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2007/10/11(木) 00:20:32 0 ひとりで読むの寂しいじゃん
Jackendoff, Ray. 2002. Foundations of Language: Brain, Meaning, Grammar, Evolution. OUP. (邦訳:郡司隆男. 2006. 『言語の基盤:脳・意味・文法・進化』 岩波書店.) ま、ぼちぼちと。 今月中に第一部ぐらい読めればいいかな。
572ページ、\7,140 か、ちと迷うな。
>>1 が読みはじめて、興味深いことを書き込んでくれたら、一緒に読むことにするよ。
とりあえず「はしがき」から・・・ - 私は今でも生成言語学者です。 - ずっと語彙意味論やってたけど、最近統語論に帰ってきますた。 - いま見てみると統語論いろいろおかしいので改訂します。 - LFGとかHPSGとかRRとかCGとかOTとかの非変形文法の中にたくさん材料があります。 - 改訂したら、言語処理とか空間認知とか神経科学とかとの相互作用が生まれますた。 - 他の理論を排斥しないで協力していきまっしょい。 - 意味論と統語論の関係性が専門なので、その辺の話が中心です。 - 音声とか類型論とか獲得とか語用論とかよくわからないので。
- 第1部:生成言語学の肝である心理主義、組み合わせの性質、生得説について。 - 第2部:標準的な生成理論から離れて。私が間違っていると思うものを。 - 第3部:多くの生成理論に欠けている意味理論の基礎を作る。 ま、はしがきそんなに詳しく読んでも仕方ないのでこんなもんで。
ちなみにFoundations of Languageは60〜70年代にあった雑誌の名前だそうな。 Jackendoffの最初の論文が載ったんだとか。
すごいが読んだことがないのでまともなレスはできないが要チェックだ6m
第1部 心理・生物学的基盤 第1章 言語構造の複雑さ 言語構造がいかに複雑かを概観する章のようです。 1.1は世間一般の人が言語学というものに対して持っている偏見とか 言語理論が何を明らかにするのか、をはっきりさせておくことの必要性とか の話っすかね。 ちなみに俺は友達いないから、あんまり言語学とは何か、を人に説明する機会を得ませんが おかんには言語学者=ニートみたいなもの=早くどっかの会社に就職しろ、と思われているみたいです。
ちょっと早いけど眠くなってきたから今日はこれくらいにしとくんだぜ
勉強の合間ですが、ちょっと疲れてきたので MAXTURBOで腹筋ぷるぷるしながら、ちょとだけ読書するっす 1.3と1.4は1.2の図の音韻構造と統語構造を詳しく解説したもので 個人的にあんまり興味ないし、ふんふんって感じの内容なんで 軽くスルーするっす。 まあ弁別素性とかXバーとかそんな感じの話。
1.5は意味/概念構造と空間構造についてですね。 - 音韻論・統語論と比べると、意味/概念構造はあまりよくわかってないし、定説がない - 次のような層があるかも知れない - 記述層:述語論理とかに相当 - 指示層:量化のない述語論理から量化を含む論理に移行する際に加わるもの - 情報構造
Jackendoffは記述層を記述するために [X F([Y ...], [Z ...])] みたいなラベル付き括弧表示を使うっす。 いわゆる概念意味論のあれっすね。 よくある述語論理みたいにF(x)が真理値になるわけじゃなくて 他の範疇の概念構成素になったりするっす。 BE(Object, Place) = State BESIDE(Object) = Place みたいな。 こういうの高階の関数とか言うんすかね。
1.6はレベル間の対応関係についてっすね 前半は音韻構造と統語構造と意味構造の構成要素の対応関係が それほど単純じゃないっていう話で、ふんふんって感じなので スルーっす。 おおむね、音韻論と統語論との間の対応関係は線形順序を保つが 統語論と意味の間の対応は埋め込み関係を保つ傾向があるらしいっす。
1.6の後半は、対応関係の複雑さをどう解決するかとかですかね。 例えばInfl(時制の-ed)の統語構造中の位置について 音韻論との対応を考えると[S ... [VP V Infl] ...]の方が都合がいいけど 意味論との対応を考えると[S ... Infl [VP V] ...]の方が都合がいいとか 第3の可能性として統語構造に複雑さを集約するというやり方があって 生成文法ではこれが標準的なやり方だった (統語構造に「表層構造」と「深層構造」という二つの木を含めて それらを「変形」によって関係づける) とか、そんな話のようです。
MaxTurboとまったので、とりあえずここまで
眠くなるまで少し読むます。1.7は照応詞の話っすね。 いわゆる束縛理論でやられてきた代名詞や照応形の話で do soとか痕跡とかにも言及してるっす。 まあ、こういう場合にはこういう解釈になる、とかのリストアップで あんまり突っ込んだ分析まではしてないというか 条件を正確に記述するのは結構複雑だっていうデモンストレーションみたいなもんかな。 統語論の問題なのか、意味論の問題なのか、その両方かってあたりが 論点のひとつになってるんだそうです。
痕跡っていうのは、生成文法の主流派の考え方では 何かが移動した跡っていう考え方をするけど HPSGなんかでは移動を使わずに照応詞のような関係を想定するとか。 何が違うんすかね? というか私は移動というものの必要性がよく理解できないので 後者の考え方のほうが何か普通? みたいに思ってしまいますけど
第1章を一言で言うと「言語って複雑なんだよ」って話だったみたいです。 次は第2章「心的現象としての言語」です。 ちょっと哲学的というか、ムズカシソウっすね。
2.1 「心的」とはどういう意味か ぐへぇ。やっぱりちょっと難しいかも。 - 第1章で示したような音韻・統語・意味構造は『諸相』以来 単なる便利な記述ではなく、「心理的に実在するもの」と捉えられている。 - つまり話者の心の中の何かをモデル化したものである。 - 「構造の心的表示のモデル」などと言われるが、この用語はよくない。 - 「表示」っていうと何かを誰かに対して表現しているみたいだけど、誰に対して? - 言語使用者?→言語使用者がこんな複雑な構造を意識しているわけじゃないし。 - 言語使用者の無意識?→「デカルト劇場」の「脳の中の小人」ですか?
うーん、構造記述は心の中の何かを表象しているが 心の中の何かとは記号ではないっていう話なんすかね。 心の中に/b/とかNPとかいう記号があって それを紙の上に構造で表記してるんじゃないんだ、というか。 よくわかんね。
22 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/12(金) 01:45:05 0
だめだもう寝よ
23 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/13(土) 14:54:54 0
土曜日の午後なので、少し頑張って第2章を読破することにしましょう。 2.1の話は「志向性」という哲学的な問題の話のようです。 この本にもWikipediaにもSearleやFodorへの参照があるので その辺が基本文献なんでしょう多分。 Wikipedia読んでもよくわからなかったけど 心理的状態と能の物理的状態がどういう関係にあるかとか 多分その辺の話なんだろうと思われます。 Jackendoffは「表示」とか「記号」とか「情報」とかいう語は 志向性の臭いが強いので、より中立的な用語を用いて 第1章の図(統語構造とか概念構造とか)を「認知構造」のモデル と呼ぶことにする、と言っています。 何がどう志向性の臭いが強いのかとかは 私にはよくわからんです。
Jackendoffはフロイトの「無意識」と身体的な「脳」の間の領域を 問題にしようとしているようです。 「無意識」というのは普段意識していないだけで、原理的には 意識的な内省によって調べることができる領域であるのに対し 統語構造とか情報構造とかは内省で調べることはできない。 内省で調べられないものはもう「脳」の問題、すなわち 発火する神経細胞の問題でしかないというのがひとつの考え方 (Searleの立場?)で、それに抵抗しよう(Fodorの立場)とすれば 統語構造とか概念構造とかを置く「無意識と肉体の間」の領域を 開発しなくてはならない。
25 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/13(土) 15:17:28 0
現在の認知科学とかChomsky流の用語法で「心」というときは この中間領域のことを言っていることが多い。 つまり内省可能な「心」でも、物理的肉体としての「脳」でもなく、 脳の機能的組織、機能的活動のことを「心」と呼ぶ、と。 この場合の心を特に「f-心」と呼んで区別しておく。 脳の機能的構成(f-心)と神経回路での実現との間には かなり直接的な関係があることがわかってきている。 とはいえ、f-心の研究(統語構造や概念構造)が無意味で すべて神経細胞の研究に還元すべきだという主張には同意し兼ねる。 f-心の研究の成果と同じものを神経細胞の研究で実現できるようになるには まだまだ時間がかかるだろう。 2.1はこんな感じですかねえ。
26 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/13(土) 15:43:27 0
2.2節は認知構造と神経的基盤をどう関係づけるかの話 脳の神経細胞の状態を、巨大な次元の状態空間としてモデル化する。 つまり、状態A、状態B、…をずらーっと並べた空間を定義する。 で、言語表現を、その空間のそれぞれの場所に対応づける。 とても巨大な次元の、っていうのはおそらくX軸、Y軸、Z軸みたいのが たくさんあるってことで、例えばNPとかVPとかいうのは 「統語範疇」という次元(軸)で異なる位置を占めることになる。
27 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/13(土) 15:47:17 0
克服すべき問題が二つある。 ひとつは、言語学の概念が離散的である(NPとVPの中間なんて概念はない) のに対して、神経細胞の状態というのは段階的(シナプス結合の強さの問題) であるという点。 実際には、ある種の神経細胞は発火する場合としない場合で かなりはっきりした区別をつけるらしいし、 言語学の方でも「ぐにゃぐにゃ範疇」なんて提案がされることもある。
28 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/13(土) 15:55:29 0
もうひとつは、言語の「組み合わせ」的性質を神経学的な記述とどう対応付けるか。 たとえば「後にくる」のような関係を状態空間でどのように定義するか。 神経学的アプローチと機能的アプローチの融合は依然として難題である。 Jackendoffも書いてるけど、2.1と2.2はかなり抽象的でわかりにくいですね。
29 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/13(土) 17:26:13 0
2.3節は「言語を知っている」とか「言語の知識」とかについて Ryleは「事実を知っていること」と「やり方を知っていること」を区別し 「やり方を知っていること」とは行動主義によって説明できるとする。 Chomskyは行動主義には批判的であり Chomskyの言う「言語の知識」とは「やり方を知っている」こととは違う かといって、「事実を知っている」というのとも違う 英語の時制システムを知っているとは、一群の命題を知っているということではない。 それは意識、あるいはFreudの無意識であって、機能主義の領域ではない
30 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/13(土) 17:31:08 0
ここでも「知識」という語の志向性が問題となっているので 必要に応じて「f-知識」のように言うことにする あいかわらず抽象的な話です。 とにかく生成文法の解明しようとしているシステムが 人間の生理学的機構や認知機構の中でどういう位置付けになるのか というのを明確にしておこう、という趣旨なんだろうと思いますが
31 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/13(土) 17:42:00 0
2.4節は言語能力と言語運用の話 最初に長めの脚注があるのでそれを読んでおきます。 言語能力(competence)と言語運用(performance)とは I言語とE言語とは別物である。 I言語とはだいたい言語能力と一致するが E言語とは言語運用のことではなくて、 心の外にあるものとして見た言語のことである。 ラングとパロールというのも別物である。 パロールは個人の言語行為、ラングは抽象化された言語のことで どちらもE言語に相当する。 言語運用とパロールの違いがよくわからないです。 パロールってのは言語行為そのもののことで 言語運用っていうのは、言語を使用する際のメカニズムっていうこと?
