それではぼちぼち続きを・・・
第10章 指示と真理
10.1 導入
- 常識では、言語表現は世界について何かを語っている。
- 英米の意味論および言語哲学の分野は、
伝統的にはこの常識的な立場を当然のこととしている。
- したがって、言語表現がどのようにして世界について述べ、
世界との関係について真理値を持つのかの説明を、意味論/運用論の仕事と考える。
- 言語の心理主義的理論は、指示と真理に関する
このような常識的な立場とはあまりうまく合わない。
- 言語だけでなく「世界」も完全に心理化することが必要である。
- ということを10.2と10.3で論じる。
- 私の目標は、指示と真理に関する常識的な見方が間違っている
ということを主張することではない。
- 「日没」は、直観的には日が沈んでいるように見えるが
科学的には日は沈んでいるわけではない。
- 私の目的は、科学の目的のためには常識や直観に反する立場の方が
現象のより深い理解につながるのだということを示すことである。
- だからといって、常識や直観がすべて科学的な還元にとってかわられる
というわけではない。
10.2 常識的な見方の問題点:「言語」
- 標準的な立場の典型例
-- 言語表現は外の世界にあるものを指示する。(Abbott1997)
-- 文が真か偽かを決定するには・・・実世界のある状況がその文の意味に
対応するかどうかを判定することである。(Bach1989:8)
-- 与えられた文sは、sの中で言及されている事物が
sによってそれに与えられている性質をもつときにのみ真となる。(Sher1996:531)
-- 第1種の理論は「指示的」あるいは「外延的」と名づけることができる。・・・
この見方では、意味があるかないかは、記号およびそれらの配置と
さまざまな種類の事物との間の関係による。(Chierchia and McConnell-Ginet1990)
- 「言語」をどのように解釈すればいいのか。
- Fregeは私的連想を意味論から追放したいと考え、
表現の指示や話し手から独立した「意義」(sence)の概念に到達した。
- この考え方では、言語は人間の使用とは独立であり
直接に世界と関係をもつとされる。
[世界 言語 → 事物、状況、etc. ] (図10.1)
簡単にいうと、言語も事物も世界の中の存在物であり、
言語は世界の中の事物を表しているのだ、という図式のようです。
- 後の研究者(Kripke1972, Lewis1972, Stalnaker1984,etc.)は
言語が「可能世界」に写像されるようなアプローチで置き換えた。
- この変項は分析性や必然性を「すべての可能世界で真」という形で
とらえることを可能にした。
[可能世界 [世界 言語] → 事物、状況、etc.] (図10.2)
言語は世界の中の存在物だけど
それが表しているものは「可能世界」の中の存在物として捉える
というところでしょうか。
- 形式意味論(Montague 1973, Partee 1975, 1976)では、
「世界」は「モデル」で置き換えられるようになった。
- モデルは集合論的な存在物であり、理論を完全に形式化することが可能になった。
- 原理的には、形式意味論は形而上学に対して中立的だが、
概して「言語」は「外の世界にある」という常識的な立場を保持している。
- 言語のこのような見方は、生成文法の見方とはまったく合わない。
- 生成文法では言語を言語使用者のf-心の中に置く。
- 何人かの形式意味論者はこの不一致に頭を悩ませてきた。
(Partee1979, Bach1986a, Zwarts and Verkuyl1994, etc.)
