サピア・ウォーフの仮説

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1名無しさん@1周年
言語による思考制約って、どんな例を思いつきますか?
2名無しさん:2000/07/16(日) 17:15
小生の場合、演歌を聞いていると日本酒が飲みたくなり、洋楽だとウィスキー
が飲みたくなります。言語が酒の何をどう飲むかに影響しているのかもしれません。
3名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 20:12
女は脳内発話を女言葉でしているのか
田舎から都会にでてきた人は標準語で脳内発話しているのか
4名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/17(月) 11:07
Cに慣れてしまうとオブジェクト思考でプログラムが組めない。

#ってそういう話じゃ無いですな。
5名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/18(火) 03:30
偶然にも最近読んだ本がサピア・ウォーフ仮説を批判していました
『言語を生みだす本能』(スティーブン・ピンカー)
6名無し:2000/07/18(火) 16:21
この本有名ですよね。俺チョムスキーも信用してないけど。
7名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/22(土) 03:45
子どもの頃ショックなことがあると、「あ、今悲しいんだな。」
と認識した後に泣くことが多かったような気がします。
これはS・W説には関係ないのでしょうか?
どなたかご教示ください.
8名無しさん@1周年:2000/08/18(金) 04:22
 次の論文が面白かった。
■古山宣洋「方法論としての言語相対論の意義」『現代思想』2000年7月号

サピア・ウォーフ仮説に対する実験的検証を吟味し、言語相対論の真価を示すもの。
9名無しさん@1周年:2000/08/18(金) 14:18
チョムスキアンの言語相対論批判? ↓

例えば、世界の知覚において、我々はただ単に語彙の体系が示すようなやり方で
恣意的に世界を分節しているのではないことを現代の理論は教えてくれている。
認知的焦点が知覚に大きな制約として働いていることは常識である。しかし、こ
の現代的認識を持ってSaussureの二重の恣意性を批判するのは的外れだ。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/2375/herasake.html#saussure
10名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 22:37
「もし右や左がなかったら」井上京子、大修館。

http://akashia.est.co.jp/tsubame/detail.asp?sku=20835

言語相対論もこの程度までの具体性をもって話してくれないと
相手にできないと思うのは間違いか?

相対論擁護も相対論批判も、具体的事例に則して話をしないと泥沼だ
というのはほとんど常識と思うのだが。
11:2000/08/19(土) 23:16
マヤ語族のツェルタル語には「右」「左」といった相対的方向指示語が無い。
オランダのブラウンらは、このツェルタル語話者を使って、実験をした。
即ち、被験者にテーブルの上のアイテムの配列を覚えさせ、180度振り返った
所に「同じ」に並べよと求めた。
結果、オランダ語話者が右にあったものは右に置いたのに対し、ツェルタル語
話者は東にあったものは東に置いて配列を反転させなかった。
言語によって空間理解が異なったわけであり、言語相対論を支持する実験結果
である。ただし、更に追試が求められる、とか。
――以上、古山宣洋論文に拠りました。興味深い事例です。
12大和魂:2000/08/20(日) 06:43
江戸時代の日本語で近代的概念を表現しようとして挫折した話とか、
新しい概念を表現するために新しい語彙を作った苦労話とか、
みんな知ってる話を思い出せばいいんじゃないの。

