271 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/20(土) 16:32:54.41 0
>>271 手前は何を言っているんだ?
格助詞の下に格助詞が直接的に附くことはない。
実際に、「象は鼻が」の「は」と「が」とは、直接じゃない。
よって、「は」は格助詞ではない。
273 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/20(土) 20:08:19.23 0
新明解も明鏡も「なので」を接續詞と載せてゐるが品詞分類も無ければ文法說明も
一切ない。「なので」は「な(だの連體形)+ので」であり、斷定の「だ」は助動詞
であるから接續語が必要であるにも拘はらずそれに附いては一切言及しない。
明鏡の執筆者が書いた俗本で「問題な日本語(2004年)」といふものがあるが、爰では「なので」
を接續詞として使ふ用法は俗であると明言してをり辭典の第一版も「なので」を立項
してゐなかつたが、第二版では載せてゐる。わづか數年で國語の根幹にも關はる助詞
助動詞の大幅な變更を認めるのだから呆れ果てる許りである。
爾も「問題な日本語」では「なので」の代はりに「ですから」を使へと俗用法を推奨
してゐたりと怪文書仕様が目に餘る。「です」も助動詞だから矢張り接續語が必要なのだ。
新明解と明鏡は二大怪文書と言つても過言ではない。特徴としては岩波をよりキチガイ化させた
辭書と捉へれば良いだらう。
>>272 >格助詞の下に格助詞が直接的に附くことはない。
「への」「からの」などの例外はありますが
275 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/20(土) 21:15:24.66 0
>>274 其は「未開展の句」と云ふ者である。
其丈では判り難いが格助詞「の」の前には必ず連體格の語が省略せられたる状態にあり、
格助詞が相互に接續してゐる者では無い。
276 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/20(土) 21:55:34.22 0
重文の主文の格助詞には は を用い 従文の格助詞には が を 用いる。
277 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/20(土) 22:08:16.76 0
>>275 例えば「郵便局からのお知らせ」の「の」の前には何が省略されていますか?
279 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/20(土) 23:06:33.71 0
280 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/20(土) 23:16:53.11 0
Sirase ga todoki, nani mo syooryaku sarete imasen.
281 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/20(土) 23:27:03.10 0
特に使はるゝ「とて」「にて」も未開展の句の略體です。
未開展の句の略體は古來より國語にては普通に用ゐられてきた語法である。
>>279 それが未決定でも「郵便局からのお知らせ」という文は成り立つんで、「何かが省略された」っていう分析のほうがおかしいんだと思う
ま、実際の所、名詞句を修飾する属格「の」と動詞句を修飾するその他の格助詞を同じカテゴリでまとめるから問題が生じるんで
インド・ヨーロッパの表層構造に依存する概念をそのまんま輸入したからおかしくなってるんだな。
283 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/21(日) 11:16:43.40 0
>>282 「の」は連體格にしか接續しない。
是は飽く迄も語法の範疇の話をしてゐるのであり、日常に於て「郵便局からのお知らせ」と云ふ文章が不可能と云つてゐるのでは無い。
「の」は格助詞には接續しないので、詰り「郵便局から(税金支拂【連體格】)のお知らせ」のやうになる。
「とて」は「と言つて・と思つて」の約まりし語、「にて」は「にありて」の約まりし者にて、
口語に於ける「〜で」とは「にて」の約まりし者。
略體の使用は別に誤では無いが、何が省略されし歟を識る縡は大切であらう。
>>283 ここからが本当の地獄だ →主語になる
本当の地獄はここからだ →コピュラを受けて述語になる
みたいな用法を考えると、どっちかっていうと「から」が格助詞っていう認識が間違いで、
まるで名詞句みたいに振舞っているように見えるな・・・
285 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/21(日) 15:07:07.15 0
>>284 「格助詞は體言又は副詞に附屬して、其が他の語に對して有する一定の關係を示すものにして、
一の資格を示すものは他の資格には流用すること能はざるものなり。
格助詞のこの性質は甚だ明かなる事なれば、往々輕視せられ易けれど、實は最も大切なる事項にして、
これを基として副詞、係助詞との區別を明かにするを得る主眼點なりとす。」
「から」とは「より」と同樣に動作作用の基點を示す意にて、時間又は場所を示す語に附屬するものにして、
動作存在詞に對する場合に用ゐるものなり。
286 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/24(水) 23:50:16.32 0
日本語として表現し、日本語として理解するところに、日本文學は成り立つ。
この命題が成り立つためには、日本語に對する思想が改められなければならない。
287 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/25(木) 15:43:22.39 0
正字正仮名遣と呼ばれているものは、国学者らが用いたのみで、一般市民には普及しなかった。
政府が教育に用いたから復活しただけで、特に深い意味はない。
>>287の文章表記は、政府が教育に用ゐる書き方と云ふだけで特に深い意味は無い。
學者が提唱したものでさへ無く役人が拙速に決めた書き方に過ぎない。
289 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/25(木) 18:26:01.69 0
一國の文字の輕々しく更ふべからず
文語調で表記する必要性はなくない?