- いくつかの形式意味論のアプローチは、他の理論よりも心理主義的な
解釈に向いている。(談話表示理論とか)
- しかし全体としては、この問題は無視されてきた。
- 言語の実在主義的見方と心理主義的アプローチに
どのように折り合いをつけたらいいだろうか。
- ひとつのアプローチは、心理主義を放棄し、
「外の世界にある言語」を生成文法が研究するという立場である。
- たとえばKats(1981)は、初期の心理主義的立場(Kats1966)から後退し
言語は抽象的な事物であり、f-心とは独立に存在するという見方になっている。
- これによってあきらめなくてはならないこと。
- 普遍文法を設定してその性質を研究する根本的動機は
諸言語は子供が学ぶことによってf-心の中に具現化されるという
観察から来るものである。
- このような心理主義的なしばりがなくては、
言語学のテーマは単に諸言語を記述することに限定されてしまい
せいぜい統計的な傾向や形式的なエレガントさを示すことになってしまう。
- これに代わる立場は、Frege(1892)の立場である。
- 言語は「外の世界」にあり、「世界の中の事物」を指示するが、
人々は言語をつかむことによって言語を使うのだ、というものである。
[世界 [心 f-心的文法、語彙目録] →つかむ→ 言語 → 事物、その他 ] (図10.3)
- 生成言語学は心の中にあって言語をつかんでいるものの研究
ということになる。
- この方法なら、実在的な意味論を保ったままで
心理主義的な方法論を言語学の中に取り込むことができる。
- Katzのプログラムもこのように理解することができる。
- しかし、このアプローチは興味深い方法論上の問題に直面する。
- 「世界の中の言語」の性質は、人間の言語的な直観によってしか
決定することができない。
- 従って、言語のどの部分が心理主義的な具現化によるもので
どの部分が抽象的な「言語」の特質なのか決定することができない。
あまり明確に理解できませんが
多分、言語というものが心と独立に存在するとして、
それがどういうものなのか、
言語現象のどの部分が心と独立の「言語」の性質なのか
どうやって決めればいいか分からない、というところでしょうか。
- さらに基本的な問題がある。
- 心が抽象的な事物を「つかむ」というのはどういう意味か。
- 心が具体的な事物を「つかむ」やり方はだいたいわかっている。
感覚からの入力に対する反応として、認知構造をつくるのである。
- しかし抽象的な事物は、神経システムにとびこんでくるような肉体的な裏づけはない。
- これは科学的には行き詰まりである。
- ていうか言語が「外の世界」にあるものだとしたら
英語とかもビッグバン以来、宇宙のどこか抽象的領域を
ただよっていたんですか('A`)?
- 抽象的な事物は人間が作り出したものであるという
概念主義的な見方のほうが妥当である。
- 数や他の数学的事物、論理的な真理などは
永遠不変で抽象的で、人間とは独立のものかも知れない。
- したがって、これらをつかむことを可能にするメカニズムが
言語をつかむことを可能にするのだ、と主張する人がいるかも知れない。
このあと、このような考え方に対する反論がありますが
よくわからないので飛ばします。
- 心がどのようにして言語をつかんでいるかという問題を解消する1つのやり方は
言語を完全に心の中に押し込めることである。
[世界 [f-心 言語 <-> 概念 ] -志向性-> 事物 ] (図10.4)
言語と概念は心の中にあって、
その概念が世界の中の事物と対応しているというか、指し示しているというか
そういうモデルですね。
- これはFodorのとる立場である。
言語は概念にアクセスする心的機能であり、概念には意味論があり、
「志向的」であることによって世界とつながっている。
- 問題は9.4節で文句をつけたように、志向性というのが何なのかよくわからない
ということである。結局、「つかむ」と同じ困難に直面する。
- まとめると、心と世界との間に何らかの超越的な結びつきを想定しないと
実在論的意味論を言語の心的な見方と結びつける方法はなさそうだということである。
10.2節おわり。以下まとめ。
言語が世界の中の事物や事態を表すという考え方はうまくいかない。
言語も事物も人間と独立に世界の中に存在するという考え方は心理的観点を無視しすぎている。
言語も事物も世界の中に存在するもので、人間はその言語を何らかの方法で「つかんで」使用しているのだ
とか
言語(および概念)は人間の心の中にあって、その心の中の概念と世界の事物が対応(志向)しているのだ
という考え方があるが、それらは結局、人間の心と(外界の抽象的事物としての)言語の間とか人間の心の中の概念と外界の事物の間とかに何か超越的、神秘的な関係を仮定しなければならなくなる。
こんな感じでしょうか。
10.3 常識的な見方の問題点: 「事物」
10.2節は、言語というものを人の心と切り離して
外の世界の存在物として捉えることができるかどうか、というような
問題でしたが、言語が指し示す事物については
外の世界の存在物であるということを暗黙の前提としていました。
我々がRussellというときは、外の世界の具体的な人物を指し示して
いるわけで、それは常識的な考え方なのですが、
この節は、そのような常識も疑わしい、という話のようです。
例えば、シャーロック・ホームズは外の世界に実在する人物ではありませんが
我々は彼がイギリス人であることを知っています。
地球上のどの部分が、ワイオミング州なのでしょうか。
それは政治的にとりきめられているに過ぎません。
ミシシッピ川とは、そこに流れている水のこと? それとも川底のこと?