32 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/13(土) 19:24:02 0
今日の晩飯はしいたけのグラタンでした Chomskyが言語能力と言語運用の区別を立てたのは 行動主義やマルコフ理論とは別のアプローチを取りたかったかららしいです この区別をつけると、どういうふうに別のアプローチを取ることに なるのかとかはよくわかりません
Chomskyが言語運用とする要因には、種々雑多なものが含まれていて その中には - 記憶の限界 - 気を散らすもの - 知識と処理の区別 などがあるそうです。 私も最初誤解したけど、変形って別に 処理の順番とは関係ないんですよね
あーあともういっこ要因があるみたいです - イントネーションおよび文体の要因 イントネーションの切れ目と統語構造の切れ目が一致しないっていうのを 昔は言語運用上の誤りとしていたらしいです。 いまは韻律構造と統語構造の間にずれがあるなんて、当たり前の話ですよね Jackendoffは他にもいくつか、かつて言語運用の問題とされていたが いまでは韻律構造(言語能力の一部)で処理される事例を挙げています
それから言語能力と言語運用の区別に対する誤解について 言語能力の理論は統語論ばっかやってるけど 言語理解のためには意味論や運用論も扱うべきであるという批判 でもそれは統語中心主義に対して向けられるべき批判であって 言語能力の理論の批判にはならない
それから「軟らかい理想化」と「硬い理想化」について 理想化とは余計な要因を便宜的に排除して一般化を導くことだが 軟らかい理想化と硬い理想化がある 軟らかい理想化というのは、物理学で摩擦を無視して力学的な一般化を 導くけれども、最終的には摩擦のことも視野に入れたい、という考え方で 硬い理想化とは、それ以上のものの必要性を否定する理想化である Jackendoffに言わせると、Chomskyの言語能力・言語運用の区別は どうも軟らかい立場から硬い立場にかわってきている気がするが 実際には、言語運用も視野に入れたような理想化が好ましい Bresnan and KaplanやPollard and Sagはそんな立場を取っている
2.5節は社会的文脈がどうとか 多分、個人における言語と、社会に共有されている言語の関係とかそんな話でしょう 個人的な興味がないので大雑把に まずコミュニケーションの問題があって コミュニケーションとは話し手から聞き手への一方通行的なものではないし 言語以外の信号もいろいろ使われる 私はあまり詳しくないけど、会話分析なんかしてる人にとっては あたりまえの話なのかな?
それから均一な言語集団という理想化について 人々が言語に対してまったく同一の内的認知構造を持っているとは限らないが これは生物学における種の概念みたいなもので 同じ種の中に、少しずつ気づかない程度の変化があったとしても 便利な第一近似と見なしておく分には問題がない
コミュニケーションが要求する二つの矛盾する目標 最小の物理的努力→話を短く省略する 意味をできるだけ明瞭に→長く冗長に 話し手と聞き手が共有する文脈があれば その分、短くできたりとか
40 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/13(土) 20:21:56 0
とりあえず第2章はこんなもんですかねー 一言でいうと、言語学者が結局何を研究しているのか、というか 認知科学全体の中での位置付けというか 別に記号の組み合わせ遊びをしているだけじゃないんですよ、みたいな。 ちゃんと心のメカニズムの研究をしていて、 それは生理学的な脳の状態とはこういう関係にあって それから言語知識のメカニズム(構造)がどうなっているのかというのと 処理とか運用の問題もごっちゃにしてはいけないとか 結構、抽象的でよくわからない部分も多かったんですが 多分、そういうような話ではないかと思われます。 とりあえず今日はここまででいいかな。
つーかマジで読んでるの俺ひとりな予感 寂しいなおい!
42 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2007/10/15(月) 03:39:03 0
いや一応見ているけどどうレスするのがえいか分からんわけよ。
第一部は生成文法の基礎のおさらいみたいなもんですからねえ すっとばして第二部からやった方が楽しいかもしれんけど 私自身があんまり生成文法ちゃんとやってないんで 基礎をひととおり読んでおきたいというのと スレ立てた責任として、あんまり自分勝手にいらないとこ すっとばすのもどうかなって気がするので、一応、順番にってことで でもまあ第一部はさくっと終わらせちゃいたいですね。
44 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 15:51:57 0
第三章 組み合わせの性質 有限の規則で無限の文をって奴ですね 3.1節 f-心的文法の必要性 人間は(記憶とか認知的な限界を別にすれば) 語を組み合わせることによって無限に長い文を作ることができる 人間の言語には組み合わせて長い文を作るための規則(rule)があって その研究は20世紀前半の数学基礎論の研究から発展したものだが そうした数学的研究と言語の記述を関係付けたのがChomskyである 20世紀前半の数学基礎論の研究って ラッセルとホワイトヘッドのプリンキピア・マテマテカとか その辺の話なんでしょうか
45 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 15:54:29 0
無限の文を生成するための有限のf-知識には 少なくとも二つの部門が必要である - 語彙目録(lexicon) - 文法(grammar)・・・組み合わせの原理の有限の集合 これらのモデルを作ることが、言語能力の理論の課題である
46 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 15:58:40 0
3.2節と3.3節は生成文法で言われてきた各種規則の概観で 3.4節は心に関するより大きな理論についてらしいです 3.2節は三つの主要な規則 - 形成規則 - 派生規則(変形規則) - 制約 3.3節は語彙規則について - 語彙形成規則 - 語彙余剰規則 - 継承階層
47 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 16:05:17 0
形成規則(3.2.1節) いわゆる句構造規則とかあの辺の話ですよね NP→Det-AP-N みたいな ポイントは個々の語ではなくNとかDetとか範疇のレベルで 規則が立てられるってことで、これらをタイプつき変数(typed variable)という この規則によって実際に単語がまとまって文になるためには - 語彙項目にその語の範疇の情報が記載されていること - 変数具現化(variable insantiation)というメタ原理 が必要である 変数具現化ってのは要するに変数に値(個々の単語)を代入するって ことでしょうか。メタ原理っていうのがどういうのかよくわからんですけど。
48 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 16:15:45 0
形成規則を文法に導入する際の三つの問題 - その形成規則が実際にどのようなものになるか - 形成規則の中の変数として使えるタイプにどのようなものがあるか - 形成規則によって導入される関係としてどのようなものを用意するか (線形順序を含むか含まないか、など) 形成規則の一部(線形順序とか)は制約に含む考え方があるが ミニマリストではこういう可能性が極端に押し進められて 形成規則としては併合(Merge)というもののみを立てる 最適性理論でも、音韻論なんかで似たような考え方が取られている。 つまり、形成規則としては、極めて単純な原理的装置だけを 規則として立てておく、というのが最近の流れということでしょうか。
49 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 16:20:33 0
別の種類の形成規則は、範疇をより限定された複数の変数に分解する たとえば[+N, -V, +phrasal]のように これも有名なやつですね。 もとを辿れば構造主義のヤコブソンの音韻分析とか、あの辺に起源があるのかな? 物理学で分子を原子に(さらにもっと小さく)分解していったのにも 通ずるものがありますね。 っていうのをどっかの本で読んだような気がする。
50 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 16:21:49 0
まとめ。 二つの基本的な形成規則 - 構成素の性質の規則 - 素性の組み合わせの規則 メタ規則 - 変数の具現化
51 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 16:42:05 0
派生規則(3.2.2節) まあ、受動文を平叙文と同じ構造から変形して派生させるとか そういう話ですよね。 この辺が個人的に一番ぴんとこないあたりです。 変形とか言わなくても形成規則と照応だけでなんとかなるんじゃねーの、とか 平叙文と受身文が同じ基底形を共有しているって考える必要あるの、とか どうも直感的にしっくりこない感があって苦手です。 ともかく基本だと思うので、順に読んでいくことにします。
52 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 16:44:46 0
That movie, Dave really disliked. みたいな文は、形成規則が基底形(underlying form) Dave really disliked that movie. を作ってから、派生規則(変形)によって表層形(surface form)が作られる
