の「こそ」や「も」に交差制約があるらしいことからそういう仮説が出てくるのはわかるんですけど、それが古代語でも一緒かどうかは古代語を見もせずに断言することはできないはずです。そして古代語の係り結びには別の法則があるかもしれない。もしそうなら「係り結び」と交差制約云々の呼応関係は別の現象とすべきでしょう。その検討無しに「係り結び」と結びつけようとするから批判意見が出ているのだと思います。

そういった裏を取る作業は論理を組み立てて証明する過程で必要不可欠なもののはずです。それを「必ずしも必要ではない」と言ってしまっては「理論」として必要最低限なものが揃わなくなってしまいます。nativeはいなくても係り結びの用例はたくさんあるわけですから、そこからある程度の裏は取れるはずです。

>ある理論がダメだと言うには、その理論が説明できない
>事象を指摘するか、悪くともその理論より簡素な理論で同じ事象が説明
>出来ることを示さないと。

とおっしゃるのはもっともなことだし、国語学だってそうだと思います。でも理論として十分に成り立っていないから、「納得できない」という声が挙がるんじゃないでしょうか。
105名無しさん23:2001/03/27(火) 02:24
むちゃくちゃな主張じゃないことはわかったよ。
> >>101「こそーない」って何だろ。「しか-ない」の間違いかな。
はいtypoです。
> どうして無理なのかは解らないけど、
これはここで簡単にはいえないので、やっぱり文献を当たってもらうのがいいです。
へたなこといってごちゃごちゃしたくないし。
> ここでは「現代語」に
> 関する主張をしているので、古語で裏をとることは必ずしも
> 必要ではないと思われます。
でも古代語の係り結び現象にも言及してたでしょ。
係り結びの再定義みたいなことも。
それはミスリーディングでしかないと思う。
係り結びも「しかーない」も同じメカニズムっていったらふつう国語学
の人は表面的な類似で無茶を言いだしたと思うか、係助詞を解消してし
まおうとする別の議論(とりたて)を想起すると思う。
国語学っていっても人によって全然違うけど。

>「は」は関係節のなかに出て来れない
っていうのはいわゆる対照の「は」は別扱いってことですか。
そこまでひっくるめて係助詞だと思うのですが。
106名無しさん23:2001/03/27(火) 03:04
「古代語の係り結びも同じ」説を放棄すれば別に文句はないのだけど
これを捨てないなら>>104さんがいったとおりの論証が必要でしょ。
沖縄語の係り結びが古代語のそれと同じだという保証もないのだし。

ついでにいうと古代語の係り結びのメカニズムだってそれぞれの助詞
ごとに全然別物じゃないかという議論もふつうにあります。
107かかり助詞:2001/03/27(火) 03:18
>>104古語に関しては、nativeがいないので裏をとることは論理的に
不可能です。書かれたテキストは「書き間違い」を除けば文法的な物
しか出てこないし、書き間違いがあったとしても、それが本当に
非文法的なのかというのは平安人でも連れてこないと確かめられない。
唯一期待できるのは、琉球語のように古い形を残している言葉でinformant
workをして琉球語と古語が同じメカニズムで係り結びを行っていたという
想定のもとで古語に関する議論を進めることです。こういった事情があるので
古語の係り結びに関する話はあくまで、正しいと思われる主張というより
implicationということです。
それと、上にも書いたとおり、主題の「は」と対照の「は」は別扱いです。
対照の「は」もかかり助詞なのかも知れないけど、少なくとも同じ
morphemeにペアされるのではない。例えば、「しか」などは一つの
「ない」につき一つしか出て来れない。
(1) *太郎しか その本しか 読まない。
「は」は沢山出てこれる。
(2) 太郎は 花子には その本は 渡した。
ただ、どいう訳か、一番最初の「は」だけ主題として解釈されえて、
後の「は」は対照の解釈になる(久野「日本文法研究」)。だから、主題の
「は」は「しかない」 と同様、一対一のペアになっていないといけないから、
(2)では3つある「は」のうち、一つの「は」しか主題になれない。(これは英語の
topicも一つだけなのと同じ理由かも知れない)なぜ、一番最初の「は」しか主題に
なりえないのかは解りません。対照の「は」は(2)にも少なくとも二つ出ている。例えば、現代語の
「か」は複数のwh-とペア出来る。
(3) 誰が 何を 買ったの?
だから、対照の「は」とwh-疑問文は何らかの統語的自然類をなしていると
考えられます。主題の「は」は「しか」と一緒の類ね。「こそ」も
複数出て来れないので、後者の類です。
(4) *太郎こそ その本こそ よんだ。
やっと話がイデオロギーの違いから抜け出して言語学っぽくなってきた。
よかった。
108104:2001/03/27(火) 03:51
>古語に関して、nativeがいないので裏をとることは論理的に
>不可能です。書かれたテキストは「書き間違い」を除けば文法的な物
>しか出てこないし、書き間違いがあったとしても、それが本当に
>非文法的なのかというのは平安人でも連れてこないと確かめられない。

それはおっしゃるとおりなんですが、わかる部分もあると思いますし、少なくとも傾向のようなものは出ると思うんですが、違いますか?
たとえば交差制約があると仮定して調べてみた結果、

  『なむ』が出てくる文における「『なむ』を含む句」の
  文中での位置はさまざまな位置(交差制約を仮定した場
  合に違反していると思われる位置を含む)で、しかもい
  ずれも少なくない頻度で現れており、交差制約に合わな
  い用例も誤用とは言い難い。

という調査結果が出たとしたら(あくまでたとえ話ですので、上のような事実を私が確認した、という意味ではないです)、「係り結び」と交差制約は別の話に分けるべきだということにならないでしょうか。
少なくともこの程度の予備調査は可能だし必要だと思うのですが。
109104:2001/03/27(火) 04:33
呼応関係と交差制約とがあることをもってそれを「現代語版係り結び」と称する以上、古代語も同じ条件に当てはまるのでなければ用語の意味が時代別に変わってしまいます。これではかえってわかりにくいですし、有意義だとは思えません。

このスレッドのタイトルは「現在の口語には、「係り結び」はない?」です。そしてかかり助詞さんは「現代語にも係り結びはある」と言って今主張なさっているようなことを書かれてきました。
であれば当然、古代語も同じ法則が当てはまらなければ話のつじつまが合いません。古代語にこだわったレスが付くのはそのためです。

交差制約の話そのものは面白い話だと思いますが、古代語を無視されるのであればそれは「係り結び」とはまた別の話題として、別の現象として論じるべきではないでしょうか。
110名無しさん23:2001/03/27(火) 04:34
対照と主題の「は」の話は、今度は国語学内部でのイデオロギー論争に
なるのが目に見えてるのでやめときます。
111かかり助詞:2001/03/27(火) 04:58
>>108-109おっしゃるとおりです。確かに古典のコーパス言語学
みたいのをやって、「ぞ、なむ、や、か、こそ」何かが共起する場合
全く自由な語順であらわれたら私の主張の大問題です。ただ、現代語で
例えば交差制約に関するような知識をどこで習い覚えたのかというと、
「習ってない、それは経験から来る知識ではなくUGの一部だ」という
事になるでしょう。もし、UGの一部なら古語にもあっただろうと、
推定されるわけです。絶対にそうだというのは言えません。科学的な
アプローチをとる限り、真理に近づくことは出来ても真理には到達でき
ないからです。同様に現代語の「交差制約」というのも仮説であって、
真理ではあり得ません。ただ、英語にも韓国語にもあるというのが
サポートにはなってます。
>>110「は」の論争やっていただきたい。私は国語学は門外漢なので
論争には加われない・加わらないからね。
112名無しさん23:2001/03/27(火) 05:03
係助詞の文末用法っていうのに誤解があったようなのでひとこと。
文末用法は係助詞が文末にあるだけだから呼応関係なんてないのです。
だから係助詞の特殊性といって挙げた。
きっとこれも別扱いするんだろうけど。
113名無しさん23:2001/03/27(火) 05:29
それと、蒸し返すようでわるいけど「か」と「しか」を同列で云々
っていったのは現代語におけるあなたの主張を誤解したものではなく
「古代語の係り結びもおなじだ」っていうと「か」も係助詞だから
自然そうなるからです。
114かかり助詞:2001/03/27(火) 08:37
だいぶ事態が収まりつつあるという感があります。

論点が合わない理由の一つには、現代語の「こそ-F」という呼応
関係が、古語の「こそ-已然形」という係り結び関係と同じ物である、
と私が見なしている事にあると思います。上でも書きましたが、
これはそんなに突拍子もない仮説ではないと思われます。なぜなら、
古語が現代語になる時に「きゅうに別のメカニズムを使うようになった」
というのは(私が主張している)「古語の已然形を現代語では発音しなくなった」
というのよりdiachronic syntax上、不自然であると思われるからです。

それと、112でお察しの通り、「ぞ」などの文末用法は私は
文中の何かと呼応していると考えることもできると思う。それを
どう証明するかは難しい問題だから、解らないけど。基本的に
現代語の「ぞ」は文末用法onlyで、「買ったのぞ」みたいに
他の文末用法係助詞(の名残)と共起できないのは何らかの
理由があると思う。これはspeculationだから、あんまり批判しないで
くれぞ。
115名無しさん23:2001/03/27(火) 10:45
>>111
>確かに古典のコーパス言語学
>みたいのをやって、「ぞ、なむ、や、か、こそ」何かが共起する場合
>全く自由な語順であらわれたら私の主張の大問題です。
コーパス言語学って程じゃないけど、ネット上で古典文学作品のテキスト
は簡単に手にはいるし、総語索引の類も充実してるので、自分の考えに
矛盾する用例がないかいくつかの作品をチェックするくらいは比較的
簡単だと思いますよ。
おまえがやれっていわれそうだけどさすがに暇学生のわたしにもそれ
だけの余裕はありませんが。
今のところ>>101でいった考えにかわりわないけど、直接には反証不能
で保留せざるをえない。それと同じくかかり助詞氏の係り結び再定義
なんかもpendingってことでいいのかな。
116かかり助詞:2001/03/27(火) 13:20
出来るかも知れないけど、もし、「反例」がなくても、それは
ただ偶然になかっただけかも知れないから、古語の限られた
テキストは交差制約にconsistentだという事を
示せるだけで、積極的にサポートにはならない。から、
時間の無駄だからやらないと言うわけ。そんな時間があるのだったら、
私は現代語やその他のnativeのいる言葉の論文を書くよ。
仮に琉球語の係り結びが交差制約に従うことを示しても、
琉球語と古語が同じだという保証はないから、と言われそうだけど、
そんなこといったら、各人がinternalizeしている文法(idiolect)は
それぞれが違うのだから、例えば私の現代語の直感に基づいて
かいた現代語の論文でも他の日本語スピーカーの直感を反映してないことに
なっちゃう。
係り結びの定義というのは、私の考えではA-bar移動によって
生じる関係だと思うけど、そこいらへんが国語学の人には
どうしても解ってもらえないだろうから、あきらめてます。

117名無しさん23:2001/03/27(火) 14:01
>これはそんなに突拍子もない仮説ではないと思われます。
こう主張するのはやっぱり古語の「こそ」の振る舞いを確認してからにしま
しょう。「こそ」の制約の連続性が仮に言えても係り結びぜんぶに一般化で
きるかどうかはまた別だし。

そういえば現代語の「しか」「ほか」みたいな、活用形ではなく否定の語と
呼応するものを係助詞ということがあるのを考慮してませんでした。
別物だと思うからなのだけれど。
こういうのは「決して」「ぜんぜん」みたいな陳述副詞にちかいものですが、
これについて制約の話は出来ないのかな。
118104:2001/03/27(火) 14:40
>出来るかも知れないけど、もし、「反例」がなくても、それは
>ただ偶然になかっただけかも知れないから、