メキシコ湾のどこまでがミシシッピ川?
・ ・ ここに四角形があるのが見えますか?
実際には、ここには四つの点しかありません。
・ ・ 「この四角形」は、物理的には存在しないのです。
「私の腕時計の価値」という存在物は実体を持ちません。
社会的な取り決めによってのみ存在するのです。
それでも、我々は「それ」を実世界の一部として指示的に扱うことができます。
「マーラーの第2交響曲」とは、特定の演奏や楽譜や録音のことではない。
それらの背後にあるタイプのようなものだが、
しかし「演奏」のタイプでも「楽譜」のタイプでも「録音」のタイプでもない。
いったい何のタイプだというのか。
我々が普段、世界の中の存在物であるかのように扱っている事物の中には
その存在論的地位がはっきりしないものが、数多く存在するのである。
10.3節おわり
10.4 「世界の中心で愛を叫ぶ」
ここまでをまとめると、指示に関する常識的な見方には二つの問題がある。
1. 言語が言語使用者の心の中にあるものならば、
言語または言語が表現する概念のレベルで、
心から世界への神秘的な結びつきを想定しなければならなくなる。
2. そもそも「世界の中の事物」という概念があやしい。
節タイトルまちがえました。
10.4 「世界」を心の中に押し込める
「世界の中の事物」などというよくわからない概念をすてて
世界を心の中に押し込めることを提案する。
(7) 指示の常識的実在主義理論
文脈Cで発話された言語Lの句Pは、世界の中の存在物Eを指す。
の代案として
(8) 指示の概念主義理論
言語Lの話し手Sは、文脈Cで発話された句Pを、
[Sによって概念化された世界]の中の存在物Eを指すと判断する。
概念主義理論では、指示は言語使用者に依存する。
これはちょうど相対論的物理学で
距離と時間が観察者の慣性系に依存するようなものである。
もちろん、便宜的にニュートン力学を使うことができるのと同じように
便宜的に(7)のような言い方をすることもできる。
一時的に基準系を無視し、均一な言語集団の中での一致があると
想定するのである。
「あれが何だかわからないけれど、またやってきた!」
この文が発話されるためには、完全な特徴付けはないにしても
話し手は何か適切な存在物を概念化していなければならない。
概念化される存在物は世界に実在していなくてもよい。
「シャーロックホームズ」や「一角獣」を概念化することもできる。
このような考え方は、言語使用者が自由に世界を構築できるかのような
ある種の唯我論的な響き、あるいは脱構築主義の匂いさえするかも知れない。
Abbott(1997)はこの考え方を、バークリーの観念論になぞらえている。
脱構築ってのがどういうものかよくわからんです。
確かデリダとかっておっさんが関係していたような気がするのですが。
このような結論は厳しく批判される。
記号を心的表示あるいはある種の心的過程と関係づけることによって意味を研究し
そこでやめてしまうようなアプローチをとったとしてみよう。・・・1つの表示を他の表示に
写像することが、表示が何を意味しているかを説明することになるのだろうか。
(Chierchia and McConnell-Ginet 1990)
Johnがジョンの名前であるためには、名前とその名前の持ち主との間に
何らかの現実の関係がなくてはならない。(Fodor1990)
あとLewisとSearleの引用があるけど割愛します。
どうしたらこのような批判を回避することができるか。
心理学により深くはいりこみ、思考という概念をより厳しく捉えることによってである。
神経心理学的には、概念構造を処理する神経は実際のところ脳の中にあるのであり
外の世界に直接アクセスできるわけではない。
第9章で強調したように、概念構造が世界の中の何かの記号だということ
つまり何かを意味するのだということを明確に否定しなくてはならない。
むしろ概念構造こそが意味なのである。
10.4節おわり
以下は私の感想というか考えたことです。
結局のところ、言語を世界と直接むすびつけるのはうまくない。
我々は世界に直接アクセスできるわけではなくて
我々が認識している世界にのみアクセスできるのであり
言語が表しているものも、我々が認識している世界の存在物と考えるべきである。
言語と世界の中の何かを関係付けなければ言語の意味を説明したことにならない
とすれば、脳の神経回路の状態ということになるのかな?