53 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 16:54:29 0
いくつもの利点がある 1.二つの文の意味的な関係を明示的に示すことができる 2.形成規則を単純化できる 3.dislikeは目的語を取る、という規則が破られているように見えるけど 基底形ではちゃんと守られている、ということができる ノート: 私がどうもぴんとこないのは 1について、意味が同じならば同一の統語構造が隠れていると考える 必然性があるのだろうか。意味解釈した結果、同じようなことがらを表して いるなら、統語構造も同じと考える必然性はないのでは、というのが一点。 2について、形成規則の単純化のために派生規則をたてなければならないなら 結局トレードオフなんだから、あんまりメリットでもないんでは?というのが一点。
54 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 17:01:01 0
1970年代ごろから、移動は痕跡を残すと考えられている。 派生規則は鎖上につながっていて、ひとつの規則の出力に 別の規則が適用される場合がある。例えば、 This booki seems [ti to have been studied ti by generations of linguists]. という文では、繰り上げ(raising)のあとに受動化が行われている 『諸相』では基底形を深層構造、いちばん表層の形を表層構造という 後にはD構造、S構造とも呼ばれる
55 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 17:06:40 0
派生には本質的に基底から表層へという方向性がある しかしこれは「比喩的」なものであって、言語運用とは関係ない 派生規則はどんどん一般化されていって GB理論(Chomsky1981)ではα移動(なんでもどこへでも移動せよ) ひとつだけになった 形成規則がMergeだけになって、あとは制約で制限するっていうのと 同じ方向性と考えてよいのかな
56 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 20:48:16 0
制約(3.2.3節) - 語彙項目それ自体の制約 e.g. dislikeという動詞は後ろにNPが来なくてはならない。 - 派生規則についての制約 60年代以降の統語理論の中心的感心事=移動規則の制限 e.g. 文の主語の中から何かを移動することはできない。 *Billi, a rumor about ti is going around town. --派生される構造についての制約 Xi [S [NP ... ti ...] ... ] という構造は非文法的 --派生の異なる段階の関係についての制約 [S [NP ... X ...] ...] から X [S [NP ... ] ...]を派生させることはできない (痕跡がなかった頃の考え方)
57 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 20:54:21 0
最適性理論では、派生は二つの層(INPUTとOUTPUT)のみが関わる この二つの層の間に制約を課して、制約をもっともよく満たす出力候補を 選択する、というのがOTの基本原理 OTの制約は違反してもよいので、他の制約が優先されるような 一定の条件下では、入力の要素が出力にあらわれない場合がある 派生規則のある理論で削除とされていたものを、OTではこのように分析する OTと派生的理論の一番の違いは OTがすべての制約を同時に入力と出力の間に適用するのに対して 派生的理論は無限に続く可能性のあるステップの連続であるという点
58 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 21:00:29 0
- 異なる種類の構造間の制約(correspondence rule; interface rule) e.g. 意味構造の動作主(Agent)は統語構造の主語に対応する e.g. 音韻構造の線形順序は統語構造の線形順序に対応する(通常は) これらの理論の多くでは、能動・受動の交替などは派生規則ではなく インターフェイス規則によって捉えられる。能動と受動の統語構造が 基本的に同じ意味に写像される。 派生構造の精密化かインターフェイス規則の精密化か、というのは 文法理論の主要な対立点のひとつである。 あーやっぱそういう考え方もあるのですね。 私もそっちの方がしっくりきます。
59 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 21:09:32 0
- メタ制約 ひとつの派生(二つの構造の間)に適用されるのではなく、二つ以上の派生に 適用される複雑な制約 e.g. 形態的阻止(morphological blocking) 過去形を作るときは-dを付けるが、一部の不規則動詞には適用されない - より大規模なメタ制約 -- 経済性 in ミニマリスト 可能な派生の中で一番短いものに優先権を与える -- OT いちばん軽い違反を犯している候補が実際の出力として選ばれる ミニマリストもOTもよく知らんけど、これだけ見ると 両者の基本的なポリシーって似てるんですかね どの辺が違うんでしょう
60 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 21:15:06 0
ようやく3.2節おわた 規則には形成規則、派生規則、制約などがある 形成規則と派生規則は一般化されてきている(Merge、α移動) あとは制約で処理する 形成規則にかかわる制約とか、派生規則にかかわる制約とか 文法の異なる部門の間の制約(インターフェイス制約)とか どんな現象をどこの制約として分析するか、とかが 文法理論の間の対立点のひとつになっている
61 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 21:17:34 0
3.3節は語彙規則について 語彙規則は形成規則で並べられる要素の単なるリストと考えられてきたが さらに原子的な要素に分解することができる。 語彙以下の要素の可能な一覧と組み合わされ方の指定をするのが 語彙規則で、語彙形成規則、語彙余剰規則、継承階層などがある。
62 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 21:24:59 0
語彙形成規則(3.3.1節) ソシュール・・・単語は記号と意味の恣意的な結び付きである 記号・・・音韻構造と統語構造の二つの面 語彙項目を音韻構造・統語構造・意味の三つ組として規定する (どのような文法理論でも暗黙的に) 統語構造・・・範疇(品詞、数、性)、下位範疇素性、etc. 下位範疇素性・・・統語的な環境に関する制約。他動詞は目的語を取るとか。 形態統語論の原理・・・単語が内的統語構造を持つ imperurbable = [im [perturb able]]
63 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 21:27:10 0
音韻構造 音の一覧と組み合わせて音節などにする規則 意味/概念構造もほとんどのアプローチで組み合わせで表される
64 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 21:41:00 0
語彙余剰規則(3.3.2節) 『諸相』、Lee(1960)などの初期理論 the construction of a wall <- someone constructs a wall 節からNPが派生される この方法は、さまざまな技術的理由から問題がある・・・Chomsky(1970) 代案:constructとconstructionを別々に語彙目録に置いておく 両者の関係・・・独特な面と規則的な面 規則的な面->語彙余剰規則(語彙規則) e.g. 行為を表す動詞/X/は、その行為の実行を表す名詞/X+tion/と関係づけられる
65 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 21:44:12 0
脚注によると、Chomsky(1970)はconstructとconstructionを別々に語彙項目と するのではなく、単一の語彙項目として、動詞として使われるときと 名詞として使われるときで発音が違う、としたが、 Jackeodnffの知る限り、このアプローチを具現化したものはないんだそうです。 最近はやり(?)のDistributed Morphologyとかなんとかでは どういう考え方をするんでしょう
66 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 21:53:21 0
継承階層(3.3.3節) 与格移動関係の話のようです S V O1 O2 と S V O2 to O1 ってやつですね 初期には同一の構造から派生させるという考え方が取られていて 最近でもLarson(1988)とかで同じようなアプローチが見られるが 大部分の言語学者は派生的アプローチを拒否している ある程度受け入れられているアプローチのひとつは 語彙目録の中に語彙項目だけでなく、もっと抽象的なスキーマがあって そのスキーマを実際の語彙項目が継承できる、というものである ここでも、ある現象を説明するために派生規則で扱うか 語彙余剰規則で扱うか、継承階層を使うか、といった理論間の論点がある
67 :
1 ◆lQDmm57VMM :2007/10/15(月) 21:54:24 0
3.3節おわり 今日はこれぐらいですかね 最後の抽象的スキーマとかなんとかは 構文文法あたりと何か関係ある?