例えば、江戸時代の日本語で「自由」は「勝手放題」という意味で、
「道徳的に望ましい政治的自由」という概念はなかった。

そういうのを忘れてなければ、サピア・ウォーフ仮説に対する
ピンカーの批判には説得力を感じないと思う。
13名無しさん@1周年:2000/08/21(月) 23:58
>認知的焦点が知覚に大きな制約として働いていることは常識である。しかし、こ
>の現代的認識を持ってSaussureの二重の恣意性を批判するのは的外れだ。
なんで?恣意的じゃないことが分かったんなら、それは
批判する理由になるんでは?
14名無しさん@1周年:2000/08/22(火) 00:14
15ふと思った:2000/08/22(火) 01:53
恣意的な区分で思考が制約されるという点では、
2チャンネルの板の分け方にも同種の問題があるな。
語学板と言語板を分けるという方針のせいで、
話題自体と話の流れの方向に特有の偏りが出来てる気がする。
16:2000/08/24(木) 10:41
>15
具体的には、どんな偏りが?
17>16:2000/08/24(木) 15:41
個別言語の問題から言語一般の話に広がったりっていう
「言語学」的な議論が少なくて、日本語論か、
特定の言語学者の話をする「言語学学」になってしまってる。
語学板と言語板の両方にまたがる話題を遠慮してる気配を感じる。
語学板の方もそう。
18名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 15:53
最近そうでもなくなりつつあるんじゃない?
長い目で見れば?
19こんな例がある :2000/08/25(金) 18:26
欧米に「肩こり」に該当する概念は無い。
日本にやってきた欧米人は、はじめ「肩こり」とは何かを理解できない。
しかし、そのうちに身を以て「肩こり」を知る、とか。
これは「肩こり」って言葉が肩の凝りを生んだ(気づかせた)のか、
それとも、サピアの仮説とは関係ない純粋に身体的問題で、
日本的生活様式が肩こりを起こすからなのか。
20名無しさん@1周年 :2000/08/25(金) 19:23
>19
本当に「肩こり」に該当する感覚がないのかな?都市伝説っぽい。
知り合いのアメリカ人にはstiff shouldersで分かってたけど。
21名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 14:10
吃音の例と似ていますね。
22:2000/08/30(水) 17:01
それと意識すると一層顕著になる、言語に依存する、ってこと?
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=gengo&key=961446278
23グリッド :2000/09/01(金) 07:03
内在的な必然性を持たないカテゴリーが、
歴史的事情で名前を持ってしまって、
内容的にも実在すると想定されてしまうことはあるね。

「r 音」は、そういうカテゴリーの典型のような気がする。
「アジア」もそうじゃないかな。
英語等のネーティヴスピーカーの語感として、
「Indian (インド人+アメリカ先住民)」はどうなんだろう?
24名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 03:11
>23
「r音」の歴史的事情って……?
確かアルタイ語族では語頭に出ないとか聞いたことありますが。
ご説明いただけると嬉しいです。
25>24 :2000/09/03(日) 04:04
「r音」というのは、「舌先震動音を変種として持つ音素群」
とでもいった形で定義するしかない曖昧なカテゴリーだよ。

例えばフランス語の r は、口蓋垂の震動ないし咽頭摩擦音で、
日本人の耳にはハヒフヘホに近く聞える音だし、
中国語の r は、舌先と歯茎裏の摩擦音で、
日本人の耳にはジャジジュジジョに近く聞える音だし、
英語の r は、舌先が口腔内に浮いた半母音で、
日本人の耳にはワウィウウェウォに近く聞える音。
イタリア語やスペイン語の場合の舌先震動音が[r]の標準で、
日本語でも江戸下町方言のべらんめえ発音は、この標準音だけど、
ほとんどの方言では震動が一回だけの、これはこれで特殊な音。
ドイツ語の普通の r は、フランス語式の喉音だけど、
オペラの場合だけはイタリア語式の舌先震動音になる……。

という具合に、r で表記される音は極端に範囲が広い。
アラビア語の場合は舌先振動音と口蓋垂の振動音が別の音だから、
フランス語と英語とスペイン語の r が
同じ音のバリエーションと見なされることに必然性は無い。
結局、ラテンアルファベットに文字が一種しかなかった、
という歴史的事情で、同じカテゴリーに分類されただけ。
26:2000/09/03(日) 15:44
この方面まったく無知ですが、ご解説、興味深く拝読。
音声学が文字の呪縛から脱するのは大変なんですねえ。
「英語の h と ng は同じ」説も、もしこれを表す文字が同一だったら
問題にならなかったのかも。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=gengo&key=967013926