反例があったらどうするの、という話です。無かった段階(あってもごく少数)で初めて説得力が生まれるのであって、「調べてないから」で済む問題ではありません。
係り結びに結びつけようとする限り「時間の無駄」というのは怠慢でしょう。予備調査は時間の無駄ではありません。

UGと考えているからいいんだ、なんてのは「俺はこれが一般的だと「思う」からいいんだ」と言っているだけになってしまいます。真理にはたどりつけないといってUGであることの論証をさけようとしているように見えてしまいます。「急に変わった」と考えるのは不自然だとおっしゃいますが、徐々に変わったのかも知れませんし、「こそ」と「も」だけはかかり助詞さんのおっしゃるとおりでも、他の「ぞ・なむ・や・か」などは全然違うのかも知れない。ここの調査は必要です。いい加減な論証で済ませようとしないでください。

「突拍子もない仮説ではない」と言うことにはその現象自体は面白いと思っているので半分くらい賛成しますが、それにはそれなりのものを用意する必要があるのではないですか?
119名無しさん23:2001/03/27(火) 14:42
>時間の無駄だからやらないと言うわけ。そんな時間があるのだったら、
>私は現代語やその他のnativeのいる言葉の論文を書くよ。
その手間を惜しむんだったら係り結びとか言うべきじゃないと思いますよ。

>琉球語と古語が同じだという保証はないから、と言われそうだけど、
>そんなこといったら、各人がinternalizeしている文法(idiolect)は
>それぞれが違うのだから、例えば私の現代語の直感に基づいて
>かいた現代語の論文でも他の日本語スピーカーの直感を反映してないことに
>なっちゃう。
全然質の違う問題だと思いますが。
なぜ琉球語が千年近く前の京都の言葉を保存してるとそれほど
確信できるのか疑問です。
120名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/27(火) 20:15
かかり助詞さんの主張を、下手な比喩を使って言い換えてみるね。
(「交差」してるとかっていうとこはうまく例えられてないけど勘弁)、
「揚げ物」と梅干しと一緒に食べると「梅干し制約」に引っかかって、
お腹が痛くなる(逆もそうで、梅干しと一緒に食って腹痛をおこすような
ものは全部「揚げ物」)っていう仮説がまずあるとする。
揚げ物であるてんぷらは、梅干しと食べるとお腹が痛くなる。そんで、
ポテトチップスと梅干しと食べてみたら、おなかが痛くなった。
したがってポテチも「揚げ物」。
そんな感じの記述に対して、ポテチを詳細に調べると、
ジャガイモでできてるとかのポテチ独特の特徴がある、とか、
ポテチとてんぷらをもっとよく調べなさいという種類の反論が
起こっているような印象を受けるけど...。
いろいろ考えないといけないんだろうけど、当面の問題は、
ある食べ物が「揚げ物」かどうかってことと、それが「梅干し制約」
に引っかかるか否か、だよね?つづく

121名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/27(火) 20:19
つづき
話を「係り結び」に戻すと、「二つの関係がAバーであれば、
交差できない」っていう交差制約仮説とその普遍性が仮定されたら、
古文でも何語でもAバー関係同士は、制約に従うはずと期待される。
古文で、ある関係D1とある関係D2がそれぞれAバー関係だってことを
(交差制約と別のところで)示したあとに、D1とD2が実際に
交差制約に従うかどうかを見ることができれば、
「古文にもA-bar依存があり、交差制約もある」
(もしくは、「現代語にも"係り結び"がある」)っていう意見の
正否が確かめられる。古文にそもそもAバー関係がみつからなか
ったり、別の理由があって、二つの関係が同一文中に出てこなか
ったりしたら、仮説は、立証されてないけど、覆されてもないこと
になるよ。とにもかくにも、原理的には古文の資料を見る意味は
あると言えと思う。

そんで、かかり助詞さんの"係り結び"の用語法は、おっしゃる通り、
Aバー依存っていう理論的な内容とそれにまつわる経験的な内容と
結びついているときだけ、有意味なんで、Aバー云々を最初から
全く認めない人とは、なかなか論争は難しい。

えーっと、下手な比喩に戻ると、「揚げ物」派(かかり助詞さん)
は、厳密に言うと、何が「揚げ物」(Aバー関係)で何がそうでないか
を交差制約と独立に特定する方法を提示する責任がある。
もう一方で、「揚げ物」概念を認めない人は、
「**は揚げ物じゃないのだー」と反論することは論理的に無理なのと、
あと、てんぷらとかポテチの、「揚げ物」性と関係ない、特徴をあげて
も「揚げ物」派の意見とはとりあえず無関係、てことになるね。どう?
122104:2001/03/27(火) 21:47
>>121

>「**は揚げ物じゃないのだー」と反論することは論理的に無理なのと、
>あと、てんぷらとかポテチの、「揚げ物」性と関係ない、特徴をあげて
>も

そういう反論は確かによくないですが、Aバーだとか交差制約には反論してないですよ。問題にしてるのはそれらがなぜ短絡的に別の概念かも知れない「係り結び」と同じだということになるのか、です。(名無しさん23氏もたぶんそうじゃないかな。)
当然取るべき手続きをとらずに、取る必要さえ無いと言い、「係り結び」と安易に結びつけている点に疑問を感じているんです。

せっかくなのでポテチの比喩に乗っかってみますと、

  かかり助詞氏は「係り結び」は「じゃがいもでできたお菓子」かも知れない
  のに、揚げて作る「ポテチ(こそ・も)」(しかも現代のみ)だけを見て
  「係り結び」全体を「揚げ物(Aバー関係)」だと見なしている。
 
  私(とたぶん名無しさん23氏も)は「じゃがいもでできたお菓子」かもしれ
  ないという別の可能性を検討しようともしない点を「おかしいんじゃないの?」
  と言っている。

何度も言いますが、古代語には形態で対応が見られる狭義の係り結びがあります。それを無視してなぜ「Aバー関係」やら「交差制約」やらが「係り結び」だということになり得るのか、その説明が無いと言ってるんです。一部の現代語の現象だけを見て「係り結び」だと決めつけてしまっては古代語の「係り結び」との間に同じ名前の違う概念ができてしまうかもしれません。仮説が正しければいいですが、そうでなければこれは迷惑な話です。

単なる名付けの問題ではなくて、「係り結び」という概念と「Aバー関係」や「交差制約」といった概念が同じだとなぜそう簡単に決めつけることができるのか、ということです。(具体的に最低限検討して欲しい点はすでに述べましたので繰り返しは避けます)
123名無しさん23:2001/03/27(火) 23:40
>>122
全く同意です。
前からいってるとおり係り結びと切り離せばいい話だと思う。
古代語をまともに相手にしようとしない人がなぜ係り結びに
こだわるのかわからないです。
124かかり助詞:2001/03/28(水) 00:16
いわせて貰うけど、私がどういうことに関心を持って
何を研究対象にしようが私の自由でしょ。私の関心は「現代語の
交差制約は古語の係り結びと同じメカニズムのために生じているか」
と言うことではありません。
それと、言語学にとって最も大事なのは、これこれこういう仮説を
建てて、こう考えていったら、こういう言語が存在することが予測される、
とか、これこれこういう言語もこういう現象を持っているはずだ、
とかの明示的な予測をするくらいに、はっきりと(望ましくは論理学の
言葉を用いて)仮説を積み重ねていくことです。少なくとも生成文法は
そういうやり方をとって、今までに発見されていたなかった事実とか、
関係がないと思われてきた事実に統一的な説明を与えることに成功してきた。
で、104氏や名無しさん23氏はそういう方法論自体を問題にして、
「そんなこといったってそれが間違ってたらどうすんの」っていっている。
例えばニュートンの物理学はアインシュタインの物理学よりも、
「より正しくない」事が証明されました。だからといって、「ニュートンは
万有引力の法則何ていう間違った仮説を公表するべきではなかった」
って事にはならないでしょ。元来、全ての事を説明出来る
理論てのは科学ではなくて宗教かなんかなの。それと同じで、「A-bar
交差制約」にまつわるお話は、「現代語でこう考えると「こそ」と呼応する
-Fという物があると交差制約で統一的に説明できる。それは、言語変化から考えて
古語の係り結びの已然形と同じ物ではないか」という明示的な仮説なの。
絶対に正しいとは言ってません。どころか、必ず間違っている。大切なのは
こういう仮説がこういう予測をした、ということ。
ついでに、名無しさん23はやたらと個人攻撃をしてくるけど、
生成文法を理解していないので議論がかみ合いません。
125121:2001/03/28(水) 00:17
んーと、まず121の間違い。
×であると言えと思う
○であると言えると思う

>122
国語学の人が名づけるところの「係り結び」(もしくはその一部とか)
が、Aバー関係を示すかどうかを交差・非交差以外の特徴で
示せれば納得の行く議論だがその検討がない、っていう意見だと
考えていい?そうだとしたら賛成。
逆に、その検討をしないと、「こそ−い然形」(や現代語の
「こそーF」も)がAバー関係である理由が交差制約で、
その関係が交差制約に従わなきゃいけない理由が、その関係が
Aバー関係だからってことになってしまって、
どうどう巡りになってしまう。
だから122さんが言う通り、なにをもってしてある関係が
Aバー関係だと言えるのかっていう理論的事実的根拠が
必要なのではと言うのが121で言いたかったことの一つ。
もちろんあるAバーのテストを「こそーい然形」にかけて、
期待する結果が出ても、そのテストが「こそ−い然形」の
Aバー性を保証する根拠になるとどうして言えるのかって
反論されたら、テストの意味や観察の意味は理論に
よりかかってるから、結局基礎的な枠組みに触れないと
説得できないんだけど。
126名無しさん23:2001/03/28(水) 00:39
>ついでに、名無しさん23はやたらと個人攻撃をしてくるけど、
>生成文法を理解していないので議論がかみ合いません。
前にも言ったけど個人攻撃のつもりはない。
でも後半は事実ですね。
代弁者も現れたことだし、こんどこそ消えることにします。
127かかり助詞:2001/03/28(水) 01:58
仕方ない、答えます。解らなくてもブーたれないようにね。
AとA-barというのは移動の種類であって、異なる振る舞いをします。
例えば、英語のwh-移動はA-barで、いわゆるweak crossover
effect(WCO)を示します。
(1) ??Who-i does his-i mother love t-i?
おおままかに言うとwhが代名詞を飛べ越えてマエに出たときに、
whoとhisが同じ人をさせない、すなわち、(1)は(2)の解釈がない。
(2) for which person x@` x's mother loves x?
これに対して、(3a)から(3b)を導き出す移動はA-移動です。
(3) a. It seems [ that John is honest ].
b. John-i seems [ t-i to be honest ].
A-移動はWCOを示しません。から、たとえ、(4a)のようにwh-がA-移動しても
飛び越えたpronounと同じ人の読み(4b)が出来ます。
(4) a. Who-i seems to his-i mother [ t-i to be honest ]
b. for which person x@` x seems to x's mother that
x is honest
続く。
128かかり助詞-ctnd:2001/03/28(水) 02:24
で、日本語のwh-疑問文もwcoを示します。(hoji hajime博士論文参照)
(4) a. [ t-i ひとめ pro-j 会った ] 人-iが 花子-jを 好きになった。
  b.?? [ t-i ひとめ pro-j 会った ] 人-iが 誰-jを 好きになったの?
(4a)の空代名詞proは「花子」であり得るけど、(4b)の空代名詞は「誰」
と同じ人になれない(bound variableの解釈なし)。だから、上の分類からいくと、
A-bar移動。
「しかーない」「こそ」「も」も同様にwcoを示します。
(5)  ??[ t-i ひとめ pro-j 会った人-iが ]
    a. 花子-jしか 好きにならない。
  b.  花子-jこそ 好きになった。
c. 花子-jも 好きになった。
だから、これはA-bar移動。逆に日本語のlocal scramblingはA-移動
であり得るので、(6)は(4b)と異なり、bound variableの解釈があります。
(6)  誰を-j [ t-i ひとめ pro-j みた人-iが t-j 好きになったの?
そんなこと言われてもワカランというなかれ。私は証拠出せと言われたから
出しただけ。ついでに、こういうテストは古語では出来ない。なぜなら
(4-6)に類する例を古典に発見することはどうみても不可能だから。
古語を調べろ、と言われても、こういう細かい現象を調べられないので
私はやらない。何か文句ある?
129名無しさん:2001/03/28(水) 03:32
125で指摘されていることと同じようなことですが、A-bar移動ならWCOが
起こる、ということの逆は常に成立するんでしょうか。
WCOと、A/A-bar移動の定義との関連がよく分かりませんです。
127-128もその関連の説明にはなっていないと思いますが、どうでしょうか。
130かかり助詞:2001/03/28(水) 04:22
>>129「A-bar移動ならWCOを示す」という事の逆というのは、
「WCOを示すならA-bar移動である」と言うことですか?それは
成立します。もう一つのA-移動はWCOを示さないからです。
ただし、A-bar移動でもtough構文や、非制限的用法の関係代名詞
の移動なんかはA-barなのにWCOを示さない。(Lasnik & Stowell、1992 LI)
から、「WCOを示さないのなら、A-移動である」というのは成立しません。
その逆の、「A-移動ならWCOを示さない」は成立します。
だから、127-8の論理はvalidです。
131おたく、名無しさん?:2001/03/28(水) 05:10
みんな文章長い。
132104:2001/03/28(水) 11:42
たぶん係り助詞さんはどこか誤解してるんだと思うんだけどなぁ。別にイデオロギーの話してるわけでも難しい注文つけようとしてるわけでもないんですが。