68 :
邪険豆腐 :2008/01/05(土) 17:44:16 0
今日このスレ見つけました。ぼくも読んだところですが忘れかけていたので丁寧で助かります。 続きが楽しみなんですが、もう放置ですか? 9,10章あたりも興奮しました。
69 :
1 ◆lQDmm57VMM :2008/01/05(土) 22:02:41 0
ごめんな。 モチベーションが切れてしまって放置中です。 気が向いたら再開するかも。
よしじゃあ気分を変えて9章あたりから読んでみますか。 第3部 意味・概念的基盤 第9章 心的活動としての意味論
9.1 第3部への導入 - 意味論は言語学にとって究極の目的、「聖杯」である。 - 生成文法は『諸相』の頃にはあれだけ意味への接近を期待させていたのに 最近は代名詞の使用とか単語の強勢とかやってて、一般の人はもはや感銘を受けない。 - 意味の理論の不在が、言語理論の実用的な応用(機械翻訳とか)の可能性を阻害している。 - 過去30年の私の仕事は、生成文法の心理学的基盤と形式的テクノロジの精神の両方に 合うような意味理論の開発であった。
9.2 主流派生成文法にとっての意味論 - 生成文法は意味論の問題をあまり扱ってこなかった。 - 『諸相』の頃には深層構造というのがあって、意味と結び付けられていた。 - Fodorは生成文法における意味論の理論的基盤を確立しようと努力したが、あまりうまくいかなかった。 - 生成意味論論争(第4章)のあと、主流派生成文法家は意味論からそっぽを向いた。 - 意味論は新興の形式意味論、計算言語学、認知心理学/神経科学、認知文法とかで扱われてきた。 - これらは生成言語学の目標を考慮したものではなかったし、 むしろ意味論を扱っていないという理由で生成文法を拒絶した。 - 拒絶は、統語論の自立性の拒絶とか、生得性の拒絶とかの形で現れた。
- 拒絶の嵐の根底には、生成主流派の統語中心主義(第5章)がある。 言語によって伝えられるメッセージに、それを伝えるメッセンジャーより低い役割しか与えなかった。 その復讐として、上記のアプローチはメッセンジャーを射殺したのである。 - だが語順とか機能範疇の基本的な性質とかを説明するために 統語論の形式的な原理は必要なものであり、不要になるということなどありえない。
- 統語論は意味論からどのくらい独立しているのか。 少なくとも一部の統語構造は本質的に意味を担っているかもしれない。 例えば主語は動作主として解釈される傾向がある。 - 「この部屋の誰もが、二つの言語を知っている」の二つの解釈はどうだろうか。 (1) 全員、ドイツ語と英語を知っている。 (2) Aはグルジア語とドイツ語、Bはヘブライ語とハウサ語、・・・を知っている。 - 問題は、これらが(意味的にでなく)統語的にも異なる構造を持っているかどうかだ。 初期の理論では統語的に区別していなかった。 『諸相』はどっちともとれる。 生成意味論やGB理論は統語的に区別した。 私(Jackendoff)は区別しない。
- 大事なことは、意味がどの程度統語論に直接に伝えられるかを決定することは 過去40年にわたって議論されてきた重要なテーマだったということだ。 - 正しいやり方は、統語論を破棄することではなく、統語中心主義を破棄することである。 - 問題は自律性があるかないかではなく、どの程度自律的かということである。 - 言語の理論は、意味に対して真剣に取り組まない限り、悲惨なぐらい不完全なものになる。
ここまでをまとめると、 - 生成文法にはまともな意味論がない。 - 意味論のない言語理論なんて糞。 - だからといって生成文法そのものが駄目なわけではない。 というか統語論いらね、という批判も極端すぎ。 - 重要なのは統語論と意味論がどういう関係にあるかだ。 そのためには統語論ばっかりやってる統語中心主義を改めなければならない。
9.3 意味とそのインターフェイス この節は「意味論」という語の定義というか、意味論の範囲を考える節のようです。 Jackendoffは自分が思う「意味論」を、「概念主義意味論」(conceptualist semantics)と呼びたいようです。 これは「意味論」とは何か、という用語上の論争を回避するため、 とりわけ、「それって『意味論』なの?」という批判を回避するためだそうです。 この種の批判がどういう立場の人から投げかけられるものなのか あまり詳しく説明されていないんですが、 「世界との関係を説明していない意味論なんて本当の意味の意味論ではない。 そんなの別の言語(論理形式とか)への翻訳に過ぎない」 とか、その辺の批判のことでしょうか。
この節は、私にとってはあまりよくわからない「f-心」という概念が再び頻繁に出てきます。 とりあえず分かる範囲で読んでいきたいと思います。 Jackendoffは概念主義意味論を、より大きなf-心の理論に埋め込みたいと考えています。 そのためには、言語によって伝達される思考が、他の認知処理にも適うものでなければならない。 Jackendoffは思考と、次のような認知構造との間のインターフェイスを仮定しています。 - 音韻論と統語論(要するに言語システム?) - 推論システム - 既存の知識ベースとの統合システム - 知覚や行動 多分、言語によって表される思考(=意味?)は、言語に特有のものではなく 言語とは自律した、他の様々な認知活動とも(言語に対してと同様に)関係する、 より一般的な機構として扱いたいということなのかな?
これからなすべき仕事 1. 思考の形成規則(組み合わせシステム)を特徴付ける(第12章) 2. 思考と音韻論、統語論とのインターフェイス規則を特徴付ける。 これらはしばしば言語意味論(linguistic semantics)と呼ばれているものに非常に近い。 他のインターフェイス、推論や既存知識との統合は、運用論(pragmatics)と呼ばれているものに近い。 知覚は、思考を形成するための入力のひとつになりうる。形成された思考は言語産出の際にも利用される。 逆に、言語によって得られた思考が、行動システムへの出力に利用されることもある。
- ここで重要なのは、思考は言語とは独立であり、言語がなくても起こりうるということである。 - 言語形式は、思考が意識されるための一つの手段である。 (別の手段は視覚イメージ) - 推論は言語がなくても起こりうる(無意識の推論)。 言語がなくても思考しうるのか、というのは結構重要なテーマかも知れませんね。 言語は思考を「意識」するための手段である、というのは、ちょっと目から鱗。
この後、進化論とかゲノムの話がちょっと出てくるけど どの辺がポイントなのか私にはよくわからないので飛ばします。 とりあえず、遺伝的な基盤の支えが必要な3つの思考領域があると言っています。 1. 物理世界の理解: 物体の同定、位置関係の把握、アフォーダンスなど 2. 社会的世界の理解: 人物の同定、社会的役割の把握(親族関係、支配関係、義務など)、信念や動機 3. 他の多くのシステムを補強する、個別化、範疇化、グループ分け、分解の基本的代数
- 要するに、概念主義意味論は多くの認知研究のための共通の集会場の提供を目指す。 - この章の残りは、意味理論の範囲を狭めようとする様々な試みを排撃するために費やす。 とりあえずここで小休止ということで。
83 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2008/01/08(火) 19:44:43 0
乙
9.4 意味論に対するChomskyとFodor - Chomskyは意味に対する内的アプローチ(ここでいう概念主義)を積極的に支持している。 (ただし組織立って展開してはいない) - 一方で、Chomskyは「Noam Chomskyへのインタビュー」で、「意味論」という用語に対する かなり矛盾した感情を表明している。
「Chomskyへのインタビュー」 - 生成文法は当初から「意味論」と呼ばれる問題が主要な動機だった。 言語に関して限られた経験しか持たない人間が、高度に特定された方法で新しい表現を 理解するという事実の説明である。 - このような問題を私は「統語論」と呼びたい。 「意味論」という用語は伝統的には「言語-世界」の関係を研究するものなので。 - 指示の依存関係(代名詞と先行詞)の問題が意味論的と言われることがある。 表現が何を意味しているのかという問題に関わるので。 私はこのような問題も統語論的と言いたいと思う。 言語と世界の関係を明らかにするところまで行っておらず、頭の中の問題に留まるので。
- 認知システムの内的研究は「統語論」と呼ぶことにしたい。 -「意味論」が「単語/概念」と(心的ではない)「物」の間の関係の研究だとすれば 自然言語の意味論というトピックは存在しないだろう。 -「意味論」が「単語/概念」と「内的/外的世界」との関係の研究であるとすれば、 そのようなトピックは存在し得る。これは音声学の場合と大体おなじで、 内的な言語要素と外的な分子の運動との関係みたいなものになる。 いわゆる「指示」というような概念はあまり関係なくなる。 「Chomskyへのインタビュー」ここまで
Chomskyは「意味論」という語を、伝統的な「言語と世界の関係の研究」という意味で 使うことにこだわりすぎているような印象を受けます。 Jackendoffによると、CarnapやDavisは、このような「統語論」、「意味論」、「運用論」の使い分けを 論理実証主義者のCharles Morrisに由来するといっているそうです。 そういえば日経新聞の文化面に「私の履歴書」というコーナーがあって 今月は経済学者のアラン・グリーンスパンが書いているんですが 若い頃、論理実証主義の思想に傾倒したことがあったそうです。 経験主義の極端な形で、客観的に検証できないもの以外は何も認めない という立場なんだとか。 でも極端なのはともかく、科学者ってだいたい多かれ少なかれ 実証主義的なのが普通なんじゃないですかね。
『言語の基盤』に戻ります。 - Chomskyの用語法だと、心の中のどんな組み合わせシステムも広義の「統語論」ということになるが 言語理論で「統語論」というときには、普通NPとかVPとかの話に限られる。 - 言語意味論は意味/概念は組み合わせシステムを持つと主張するので、 これも広義の統語論を含むことになるが、狭い意味での「統語論」とは異なる。 このような意味論が通常の意味での「意味論」であるということになる。 つまりChomskyは認知システムの内的機構を統語論、外界との関係を意味論と呼びたいが Jackendoffは統語論も意味論も認知システムの内部の(それぞれ別の部分の)研究だろう、 というか、それが通常の「統語論」とか「意味論」とかの使い方でしょ、 といいたいのだということだと思います。 つまり、Charles Morrisの統語論、意味論、運用論の区別というか 意味論=言語と世界の関係、という定義を固持する必要なんてないんだよ、と。 そういうことでしょうか。
- Chomskyは「意味論」をインターフェイスの問題だと考えているらしい。でも何と何の? - 言語と概念システムの? - 言語と外界の事物(例えば目の前のコンピュータ)の? - 「言語あるいは概念」と「外的・内的世界」の? - それとも概念と何か他のものの? - 私の中心的な関心である概念システムの形式的組織化についても、何も言っていない。 とりあえずここまでChomskyの話。 「統語論」「意味論」という用語をかなり極端に使っているという点を別にすれば、 心の中のメカニズムを研究対象にしようとしているという点においては ChomskyもJackendoffも似たようなところに関心があるのだろうと思います。 多分それは言語学者的な関心の置き場であって、哲学者がちょくちょく関心をよせる 言語と世界の関係、というのとはちょっと違うところなんでしょう。 この後はFodorの話なんですが、眠いので今日はここまで。
聴講者番号002
聴講とかいらんので、コメントとか議論とか一緒に読んでくれるとか した方がうれしいです・・・ Fodorの話 - Fodorは理論を心的な枠組みに位置づけることの重要性を強調する点で 概念主義意味論と一致する。 - Fodorは意味は組み合わせシステムで具現化される必要があり 単純な意味ネットワークで説明するのは適切でないと言っている。 単純な意味ネットワークってなんでしょう。 コネクショニズムとか、その辺の話?