文字が思考を制約する場合も色々ある気がしますね、特に漢字文化圏では。
その辺、想起される例ありませんか。
27サピア・ウォーフの仮説 :2000/09/03(日) 20:25
しばしば相対主義的な言説に根拠を与えるような感じで使われるけど、
単に一つの学説として事実に基づき論証ないし反証すべきと思う。
28>27 :2000/09/05(火) 03:59
それはとっくに10が言ってることですよ。
もっと具体的事例を挙げて、検討してみませう。
29名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 13:34
しかし実際にマヤ語族のとこまで逝って追試するわけにもいけないしね
失火や肩こりではまだ十分な説得力ないでしょう?
30私の記憶が確かならば :2000/09/05(火) 14:27
サピア・ウォーフの仮説からは「強い仮説」と「弱い仮説」が導き出される。
「強い仮説」には異論あっても、「弱い仮説」の方は一般に承認済みなんでないの?
31>30 :2000/09/05(火) 16:25
弱い仮説:言語によっては、ある種の問題を考えにくくなる。
強い仮説:言語によっては、ある種の問題を考えられなくなる。

ということっすね?
32名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 17:48
私なら
弱い仮説:ある社会に属する人の思考は、その社会の言語から何らかの影響を受ける。
強い仮説:ある社会に属する人の思考は、その社会の言語によって支配・決定される。
とするかな。
この点で、ピンカーの批判が不適切なことは下記ページの中にも触れられてあります。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review99.html
ついでながら言語相対性理論の紹介のページも。
http://www.ipc.hokusei.ac.jp/~z00105/kamoku/kiso/matuo.html
33名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 00:50
>19・20
「肩こり」の事例は、言語心理学の吉竹博の研究がある由。
欧米人にとって凝る場所は肩ってより背中らしいよ。
http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/umi.html
34名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 01:40
35ふと思う :2000/09/06(水) 21:47
本居宣長?の「大和言葉の「こと」が漢字の言と事で書き分けられるようになってから
その心が失われた」とかいうのも基本的に言語相対説なんだね。
36社会言語学の方で :2000/09/07(木) 07:42
バーンステインの「制限コード」と「精密コード」の議論はどう?
言語と知能(と社会階層)の相関関係を表してる。
37名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 15:14
http://www.lb.u-tokai.ac.jp/koji/course/jseminar/notes18.html
> バーンスティーンはイギリスの中流階層、労働者階層の子どもたちのことばを調べていて、ふたつの間に違いがあることを発見
> しました。中流階級の子どもたちのことばは情報が十分にもられていて、文も長めであるのに、労働者階級の子どもたちのことば
> は、情報が落ちていて、文も短めで簡単な表現です。これはそれらのグループの知的な差というよりも、それらが属する集団のコ
> ミュニケーションの特徴であると考えました。これを「精密コード」(elaborated code)、「制限コード」(restricted code)とよびます。

これでいくと2chは労働者階層の子どもたちに相当するのかな。
でもこれって言語が思考に影響/思考を決定っていうのとはちょっと違わないですか?
38名無しさん :2000/09/07(木) 17:57
うむ。むしろ、日本語等にある敬語と
人間関係の固定化という現象との関係の方が、
サピア・ウォーフの仮説の良い実例だろうな。
39:2000/09/07(木) 20:52
「人間関係の固定化」? どんな事例を念頭に置いてらっしゃるのですか?
ピンとこないので、具体的にご説明いただけると助かります。
40考える名無しさん :2000/09/07(木) 23:35
例えば、話し手と聞き手の身分的上下関係とか
男女の性別とかが常に問題になってきて、
純粋に思考主体どうしとして情報交換するのが難しくなる。
一般に指導する側と指導される側が、
機能的な差異でなく身分的な差異として意識されてしまう。

『釣り馬鹿日誌』の主人公と社長は職場では身分差があるのに、
釣り仲間としては対等に付き合っているという設定になっているが、
こういう人間関係は日本語の空間では難しい。

与太話をすると、会社内で後輩が上司になったりすると、
日本語の場合は会話モードを切り替えないといけなくなるので、
敬語無し言語の場合よりも人間関係の軋轢が大きいんじゃないか?
つまり、年功序列制を成立させた原因の一部は敬語なのかも(^^;
41名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 23:10
サピア・ウォーフの仮説って、「言語が認識を規定する」という、
いわば認知論上の仮説だと思ってた。
まぁ社会構造も認知で説明できないこともないんだろうけど、
Bernsteinの話なら、「学校言葉」の事例がわかりやすいんじゃないかな。「先生言葉」「生徒言葉」ってあるでしょ?
#そーいや「囚人実験」ってヤバいのもあったよね(笑)
ただ未確認だけど、Bernsteinってぼろくそ批判されたらしいよ...