世界の中の事物そのものではなくて。
脳の状態とか概念とかのソースのひとつはもちろん外界の事物なんだけど
それが知覚とかのシステムを介してどのように脳にとりこまれるかっていうのは
言語と概念との関係とはまた別の話、ということで。
これで合ってるのかな?
>>1 乙。
久々にモンタギュー文法の入門書でも読んでみる。
少し日が開いてしまいましたが、ぼちぼちやっていきます
10.5 単純な直示的行為
- 「中程度の大きさの事物」を指すという、言語使用の最も単純な行為について。
- Hey, look at that!
- thatには(少し遠くという以外には)内在的記述内容が無い。
thatが何を指しているのかを決定するには、
言語機能の外の視覚システムを利用する必要がある。
- 網膜には事物も外界の位置も無い。
網膜上のどの点にどのような光の刺激があるかだけである。
- 網膜から直接情報を受ける脳の部分も同様である。
ここでは、さまざまな方向の直線や縁が局所的に検出される。
- これより内側では様々な計算が行われている。
最終的には、「知覚表象」とでも呼べるような認知構造が構築される。
- 知覚表象を構築する神経メカニズムは活発に研究されているが
まだわからないことも多い。
- しかしそのメカニズムによって構築される知覚表象は、
知覚された環境の中で個体を区別でき、その中のひとつに
注意を向けられるような認知/神経構造でなければならない。
- 個体の知覚を生じさせる認知構造は非言語的なものである。
幼児や動物なども、だいたい同じような知覚表象を持っていると考えられる。
- 知覚表象は(言語と同じく)脳の中にとらわれている。
- 世界から知覚表象に直接いける魔法の通路は無く、
これは哲学者の一部には問題かも知れない。
- 世界と知覚表象の間には、網膜と低次視覚野を経る
複雑で間接的な通路がある。
- 世界を知覚的に「つかむ」という概念に意味があるとしたら、
この、ものすごく複雑な計算がそれであろう。
- thatとリンクしているのは、この知覚表象である。
- 従って、言語は現実には外部世界の接点を持つ。
ただし神秘的な心と世界の志向性の関係ではなく
視覚システムによる複雑で科学的な仲介を経てである。
- 当然ながら、知覚世界は現実世界とまったく別物ではない。
知覚世界は、生物が現実世界で安定して行動できるように発達してきた。
論理的な「世界の真のモデル」はどうでもよく、知覚世界を構築するために
(生物学的な)さまざまな小細工が働いている。
- 知覚世界こそが我々の現実である。
- 知覚表象は完全に「脳内に囚われて」いる。
- しかし知覚表象は、事物が「外に」あるという感覚、感情、情緒を与えてくれる。
それによって我々は(頭の中の知覚表象ではなく)外の世界を経験するのである。
んー、この節は個人的にあまり面白みを感じないので適当に飛ばします。
要は、我々が外の世界だと思っているのは、実際には
複雑な知覚システムを経て構築された知覚世界だということだと思います。
thatのような直示的表現も、確かに外の世界の事物を指し示す意図で
用いられているには違いないが、実際には我々はその事物を
知覚システムを経て認識しているのであって、従ってthatが表して
いるのも直接的にはその事物の知覚表象である、ってことかなと思います。
節の最後あたりにMacnamaraやFodorによる
「それって現実世界が存在するってことを信じてないってこと?」
という批判についての言及がありますが、
単に世界をどう捉えているかって話をしているだけであって
世界そのものが存在しないとか、別にそういう唯我論的なことを
言っているわけではないでしょって気がします。
ラーメンできるまでに一節ぐらいいけるかな?