>>111でかかり助詞さんは、

>確かに古典のコーパス言語学みたいのをやって、「ぞ、なむ、や、か、こそ」何かが共起する場合
>全く自由な語順であらわれたら私の主張の大問題です。

とおっしゃってますよね。あらわれたら大問題なんだから確認した方がいいし、するのが科学的アプローチとして当然のことなんだと思うんですよ。そこに反例が転がってるかも知れないんだから。かかり助詞さんの言う「仮説が成立する」ことには別に文句は言ってないんです。けど調べりゃわかることを確認すらしないで「こう考えればこうなっていくはずだ」”だけで”組み立てていくってのは単なる空想でしょう。ニュートンのたとえを出されていますが、ニュートンの理論は欠陥があったかも知れないけれどその時代のその時点のレベルで最善を尽くそうとした結果到達した理論ではないんでしょうか?上に挙げた問題点に気づきながら「関係ない」とする態度が現時点での最善の論証でしょうか。これは生成文法だからとか国語学だからとかそういうレベルの話じゃないと思うんですけど、本当にその検討すらしないのが生成文法なんですか?私は違うと思っていたんですが。

>いわせて貰うけど、私がどういうことに関心を持って
>何を研究対象にしようが私の自由でしょ。

それは自由なんですけどね、その姿勢で続けていって「現代語版係り結び(ただし古代語は知りません)」という概念をうち立てて世に広められたあとで、古代語の「係り結び」(念のために言うと私はこれに再定義の必要性は感じています)に当てはまらなかった際にどうなるか。同じ名前の別概念が生まれてしまうわけです(前も言いましたけど)。もしそうなったらこんな迷惑な話はありません。だからちゃんと最低限の確認はしてから(少なくともする意志を見せてから)言ってくれと言ってるのです。私はその仮説自体は面白いと感じてるだけに、そこはきちんとして欲しいんです。

繰り返しになりますが一応説明しておきます。
仮に「も」「こそ」が古代語でも資料上で交差制約にきちんと従う結果が出たとしましょう。「こそ」と「も」は古くから交差制約に従っているという仮説は強まります。wh-疑問文や「しか」などと同じ特徴を持っていると言えそうですし、同じ仲間として括れそうです。
ところがもし仮に他の「係り結び」に関わる助詞群「ぞ・なむ・や・か」のうちのいくつかが制約に従っていないかのような語順で頻繁に現れたとしたら…

「こそ」と「も」の持つその特性は「係り結び」というジャンルにはくくれないでしょう。別のジャンルの概念に収まるべきものだと言うことになりませんか?語順に関わる制約を持ち出しているのだから、内省が効かなくても「反例になりうる語順でもたくさん使われている」という事実があれば反例として十分だと思うのですが。
133104:2001/03/28(水) 12:21
んー。確かに文章長いなぁ。

>>125=121さん

上に書いたのが趣旨です。

>国語学の人が名づけるところの「係り結び」(もしくはその一部とか)
>が、Aバー関係を示すかどうかを交差・非交差以外の特徴で
>示せれば納得の行く議論だがその検討がない、っていう意見だと
>考えていい?そうだとしたら賛成。

それもやって貰えればなお良いです。けどもっと単純に「反例があるかもしれないんだからとりあえず調べようよ」と言ってるだけです。
で、「(もしくはその一部とか)」だけ論証されても他は残っちゃうので、「係り結び」ってことにはならないと思うんですよ。別の何か(ここではAバーですか)にはなっても。

少し主張めいたことを言わせて貰うなら、私は形態の呼応関係があるという点だけで狭義の「係り結び」という枠に「ぞ・なむ・や・か・こそ」を常に統一して縛るべきだとは思っていません。これらの助詞群は「形態に現れる呼応」という共通点はもっているけれど、全部が同じ性質を持っているわけではないでしょう。
「こそ」はかかり助詞さんの言うような制約に従っているかも知れない。けど「なむ」はそれとはまた別の原理で文の要素としての役割を果たしているかも知れない。そのように考えるならば、今まで「係り結び」と呼ばれて来た現象は、いくつもの原理を一緒くたにして総称してしまっていたのかも知れない。もしそうならばもはや「係り結び」という名称は便宜上のものに過ぎず、これらの助詞群は分解して別の原理、別の概念によって再編成すべきだということになる。

そんな風に考えて、再定義の必要を感じています。(本当に全部統一しているならそれはそれでいいんですが。)こういう面からも「係り結び」という風に安易にまとめて一緒くたにされるとやっぱり迷惑なんです。理論が後退してしまう恐れがありますから。
>>132で述べたことも「係り結び」という概念を安易に使うことに異を唱える大きな理由ですが、こういう考えも理由の一つです。
134かかり助詞:2001/03/28(水) 12:29
水掛け論になっちゃうけど、やっぱり好みの問題として、古語そのものは
やりたくない。nativeがいないという問題と、個人的にコーパス言語学は
好みでないから。ただし、琉球方言には興味非常にある。いつか必ずやります。
「琉球方言と古語は違う」と言われればそれまでだけど、nativeいるし、
社会言語学で「古い形はisolatedなエリアに残る」と言っているのだから、
琉球方言と古語の係り結びは同じと考える方が自然だと思う。それに、
nativeがいるから、wcoなんかについても確かめられるし。

交差制約は上で扱った事実に対し、少なくとも現時点では最もいい
predictionをする説明だと思う。pesetskyなんかの採用している
説明より正確なpredictionをします。で、ニュートン物理の例え
なんだけど(勿論、物理学に最も影響を及ぼした理論と例えるのは
おそれ多いけど)、確かにニュートンの万有引力の法則は当時知られている
天体の動きを最も正確に予測する理論だった。でも、ニュートンは
例えば、ニュートンの机の上に転がっているペンと太陽との間に
生じていると理論が予測する引力については調べなかった。調べる
必要がなかったからです。そんなことよりも、ニュートン物理学は
天体の動きを正確に説明できたから、それなりに人々は信じたわけです。
で、私は係り結びという現象自体と、それの交差制約との関係については
興味があるので、古語のコーパス言語学をやるよりも、琉球語のnative
を見つけてそれを説明した方が、私個人の知的好奇心は満たされます。
古語を専門にしている人から見れば、「なんじゃそりゃぁ、そんなのじゃなくて
こっち何とかしてくれ」というとかも知れない。それなら、その古語を専門に
している人がやればいいことで、何で古語専門ではない私がやらないといけないか
がワカランのです。また物理にたとえると、相対性理論の
持つimplicationとかは現在でも物理の人が考えている問題の一つでしょ。
アインシュタインが全てやる必要は全くない。
135104:2001/03/28(水) 12:35
補足。

かかり助詞さんのように、「係り結び」を拡大して考える視点も重要だし必要だとも思っています。(その点でかかり助詞さんの視点は「面白い」ですし、もし係り結びとは関係なくてもその現象自体は「面白い」です。)
ただ、拡大したときにちゃんと収まりきっているか、そして「何も言ってないのと同じ」な所まで拡大しすぎていないか、を常に意識する慎重さも必要だとも思っています。

分解と拡大、両方の視点が再定義には必要じゃないかな、というのが「係り結び」に対する私の漠然とした意見。
136104:2001/03/28(水) 14:02
>かかり助詞さん

つまり、

「交差制約で係り結びが定義できるかも知れない」という問題提起ができた。古代語に興味のある人にとっては「それが本当かどうかを検討する」という仕事が生まれた。これはかかり助詞さんが言い出さなければ検討すらされないことだった。現代語でも考察の余地はあり、新たな視点での方言調査の必要も生まれた。これがもし証明されればそれは言語学にとって大きな前進であり、失敗したとしても一つの可能性の是非を確認できた。これも小さいけれど前進である。その契機を与えたのは国語学流の「古代語の地道な調査」ではなく、仮説に仮説を重ねた生成文法流のアプローチである。

ということでしょうか。だとすると生成文法って「あなた調べる人、わたし案を出す人」って発想なのですか?なんか楽そうだなぁ。国語学だと最低限のところは一通り責任持つことを求められるし、答えられなければ欠陥や論証不足、怠慢などになるんだけど。あとから「係り結び」を名乗っておいて「元祖なんて興味ありません調べません」だなんて誤解や混乱を招くしずいぶん無責任な話だなぁ、と思ってたんですが、かかり助詞さんの論の進め方や生成文法のやり方が私の解釈通りで良いのであれば、「問題提起に価値があるんだ」と割り切って考えます。気になったり迷惑なことになってきた時点で自分で調べればいいわけですし。

どうも話が噛み合わないなーなぜかなーというのを納得できそうな形にしてみた解釈がこれですので、間違ってたら私の誤解です。ごめんなさい。
別に批判しようとしてるわけではなくて、「噛み合わないのはスタンスが違うからだ」という仮説の元に私なりに原因を考えようとしてるんです。
137名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/28(水) 14:45
「係り結び」は古代語という一応の元祖がある。にも関わらず、「係り結びかどうかまだはっきりしていないもの」をもって「係り結び」と称しながら、その用語の適切さ(元祖である古代語との共通性)には興味が無いという。
反例があるかどうかくらいすぐわかるだろうに。反例は無いか稀だとわからなければ、誰も本気でかかり助詞氏のいう「係り結び」など信じないと思うんだが。誰かが調べてくれるのを待つわけですか。