292 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/27(土) 18:30:07.37 0
正字正假名遣は、語源を容易に知り得ることができる。
また、同音異義の言語を區別し、彼我の混雑を防ぐこともできる。
正字正假名遣を廃すれば、國語法を大いに紛亂させてしまう。
293 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/28(日) 16:18:22.89 0
語源は辞書にまかせて、国語法は文法書にまかせれば、よい。
現代かなづかい で こと たりる。
>>293 富士は「ふじ」、藤は「ふぢ」と區別して表記すれば、互いの違いが明確になる。
この區別を廃すれば、非常に不便を感じることは、自明の理である。
「現代かなづかい」にしても表記に枠を嵌めて保守する機能を担つてゐるには違ひない。
枠が無ければ「かなづかい」は「かなずかい」に直ぐなる。
また、文語を全く省みなければ世の文章は全てインターネツトのチャツトに見られるやうな仲間内隱語的なものに墮すであらう。
文字、假名遣、語法その他は口語の移り変はりから一歩も二歩も下がつて附き從ふものだ。
それが文章の宿命と云ふものであらう。
「現代かなづかい」等と唱へてゐても本當の「現代」からは遲れ行くものである。
中途半端に「現代」を唱へても致し方無し。
往古より今に至る表記法を捨て去つて省みないでは無く、遺産を活用しながらの所謂「正字正假名」の觀點を君も持ち給へ。
惡い事は言はぬ、君の爲だ。
正字正假名のスレツドにやつて來て其れを腐す、そんな非生産的な事ばかりでどうする。
ま、此処に坐つて一杯やり給へ。
296 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/28(日) 19:30:31.09 0
國民にとつて使い易い國語、それは正字正假名遣に他ならない。
297 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/29(月) 03:02:43.14 0
298 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/29(月) 03:06:57.85 0
富士山は フジ でわ なくて ふじさん と すれば よい。
300 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2014/12/29(月) 10:45:35.50 0
??299
Dewa 富士山は huziyama.
重箱讀み、湯桶讀みは澤山御座ります。
音で当てたのだから音読みという以外にないだろう
今年は同人誌出さないんだっけ?
304 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2015/01/06(火) 14:57:49.11 0
305 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2015/01/17(土) 17:50:36.43 0
文字は社會的かつ歴史的の産物であり、固形的なものであることは論を俟たない。
故に、この根柢には、國民の精神的な生活のあらゆるものが附着してある。
そのことを忘れないため、正字正假名遣が存在するのである。
306 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2015/01/24(土) 19:17:03.49 0
テスト
試 驗
この頃スレタイ通りの会話をしてないっすね
309 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2015/01/31(土) 22:22:54.11 0
言語の本質は傳統に存在する。
310 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2015/02/01(日) 10:21:13.47 0
311 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2015/02/01(日) 13:48:57.45 0
「言語はコミユニケーシヨンの手段」(嗤)。
コミユニケーシヨンさへ可能であらば、如何なる表記を以てしても宜いと云ふ事になるな。
當然正字正假名表記でもね。
313 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2015/02/01(日) 16:02:21.26 0
>>310 爰の住民は自民黨を毛嫌いしてゐるのもおほいから工作活動をしても無駄だと思ふぞ。
國歌すら正しく書かず「いわおとなりて」などと捏造改竄しても全く反省しないゴミ屑連中
なのが自民黨だからな。個人的には國際金融資本の走狗となり數十年に渡りデフレ不況政策
を斷行してきた縡に怒り心頭だがな。政治屋は國蠹しかゐないのが此の國の不幸。
