>>688 生成文法って基本的に印欧諸語の言語中心、そしてGB、P&Pの頃から結局はanaphorの問題が中心で
それ以外の文法現象も結局はc-commandうんぬんの話になることが多い。文法として扱かえる言語現象が
実はさほど広くないのではないかとすら思えてしまう。(おそらく認識不足なだけだろうが)。
そして、印欧諸語中心だから、head-marking(主要部標示)の言語やswitch reference(指示転換)のあるような言語、
能格言語などの印欧諸語から見ると「変わった」言語を扱うとなると、問題がいっぱい。
生成文法の立場だとhead-markingの言語はまず、句構造がどうなっているのかすらよくわからない。
polysyntheticな言語で一語が他の言語の一文に相当するような場合、その句構造の標示は印欧諸語を扱うときの
句構造とはかけ離れたものになってしまう。
switch-referenceのある言語も生成文法的な立場だと動詞につく接辞はanaphor扱いだからbindされるべきものである
はずなのに、うまく説明できない。印欧諸語から離れてその言語を記述しようとすると生成文法の枠組みではすぐに
壁にあたってしまう。RRG的姿勢だと、これらの一見「変わった」言語も印欧諸語基本的に変わらず扱える。
言語学をやりはじめた人でもすぐに生成文法を使って日本語を記述・分析しようとすると、日本語を「英語にあてはめて」
考えているような面があることに気付くはずだ。自分も実際そうだった。生成文法は印欧諸語のメジャーな言語の
分析には有効であったが、その先となると多いに疑問だ。勿論、これはアプローチの差異なので、どちらが優れている
というわけではない。たた、印欧諸語のメジャーな言語から見れば「変わった言語」に思える言語もRRGだと
すっきり処理される面が多いので、そういう言語をやっている人には支持されるのだと思う。