調べたいことだけを調べるのもいいけれど、そこに至るまでに必要な論証上の「義務」もあるんじゃないか。説得する気がないなら別だけれど。
138名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/28(水) 14:57
誰も信じない、というのは言い過ぎか。素直すぎる人やそもそも「係り結び」がよくわかってない人、あまりその問題を考えたことがない人は信じるかもしれない。
139かかり助詞:2001/03/28(水) 16:00
あのね、古語を調べるのが私の責任かどうかというと、違うと思うよ。
言語学というのは一人でなんでもカンでも調べ尽くせるような物で
ないのだから。「私つくる人、あなた調べる人」というのはとんでもない
誤解で、こういう方法論で行こうと言うことに賛同している人たちが
協力して努力してつみかさねて造っていくenterpriseなのだから。
賛同しない人はやらなければいいし、賛同する人たちのなかでは
得意なことを役割分担すればいいでしょ。
私個人で出来ることには限界があるし、私は元々英語学の出身なので、
古文はその後の勉強も少しあるけど大学受験生に毛の生えた程度の
読解力しかないの。それで、勘違いした分析するのもやだしね。
それと、個人の好みとして、やるのだったら
徹底的にやらないと気が済まない性分なんだけど、それにコーパス言語学
というのは相性が悪い。例えば、「なむ」が他の何かと交差制約を示さなかった
としましょ。で、それが「なむ」はA-bar移動じゃないからとか、実は
センテンスが一見したとこより複雑な構造をしているとか、「なむは呼応しない」
と言うのではない他の理由も考えられるわけ。その時にnativeのいないのは
具合が悪すぎる。から、韓国語や琉球語はやる気がするけど、
古文とか、ラテン語とか、OEとかはいやなの。そういうのに長けている人が
やった方がいいに決まっているでしょ。
140名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/28(水) 21:27
ろくに知りもしないのに「係り結び」なんて堂々と言うから
おかしいよっていわれてんじゃないの?生成文法をろくに知らない
人間がA-bar移動の一面だけ見てわかった気になって仮説を立てて、
「A-bar移動と○○は…」なんてやってたらどうだろ。
別に問題ないのかな。

可能性の指摘にとどめりゃいいのに「係り結びは現代語にもある」
という話に不十分な根拠でその話を乗っけるから「論証が足りない」
という批判が出る。そりゃ「予言者気取りかよ!」となるのも
無理ないのでは。
141名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/28(水) 21:32
誰も古語を一人で全部調べろなんて言ってないのになぁ。
ちょっと確認して、問題点があれば「ここには一見反例に見えるものがあるので、専門の方の判断にお任せしたい」ってやればいいだけの話だと思うんだけど。
142衝動派:2001/03/28(水) 23:55
多分、これで、書き込み、パタリと止まるぞ。わらい。

だけどさー、問題点あるんだったら、知ってる人がビシバシ指摘してやれよ。
それでぶーたれるようなかかり助詞なら逝ってよし。

で、ぐちぐち言ってる人さ〜。愚痴ばっかりたれてねーで知ってるなら
何がまずいって具体的な例で指摘してやりゃーいいじゃん。
簡単にできることなんだったらさー。文句ばっかりつけて、具体例を
あげて批判できない国語学っての恥ずかしいんじゃねーの?
そこなくなったら、あんたら、あんまり存在価値ないよ。わらい。
「ちょっと調べて、問題点なさそー」だから言ってるんじゃねーの?
きちんと知ってる人が、きちんと具体例を示して批判しないで、
「もうちょっと調べてみろや〜」って、あんたらすげーえらそうだね(わらい)
143死ね死ね団:2001/03/29(木) 00:18
しばらく見ないうちに予想通りの展開になってますね。
国語学の人と日本語学または生成文法の人が意見を交わ
す場合は注意しなきゃ。生成文法の人が国語学の人と議
論する場合は、英語学をやっている人がイギリスの文学
(特に詩なんか)を専門にしている人に対するのと同じ
ような態度で臨まないと議論が噛み合うはずがありませ
ん。だって、そもそも研究する上での哲学や理念が違い
過ぎるんですから。まあ、最後は好みの問題というか、
嗜好の問題になってしまいますが。(このスレでカキコ
している人、みんな真面目な人達だというのは良くわか
ります。だって、自分のやっていることに大層な自信と
こだわりを持っているようですから。)
144かかり助詞:2001/03/29(木) 00:46
>>142仲裁に現れる人が出てきた。
私だって古典の係り結びに関する文献は、専門の人には及ばないけど
少しは読んでる。当然、読むときは共起制限があるか気にしながら
読んでいるのだけど、そもそも共起している例そのものを
見たことない。当たり前で、現代語で「太郎こそ その本しか 読まない」
なんて文を生涯で使う回数てのは1回か2回だろう。それに対して
「その本しか 太郎こそ 読まない」てのはおそらく使わない。非文法的だから。
1、2回と0回の差が有意なものかどうか解らない。
で、どうしても「国語学対生成文法」みたいな図式になるのはいけない。
ともに同じ日本語研究者なのだから、もっと理解し合わないと。せっかく
専門家がいるので長らく疑問に思っていることを聞くと、古語で
「こそ」のような已然形を要求する助詞と、「ぞ、なむ、や」みたいな
連用形を要求する助詞が単文に共起したら、動詞はどちらの形になるの?
交差制約以前に私はこの基本的なことを知らない。習ったこともないし
文献で共起している例に出くわしたこともないから。こういう建設的な
話をしよう。
それと、私が今までに書いた物のなかでは、現代語の「こそ-F」の
間接的なmotivationとして古語の係り結びを出しているけど、
「現代語の係り結び」という用語は使っておりません。私だって
officialなところに物を書く場合それくらいしんけんになる。しかし、
この場は問題提起のinformalな場だから、「現代語にも係り結びが
あると思う」くらい言ったっていいでしょ。それを、「そんなこと言うな」
みたいに言ったら、国語学と生成文法はただでさえ折り合い悪いのに
informalな交流もなくなっちゃう。
145名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/29(木) 00:57
「お前がやれ」「いーやお前がやれ」になってるな。

議論の前提として、用語の定義を示すのは当然。
「かかり助詞」氏はその定義の仕方が不十分だから突っ込まれてるんじゃないのか?
それを批判した方が調べなきゃいけないって論法はいかがなものか。

あと、

>「ちょっと調べて、問題点なさそー」だから言ってるんじゃねーの?

てのは、違うのでは。やってあれば文句は出ないと思う。どうもかかり助詞氏の発言を見る限り、そのちょっとすらやってないように感じるが。
146名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/29(木) 01:03
>現代語の「こそ-F」の
>間接的なmotivationとして古語の係り結びを出しているけど、
>「現代語の係り結び」という用語は使っておりません。私だって
>officialなところに物を書く場合それくらいしんけんになる。

最初に一言それさえ言ってりゃ誰も文句言わなかっただろうに…
147名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/29(木) 01:15
>古語で「こそ」のような已然形を要求する助詞と、「ぞ、なむ、や」みたいな
>連用形を要求する助詞が単文に共起したら、動詞はどちらの形になるの?

単文中には共起しないのでは。(あと、「連用形→連体形」ね。)
148名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/29(木) 01:25
単文(述語要素が一つ、てことでいいんだよね?)で共起するんだったら「ぞ・なむ・や・か・こそ」の構文を「係り結び」とは呼んでいないと思う。あと疑問詞も係り結びには含まれてるよ。

その点、「こそ」と「しか」が共起してる点で「しか」は係助詞的ではあるかもしれないけれど、「係り結び」とするのは定義を広げすぎの感有り。
149名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/29(木) 01:36
呼応と呼ばずに係り「結び」とわざわざ呼んでるのはたぶんそういうこと。文の結び、つまり述語要素が一対一で呼応してる点を係り結びとしてる。もちろん人によって微妙な定義の違いはあるかもしれないけど、大筋そんなところ。
だから「しか」まで入ってきたら「話が違う」という批判が出るのももっともな話。(もちろん述語要素が複数になれば共起したっていいんだけど、その場合も述語とは一対一対応。)

3連続なのでsage。
150名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/29(木) 01:50
あーごめん。もう一回だけ。

>一対一で呼応してる点を係り結びとしてる。

係り結びと呼ぶ理由はもちろんこれだけじゃないよ。これもあるし、形態的な呼応関係もあるし、と。
共起してそこに優劣関係があったら「呼応」が完全じゃないし、とっくに誰か気づいてるはずだよね。形態的に出ちゃうものだから。

嘘臭いなーと思ったら調べてちょうだい。もし誤りじゃなくて単文で共起しててしかも優劣関係が証明できたらそれはそれで立派な成果だろうから。
151名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/29(木) 02:31
現代語の単文で「こそ」と疑問詞は共起するかな。

  いつから彼こそそこにいたんですか。(「彼は」だよね)
  誰が彼こそ殺したんですか。(「彼を」か)
  どこで彼こそ…

この語順だとそれぞれ別の述語要素を想定しないと共起できそうにない。

  その本こそ誰が読んだんですか。
  彼こそいつからそこにいたんですか。
  彼こそどこの出身なんでしょう。 

お。共起できそう。

>>78

>たとえば「なむ〜連体形」には複数の機能が重複して
>いるはずですが、その大きなひとつが、文の「焦点」に付いて、文の焦点を
>明示するというものでしょう。この機能の一部は現代語「が」に
>うけつがれています。

>これなむ都鳥(なる)→これが都鳥だ
>これは都鳥なり  →これは都鳥だ

て話が出てるけど、確かに文の焦点を示すんであれば共起しないよね。二つあったら焦点定まってないから。強弱の差があるなら別だけど。
「その本こそ太郎は読んだ」があることだし、「は」は共起するのかな。「が」もいけそう。

問題は古代語でこれに類する共起の例があるのかという点。あるんなら一対一対応では説明できないか少なくとも疑問詞は係り結びからはずした方がいい、という話になる。
それから現代語では形の対応がないから、これらの共起する例を本当に「述語要素がひとつ」と考えてよいか、という点。

というあたりになるのかなぁ。
152名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/29(木) 02:38
あれ?一対一対応ならかかり助詞さんはFとかTとか使ってるからちゃんと一対一対応を想定してるね。
けど古代の形態の呼応がある係り結びは「形」の制約のせいで共起ができない…

てことは…

どういうこと?
153名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/29(木) 02:51
えーと、

>それから現代語では形の対応がないから、これらの共起する例を本当に「述語要素がひとつ」と考えてよいか、という点。

これは古代語でも「しか」とか疑問詞とかと共起してる場合があれば言えるけど、調べられそうにないかなぁ。

んーでも「ぞ・なむ・や・か・こそ」が単文で共起しないのが単に形態の対応があるせいだってだけなら、「ぞ・なむ・や・か」は同じ連体形なんだから単文に共起しても良さそうなもんだなぁ。探せばあるのかな。
154かかり助詞:2001/03/29(木) 03:27
いい方向に話が向いてきた。確かに、一つの動詞が已然形と連体形
という二つの形態をとるのは「一体どうやってそんなこと出来るの」
って感じだ。現代語では勿論、「読まないの」とか-Tとか-Fとかが
一つの動詞につくこと(交差制約に反しない限り)はある。

単文でなくて補文のあるセンテンスだったら、「已然形と連体形を
同時にとる矛盾」みたいなのがないでしょ。現代語を使って構造を示すと
(1) 太郎しか [ 花子が 誰を 愛しているか ] 知らない。
のような。(1)はいれこ式なのでgrammatical。でも、「誰を」
を文頭まで出すと交差制約違反になり非文になります。
(2)  ??誰を-i 太郎しか [花子が t-i 愛しているか ] 知らない。
こういうコントラストを古語のテキストで見つけるのは不可能
でしょうが、琉球語ならなんとかナルのでやってみたいというわけです。

それと、現代語でも「か」なんかはwh-を二つ以上とれます。
(3) 誰が 何を 買ったの?
「ない」はanyのwh-もは二つとれるけど「しか」はだめ。
(4)  誰も 何も買わない。
(5) *太郎しか その本しか 買わない。
anyと「しか」は一つの「ない」ではだめ。
(6) *誰も その本しか 買わない。
(7) *太郎しか その本も 買わない。
この事象は交差制約では説明できない。もし。「ぞ」「なむ」が
共起できないのだったら、(6-7)が悪いのと同じ理由ではないかな。
155104:2001/03/29(木) 04:06
>>142
>>143

ちょっと誤解と偏見があるよ。そんな大上段に構えたこと言ってないです。

>>146の「最初に一言それさえ言ってりゃ誰も文句言わなかっただろうに…」がすべてと言ってもいいくらいです。あえてまだ何か言うのなら、「なんで言ってくれなかったの」とは言いたい。噛み合わないわけだ…