- Fodorは意味の組み合わせシステムのことを「思考の言語」(LOT)と呼ぶ。 - 「思考の言語」は英語とかフランス語のような音韻論、統語論、意味論を備えた言語ではない。 LoTに音韻論や(狭義の)統語論はない。 これはつまり、LoTは音韻論、統語論、意味論という区別を立てたときの 意味論の部門の組み合わせシステムのことである、ということでしょうか。 - 形式言語の分野では、「言語」は表現の集合、あるいはそれを生み出す規則のことである。 a. ab, aabb, aaabbb, ... b. S -> aSb; S -> ab - プログラミング言語とか、もしかしたらレンブラントの芸術的スタイルとかも、この意味の言語と いえるかも知れない。 - この意味の言語は組み合わせシステムとしての「思考」という概念にふさわしいが、 しかしFodorの考えていたものではない。
ちょっと書き方がまずかったので書き直し - 「言語」にはいくつかの意味がある - ひとつめは、自然言語としての「言語」である。 Fodorの「思考の言語」はこの意味での言語ではない。 - ふたつめは、形式言語としての「言語」である。 これは組み合わせシステムとしての「思考」という概念にふさわしいが Fodorが考えていたものではない。
- みっつめは、「形式言語の表現の集合+これらの表現を他の領域で解釈する写像原理の集合」である。 たとえば、aaaabbbbを異なる種類の硬貨の列と解釈するとか。 - このような意味では、しばしば形式的な表現の組織化を「統語論」と呼び、 他の領域への写像を「意味論」と呼ぶ。 - Fodorが考えていたのはこの意味の「言語」であり、Chomskyの解釈とも一致する。 FodorはLoTには(広義の)統語論があり、かつ意味論もあると考えていた。 - LoTの表現は心的表示であり、それは何か世界の実体を表示する。 すなわちLoTは志向性を持つのである。 ちょっとややこしいですね。 つまりJackendoffに言わせると、LoTは音韻論、統語論、意味論のうちの意味論のところの 組み合わせシステムのことなんだけど、「組み合わせシステム=(広義の)統語論」という用語法でいくと LoTの組み合わせシステムは(広義の)統語論であって、さらにこのシステムと外の世界との関係を 「意味論」と呼ぶことになる、と。この「統語論」「意味論」という用語の使い方はChomskyと同じ。 一方のJackendoffは、(たしか第2章あたりの話だと)意味部門の「概念」がさらに外界の事物を 「表している」というような志向性の匂いのする言い方は避けたがっていたはずですよね。
- Fodorは自分の考えに問題があることを認めている。 - 頭の中の表現(=概念?)が、それと関係するもの(=外界の事物?)とどうやって接触するのか。 - Fodorは脱神秘化された意味論を構築しようとしている。 ここの脱神秘化がどうとかいう話はよくわからないので飛ばします・・・ - 本書の見方では、自然言語には音韻構造、統語構造、意味/概念構造がある。 - 意味/概念構造が意味論を持つのではない。 - Fodorの問題は、意味/概念構造を、何か別のものを表す記号として扱ったことに 起因している。 - 私は、音韻構造や統語構造と同様、意味/概念構造も単に非志向的な構造として扱う。 - 私は、志向性を持ち出さずに、脱神秘化された見方に到達できると思っている。 - ひょっとしたらFodorの方が正しいのかもしれない。 - いずれにせよ、意味/概念構造やLoTを構成する組み合わせシステム、 および言語・推論・知覚・行動とのインターフェイスを研究する必要があり、 それは概念主義意味論の課題である。
9.4節おわり。とりあえず今日はここまでで。 『英語学文献解題』の「文法II」が欲しいけど どこにも売っていない今日この頃。
9.5 意味に対するいくつかの「文脈主義的」アプローチ - 意味を心的現象の何か、「環境」の一部として扱うアプローチがある - 最も極端なものは、今ではほぼ絶滅した行動主義である。 - 考えるとは、心の中での発話であり、言語の背景に言語があるなど馬鹿げている という主張である。 - 行動主義は、言語事実の最も単純なものしか説明しようとしなかったし、 そのやり方も疑わしいものだった。(Chomsky1959)
- 別の議論が、言語哲学のある種の系統から、 しばしばWittgenstein(1953)を引き合いに出しながら行われる。 - 言語表現に固定された意味などなく、できるのはせいぜい使用のカタログを 作ることぐらいであるとい主張である。 - 確かに言語表現の理解はかなり文脈の理解に依存する。 (Sperber and Wilson 1986, Pustejovsky 1995) - とはいえ言語表現は文脈と相互作用を引き起こすだけの何かを伝える必要がある。 文脈だけで伝えられようとしているメッセージが分かるわけないのだから。 - 重要なのは言語表現と文脈が、それぞれどのように理解に貢献しているかである。
- 意味は話し手、聞き手のどちらかにあるわけではなく、 両者の交渉(negotiation)によって得られる社会的構成物であるという考え方がある。 - この見方の穏健なものはClarkの『言語の使用』(1996)にあらわれ、 話し手のメッセージの適切な形式化と受け取りを、話し手と聞き手が共同して 確認している様子を詳細に分析している。 - コミュニケーションが社会的な共同作業であるという考えには同意するが それがすべてであるとは思わない。 - 社会的構成物の問題については10.11節で扱う。
- この問題はPutnamの「『意味』の意味」(1975)の中にもあらわれてくる。 我々が、意味の完全に分からない単語を多く知っているという問題である。 - 彼は「ニレ」も「ブナ」も木であることは知っているが ふたつの木を見せられてどちらが「ニレ」でどちらが「ブナ」かを言うことができない。 - このような場合、何が「ニレ」で何が「ブナ」かは、専門家に解決をまかせるしかない。 意味は話し手の頭の中にあるのではなく、何らかの形で「共同体の中に」あるのである ということを彼は示している。 - しかしここでも、正確なものであれぼんやりしたものであれ 話し手の頭の中には単語と関係付けられた概念があると考えるべきである。
- 専門家どうしで対立がある場合、例えば「意味論」という用語の理解について 専門家ごとに意見がことなるような場合には、共同体の中に確定した意味があるとは 言えなくなる。 - 意味の社会的/文化的構成の問題を研究することは 概念主義意味論と対立するようなことではない。 9.5節おわり。 まあ特につっこむようなところはない、かな。 この問題に私があんまりコミットしてないからかも知れませんが。
9.7 言語特有の意味論はあるか 非常に大雑把にいうと、語用論と切り離された(言語的な)意味論はあるか、という話のようです。 この区別は、しばしば次のような形で現れます。 a. 「辞書的」意味と「百科事典的」意味の区別 b. 分析性、論理的含意、真理条件などが言語意味論に属し、 発見的手法、デフォルト論理、実世界との結び付きなどは運用論に属する、という区別 c. 項構造、アスペクト構造、発語内効力、質量/可算名詞、数など文法的反映があるものは 言語意味論に属し、色とか大きさとかいったものは一般的知識に属する、という区別 d. それぞれの言語には各言語特有の意味論があり、使用者の信念や知識のパターンとは 異なるかもしれない、という区別
このような区別を実現するには、だいたい二通りのやり方がある、といっています。 ひとつは、「言語意味論」と「文脈化された意味」を別々のレベルとして立てるやり方 言語形式 <-意味解釈-> 言語意味論 <-運用論-> 文脈化された意味 もうひとつは、文脈化された意味の最小限の部分を言語意味論とするやり方 言語形式 <- インターフェイス-> 言語意味論⊂文脈化された意味 両者がどう違うのか、いまいちよくわかりませんがスルーします。