散漫でごめんね。
42名無しさん@1周年 :2000/09/11(月) 06:04
>>37
>でもこれって言語が思考に影響/思考を決定っていうのとはちょっと違わないですか?
サピア・ウォーフの仮説は、文化人類学的な文化相対論につながりますよね。つまり「民族」をアイデンティファイするのは各社会に固有の言語である、と。
これは複数社会間での比較対照による論ですが、それを或る同一社会内に視点を置いた場合に、バーンステインみたいな議論が出て来たとみなせませんか。階層的アイデンティティーを基礎づけるのは言語だ、と。
『マイ・フェア・レディー』で言語学者ヒギンズ教授が説くごとく、コックニー訛りの花売り娘でもクイーンズ・イングリッシュを身につければレディー、ってわけです。
バーンステインの議論からも、労働者階層の「知的劣等」について、生まれつきや環境に因するってよりも、「制限コード」言語が知的思考をできなくしてるって喝破した点を汲み取るべきで、それなら認知の問題でもある。
生まれや身体的特徴といった絶対的原因でなく言語による相対性を指摘するのだから、言語相対説の一種と見ていいのではありませんか。
43>40 :2000/09/11(月) 11:12
インドネシアでは母語人口が一番大きいのはジャワ語なんだけど、
公用語としてはインドネシア語(=マレー語)が採用された。
リングアフランカとして普及していたマレー語の方が、
使用地域が広かったし、母語話者以外にとっては簡単だったから。
他に、敬語法が発達しているジャワ語は近代国家にふさわしくない、
というのも、マレー語が選ばれた根拠の一つだったらしい。