一部生成文法のスタンスを曲解したようなことを書いたのはごめんなさい。元々あんなことは思ってないんですよ。ただ今回、あまりに噛み合わなかったら無理矢理考えただけです。

名無しさん23さんもまだ見てたらきっと脱力してるだろうなぁ。本当に先に言って欲しかった…
156名無しさん23:2001/03/29(木) 04:58
かえってきてもいいかなあ。

>104さん。
私の言いたかったことを明解に言ってくれてありがとう。

>かかり助詞さん
突っかかるような書きかたしてすいませんでした。
生成文法を理解してないっていうのは事実ですが、
理解するつもりもないのではないですよ。少しは本読んだりしたし。
まるきりわからないわけではありません。
あえてかかり助詞さんの土俵にはあがらないように
したってこともあります。

ついでに、最初に書き込んだとき実は酔っぱらってたことを
告白します。
157かかり助詞:2001/03/29(木) 07:21
それを先に言えと言われても、私にはみんなが何にそんな怒っているのか
よく解らなかった。142@`143さんもそうだから、国語学と生成文法の
争いみたいに思えたのでしょ。私も生成文法のスタンスまで問題にされた
ような気がして、カットなって大人げない口調で書いたことをお詫びします。

今は昔、私が生成文法の日本語研究に興味を持ち始めた頃、
国語学の人と話す機会があった。で、「日本語の生成統語論に興味がある」
といったら、「無駄だ。なんの意味もない。」と言われて
非常に腹立たしかった。国語学全体が変なのではなくて、その人だけが
特別に変なのだろうけど。生成文法の側にも国語学をさげズム人はいるけど、
そういう人は典型ではないので堪忍していただきたい。

私がここで取り上げている問題に興味を持ったのも、最初に「誰も-ない」
「しか-ない」「何を-の」などの共起制限に興味を持ち、それが
係り結びに似ていると思い、それから現代語にもある「こそ・も・さえ」
についても考えるようになった。国語学・国文法から得たinspirationも
多々ある。他にも生成文法には、国語学のインサイトが多々あるので、
国語学の人も生成文法研究には聞く耳を持っていていただきたい。ここで
展開しているかかり結びの議論がもし古文にも当てはまるのなら、
古語研究にも非常に意味のあることだし。ただし、私どもは論文を
英語で書いちゃったりするので、それが難しいかもしれないけど。
158かかり助詞:2001/03/29(木) 07:37
古語の「なる」の語幹がnar-で、連体形の形態が-u、已然形の形態が
-eなら、「なる」が連体已然形になるのなら、nar-u-e「なるえ」と言う形、
已然連体形になるのならnar-e-u「なれう」となるはずではないかな。
それに呼応する「こそ・なむ」は動詞につく形態素のミラーイメージの
順になるはずだ。交差制約が正しかったらだけど。古語の事を詳しく知らないけど、
もし、わたしがタイムマシーンで平安時代にいけるのだったら、
「なれう」か「なるえ」どちらかが文法的ですか、って聞いてみるよ。
159名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/29(木) 12:10
>>147-150にまとめられてるくらいのこと、
少しでも係り結びについて読んだならすぐわかると思うのだけれど。
160名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/29(木) 13:12
>>158

>もし、わたしがタイムマシーンで平安時代にいけるのだったら、
>「なれう」か「なるえ」どちらかが文法的ですか、って聞いてみるよ。

どっちもそんな語形自体が観察されないので、たぶん実在しない語形。
論法からすると聞きたい気持ちはわかるけど、「どちらかが(どちらが?)」って聞かれても返事に困るんじゃないかなぁ。
161かかり助詞:2001/03/30(金) 00:52
>>160
ということは、已然形-eと連体形-uとその他の活用形は相補分布
なんだ。相補分布というのは、スーパーマンとクラークケントみたいに
「どっちかが出ているところにはもう片方がでれない」ということ。

では、単文中には「こそ」と「なむ」は共起できないな。>154の(1-2)
みたいなのがあれば確かめられるのだけどな。

しかし、已然形と連体形が相補分布だとすると、「ぞ・なむ・や・か」が
現代語ではかかり助詞としてはなくなって、「こそ」だけが生き残った
というのはなぜかというのはdiachronic syntax上、非常に面白い
問題だな。
162名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/31(土) 03:10
>>161

終止形と連体形が同じ形になったのが已然形の変質(今は「仮定形」)よりも早いのがズレの原因だと考えるのが一般的なようです。

連体形の方で「結びの乱れ」と呼ばれる現象が起き出したのが院政・鎌倉期頃(終止・連体同一化とほぼ同時期)。
「こそ-已然形」はその後もしばらくの間「係り結び」として機能してました。
それもやがて已然形が変質していくうちに廃れていって、今のように「〜でこそあれ、」なんていう残存形を残すのみになりました。

狭義の係り結びの消滅と終止形と連体形が同じ形になったことが直接関わりがあるかどうかはよくわかりませんが、已然形の結びと連体形の結びとで消滅時期にズレがあることには関わっていそうだ、という風に考えられているようです。
163かかり助詞:2001/03/31(土) 04:22
>162どうもありがとうございます。私も大野すすむの本でも見直して勉強しよう
と思ったら、本が紛失していることに気付きました。どこいったのだろ。

連体形といぜん形が相補分布をなしていたのなら、きっと同じクラスの形態なはずで、連体形のほうが先になくなっちゃったというのは不思議だな。何かありそうだけどわからない。
164かかり助詞:2001/03/31(土) 04:43
沖縄の人に質問です。以下では、かかり助詞と結びを**で括ってひらがなで書きます。
(1)  たるが*る* しし かむた*る* (太郎こそ 肉 たべた)
(2) たるや ぬう かむいが?      (太郎は 何 食べたの)
(1)はかかり結び、(2)はwhー疑問文ですが、これをあわせて(3)みたいに言えるのかしら。
(3)  たるが*る* ぬう かむいが*る*? (太郎こそ 何 たべたの?)
動詞の語尾の順番は(4)かな。
(4) たるが*る* ぬう かむい*る*が? (太郎こそ 何 たべたの?)
(3)/(4)の主語と目的語をひっくり返した(5)/(6)は文法的かな。
(5) ぬう たるが*る* かむいが*る*? (何を 太郎こそ たべたの?)
(6)  ぬう たるが*る* かむい*る*が? (何を 太郎こそ たべたの?)
手元にある資料がローマ字表記なのでひらがな表記が間違っているかもしれませんが。どうだろ。
165名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/31(土) 04:54
>>163

>連体形といぜん形が相補分布をなしていたのなら、きっと同じクラスの形態なはずで、

係り結びの時はそうですが、その語形自体は同じクラスというわけではありません。
已然形は係り結び以外では文終止には使われず「ば」とか「ども」とかがついて(つかないこともあり)、主に逆接(順接の場合もあってややこしい)で続いていく場合に使われます。その名の通り「すでにそうなっている」という意味が動詞の意味に加わります。(係り結びの時は加わりません)
連体形は係り結び以外では連体形終止法と呼ばれる文終止の用法もあります。係り結びと混同されがちですが、本質的には違う用法のようです。さらに、その名の通り主な役割は文終止ではなくて動詞の「連体修飾」用法です。

文の終止そのものは普通は終止形が担っていました。こちらは今は文語として残っているだけで、現代語の文終止は古代語の連体形に吸収されたような形になっています。
166名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/31(土) 05:04
つまり連体形も已然形も全体として徐々に変化していったわけで、その中で連体形の方が先に係り結びを維持できないレベルの変質(終止形との同形化か)を遂げたんではないかと思います。
この辺りはより精密な説明が必要ですけど、まだはっきりしない部分も多いです。
167名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/31(土) 08:01
補足。

「〜でこそあれ、」なんかは「こそ-已然形」で逆接で使われたりもしてますね。
逆接のニュアンスが文脈上特に感じられない文にも「こそ-已然形」が使われるし、逆接の情報が省略されてそうな場合もある。
連体形の結びの時に省略(或いは倒置)を補って読める場合と補いにくい場合があるのと状況は似てます。

その辺の「省略を感じさせる」という点が係り結びにこの両形が選ばれた理由だと位置づけられることもあります。
元はそうであってもだんだん元の意味とか使い方は意識されなくなってくると、省略とか逆接とかは想定しにくい文脈でも現れるようになってくる、ということですね。
それがさらに進んで表現効果が形骸化して消滅した、という説明もありますけど、なんか漠然としてますね。

元々を考えると已然形の結びはあとに文が続き、連体形は体言が続くという、それぞれ異なる構文を元に実現してるので、単文中に同居するのが難しいんじゃないでしょうか。
「ぞ・なむ・や・か」の共起で考えても倒置や省略を想定するとやっぱり単文中にふたつ以上あるとおかしいってところでしょうか。
168名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/31(土) 08:07
つまり構文全体(といっても単文に限定されますが)を支配してるのが「係り結び」であり、他の呼応関係と別にされている根拠はそこにもありますね。
169かかり助詞:2001/03/31(土) 11:54
「名無し象は〜」氏も、「国語学!!」という感じですね。
167の「已然形と連体形の同居は難しい」というのに同意。それは先に
私が>>50>>52で言ったこととインサイトは同じです。具体的な
説明方法は非常に違うけど。枠組みの違いだけだ。

>>55で「こそは」「もこそ」「もぞ」のように、一つの句に二つの
かかり助詞がつけられることが指摘されております。もしかして、「は・も」
のグループは他のかかり助詞と共起可能なのではないかな。「は」が「こそ」と
別の句について単文中に共起する例は>>55>>61に出ている。「も」はどうなのだろ。

>>55によると、「や」は「こそ」と同じ句にはつけられないらしい。実は
現代語の「しか」も、「何、誰」みたいなwhにはつけられるけど、「なぜ・どう」
のような副詞っぽいwhにはつかない。から、「なぜしか来ないの?」なんてのは
言えない。[NPやこそ」というのがダメなのはそれとも関係しているのかな。

それにしても琉球語のジャッジしてくれる人あらわれないな。
170162:2001/03/31(土) 13:34
>>169

「国語学!!」と言えばまあそうなんですが、「係り結び」って概念が元々は国語学の用語なので、その先行研究を概説するとこんな風になっちゃうんですよ。

>もしかして、「は・も」のグループは他のかかり助詞と共起可能なのではないかな。

共起可能ですね。>>55

>文語文法では「は・も・ぞ・なむ・や・か・こそ」をかかり助詞とするのが一般
>ですが、これが不当であることはその筋の研究者には常識です。

とあって文末を規定できてないことが理由にあがってますが、共起に関することと本質は一緒です。
というわけでご希望の「こそ」と「も」の共起例。

  >大原や小塩の山もけふこそは神世のことも思ひいづらめ(伊勢物語・76段)

勢い余って「も」が2つ、「は」まで共起してますが、全部「思ひいづらめ」にかかってます。
つまり文の構造を規定しているのはあくまで「こそ」であると考えて、「は」や「も」は係り結びとは別にしておこうということになっているわけです。
「こそ」が付く位置は(文脈などから推定すると)その文中でもっとも話し手が言いたいことに付いているようです。

  私は海に行きたい。

で、「私は」を強く読めば対照の意味になるし、「海に」を強く読めば「海」が強調される(「は」は主格)のに似たような機能でしょうか。
それが古代語では形態で表されている、ということのようです。

>それにしても琉球語のジャッジしてくれる人あらわれないな。

あらわれませんね。期待してるんですが。
171かかり助詞:2001/04/01(日) 07:37
>>170の「大原や〜」の歌にある「こそ」ですが、「も」に先行
されてます。現代語では
(1) ??太郎も その本こそ 読んだ。
という具合に「も」が「こそ」に先行すると具合が悪い。だから、
現代語の「こそ」と古語の「こそ」は違う、とするのは早計で、
よく考えてみたら、現代語も副詞に「こそ」がついた場合、「も」
の後ろに来れる事に気づきました。
(2) 森首相も 今度こそ(は)潮時だね。
(3) 僕も あしたこそ(は)全力を尽くすよ。
(4)  太郎も この次こそ(は)あの本を 読んでくるだろう。
だから、少なくとも現代語には(1)のような場合と、(2-4)のような
「こそ」の2種類があるのだと考えられます。「大原の」の歌の
「こそ」は(2-4)と同じ種類の「こそ」と思われますが、
これでも係り結びになっているところが面白い。現代語の(2-4)の
「こそ」も「も」には先行されてもいいけど、「しか」に先行されると
具合が悪い。
(5) ?? 太郎しか 今度こそ(は)頑張らない。
(6)  今度こそ(は) 太郎しか 頑張らない。
「こそ」に2種類アルというのは野田先生が何か言っていたなぁ。
今度調べて見よ。
172名無し象は鼻がウナギだ!:2001/04/01(日) 10:29
携帯でよく使われる「☆ミ」ってなんですか?
なんか結構使ってる人いるんですけど。
この意味が分からないんで教えて下さいッ。
お願いしますっ。
17355:2001/04/03(火) 15:50
J'ETAIT EN FRANCE PENDANT UNE SEMAINE. JE SUIS RENTRE HIER.
HELAS! IL A PLU DANS LA COTE D'AZUR!