10.6 意識の機能的相関物
- 「意識の神経的相関物」の探求を補うものとして
「意識の機能的相関物」の探求をすることができる。
- f-心の中で視覚的意識(あるいはそれに伴うもの)を生み出す
構造や処理である。
- Dennett(1991)やJackendoff(1987)にこのような理論の
概要がある。
しょっぱなっから意味がよくわかりません。
読んでいけば少しはわかるかな?
- 大きな気持ち悪い虫を見て、Hey, look at that.というとき
聞き手の知覚システムは、一方で虫の経験という結果を生み出し
他方ではthatに結び付けられる視覚表象を構築する。
この視覚表象にはどのような素性がなくてはならないか。
ラーメンできたので中断。
- 視覚心理学者が注目するような素性は明らかに候補になる。
形、大きさ、色、部分、位置、動き、動きの特徴(胴体のひねり方とか)など。
これらを知覚表象の記述素性(descriptive feature)と呼ぶことにする。
- 虫の知覚表象は視覚的な知覚表象である。
すなわち聴覚とか味覚とか嗅覚とか触覚の知覚表象ではない。
知覚表象は知覚の様相(視覚とか聴覚とか)によって区別される必要がある。
- 知覚表象は地とは区別される図(figure)を構成する。
模様のある敷物を見ていて、突然、そこに虫がいることに気付いたとき
「世界」や網膜上の像には何の変化もない。
脳の中に囚われた知覚表象の組み合わせが変わるだけである。
このような図となる特徴を指標素性(indexical feature)と呼ぶ。
I don't know what that was!というとき、thatは記述素性を欠くが指標素性を持つ。
- f-心は知覚入力に対する反応として指標素性を確立する。
- 確立された指標素性は知覚入力が途絶えても消えてしまうとは限らない。
事物が見えなくなっても、それを追跡することはできる。
- 事物が障害物の後ろに消えて、反対側に二つの事物が現れたら
どちらがものと事物だろうか。
この問いたては対象の同一性の問題を考える上で結構興味深いですね。
人間をファックスで転送したとき、それは元の人物と同一と言えるかとか、
トカゲの胴と尻尾からそれぞれトカゲの全体が再生されたとき
どっちがもとのトカゲなのかとか、いろいろな言い方で言及されている
問題と関係してくるような気がします。
- 指標素性は「分割」されたり「併合」されたりする。
二つの年度をまとめてひとつの塊にするようなものである。
まあそうなんでしょうけど、個人的には、ここはもうちょっと掘り下げて
考える必要がありそうかな、というか、そういう私的な興味を感じます。
結局のところ、対象って何なの、とか、何と何を違う対象と見なすべきなの
とか、何と何を同じひとつのものとみなしていいの、とか
意味論の根底に関わる問題が潜んでいる気がします。
- 記述素性、様相、指標素性以外に、もう一つ他のタイプの素性を考える必要がある。
Hey, look at that!というとき、読者は実際には虫を知覚したわけではないが
虫のイメージを想起したかも知れない。
このイメージは知覚表象とはどう違うのか。
- イメージは知覚表象と比べてぼんやりして瞬間的だ、という考え方が
あるかも知れない。しかし遠くでぼんやり聞こえる音楽より
頭の中で想起するジョンレノンの歌の方が明瞭である場合もあるので
これは適当ではない。
- 頭の中に知覚部門とイメージ化部門があるという考え方もあるかも知れない。
しかし現在ではこれは信じられていない。イメージも脳内で知覚と
だいたい同じ領域を使うものと考えられている。
- 私が必要だと思う区別は、知覚されたものの知覚的な質(quality)を
記録するのではなく、感覚(feel)を記録するというものである。
- 私はこれを「情動」とか「評価」と呼んだ。
- このような素性のひとつは外部(external)と内部(internal)で
これによって外の世界の経験とイメージを区別できる。
- この手の素性には他に
familier vs. novel
self-produced vs. non-self-produced
meaningful vs. non-meaningful
などなどがある。
うーん、あんまりよくわからないです。
Jackendoff(1987)とか(1997)を読んだ方がいいのかな?