44ちなみに附言すれば :2000/09/11(月) 15:42
バスク語も身分層により異なる敬語法が発達してゐるさうです。
バスク語がいかなる語族にも属さぬ孤立した言語であることは周知の通り。
それ故、敬語法も周囲から遅れて取り残された言語の特徴とされてゐたらしい。
45>7 :2000/09/17(日) 13:53
亀レス失礼。
それはサピア・ウォーフ仮説とは直接関係無くて、ジェームズ・ランゲ説といいます。
心理学の教科書の感情の章を読みましょう。
「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」
「怖いから逃げるのではない、逃げるから怖いのだ」
46そう言えば :2000/09/18(月) 07:20
「敬語は民主主義に反するからもっと簡素にしよう」
という趣旨の日本語改革運動ってなかったんでしょうか?
47  :2000/09/18(月) 10:19
>>7 >>45
「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」
これって何だかプラグマティック(=語用論的)な認識ですね。
ある意味、心理主義の廻避ともなるのでは。
48>47 :2000/09/21(木) 12:45
プラグマティックってどういうこと?
4947 :2000/09/21(木) 14:18
まづ悲しいといふ「心理」があってから泣くといふ「表現」がある――これ、心理主義ね。
心なんて捉え所無いものは相手にせず、現はれた行動のみを対象とする――これが行動主義。
後者はアメリカ・プラグマティズム(W.ジェイムズ、デューイ、パース)に連なる。
で、意味論は、表現の前提として心理を想定するのと同様、意味はもと語が内蔵するものの表出と見做すのに対し、
プラグマティクス(語用論)は、意味とは、使用において・用法によって生まれると見る(後期ヴィトゲンシュタイン)。
似てゐませんか?
50名無しさん :2000/09/21(木) 16:08
旧社会党が北朝鮮にシンパシーを持っていたのは、
北朝鮮が「社会主義」を名乗っていたから。
実質は「疑似宗教的世襲君主制」とでも言うべき体制なのに、
名前だけで誤魔化された人たちがたくさんいたのは、
サピア・ウォーフ仮説が当てはまる典型例だろう。
51それは :2000/09/21(木) 16:27
ちがうとおもう
52名無しさん@1周年 :2000/09/23(土) 16:14
50って思想版あたりから流れてきた馬鹿なんだろうな
53>50 :2000/09/23(土) 20:34
単に「名前に騙された」って話も言語相対説のうちに入るのか?
それなら幾らでも例はある気がする。
54名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 16:09
では、50のような例とウォーフの「空の」の例がどうちがうのか。
と考えたら、わかんなくなっちゃった。
55贋心理学者 :2000/10/07(土) 11:14
>45
いまさら蒸し返して申し訳ないのですが、
7さんの言うのは
  悲しいと言う自覚→泣くという行動
ですから、ジェームス=ランゲ説とは逆ですね。
かと言って、キャノン=バード説(情動の中枢起源説)でも説明しきれない。
ここはシャクターの2要因説、あるいは役割演技や印象操作で説明するのが適切かと思います。
いずれも情動の主観的経験やその表出が反射的なものではなく(赤ん坊は別として)、
社会的文脈の参照を前提としているという考え方です。
56贋心理学者 :2000/10/07(土) 11:45
ついでにお願いがあります。
心理学板に
「サルとヒトの言語学習を比較すると」なるスレッドが立っているのですが、
しろうとの聞きかじり談義のようで、いまひとつ盛り上がりません。
言語学の専門家のご意見をお寄せください。
(リンクの張り方がわからないので、ごめんなさい)
57名無しさん@1周年 :2000/10/07(土) 15:48
58名無しさん@1周年 :2000/10/16(月) 19:46
ところでウォーフの著作集「言語・思考・現実」の日本語訳は講談社学術文庫に
入っています。
59よくある例だけど:2000/10/25(水) 13:17
別スレッドから引用↓
>「米」に対する「稲」、これに対応する語が英語にあると?
>「稲」をa rice plantと訳すればいいだけのことだとでも?
つまり日本人にとって米-稲は重要なものだから、細かく識別されるが、
あまり米に馴染みのないイギリスにおいてはrice一語の大ざっぱな括り方で十分。
同様に、エスキモーの言語では「雪」を表現する語が何通りもあるらしいが、
降雪のない熱帯のマレー語では雪も水も氷も一語で括ってるのだとか。
言語によって世界を認識するカテゴリー体系が異なるってことではないかな。
60age:2000/11/05(日) 05:42
はっきり違った概念が歴史的経緯で混同されてる多義語って、
なぜか思想関係の用語に多くて困ってしまう。

liberalism なんてアメリカとヨーロッパでは内容がずれてるし、
materialism も一般的意味とマルクス主義用語では意味が違う。

多義性を理解した上で注意深く語を使用する人ばかりじゃなくて、
歴史的特殊性に基づいた語の曖昧性に引っかかってしまう人も多い。

イメージ思考型と言語思考型ってタイプがあるけど、
思想とかに関連する分野って言語思考型が多い気がする。
サピア・ウォーフの仮説が当てはまるのはそういうタイプだな。
61名無しさん@1周年:2000/11/24(金) 16:56
62名無しさん@1周年:2000/11/24(金) 17:37
>61
日本人には「理系と文系」という風なカテゴリー体系があってそれに
縛られて思考せざるを得ないということでしょうかね?
63名無しさん@1周年:2000/11/26(日) 01:38
丸山圭三郎らも言っていましたが、
メルロ=ポンティの現象学とかでも
言語が思考ばかりか知覚までをも規制する根本的な制度になっていると。
丸山の説では、言語能力が人間の知覚や本能まで変化させるのだと。
6463:2000/11/26(日) 01:53
言語能力というよりは記号(シンボル)能力かな
65名無しさん@1周年:2000/11/26(日) 02:07
>>63
>>64
記号化能力と言語を定義すれば、それはヒトに限らず、
動物においても記号と知覚とは一体であると言えます。
66名無しさん@1周年:2000/11/26(日) 02:13
>>63 >>64
言語を記号能力と理解すれば、人にかぎらず動物においても
記号と知覚とは機能的に一体とも言うことができます。
67名無しさん@1周年:2000/12/02(土) 01:05
>>63
その場合の言語は、ラングなのか、ランガージュなのか?
68名無しさん@1周年:2000/12/02(土) 01:11
言語の違いは人にとって何なんだろう?
思考文化の違いが言語文化の違いになってあらわれ、
その言語がまた思考を規制することは考えられるけど。
69名無しにゃーん:2000/12/05(火) 16:18
age
70名無しさん@1周年:2000/12/06(水) 05:50
唯言語論を論じたものってあるの?
要は言語って社会的なものだから、社会的な副産物(文明とか)が生物学的なものを逆に規制することってあるんだろうけど。
人間に育てられなかった人の子は発話能力を一生もてないというの本当?
71>70:2000/12/07(木) 07:05
>唯言語論
そんなものはない。
丸山圭三郎が一時標榜した「唯言論」のことだとしても、
あんなの騙されてはいけない
72>71:2000/12/07(木) 09:25
>丸山圭三郎が一時標榜した「唯言論」のことだとしても、
>あんなの騙されてはいけない