こまなめて いざ見に行かむ。 ふるさとは 雪とのみこそ 花は散るらめ。 古今111
こよひこそ 世にある人は ゆかしけれ。 いづこもかくは 月を見るらむ。 後拾遺264
みかりする 駒のつまづく 青つづら 君こそ我は ほだしなりけれ。 拾遺1264
野辺見れば 若菜つみけり。 むべしこそ 垣根の草も 春めきにけれ。 拾遺19
秋の野に 花てふ花を 折りつれば わびしらにこそ 虫も鳴きけれ。拾遺366
別れ行く 道の雲居に なり行けば、とまる心も 空にこそなれ 後撰1325

繰り返すと、「は」「も」は「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」と共起できますが、
「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」が単文のなかで共起することはありません。

そこには少将なむ来し。→よい
少将なむそこには来し。→よい
少将なむそこにぞ来し。→悪い。完全に非文法的。
誰かそこになむ来し。→これもありえない。

少将こそは来しか。→よい
少将こそも来しか。→これは非文。「は」「も」は双子のようなも
          のですが、この点は似ていない。
少将はこそ来しか。→非文法的。

少将もこそ来れ(=少将が来たら困る、という意味のイディオム)。
少将もぞ来る(=同上)


>(1) 太郎しか [ 花子が 誰を 愛しているか ] 知らない。

「私は花子が誰を愛しているか(を)知らない。」を古文に訳すのは面倒です。直訳的な
「我、花子(の)誰を思ふか(を)知らず。」は完全に非文だからです。ありえません。
我、花子の思ふらむ人を知らず。
我、花子、誰を思ふとも知らず。
我、花子、その人を思ふとも知らず。

の三つはよい。

生まれけむ年は知りたりや。(大鏡)
おぼすらむことなにごとぞ。(竹取)
その月、何の折、その人の読みたる歌はいかに。(枕)
のような語法があるからです。

17455 続き:2001/04/03(火) 16:50
次に、「しか〜ない」に直接対応する古文もない。
(ただ)少将のみぞ知りたりける。
(ただ)少将ばかりなむ知りたりける。
のように「のみ」「ばかり」を使った肯定文でいうか、
少将ならでは知る人もなかりけり。(少将以外に〜)
少将よりほかに知る人もなかりけり。
のように言います。


補文ということでは、以下の文例が参考になりますか?

(少将ぞそれを知れる。→よい。)
我のみ、少将(の)それを知れるを知れり。→よい。
我のみなむ、少将(の)それを知れるを知れる。→よい。
我のみなむ、少将ぞそれを知れるを知れる。→悪い。

「結びの消去」「結びのながれ」というものがあって、たとえば、

少将ぞそれを知れれば、行きて問へ。

などのように「連体形+。」ではなく「已然形+ば」や「連用形+て」などになることがありますが、
たいへんしばしばあるわけではありません。「少将(の)それを知れれば」で十分だからです。
しかし「ぞ〜連体形+格助詞」などは普通言いません。「まれにある」という説明を
読んだことがあるようにも思うのですが、手元に本がありません。いずれにせよ、あっても
例外的です。

175名無し象は鼻がウナギだ!:2001/04/03(火) 21:23


1 少将の知る人。→正しい名詞相当語句。
2 少将ぞ知る人。→誤用。ただし、まれにこのように言うこともあるという
        人もいるが、誤写ではないかと思われる。

こうして見ると、従属節には係助詞は現れないと言えそうです。係助詞は
主節や等位節にしか現れない・・・

少将ぞそれを知れる。されば少将に問へ。
少将ぞそれを知りて、大臣に告げきこえけり。
少将ぞそれを知れれば、少将に問へ。

接続助詞の「ば」をsinceやasのような接続詞と見るならば
「少将ぞそれを知れれば」の「ば」は従属節に現れることになりますが、
1と2の近さを考えるとそれは不当では。
176名無し象は鼻がウナギだ!:2001/04/03(火) 21:27
177琉球人:2001/04/03(火) 22:47
>>164
難しいスレッドですね。
かかり結びというのが何なのかよくわからんので、
このスレッドを最初から読んでみようとしたけど、、、無理でした(w

で、質問の答えですが、
「たるーがる ぬう かむぃる?」(太郎こそ何を食べるの?)
「たるーがる ぬう かむたる?」(太郎こそ何を食べたの?)
これでいいですかね?「かむいるが」とか「かむいがる」という表現は、私は使わないなぁ。
聞いた記憶も無いです。というか、最近はこういう方言も聞かないですけどね。
「たるーがる ぬう かむぃが?」こっちのほうが普通の表現。
あと、「ぬう」を先に使うなら
「ぬう たるーがる かむぃる?」(何を 太郎こそ食べるの?)
「ぬう たるーがる かむたる?」(何を 太郎こそ食べたの?)
ちょっとニュアンスは違うけどこれでもOK。

でも私の感覚で言えば、上の4つの文章はいずれも反語的に使われる事が多いと思います。
例えば「たるーがる ぬう かむぃる?」と言う文では(太郎こそ何を食べるの?)という意味よりも
(一体太郎が何を食べると言うの?→なんで太郎が食べられるの?たるーにはもったいない)
こういうニュアンスで語られる事が多いです。
こんなんで答えになってますかね?
178琉球人:2001/04/03(火) 23:05
150の訂正

>というか、最近はこういう方言も聞かないですけどね。

これは、かかり結びの方言を聞かないということではなく、方言そのものを耳にすることがなくなった、という意味です。
179名無し象は鼻がウナギだ!:2001/04/03(火) 23:18
「少将ぞ知るひと」を誤写といったのは不当で、訂正します。たいへん
めずらしい用例ですが、新古今409に

見る人の袖をぞしぼる秋の夜は月にいかなる影かそふらむ

とあり、主な注釈は「見る人が(それを見て)袖を絞る(ところの)
秋の夜には、月にどういう光が加わっているのだろう」というようなもの、要するに
秋の夜の月が美しいせいで、見る人が感動してなく、というものです。

見る人の、袖をぞしぼる。

と切るのは不当。というのは、「主節の主語に「の」が付くときは
文末は連体形という、一種の係り結びがあるのですが、
「主語+の〜+連体形。」と「ぞ〜連体形。」が共起する例はない
からです。思えばこの「の〜連体形。」も「係り結び」にいれるべきでした。
通常そうしないのは、「の」を格助詞に入れるからでしょうが、これは
形式主義にすぎるように思えます。

なお、「疑問詞〜連体形。」という呼応があるというのはやや言い過ぎで、
「幾夜(いくよ)ねざめぬ。須磨のせきもり」のように、あるいは
イディオマティックな「いづれまされり」のような終止形終わりのパターンもあります。

誰かそれは見けむ。→よい
それは誰か見けむ。→よい
少将は誰をか見けむ。→よい
誰をか少将は見けむ。→よい

など見たまはぬ。→よい(「源氏」の引用)
など見たまはず。→悪い。ありえない。
「どうして」という意味の「など」があると文末は連体形(義務的)。

180かかり助詞:2001/04/04(水) 00:22
もう下火になっちゃったかと思っていたけど、急に盛り上がりを見せて
くれてうれしいっすぅ。実は私、「沖縄の街」板に行って、質問したのだけど、
わざわざここまで来て質問に答えて下さる方があらわれて、嬉しいす。

>>178琉球語、なくなりつつあるんだ。私も早いとこ、沖縄にフィールド
ワークにでも行かないといけないな。どこかから研究費でもでないかな。

みなさんのおしゃることを、よく理解してからまた書きます。55さんは
フランスでバケーションでしょうか。いいなあ。
181かかり助詞:2001/04/04(水) 04:35
>>174「しかない」ではなくて、以下のような例の
古語相当でもいいのですが。

(1) 太郎こそ [ 花子が 何を 買ったか ] 知りたがっている-F。
(2)??何を-i [ 太郎こそ [ 花子が t-i 買ったか ] 知りたがっている-F ]。

(1)は「何ーか」と「こそーF」がいれこ式になっているけど、(2)は
文頭に出た「何」のために交差している。もともと、「何」を「か」のついた
節の外に出すのは良くない。だから、(2)から「こそ」を除いた(3)も
あんまり良くない。

(3) ?何を-i [ 太郎が [ 花子が t-i 買ったか ] 知りたがっている ]

けど、(2)は(3)より悪い。その理由は交差制約違反だからです。

古語では(2)みたいのはどうなるんでしょ。補分のなかは
「なにーか」でなくとも、「ぞー連体形」みたいなのでもいいのだけど。
古語作文に自信がないので、現代語でかくと、

(4) 太郎こそ 花子が その本ぞ 買った(連体形)と 思う(いぜん形)。
(5) その本ぞ[太郎こそ[花子がt-i買った(連体形)と]思う(いぜん形)]。

私の予想では(5)わ非文法的だと思うのだけど。お疲れのとこスイマセン。
182かかり助詞:2001/04/04(水) 04:51
>>177疑問文でなくて反語表現ですか。むーう。でも一つの
動詞に、「る」という結びと「が」という疑問文のマーカー両方
つけられないのは面白い発見です。古語の動詞が、いぜん形と連体系に同時になれないのと似ているな。ついでにもう一つ聞かせていただきたいのですが、(まだ、ここにいらしたらですが)、以下の文はどうでしょ。
(1) たるが*る* [はなこが ぬう*が* かむい*ら* ] しりぶさん*る*
(太郎こそ花子が肉を食べたか知りたがっている)
それと(2)では「ぬう」を文頭に持ってきました。
(2)  ぬう*が* [たるが*る*[はなこが かむい*ら*] しりぶさん*る*
  (何を 太郎こそ 花子が食べたか 知りたがっている)
(2)と(3)を比べると、どちらが不自然ですか?
(3) ぬう*が* たるが [はなこが かむい*ら* ] しりぶさん.
わたしの予想では(1)は自然、(2)が一番変で、(3)
は(2)よりいいのだと思うのだけど。
183吾輩は名無しである:2001/04/04(水) 12:10
太郎こそ、「花子、それをぞ買ひけむ」と思へ。→よい
「花子、それをぞ買ひけむ」と太郎こそ思へ。→よい
それをぞ、花子買ひけむと、太郎こそ思へ。→よい