- 評価は、大きさ、形、色などと同様、思い違いをすることがある。
- デジャブはfamilier(なじみ)とnovel(新奇)の取り違えである。
- 統合失調症患者はしばしば無意味なものを意味あるものとみなす。
- 夢を見ているときはそれを外的で自分で生成していないと思っている
かも知れないが、実際には内的で自分で生成している。
- したがって評価も、f-心の構成物である。
- まとめると(意識された)存在物は、次のような素性を持つ。
- 指標素性(記述素性が付与される)
- 様相(記述素性が存在する)
- 記述素性
- 評価(様相から独立の多くの次元の中に存在物の状態を位置付ける)
このような構成は学習によって得られるものではない。
学習がはじまるための骨格のようなものである。
ただし、言語だけでなく知覚、心象、行動でも一定の役割を演じるので
狭い意味での普遍文法に帰着させる必要はない。
すべての認知現象における中心的な部分である。
10.6節おわり
10.7 指示の理論への応用
みじかい節なので簡単に。
- thatが何かを指すためには、指標素性は不可欠である。
- Frege(1892)は表現の意義(sence)と指示(reference)を区別した。
「明けの明星は宵の明星だ」という文は、異なる記述素性に結び付けられた
指標素性の併合と理解することができる。
- Fregeの問題は言語だけの問題というわけではなく、f-心が個体の存在物を
どのように同定するかという、より一般的な理論の問題である。
- 逆に、指標素性が分割される場合もある。
同一人物だと思っていたのが、実際には別の二人の人だった場合など。
- ここで提案した指標素性は、形式意味論の中のさまざまなアプローチで
使われる談話指示対象(discourse referent)に似た役割を演じる。
- 談話表示理論、ファイル変化意味論、動的意味論など。
10.8 事物以外の存在物
- 指標素性は常に個々の事物を同定するわけではない。
- 例えば可算的な個々の事物ではなく、質量的な物質そのものに言及することもできる。
- thatを使って、音や触覚のような非物質的存在物を指示することもできる。
a. Goodness! Did you hear that? (あれ聞いた?)
b. Did that hurt? (いまの痛かったですか?)
- 指示のこれらの可能性に対処するためには、存在物を存在論的タイプに分類する
原素性を導入するのが有用である。
- それぞれのタイプの論理的構造と知覚への現れ方を研究するのは
自然言語の意味論および認知心理学/神経科学の課題である。
- 事象(event)は、Davidson(1967)以来、形式意味論のさまざまな流派で
一定の役割を演じている。
- 位置と方向は形式意味論ではあまり役割がないが、認知文法では
中心的な役割を演じており、最近の言語実験の研究でも注目されている。
- 音、触覚、様式、距離などの存在論的範疇は、あまり注目されていない。
- 音とか触覚のような時間に依存する存在論的タイプは、個体の繰り返しと
同じタイプの別の個体の表れという二面性を持つ。
a. There's that noise again!
b. There's another one of those noises!
- 単語は文字で書いた場合でも音の一種として分類されるようである。
'Star' appears twice in that sentence.