Jackendoff自身は、このような区別は健全な直観に基づいているが、実際には不可能と 考えているようです。 このような区別を立てたいと思う理由のひとつは、考察の対象範囲を制限しないと 底なし沼にはまってしまう、というぼんやりした不安ではないかと指摘しています。 しかしこのような線引きは経験によって決められるべきであって、 不安によって決められるべきではない。
もっと検討に値する動機は、意味論から私的連想を取り除きたい、という Fregeが感じた願望である、と言います。Fregeは意味と意義を区別したが 意義を言語使用者の心の中にあるものではなく、 慣習的に言語表現と関係付けられた抽象的、客観的属性とみなした。 しかし語の「公的な」意味と私的連想を区別することは困難である。 以下の話はよくわからなかったので適当にすませますが 要するに公的な意味とは、ある集団が共有する私的連想のことにすぎない。 言語学者は「言語」という語についてある種の連想を持ち、 それが言語学者にとっての「言語」の公的な意味に含まれるが、 言語学者以外から見ると、それは言語学者たちの私的連想に過ぎない。 とかまあそんな感じかと。 9.6節おわり。
第9章ももうひといきです。 9.7 言語意味論を概念化から区別する4つのだめなやり方 9.6節で挙げられた、語用論と切り離されたところに言語意味論があるんだとか それに類する考え方に対する個別の批判を展開する節です。
9.7.1 意味論=「辞書」;運用論=「百科事典」 犬が動物なのは辞書的記載事項であるが、 犬は猫を追いかけるのが好きだとかは「百科事典的情報」であり、 言語的振る舞いには何ら関わらない、という考え方。 これは「公的」/「私的」の区別とは関係ない。 犬が猫を追いかけるのが好きだというのは、人々の共有する知識の一部だし、 Jackendoffの犬が郵便配達員を追いかけるのが好きだというのは、私的な知識である。
問題は、何が辞書的で何が百科事典的か 線引きするのは難しい、あるいは不可能かも知れないということである。 murder(殺害する)とassassinate(暗殺する)の違いは、 後者に政治的動機が伴う、ということであるが 政治的動機、というのは辞書的意味としては複雑すぎるように思うし、 百科事典的意味だとすると、辞書的には二つの動詞を区別できなくなる。 Kats(1980)は分析的な判断に関わるもののみを辞書に載せ 段階的な要因は百科事典に載せるべきだと提案した。 しかしこれだと、色のような段階的要因は百科事典的ということになり Green things are blueは百科事典的情報によって逸脱していることになる。 しかしgreenとblueが同義でないことが「百科事典的」(非言語的)とは言いたくない。
Pustejovsky(1995)の研究から生じた、もっと複雑なケースは 本は読むものだ、とか、レンジは料理をするものだ、というような 人が物に対して行う典型的な行動を、どのようにコード化するか、というものだ。 (これって認知の方でときどき言われる「アフォーダンス」とかと関係あること?) こういうものはKatsの考えている辞書には入らず、 辞書と百科事典を区別する人は、たいてい百科事典の方に入れるだろう。
"finish the book"とか"finish the beer"のような表現の場合、 これらが「読み終える」とか「飲み終える」の意味で解釈されるのは 百科事典的知識によるのだということになる。 この種の解釈は、状況によって無効になる場合もある。 "The goat finished the book"のように。 しかしだとすると "Bill finished the book, and so did the goat"というジョークは 百科事典的知識によって成立し "The chef cooked all afternoon, and so did the roast"というのは 多義語に関する辞書的知識による逸脱ということになり 一般化を捉え損ねるように思われる。 辞書と百科事典をどのように区別しても それらにまたがる逸脱のパターンを見つけることができる。 したがって、このようなやり方で文脈化された意味の複雑さを完全に回避することはできない。
えーと、最後のあたりちょっとよくわからなかったんですけど 要は辞書的知識と百科事典的知識の区別なんて 明確に線引きできないよ、ってことでしょう。
9.7.2 論理的な意味性質と非論理的な意味的性質 言語意味論には、論理的含意と分析性に関わる性質のみが関わるべきで 非論理的な意味的性質は運用論に属するという考え方。 Katsのアプローチは、この仮説のひとつのやり方であり、 他に心理学の文献とか、Levinson(2000)などに見られる。 基本的な考え方は、単語の意味の一部は必要条件(「辞書」)である というものである。
この提案には、前項での反論(明確な線引きができない?)が当てはまる他に さらに三つの反論がある。 ひとつめはWittgenstein(1953)の議論によるもので 例えば「ゲーム」という単語について、何がゲームであるかについての 必要条件を見つけることができない、というものである。 (いわゆる家族的類似性ってやつですね。 認知言語学ではプロトタイプ理論のもとになった。)
二つ目は、一つの条件が、ある単語では論理的含意になり 他の単語では取り消し可能な(「運用論的な」)仮定にしかならない ということがある。 "rise"も"climb"も上方への移動を含意するが 後者はそれを取り消して"climb downwards"とか言うことができる。
三つ目はよくわからんので飛ばします。 Jackendoff(1983)の第5章と第6章で詳しく論じているそうです。 以下がこの小節のまとめです。 - 論理的/非論理的を厳密に区別しても 理論的簡潔さの点からも説明的妥当性の点からも、得るものは少ない。 - 論理的性質だけでは語彙項目間の区別を十分に立てることができない。 - 論理的性質に関わる意味的性質が非論理的性質に関わる意味的特徴と 異なる集合になるわけではない。(二つ目の反論の話?) - 非論理的性質を扱うことができるシステムなら、論理的性質も扱うのはたやすい。 - 論理的性質は意味論的性質の雑多な一部に過ぎない。
9.7.3 文法的に実現されている内容と文法には無関係な内容 統語論や形態論で役割を演じるような意味特徴だけを分離する考え方。 たとえば単数と複数とか。 言語によって性・数システムがあったりなかったりするので、 この考え方にはふたつの立場がある。 1. 言語意味論の要素は各言語に固有 2. 言語意味論の要素は普遍的だが、言語ごとにその一部を文法化する
この考え方だとredとgreenの区別は言語意味論の一部ではないとされるし 多分前の二つのアプローチよりもさらに言語意味論の範囲が狭くなる。 Fregeの「公的」意味と「私的」意味の分離も実現できない。 Fregeの公的、私的の話が、ちょこちょこ出てくるんですが どういう話かよくわからないので、意図的に端折っています。 わかる人がいたら解説してくだしい・・・
あと、図9.2と図9.3の違い、
(
>>103 で示した、言語意味論と文脈化された意味を異なる
レベルのものとみなすか、みなさないかの違い)
というのもちょこちょこ出てくるんですが、
これもどういう風に重要なのか、私にはあまりよくわからんです。
意味構造が人間の心の中にどのように収まっているかとか
そういうことを考える上で必要なのかな?
話を戻します・・・ このアプローチがもっとも成功したのは、おそらくPinker(1989)である。 彼は動詞の項構造(および項構造の変更)が、動詞の意味の比較的荒っぽい 区別に依存することを示している。 えーとこれは、動詞の意味は比較的少数の決まったパターンに分けることができて それによって統語的な項構造が決まってくる、ということかな?