それをぞ、太郎こそ、花子買ひけむと思へ。→これはたしかに悪い

かぎかっこでくくれる文のなかでかかり結びするのが原則、と
いうことはたしかにいえるので、「交差制約」はたしかにかかって
いるといえそうです。

「何を買ったか知りたがっている」も、
太郎こそ、花子は何をか買ひけむとゆかしがれ。
のように「〜と」を使っていうのが普通でしょう。古文では「と」は大変に多い。

ただ、実際の用例をすぐには示せないのですが、
太郎は「花子こそそれを買ひけめ」と思ふ。
というノーマルな形のほかに、
太郎は、花子こそそれを買ひけむと思へ。
のような言い方がまれに見られるはずです。このような言い方はややラフ
なものでしょう。文中に「こそ」があると文末が已然形でないと気持ちが
悪いといった心理が働くというようなことで。

主節にも、「と」付きの引用文のなかにも係助詞があるパターンはご
くありふれていますが、これ以外、「ぞ・なむ・や・か・こそ」が
一つの文に二つ以上来ることはありません。

太郎こそ、花子の来るを見れ。→よい
太郎こそ、花子ぞ来るを見れ。→悪い太郎こそ、花子に歌を詠ますれ。→よい
太郎こそ、花子にぞ歌を詠ますれ。→悪い。
太郎こそ、花子にぞ歌を詠まする。→むろん悪い。

太郎ぞそれを知れれば、花子こそ(太郎に)問へ。→よい(前半は結びのながれ)

花子こそ、太郎ぞそれを知れれば、問へ。→まず言わないと思われる。まちがいというより、
普通言わないという感じ。
184かかり助詞:2001/04/04(水) 13:25
>>183
ありがとうございます。はっきりいって、私は183を読んで久しぶりに
興奮しました。これだから言語学はやめられない。
「それをぞ、太郎こそ[ 花子 買ひけむと]思へ」が悪いというのは
交差制約の予測通りなので、上で「おまえがやれ、いいや、
おまえが調べろ」と擦り付け合いながら喧嘩した裏がとれたわけです。

この例だけでは確証とは言えないけど、古語の係り結びも、交差制約に
従うのだから、現代語の「しかない」「なに-か」と同様、A-bar
移動によって生じると、考える根拠の出発点になると言えそうです。

古語の補文でのwh疑問文は「か」をwhにつけていう事が多いのは
文献で読み、知っていました。現代語では「wh-か」という
コンビネーションは英語でいうsomeoneのような意味になります。
「だれか・何か」のような具合です。実はこういうのも
交差制約にしたがいます。

(1) ?? 誰かが 何を 読んだの?
(2)  何を 誰かが 読んだの?

判断は微妙ですが、(1)の方が悪いと思われます。こういうことを
考えると、現代語の「だれか」なんかも係り結びと同種の性質を
持つ構文だと思われます。同様のことがeveryoneの意味の
「誰も」などにも言えます。
185かかり助詞:2001/04/04(水) 15:47
>>183

(1)太郎は[花子こそ それを かひけめ] と思う
(2)太郎は[花子こそ それを かひけむ]と思へ

ですが、「しかない」etcにも同じような事があります。

(3)太郎は[花子しか それを 買わないと] 思った。
(4)?太郎は[花子しか それを 買ったと] 思わない。

(4)はちょっと悪いけど、そんなにひどくない。目的語が「しか」
立った場合、主節の動詞に「ない」がつくとだいぶ変。

(5)??太郎は[花子が それしか 買ったと]思わない。

(5)もそんなに悪くないけど、ちょっと変。だけど、「しか」を
補文の中から出してしまえばぐんとよくなる。

(6)それしか-i 太郎が [花子が t-i 買ったと] 思わない

で、思ったのですが、「ぞ-連体形」なんかも同じような
振る舞いスルのかしら。すなわち、

(7) 太郎は [花子が それぞ 買うと] 思う(連体形)
(8) それぞ、太郎は[花子が買うと] 思う(連体形)

(8)はかなり自然なはず。で、(7)(8)の「花子」に「こそ」
をつけ、補文の動詞を已然形にした場合、すなわち、

(9)太郎は [花子こそ それぞ 買う(已然形)と] 思う(連体形)
(10)それぞ 太郎は[花子こそ 買う(已然形)と]思う(連体形)

(9)は交差制約違反で非文法的、(10)はいれこ式で文法的ということに
なりますが、いかがでしょう。
186You are welcome:2001/04/04(水) 20:59
1疑問文に就いて。
誰がくるのか。→誰か来る。
少将が来るのか→少将や来る。
しかし
誰が来るのか知らない→「誰か(tareka)来る(を)知らず。」は非文。
「誰が来るとも知らず」(taga-kurutomo-sirazu)
「その人の来るとも知らず」などといいます。

2  185の4,5,6の許容度は低いのでは?

3 185の2のような形はまれにあるとしても、不用意な言い方という
べきもだと思われます。係助詞がついている語と、その結びになっている
後を含む語句は原則、修飾・被修飾の関係になるので、
>(1)太郎は[花子こそ それを かひけめ] と思う
がいい形で、185(2)は何よりそれに違反しているので変なのだと思うのですが。

それぞ、太郎は、花子買ふと思ふ(連体形)。
それこそ、太郎は、花子買ふと思へ。

は、現に言わないと思われますが、それはこの理由によるのでは・・・

太郎は花子をこそ美人だと思っている。
花子をこそ太郎は美人だと思っている。いずれもよい

太郎は花子をこそ「かたちよし」と思へ。
花子をこそ太郎は「かたしよし」と思へ。いずれもよい。

それを、太郎は花子買ひけむと思ふ。→よい
太郎はそれをこそ花子買ひけめと思ふ。→よい
それをこそ、太郎は花子買ひけむと思ふ。→よいはず。
ただ、
太郎は [花子こそ それぞ 買う(已然形)と] 思う(連体形)
は当然だめでしょうが、

それぞ 太郎は[花子こそ 買う(已然形)と]思う(連体形)

も、何か変です。一つの文にこんな風に「ぞ」「こそ」が
ある例は、まず見られないはずです。奇妙さは主としてここ
に由来しそうです。

4 ちなみに古文「何をか悲しぶらむ」は「何を悲しんでいる
のだろう」と訳すことが多いものの、それでうまく行かないときは
「何かを悲しんでいるのだろう」と訳すとう大体うまくいきます。
「何かを悲しんでいるのだろう」に当たるのは「何をか悲しぶらむ」と
「物を悲しぶらむ」という形式で、「何かを悲しぶらむ」は非文です。
187琉球人:2001/04/04(水) 23:43

>>182
まだ見てますよ。

ぬう=何、ぬうが=何故(why)

(1) たるーがる はなこがぬうかむいら しりぶさんる
  (太郎こそ 花子が何を食べたか 知りたがってる)
      ・・・・ぬうの後の「が」をとった方が自然です。

  たるーがる はなこがぬう「が」かむいら しりぶさんる
  (太郎こそ 花子がどうして食べたのか知りたがってる)

(2) ぬうが たるーがる はなこが かむいら しりぶさんる
  (何で 太郎こそ 花子が食べた理由を 知りたがってるか?)
      ・・・・文意が違ってきます。

(3) ぬうが たるーが はなこが かむいらしりぶさん
  (何で 太郎が 花子が食べた理由を 知りたがってるか?)
      ・・・・(2)と同じ文意といっていいです。


もし私が(太郎こそ 花子が何を食べたか 知りたがってる)というのを方言で話すならば
 ・花子がぬうかむいら たるーがる知りぶさる(「ん」は取ってもOK)

もし(2)(3)で文頭に「ぬうが」ではなく「ぬう」を使えば、、、
きっと「ぬうが」の意味で聞き取られ、(1)の意味にはならないでしょう。
188かかり助詞:2001/04/05(木) 00:21
古語シロートの分際でこんなこといって申し訳ないけど
185の(1)と(2)は(2)が誤用なのではなくて、意味が微妙に
違うと思うのですが。「こそ」に意味的に類似する英語の
強調構文は、補文の中の要素を強調するサイ、(i)/(ii)の
どちらでも言えます。

(i) John said that it was this book that Mary bought.
(ii) It was this book that John said that Mary bought.

でも、(i)と(ii)は意味が少し違う。(i)では、「強調している人」
がJohnですが、(ii)ではこの文の話し手です。185の(1)/(2)の
違いもそういう違いではないでしょうか。

似たようなことがwh疑問文にもあります。(iii)は

(iii) 太郎が [ 花子が 何を 買ったか ] 聞いた
(iv) 太郎が [ 花子が 何を 買ったと ] 聞いたの?

(iii)は補文は疑問文ですが、主節は疑問文ではありません。
(iv)は主節が疑問文なので、(iv)の話し手は聞き手が答えるのを
期待しているわけです。

185の(1)/(2)もそういう違いじゃないですかね。
189かかり助詞:2001/04/05(木) 12:17
>>187どうも琉球語・方言に関するコメントありが
とうございます。琉球語に関しては、論文を数本
読んだことがあるだけなので、思ったような事が聞けず、
182の質問はからぶりに終わったようです。少し、
琉球語に関する文法書などを読んで、それから現地に行って
調べないと実りのある質問が出来ないような気がします。

しかし、上でも書きましたが、琉球語は日本語の起源や
発達を探る上でも貴重な資料です。この言葉を第一言語として
話す人がなくならないことを祈るばかりです。

私は、今現在、沖縄からはすごく遠いところに住んでいるので、
簡単に行くわけには行きません。しかし、調べてみたい。
自腹を切ってでもいこうかな。若い世代はこのような首里沖縄語を
話せないのでしょうか?いくつの世代なら、こういう言葉を
話しながら、少年期を過ごしたのでしょうか?例えば、30代の
かたはテレビの共通語を話して大人になったのでしょうか?


190かかり助詞:2001/04/05(木) 23:30
首里人さん、
係り結びというのは、簡単にいうと文中に特定の要素があるとき、
動詞が特別な形になることをいいます。古語にはあって
現代語にはなくなったという事になっているのだけど、
私個人としては「現代語にもある」という事を証明した
いと思って、琉球語について、いろいろお聞きしている
しだいです。現代語で係り結びに似ているのは、「しか」
のつく句です。「しか」が来たら動詞が「ない」のつく
打ち消しにならないといけない、といった文法事象です。

首里琉球語で、以下の文はどうなんでしょ。手元の資料では
文を作るのに十分な単語がないので、標準語で書きます。

(1) 誰が [ 花子が その本こそ(る)買った(る)と] 思っている。
(2) その本こそ(る)誰が [ 花子が 買った(る)と] 思っている。
(3) その本こそ(る)太郎が[ 花子が 買った(る)と] 思っている。

琉球語では「こそ」の意味の(る)と動詞につく(る)が
係り結びになっているわけです。(1)の(る)がつく「その本(る)」
というのが、(2)(3)では文頭に出ているわけですが、
こういうのは言えますか?