314 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2015/02/09(月) 06:38:14.52 0
>>313 占領憲法すら表記の問題を等閑にして改正しようとしてゐるしな。
315 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2015/02/13(金) 00:18:58.48 0
自民黨は糞
316 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2015/03/01(日) 23:08:10.45 0
正かなを使ふのであれば普段から書く文章は假令俗かな遣ひであつたとしても
正しく使つてくれないか。
>でも、他人に嫌われるようなことはしない。
「でも」といふ接續助詞を文頭で使ふなよ。助詞・助動詞は附屬語と云はれるだ
けあつて單獨では用ゐられず必ず上に接續する語が必要だらう。「でも」の接續
は種々の語に附くが辭書の助詞一覽表を見れば確認が出來るのだから確認しろよ。
昨今の辭書は「だけど」「だから」「ですので」「ですから」「なので」などの
助動詞+接續助詞の類を接續詞として立項してゐるいい加減な物がおほいが大言海
にはこの手の怪しい接續詞は一つもないね。僅か100年餘りで助動詞・助詞の用法を
大幅に變へたら幾らなんでもまづいだらう。現代人が古文を讀んだ時にまづつまづくの
がこの助動詞・助詞の用法であつて、現代文でもこれが崩れると古文化するから安易に
變化を認める譯にはいかないね。
>この人のやってることは
お前ほんたうに正かな遣ひで書いてゐるのかよ。ゐ拔きをやつておいて舐めた口叩くなよ。
文法的に「て」の後の「る」を説明してみろよ。文語助動詞の「る」なのか、それならば接續は何になるのだ。
「言ってる」「言ってた」「言ってて」
「てる・てた・てて」といふ類で「ゐ」拔きが發生しやすいやうだが、見分ける視点は
助詞・助動詞に當る「る」「た」「て」の接續を確認すれば自ずと分かる。辭書の接續
を確認すれば分かるから、いちいち夫々の接續は書かないからな。甘えるな。
お前の文章を見てゐると適當に書いてゐるのが如實に分かるが、普段から接續やら考へ
ないやうでは正かなの「〜よう:助動詞」「やう:樣」もよく闊痰ヨてゐさうだ。
ああ、この「てゐさうだ」もよくゐ拔きされるな。まあ、この場合は拔いても文法的に闊痰ミではないが
矢張り拔かされると氣になるな。「ゐ」が書けなかつたら正かなはつまらんのだからちやんと勉強したまへ。
口語の正かなは一週間もやればそれなりに書けるが、單なるマスターベーションで書いてゐるのでは笑はれるだけだ。
317 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2015/03/02(月) 10:19:07.10 0
★尊敬語「います:在す」を殺した明鏡怪文書辞典(大修館)
★明鏡では唱歌「故郷」の歌詞「如何にいます父母」の意味は永久に分からない。
明鏡で尊敬語の「います」を見ようと思ひ搜してゐたら立項してゐないことが判明した。
正かな論者から鋭く批判されるのが、俗かなでは尊敬語の「います」と
通常動詞「い(ゐ)る+ますの連語・います」
この兩かなづかひが同じになつてしまひ假名で判別が附かないといふことなのだが
明鏡はキ合の惡い尊敬語「います」を辭書から抹殺してゐる。三省堂・新明解も怪文書で酷い
のだがいちわう尊敬語「います」を載せてゐるのに明鏡は抹殺だから恐ろしい。
↓は「います」「ゐます」の判別について俗かなを鋭く批判した文章である。
法學部出の小生の解説よりも↓の解説を讀むはうが有uだらう。
■「旧仮名」は便利だ(連載)萩野貞樹(国語学)
http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/shisoro/kana6.htm また明鏡・新明解・広辞苑が「ゐる」の「ゐ」潰しを畫策してゐることを
>>212に書いて
おいたので參照されたし。
明鏡編者の北原保雄は筑波大學の樂長(誤字ではない)をやり文部省の敬語小委員会
で主査も勤めた男でこのやうな曲學阿世の國蠹が尊敬語「います」を抹殺したのである。
大修館から出てゐる北原の著作はやたらと新語を認めたがる傾向が強くあり彼らの性格を知る
上でタイトルだけでも讀むと參考になるだらう。
北原とルー大柴が組んだ冩眞なんぞはまさにゲイニンである(笑)
文部省・敬語小委員会
http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/joho/kakuki/21/bukai05/index.html また上記の故萩野貞樹氏が御著書のいくつかの敬語本で國はもちろん北原も鋭く批判
をしていらつしやるので、そちらも參照すると良いだらう。
國はじめ北原などの國蠹が故意に敬語潰しを畫策してゐることがよく分かる良著である。
假名遣は語の語義を喚起し、文法體系を表示する役目も持つから、修正するにしても、語や文法の體系を破壞しないやうに留意する必要がある。
まだそんな事信じてるのか
正字正假名遣だと「書く」を「話す」と書くんですか?