それでは、どのような素性が文法的区別に使われるか。 単数/複数、有生/無生、質量/可算、男性/女性、量化子か否か 使役性、運動、心理述語か否か、形状(類別詞に関係して)、社会的地位、など かなり雑多な集合になる。 Pinkerの「狭いクラス」は項構造の区別がもとになっており、 物が空間をきっちり埋めるか、表面上に分布させるか、なども含まれる。 Levin and Rappaport Hovav(1996)の項構造の変更の議論によると、 音を出す動詞は、その音と運動が直接関係ある場合は、 運動動詞の構文を取ることができる(The car squealed around the corner) したがって、文法構造において一定の役割をはたす意味素性が 特に単純あるいは自然なクラスをなすということはなさそうである。
L&Rも、(Jackendoffみたいな)概念構造を書く人たちですよね。 ただスタイルはJが述語(項, 項)みたいなスタイルなのに対して L&Rは項 述語 項みたいなスタイルで書いてた気がします。 日本で概念構造っぽいことをやってる人は わりとL&Rみたいな書き方をする場合が多いのかな? 影山とか。
結局のところ、文脈化された意味から切り離して
言語意味論のためのレベルを設けても(
>>103 の前者)
それは語彙的区別に比べたら荒っぽい区別しか示してくれない。
言語意味論は文脈化された意味の一部(
>>103 の後者)
という考え方を取るなら、結局それは意味一般の一部を
取り出したものに過ぎない。
そのような一部を無理して取り出さなくても、他のやり方がある。 文法に関係するような意味素性とは、 概念的意味と言語形式のインターフェイスで言及されるもののことである と考えればいいのである。 ようするに、どうせインターフェイスの研究はしなくちゃならないんだし どういう意味素性が文法に反映されるかはインターフェイス規則の問題であって それらの意味素性をよせあつめた荒っぽい構造を中間段階として立てる 必要なんて特にないよ、ということだと思います。 語彙項目のレベルのインターフェイスと句のレベルのインターフェイスが どうとかいう話がでてきますが、よくわからんので端折ります。 9.7.3節おわり
9.7.4 各言語固有の意味論が特別の意味論を含意すること これは大雑把に言うと、英語のdogとフランス語のchienが表しているものは 厳密にはきっちり一致しない。言語意味論は各言語ごとに固有の構造を持っていて 普遍的な意味論などない、という考え方だと思われます。 いわゆるサピア・ウォーフの仮説というのに近い考え方で、 思考が言語に依存する、ということを強調する考え方である。 Whorfのラジカルな主張は、文法構造が根本的に思考に影響を与える というもので、例えばホピ族は時間に関する語彙を持たず 従って彼らは時間の概念を持たない、というものであるが 現在はこの考え方は否定されている(Malotki1983)
もっと穏健なレベルであれば、この考え方には一定のもっともらしさがある。 たとえば高度に細分化された専門用語があるおかげで 談話や思考の正確さを増すことができる。 思考の特徴は、ある程度は言語とのインターフェイスの影響を受けるのである。 ある種の思考は、言語がそれを表現するのが簡単なために、アクセスしやすくなる。 このような考え方も、言語意味論という特定のレベルなどないのだ という考え方と両立する。
以上でだいたい9章の話は終わりです。 まとめておきます。 9.2 生成文法は意味論の研究がおろそかだった。 9.3 Jackendoffの意味論は概念主義(conceptualist)である。 思考は統語論から自律的であり、より広いf-心の理論の中に位置づけられる。 思考は、言語や他の認知システムとの間にインターフェイスを持つ。 9.4 「統語論」「意味論」「運用論」という伝統的な分類では 「統語論」が心の中の組み合わせシステム一般を表して、 「意味論」はそれと世界との関係を表すということになっているが、 このような定義の「意味論」は言語的意味論とはちょっと違うものである。 言語的な意味論は、心の中の組み合わせシステムの一種である。
127 :
1 ◆lQDmm57VMM :2008/01/22(火) 19:45:45 0
9.5 言語を心的現象以外の何か、たとえば用法の集合とか 社会集団で共有されているもの、のように捉える考え方があるが そうだとしても話し手は語に関して何らかの概念を心に持っているはずである。 9.6 意味論の中から、特に言語学が対象とすべき部分を切り離して扱おう とする(様々な形の)考え方があるが、そのような区別は不可能だし、 あまり意味がない。 だいたいこんな感じでしょうか。 Jackendoffは意味論を人間の心的活動の一部として、 それも言語学の観点から近視眼的に(統語中心主義的に)捉えるのではなく もっと広い視野を持って捉えようとしているのだという 姿勢がうかがわれるように思います。 次章は「指示と真理」ですね。
「概念が心の中にある」というときの「心の中」とはどこなのかよく分からない。
>>128 それは第2章で論じられているトピックだと思います。
私もあまりよく理解できないので、正確なことは何も言えませんが
常識的な考え方としては、心が人間の体のどこかにあるとすれば
それは脳以外にはないのではないでしょうか。
というか「心の中」というのは一種の比喩であって
心とはどこか場所だとか部位だとかいうものではなく
脳の状態のことでは?
>>1 頑張ってくれ
おまいの書き込みを片手に読み進めるよ
それではぼちぼち続きを・・・ 第10章 指示と真理 10.1 導入 - 常識では、言語表現は世界について何かを語っている。 - 英米の意味論および言語哲学の分野は、 伝統的にはこの常識的な立場を当然のこととしている。 - したがって、言語表現がどのようにして世界について述べ、 世界との関係について真理値を持つのかの説明を、意味論/運用論の仕事と考える。
- 言語の心理主義的理論は、指示と真理に関する このような常識的な立場とはあまりうまく合わない。 - 言語だけでなく「世界」も完全に心理化することが必要である。 - ということを10.2と10.3で論じる。 - 私の目標は、指示と真理に関する常識的な見方が間違っている ということを主張することではない。 - 「日没」は、直観的には日が沈んでいるように見えるが 科学的には日は沈んでいるわけではない。 - 私の目的は、科学の目的のためには常識や直観に反する立場の方が 現象のより深い理解につながるのだということを示すことである。 - だからといって、常識や直観がすべて科学的な還元にとってかわられる というわけではない。
10.2 常識的な見方の問題点:「言語」 - 標準的な立場の典型例 -- 言語表現は外の世界にあるものを指示する。(Abbott1997) -- 文が真か偽かを決定するには・・・実世界のある状況がその文の意味に 対応するかどうかを判定することである。(Bach1989:8) -- 与えられた文sは、sの中で言及されている事物が sによってそれに与えられている性質をもつときにのみ真となる。(Sher1996:531) -- 第1種の理論は「指示的」あるいは「外延的」と名づけることができる。・・・ この見方では、意味があるかないかは、記号およびそれらの配置と さまざまな種類の事物との間の関係による。(Chierchia and McConnell-Ginet1990)
- 「言語」をどのように解釈すればいいのか。 - Fregeは私的連想を意味論から追放したいと考え、 表現の指示や話し手から独立した「意義」(sence)の概念に到達した。 - この考え方では、言語は人間の使用とは独立であり 直接に世界と関係をもつとされる。 [世界 言語 → 事物、状況、etc. ] (図10.1) 簡単にいうと、言語も事物も世界の中の存在物であり、 言語は世界の中の事物を表しているのだ、という図式のようです。
- 後の研究者(Kripke1972, Lewis1972, Stalnaker1984,etc.)は 言語が「可能世界」に写像されるようなアプローチで置き換えた。 - この変項は分析性や必然性を「すべての可能世界で真」という形で とらえることを可能にした。 [可能世界 [世界 言語] → 事物、状況、etc.] (図10.2) 言語は世界の中の存在物だけど それが表しているものは「可能世界」の中の存在物として捉える というところでしょうか。
- 形式意味論(Montague 1973, Partee 1975, 1976)では、 「世界」は「モデル」で置き換えられるようになった。 - モデルは集合論的な存在物であり、理論を完全に形式化することが可能になった。 - 原理的には、形式意味論は形而上学に対して中立的だが、 概して「言語」は「外の世界にある」という常識的な立場を保持している。
- 言語のこのような見方は、生成文法の見方とはまったく合わない。 - 生成文法では言語を言語使用者のf-心の中に置く。 - 何人かの形式意味論者はこの不一致に頭を悩ませてきた。 (Partee1979, Bach1986a, Zwarts and Verkuyl1994, etc.) - いくつかの形式意味論のアプローチは、他の理論よりも心理主義的な 解釈に向いている。(談話表示理論とか) - しかし全体としては、この問題は無視されてきた。
- 言語の実在主義的見方と心理主義的アプローチに どのように折り合いをつけたらいいだろうか。 - ひとつのアプローチは、心理主義を放棄し、 「外の世界にある言語」を生成文法が研究するという立場である。 - たとえばKats(1981)は、初期の心理主義的立場(Kats1966)から後退し 言語は抽象的な事物であり、f-心とは独立に存在するという見方になっている。 - これによってあきらめなくてはならないこと。 - 普遍文法を設定してその性質を研究する根本的動機は 諸言語は子供が学ぶことによってf-心の中に具現化されるという 観察から来るものである。 - このような心理主義的なしばりがなくては、 言語学のテーマは単に諸言語を記述することに限定されてしまい せいぜい統計的な傾向や形式的なエレガントさを示すことになってしまう。
- これに代わる立場は、Frege(1892)の立場である。 - 言語は「外の世界」にあり、「世界の中の事物」を指示するが、 人々は言語をつかむことによって言語を使うのだ、というものである。 [世界 [心 f-心的文法、語彙目録] →つかむ→ 言語 → 事物、その他 ] (図10.3) - 生成言語学は心の中にあって言語をつかんでいるものの研究 ということになる。 - この方法なら、実在的な意味論を保ったままで 心理主義的な方法論を言語学の中に取り込むことができる。 - Katzのプログラムもこのように理解することができる。