191考える名無しさん:2001/04/05(木) 23:37
1 太郎は、「花子は美形だ」と思う。
2 太郎は、花子を、「美形だ」と思う。
古文にも1型、2型の双方があることに関しては、いくらでも文例を
挙げられます。

事実1 古文の「〜を《・・・》と言う」は「何々(誰々)について
《・・・》と言う」「誰々に対して《・・・》と言う」などの意味も持つ。
事実2 係助詞の前の格助詞は省略可能。

3 太郎、「花子こそかたちよけれ」と思ふ。 →よい
4 太郎、花子(を)こそ「かたちよし」と思へ。→よい(3と同義と

5 花子(を)こそ、太郎(は)「かたちよし」と思へ。→よい(3と同義として)

6 花子(を)こそ、太郎、「形よけれ」と思ふ。→どう考えても、だめ
7 太郎、花子(を)こそ、「形よけれ」と思ふ。→これもだめ。

192考える名無しさん:2001/04/05(木) 23:38
8 太郎、「花子こそ、その歌を詠みけめ」と思ふ。→よい
9 太郎、花子(を)こそ、「その歌を詠みけむ」と思へ。→悪い。

10 その歌をこそ、太郎、「花子、詠みけめ」と思へ。→悪い。 カギカッコの中
のものを勝手に前にだしてはいけない。
11 その歌をこそ、太郎、「花子、詠みけむ」と思へ。→悪い。 10よりはよいのでしょうが、やはり許容度は随分低いでしょう。

4・5と8・9で許容度が違うように思えるのは、現代語で「花子を顔がいいと思う」と「花子をその歌を詠んだだろうと思う」とで差があるのと同じでしょう。


12 この失せたまひぬるも、さやうにこそ悔いたまふ折々ありしか。
源氏物語・朝顔の巻の冒頭近く。(かのなくなったお方も、そのようにお悔やみになる時がしばしばありました)
「さやうに」は意味的には「悔いたまふ」にかかるので、「しか」のような(「き」の)已然形が来る必要はなさ
そうですが、現に已然形になっている。
13 さやうにこそ悔いたまひしか。
は完全に問題ない。「悔いたまふ折々あり」は「悔いたまふ」に似たものと考えてよいのでこうなるのでは。《Probably S+V》と《It is probable
that S+V》に関して、単文と複文の差を強調するより、意味的な近さを強調する方が実態(使う時の心理)に近いのと同じようなことではないかと思うのですが。

13 親に知られず、さるべき人も許さぬに、心づからの忍びわざしいでたるなむ、女の身には増す事なき傷とおぼゆるわざなる。(親が認めず、しかるべき人も許さない
のに、自分から(男と)ひそかな関係をとり結ぶのは、女としては、最大の汚点だと感じられるものだ。) 源氏・若菜上、はじめの方。
 「わざなり」は現代語の「〜ものだ」(e.g.世は憂きわざなり=世の中はつらいものだ)のようなもの。
 要するに、「世は憂し」と「世は憂きわざなり」が近いので、「世ぞ憂き。」と同じような感覚で「世ぞ憂きわざなる。」と言える、ということでは。すると、
14  [〜しいでたるなむ、〜傷(なる)]とおぼゆ。(「なり」のこのような省略は多い。「これなむ都鳥」(伊勢物語9段)もそうだった)
15  [〜しいでたるなむ、〜傷]とおぼゆる。
16  [〜しいでたるなむ、〜傷]とおぼゆるわざなる。
のようなプロセスで源氏の原文の語形が説明できます。「なむ」の結びが、だんだんうしろの方に下がってゆくわけです。

しかし、こういうことはあるにしても、
17 太郎、「花子こそその歌を詠みけめ」と思ふ
という問題ない形に対して、
11 太郎、花子こそ、「その歌を詠みけむ」と思へ。
11’ 太郎、「花子こそその歌を詠みけむ」と思へ。
は悪いと思われます。

結局、たとえば文中に「〜こそ」があると、
A 「〜こそ」がかかるところが已然形になる
B 文末が已然形になる
の二つが満たされるのが望ましい。この二つは多くの場合一致するので、若干の場合二つがズレる。ズレる場合、Aを犠牲にしてBを満たすのが普通。


以下の問題に、よかったら、お考えを。いまだに国語学の本には
「は〜終止形」という係り結びがあると言っている見たいですが、どうなんでしょう。
「私が読んだ本」とは言うが
「私は読んだ本」のように言わないこと、「〜は」は「勢いが文末まで及ぶ」
と説明する本がありますが、これは「は〜終止形」という係り結びがあることの証拠に
なるのですか? 文末命令形の、
16 お前は、帰れ。
のような現代語、
17 春風は花のあたりをよきて吹け 心つからやうつろふと見む  古今85
のような古語があること、また古文では副文の主語に「は」がつくこともしばしばあること、をどう見るのでしょう?
18 大臣は姫君の御方におはするほどに中将の君参りたまひて  源氏
19 姫君は何心もなくておはするに、(大臣ガ)さしのぞきたまへれば  源氏
同じような例を「源氏」などから十二三例集めてあります・・・


193かかり助詞:2001/04/06(金) 03:11
>>191-2で「考える名無しさん=55さん?」が考察しているような
「太郎は 花子を ばかだと 思った」の様な構文は生成文法ではECMとか
「目的語への繰り上げ」と言うのですが、私個人はかかり結びとは別に
この構文にも興味あります。同様の構文は英語にもあるし(John believes
that Mary is a fool-> John believes Mary to be a fool)、
トルコ語にもあります。内側の述語が(かたちよく、ばかだ)が結びに
なっている例は目的語への繰り上げが出来ない。現代語の「しか」には
「太郎をしか」の様に格助詞がつかないので、(1)では繰り上がって
いるのかはっきりしません。
(1) 太郎が 花子しか ばかではない と 思う
(2)は「愚かにも」という副詞が補文の「が」がついている主語の
後ろに来ています。「愚かにも」が「思う」を修飾する読みは
ありません。が、繰り上げをした文(3)では同様のことが可能です。
(3) *太郎が 花子が 愚かにも ばかでない と 思う。
(4)太郎が 花子を 愚かにも ばかでない と 思う。
そこで、「愚かにも」を(2)に入れて見ると、(2)は(3)と同じ
振る舞いをします。すなわち「愚かにも」は「思う」を修飾できない。
(5)*太郎が 花子しか 愚かにも ばかでない と 思う。
から、(2/5)の「花子しか」は繰り上げられていないと考えられます。
すなわち、この点に関しても、「しかない」は古語のかかり結びと
同様の振る舞いをするわけです。最近この目的語への繰り上げに関する
論文書いたので、「考える名無し」さんの古語に関する考証楽しく読ませて
もらいました。
194かかり助詞:2001/04/06(金) 03:23
で、「はー終止形」ですが、これは上で「名無し象」氏が指摘された、
「のー連体形」と言うのと併せて考察する必要があると思います。
現代語では、連体修飾のなかの「が」が「の」に代わることがあります。
たとえば、「太郎が買った本」ー>「太郎の買った本」といった具合です。
古語で「の」があるとき連体形結びだったことは、なにかしらこの事実と
関係があるように思われます。「私は読んだ本」と言えないのは、連体形
が要求される連体修飾のなかに、終止形を要求する「は」が現われるの
がいけない事のようなきがします。ここいら辺はまだ考えがまとまって
おりませんので、何を言っているのか分からないかもしれませんけど。
195琉球人 :2001/04/06(金) 23:03
>>189
かかり助詞さんの様に沖縄方言に興味を持ってくださる方がいるというのは非常にうれしい事です。
私が以前読んだ本によれば、琉球語と標準語(その本では東京方言と言っていた)
はおよそ1400年ほど前に離れた言葉だそうです。
確かに、琉球の方言には昔の日本語の名残があるように気がします。
例)
  うんじゅ(あなた)←雲上人
  ちゅらさん(美しい)←きゅらしい←きよら(清ら)
  チャービラ(ごめんください)=ちゃー(来る)+さびら(侍り)

が、言葉というのはうつろいゆくもの。新しい文化が入ってくれば影響を受けざるを得ません。
テレビ、ラジオ、映画、漫画、そして学校教育の影響はものすごく強いものでした。
とりわけ学校では方言撲滅運動と呼ぶべきものがあり(方言を話すと罰せられる)
次第に方言は姿を消していったのです。
自在に方言を話せる世代は60代、いや70代より上といったほうがいいでしょう。
私は40代ですが、日常生活ではほとんどが標準語です。
方言で話したくても話す相手がいません。

若い世代が話す言葉というのは、標準語と方言が混ざった新しい言葉を使っています。
よく彼らの言葉を聞いてみると、昔の言葉をちゃんと使っていたり、誤解して使っていたり
また驚くような音韻変化をさせて使っていたり、、、けっこう面白いです。
196琉球人:2001/04/06(金) 23:10
>いくつの世代なら、こういう言葉を
話しながら、少年期を過ごしたのでしょうか?

少年期を戦前に過ごした方たちに限るといっていいでしょう。
私の場合は祖母と同居してたので比較的方言に接する機会は多かったのですが
やはりテレビの影響は大きいですね。
197琉球人:2001/04/06(金) 23:11
>>190
なるほど、係り結びの説明はわかりました。
沖縄方言では
 名詞+「る」〜動詞+「る」
このコンビネーションはきわめて多く、法則性を持っているといっていいかもしれません。
ただ、この法則が100%あてはまるかというと必ずしもそうではないのですが。

さて、係り結びさんの問われている(1)(2)(3)の文について述べる前に
私が考える琉球語の特徴について述べさせて下さい。
・基本的に琉球語というのは会話でのみ使われるもの。
 もちろん「おもろそうし」などの書籍がないわけではないのですが、
 ごく限られた知識層のみが有していた
・文語体の琉球語というのは非常に不自然な感じを受ける。
 日本語でも、たとえば小説でみられる文語体の文章を
 実際に会話で使うということは少ないとおもいます。
 しかし日本語は、多くのすぐれた小説家がたくさんの作品を残す事により
 文語体の日本語というジャンルを築いたのです。
 したがって文語体の日本語をみても何ら違和感を感じません。
 ところが琉球語はそうではないのです。
 琉歌、唄、演劇では発展したものの、
 小説とか随筆とかの分野では何ら作品を残してないと言って良く
 結果、文語体としての琉球語は発展しなかったのです。
 だから琉球語で文語体の文を作っても、たとえ琉球語としての体裁を整えてあっても、
 それが話し言葉でなければ違和感を感じるのです。

ご質問の答えですが分かりにくくなるだろうから琉球語表記はやめ、標準語で語順のみ記します。
(1) 誰が [ 花子が その本こそ(る)買った(る)と] 思っている。:「花子が」の位置が不自然
  誰が [ その本こそ(る)花子が 買った(る)と] 思っている。:これなら可
  誰が思ってるの、その本こそ花子が買ったって。:これが最も自然
  その本こそ花子が買ったって、誰が思ってるの。:これも自然
(2) その本こそ(る)誰が [ 花子が 買った(る)と] 思っている。 :不可
(3) その本こそ(る)太郎が[ 花子が 買った(る)と] 思っている。:不可

 可・不可の判断はすべて、会話として自然であるか否かによりました。
198かかり助詞:2001/04/07(土) 09:24
琉球人さん、
どうも、親切にメッセージありがとうござます。もう少し
琉球語の勉強してから本格的に調査に乗り出すことにします。
しかし、70代以上が本当の意味での琉球語話者というのは、
残念です。私個人としては、やはり国立国語研究所あたりが、
保存活動を主宰すべきだと思います。
例えば、カナダのブリティシュコロンビアなどでは、英語を
話すようになってしまった、若いネイティブアメリカン(いわゆる
インディアン)を対象にインディアンの言葉を教える活動
があります。私のような者が沖縄に行って言葉を調べることは
可能ですが、それ以上に保存活動がないと。
「方言を話すと罰せられる」というのも基本的人権の一つ
「表現の自由」違反ですね。国語教育の主旨が変わって、
方言保存が盛んにならないかな。
スレの主旨と違う書き込み、失礼しました。
199名無し象は鼻がウナギだ!:2001/04/07(土) 09:58
レスを全部読みこなす知識なんてないんですが、「とは言え」の「言え」って、
何なんですかね?
200名無し象は鼻がウナギだ!:2001/04/07(土) 18:10
それは「いえども」の名残りじゃない?係り結びとはちがうでしょう、多分。
201吾輩は名無しである:2001/04/08(日) 19:56
命令形の放任用法?
例。男であれ、女であれ。=男であってもいいし、女であってもいいが
とは言え=といってもいいが。
202名無し象は鼻がウナギだ!

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  ┃ ノ从~ヽ从ヽ 〃~~ヽヽヽ  |( `〜` )|  ∧_∧  ノノノノ从ヘ. ┃
  ┃ 从 ~∀~ 从 |(*^∀^*)| |(   )| ノノハヽヽ |( ´Д` )|. ┃
  ┃  (   )   (    )   | | |  |( ^∀^ )|  (   )  ┃
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       L`.∀´」 ノノハヽヽ  ノノハヽ  (   )  |( ^▽^ )|
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