 というからには、何が問題なのか言ってみて!
 丸山の主張を理解した上で「騙されるな」といっているのだと
示しておくれ。でないと、単なる厨房の荒らしとおもっちゃうよん。
73名無しさん@1周年:2000/12/08(金) 07:19
age
74名無しさん@1周年:2000/12/08(金) 07:43
誰か最近のサピア・ウォーフ関連の実験の報告知っている人いる?
Kay and Kempton (1984)以降で、いや、Lucy (1992)以降の研究
(実験)で面白い報告があったら教えてほしい。
7571 >72:2000/12/09(土) 04:39
一言で評すと、ソシュールが「視点が対象を作る」と述べたのは
飽くまで「言語学においては」って限定付きの命題で、
科学認識論(エピステモロジー)から理解すべきものです。
しかし丸山圭三郎はこれを人間の認識全般に拡張して主張したため、
唯言論ってよりも唯幻論になってます。
そうなりゃもう夢想的な哲学であり、言語学でも言語思想でもない。
これ以上の丸山の話題を論じたいなら哲学板の下記スレッドがあります。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=966679270
76>74:2000/12/09(土) 04:44
>>74
>>8-11は読んだ?
>■古山宣洋「方法論としての言語相対論の意義」『現代思想』2000年7月号
確かこれに色々実験のことが書いてありましたヨ。
77>76:2000/12/09(土) 10:49
ごめん、スレを先に見るべきだったね。
ありがとう、探してみます。
7870:2000/12/10(日) 01:41
丸山の「哲学的人間学」は、唯言論ではないと思いますね。
彼はソシュール言語学を「反記号学的営為」としていることからも、
言語学的な還元と反言語主義的表出をやっていて、記号や言語をこそ相対化するというわけですからね。
79>>78:2000/12/10(日) 02:08
自己と対象の分類からはじまって、知能は言語もしくは記号による分節化を意味するとすれば、ひろい意味での言語能力が知能の蓄積を可能にしているといえるでしょうね
80名無しさん@1周年:2000/12/10(日) 02:11
>>79
言語能力=知能というふうに考えると
いわゆる人口知能は言語能力とリンクするかたちで可能になる?
81名無しさん@1周年:2000/12/10(日) 02:12
>>80
人口知能=人工知能
82名無しさん@1周年:2000/12/10(日) 02:16
>>79
>>80
知る行為とその能力というのが言語行為とその能力と不可分に進化してきたのはたしかだと思うが
83名無しさん@1周年:2000/12/10(日) 02:20
言語はいわば知の元素みたいな存在になる?
84名無しさん@1周年:2000/12/10(日) 02:25
>>83 いやどちらが元かというのではないと思うよ。
分子生物学で扱っている対象はある意味「情報」になっているわけでしょう。
その情報はひろい意味での言語や知といえるわけで、
知と言語と情報とは同じ意味として統一できるかもしれないね。
85名無しさん@1周年
>>79
知能とは何か?
それは記号化による対象の分節=秩序付けの能力ということになるんでないかい。
>>84
情報といわれているのは、物質の秩序付けの構造のことでしょう?