? There are two 'star's in that sentence.
- これらの抽象的な存在物はすべて「世界の中に」あるのだろうか。
これらが冷蔵庫などと同じように存在するというのは奇妙である。
- しかしこれらは、知覚の領域から取り出して直示的表現の指示対象として
使うことができるのであり、従って概念化された世界の中で何かしかるべき
地位を与えてやる必要がある。
- 事物の指示のことだけ考えている分には、指示の理論の基礎として
知覚理論を利用することができた。
- しかし抽象的な事物の指示も知覚と関連付けて考えようとすれば
知覚は今まで考えられていたよりもずっと豊かな存在物を提供してくれる
ものでなくてはならない。
- 知覚システムがどのようにしてこれを実現しているかは
知覚理論にとっての課題である。
- 統語的区別と意味的区別の対応は、存在論的範疇の素性に関連している。
- 文は事象概念に、PPは場所、方向、経路概念に、APは属性概念に、
NPはおよそ何にでも写像される。
- つまり存在論的範疇の素性は、他の記述素性の大部分と異なり
統語-意味インターフェイスにおいて「見える」のである。
ということは知覚のみならず、文法においても重要な役割を演じる。
- 存在論的タイプの一覧は、認知の骨格をなす生得的要素の
候補のひとつと考えてよいように思われる。
- これは言語だけでなく知覚と行為にとって中心的なものだから
言語に特化した普遍文法の一部と呼ぶ必要はない。
- 形式意味論は指標素性と評価に専念してきた。
(否定、量化、可能性、心的状態の属性が含まれる)
- 語彙意味論の伝統の大半は、認知文法も含めて
主に記述素性にかかわってきた。
- 完全な意味理論はこの両方を説明する必要がある。
10.8節おわり。
要するに、言語が表すような概念的な存在物には
モノとかだけじゃなくてコトとかトコロとかトキとかサマとかいろいろあって
統語的範疇にも反映されているってことかと思います。
そうした抽象的事物と外の世界との関係をどういう風に考えているのか
ってあたりは、ちょっとよくわかりませんでした。
10.9 固有名、種、および抽象的な事物
前接までは、直示的表現が様々な事物を指しうるという話でした。
この節は固有名とか普通名詞とかの話だと思われます。
10.9.1 固有名
- 標準的には、固有名は個体を指すという。
- 本書では、固有名はそれに関係付けられた概念に指標を持つ。
- RussellとHolmesの違いは、名前に関連付けられた評価による。
Russellはexternalという評価を持ち、Holmesはimaginaryという評価を持つ。
- 他の存在論的範疇の事物についても固有名がありうる。
「第二次世界大戦」とか「ワイオミング」とか「1946年」とか。
10.9.2 種
- 種(kind)とかタイプ(type)は、記述素性(含、様相、存在論的範疇)は持つが
指標素性と評価を持たない概念であると考えられる。
- 別の可能性として、種は個体よりも記述素性の具体性が落ちるのだという
アプローチが考えられる。しかし「昭和64年の一円玉」のような種は
記述的な特徴が相当はっきりしている。
- 種に欠けているのは、それを指差す可能性だけである。
指差せるのは種の実例(instance)だけだからである。
- 種から実例を作るには、指標素性を付け加えるだけでよい。
thatのような指示詞が、指標素性を付け加える機能を持っている。
pennyのような種にthatをつけると、個体を指すthat pennyができる。
- 提示された例からタイプを学習するためには、学習者は
知覚表象から指標素性を落とせばよい。
- the sameのような語はタイプにもトークンにも使える。
a. John wore the same hat he always wears. (トークンの同一性)
b. John ate the same sandwich he always eats. (タイプの同一性)
- the same は指標素性の有無に無頓着なのだと説明することができる。
- NPも文脈によって個体も種も表す。特に叙述的NPと呼ばれるものは
指標素性を持たないと考えられる。
a. A professor walked in.
b. John has become a professor.
- b.はJohnと教授という二つの事物について述べているのではなく
professorの記述素性をJohnに結び付けているのである。
- たいていの種は評価を伴わない。例えば「虫」は現実のものであっても
架空のものであってもいい。ただし「一角獣」のようにimaginaryの評価を持っている
ものもある。
- 様々な存在論的範疇の種が存在する。
「コッカースパニエル」とか「真鍮ボルト」とか「朝食を食べること」とか。
- 存在論的範疇の中にはタイプとトークンの区別がはっきりしないものもある。
「19インチ」とか。このような範疇は、指標素性を持つ可能性を欠くのだと考えられる。
- 述語論理では、種は変数を含む述語として形式化される。
John is a professor = P(J)
- 種に属する個体は存在量化として形式化される。
A professor walked in = ∃x(Px & Wx)
- この記法の利点は、伝統に則った由緒正しいものだということである。
- 欠点もいくつかある。
1. 存在論的範疇の区別が曖昧になる。professorが「xは教授である」と
翻訳されるが、これは本書では「状況」のタイプの事物である。
2. sameの二つの用法の類似性を見るのが困難になる。
3. 言語は事物だけでなく事象や場所も表すということに気づくと
論理表現を存在量化子でいっぱいにしなければならなくなる。
A boy sits on a chair = ∃e∃x∃p∃y(BOY(x) & CHAIR(y) & e = SIT(x, p) & p = ONy)
- これらの批判は標準的な記法に対して致命的なものではない。
適切に修正すれば、同じ区別をコード化することができる。
- しかしより明確でより広範囲の言語現象に適用しやすいような、
別の記法を試してみることを躊躇する必要はない。
次の11章、12章では、そのような代案の可能性を具体化する。
- Kripke(1972)、Montague(1973)、Putnam(1975)のような外延的理論では
種は記述素性からなるf-心的構造ではなく、集合と考えられている。
- 心理主義的理論では、そのような考え方は採用できない。
そのような集合を頭の中に入れておくことはできない。
- できるのはせいぜい、主な実例のリストと、必要に応じてその集合の要素を
生成したり同定したりするためのスキーマを入れておくことだろう。
記述素性はまさにそのためにある。
- 集合を仮定することの正当化の一つに、句が指示するものは単語の指示から
構成的に作り出されるべきだという前提がある。集合はprofessorに指示を与え、
ブール代数的に他の集合と結合することができる。
- 本書のアプローチは、professorは指示がなく意義のみを持つというものである。
句の意義は構成的に作られ、構成によって指標素性が与えられれば
指示するものがある句ができることになる。
以上で10.9.2節おわりです。
次は「10.9.3 抽象的な事物」ですが、ひとまずここでまとめ。
種というと私は真っ先にCarlsonのbare pluralの話を連想します。
伝統的な述語論理みたいな集合論的手法では、種を表すような普通名詞の
意味を一般的かつ簡潔に扱うのは難しい、というのは目に見えているように
思います。
ただ、Jackendoffのような種を指標素性を伴わないタイプと割り切ってしまう
考え方も、まだちょっと釈然としない部分があるような気がします。
Carlsonの議論の影響で、私は種という概念をタイプというよりは
全にして一、というか、質量名詞みたいなもん、というイメージを持っています。
タイプって言ってしまうと、タイプが持っている性質は普通、そのタイプのトークン
全てに継承される、というイメージがあります。実際にはそうじゃない場合も
あるんで、せいぜいプロトタイプってとこでしょうけど。
ただ種を表す名詞は「この貨幣は世界中で使われている」みたいに
種の全体が持つ属性を述べるためにも用いられます。
こういう場合、「世界中で使われてしまう」がタイプの性質だと考えてしまうと
それがトークンに継承されるってありえなさそう、って感じがします。
人間が種という概念をどういう風に捉えているのか、という問題は
まだまだ根の深い部分があるような気がします。
192 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2009/07/21(火) 19:55:08 0
あげ
さげ