- しかし、このアプローチは興味深い方法論上の問題に直面する。 - 「世界の中の言語」の性質は、人間の言語的な直観によってしか 決定することができない。 - 従って、言語のどの部分が心理主義的な具現化によるもので どの部分が抽象的な「言語」の特質なのか決定することができない。 あまり明確に理解できませんが 多分、言語というものが心と独立に存在するとして、 それがどういうものなのか、 言語現象のどの部分が心と独立の「言語」の性質なのか どうやって決めればいいか分からない、というところでしょうか。
- さらに基本的な問題がある。 - 心が抽象的な事物を「つかむ」というのはどういう意味か。 - 心が具体的な事物を「つかむ」やり方はだいたいわかっている。 感覚からの入力に対する反応として、認知構造をつくるのである。 - しかし抽象的な事物は、神経システムにとびこんでくるような肉体的な裏づけはない。 - これは科学的には行き詰まりである。
- ていうか言語が「外の世界」にあるものだとしたら 英語とかもビッグバン以来、宇宙のどこか抽象的領域を ただよっていたんですか('A`)? - 抽象的な事物は人間が作り出したものであるという 概念主義的な見方のほうが妥当である。
- 数や他の数学的事物、論理的な真理などは 永遠不変で抽象的で、人間とは独立のものかも知れない。 - したがって、これらをつかむことを可能にするメカニズムが 言語をつかむことを可能にするのだ、と主張する人がいるかも知れない。 このあと、このような考え方に対する反論がありますが よくわからないので飛ばします。
- 心がどのようにして言語をつかんでいるかという問題を解消する1つのやり方は 言語を完全に心の中に押し込めることである。 [世界 [f-心 言語 <-> 概念 ] -志向性-> 事物 ] (図10.4) 言語と概念は心の中にあって、 その概念が世界の中の事物と対応しているというか、指し示しているというか そういうモデルですね。 - これはFodorのとる立場である。 言語は概念にアクセスする心的機能であり、概念には意味論があり、 「志向的」であることによって世界とつながっている。 - 問題は9.4節で文句をつけたように、志向性というのが何なのかよくわからない ということである。結局、「つかむ」と同じ困難に直面する。
- まとめると、心と世界との間に何らかの超越的な結びつきを想定しないと 実在論的意味論を言語の心的な見方と結びつける方法はなさそうだということである。 10.2節おわり。以下まとめ。 言語が世界の中の事物や事態を表すという考え方はうまくいかない。 言語も事物も人間と独立に世界の中に存在するという考え方は心理的観点を無視しすぎている。 言語も事物も世界の中に存在するもので、人間はその言語を何らかの方法で「つかんで」使用しているのだ とか 言語(および概念)は人間の心の中にあって、その心の中の概念と世界の事物が対応(志向)しているのだ という考え方があるが、それらは結局、人間の心と(外界の抽象的事物としての)言語の間とか人間の心の中の概念と外界の事物の間とかに何か超越的、神秘的な関係を仮定しなければならなくなる。 こんな感じでしょうか。
10.3 常識的な見方の問題点: 「事物」 10.2節は、言語というものを人の心と切り離して 外の世界の存在物として捉えることができるかどうか、というような 問題でしたが、言語が指し示す事物については 外の世界の存在物であるということを暗黙の前提としていました。 我々がRussellというときは、外の世界の具体的な人物を指し示して いるわけで、それは常識的な考え方なのですが、 この節は、そのような常識も疑わしい、という話のようです。
例えば、シャーロック・ホームズは外の世界に実在する人物ではありませんが 我々は彼がイギリス人であることを知っています。 地球上のどの部分が、ワイオミング州なのでしょうか。 それは政治的にとりきめられているに過ぎません。 ミシシッピ川とは、そこに流れている水のこと? それとも川底のこと? メキシコ湾のどこまでがミシシッピ川?
・ ・ ここに四角形があるのが見えますか? 実際には、ここには四つの点しかありません。 ・ ・ 「この四角形」は、物理的には存在しないのです。
「私の腕時計の価値」という存在物は実体を持ちません。 社会的な取り決めによってのみ存在するのです。 それでも、我々は「それ」を実世界の一部として指示的に扱うことができます。 「マーラーの第2交響曲」とは、特定の演奏や楽譜や録音のことではない。 それらの背後にあるタイプのようなものだが、 しかし「演奏」のタイプでも「楽譜」のタイプでも「録音」のタイプでもない。 いったい何のタイプだというのか。 我々が普段、世界の中の存在物であるかのように扱っている事物の中には その存在論的地位がはっきりしないものが、数多く存在するのである。 10.3節おわり
10.4 「世界の中心で愛を叫ぶ」 ここまでをまとめると、指示に関する常識的な見方には二つの問題がある。 1. 言語が言語使用者の心の中にあるものならば、 言語または言語が表現する概念のレベルで、 心から世界への神秘的な結びつきを想定しなければならなくなる。 2. そもそも「世界の中の事物」という概念があやしい。
節タイトルまちがえました。 10.4 「世界」を心の中に押し込める 「世界の中の事物」などというよくわからない概念をすてて 世界を心の中に押し込めることを提案する。 (7) 指示の常識的実在主義理論 文脈Cで発話された言語Lの句Pは、世界の中の存在物Eを指す。 の代案として (8) 指示の概念主義理論 言語Lの話し手Sは、文脈Cで発話された句Pを、 [Sによって概念化された世界]の中の存在物Eを指すと判断する。
概念主義理論では、指示は言語使用者に依存する。 これはちょうど相対論的物理学で 距離と時間が観察者の慣性系に依存するようなものである。 もちろん、便宜的にニュートン力学を使うことができるのと同じように 便宜的に(7)のような言い方をすることもできる。 一時的に基準系を無視し、均一な言語集団の中での一致があると 想定するのである。
「あれが何だかわからないけれど、またやってきた!」 この文が発話されるためには、完全な特徴付けはないにしても 話し手は何か適切な存在物を概念化していなければならない。 概念化される存在物は世界に実在していなくてもよい。 「シャーロックホームズ」や「一角獣」を概念化することもできる。
このような考え方は、言語使用者が自由に世界を構築できるかのような ある種の唯我論的な響き、あるいは脱構築主義の匂いさえするかも知れない。 Abbott(1997)はこの考え方を、バークリーの観念論になぞらえている。 脱構築ってのがどういうものかよくわからんです。 確かデリダとかっておっさんが関係していたような気がするのですが。
このような結論は厳しく批判される。 記号を心的表示あるいはある種の心的過程と関係づけることによって意味を研究し そこでやめてしまうようなアプローチをとったとしてみよう。・・・1つの表示を他の表示に 写像することが、表示が何を意味しているかを説明することになるのだろうか。 (Chierchia and McConnell-Ginet 1990) Johnがジョンの名前であるためには、名前とその名前の持ち主との間に 何らかの現実の関係がなくてはならない。(Fodor1990) あとLewisとSearleの引用があるけど割愛します。
どうしたらこのような批判を回避することができるか。 心理学により深くはいりこみ、思考という概念をより厳しく捉えることによってである。 神経心理学的には、概念構造を処理する神経は実際のところ脳の中にあるのであり 外の世界に直接アクセスできるわけではない。 第9章で強調したように、概念構造が世界の中の何かの記号だということ つまり何かを意味するのだということを明確に否定しなくてはならない。 むしろ概念構造こそが意味なのである。 10.4節おわり
以下は私の感想というか考えたことです。 結局のところ、言語を世界と直接むすびつけるのはうまくない。 我々は世界に直接アクセスできるわけではなくて 我々が認識している世界にのみアクセスできるのであり 言語が表しているものも、我々が認識している世界の存在物と考えるべきである。 言語と世界の中の何かを関係付けなければ言語の意味を説明したことにならない とすれば、脳の神経回路の状態ということになるのかな? 世界の中の事物そのものではなくて。 脳の状態とか概念とかのソースのひとつはもちろん外界の事物なんだけど それが知覚とかのシステムを介してどのように脳にとりこまれるかっていうのは 言語と概念との関係とはまた別の話、ということで。 これで合ってるのかな?
>>1 乙。
久々にモンタギュー文法の入門書でも読んでみる。
少し日が開いてしまいましたが、ぼちぼちやっていきます 10.5 単純な直示的行為 - 「中程度の大きさの事物」を指すという、言語使用の最も単純な行為について。 - Hey, look at that! - thatには(少し遠くという以外には)内在的記述内容が無い。 thatが何を指しているのかを決定するには、 言語機能の外の視覚システムを利用する必要がある。
- 網膜には事物も外界の位置も無い。 網膜上のどの点にどのような光の刺激があるかだけである。 - 網膜から直接情報を受ける脳の部分も同様である。 ここでは、さまざまな方向の直線や縁が局所的に検出される。 - これより内側では様々な計算が行われている。 最終的には、「知覚表象」とでも呼べるような認知構造が構築される。 - 知覚表象を構築する神経メカニズムは活発に研究されているが まだわからないことも多い。 - しかしそのメカニズムによって構築される知覚表象は、 知覚された環境の中で個体を区別でき、その中のひとつに 注意を向けられるような認知/神経構造でなければならない。
- 個体の知覚を生じさせる認知構造は非言語的なものである。 幼児や動物なども、だいたい同じような知覚表象を持っていると考えられる。 - 知覚表象は(言語と同じく)脳の中にとらわれている。 - 世界から知覚表象に直接いける魔法の通路は無く、 これは哲学者の一部には問題かも知れない。 - 世界と知覚表象の間には、網膜と低次視覚野を経る 複雑で間接的な通路がある。 - 世界を知覚的に「つかむ」という概念に意味があるとしたら、 この、ものすごく複雑な計算がそれであろう。
- thatとリンクしているのは、この知覚表象である。 - 従って、言語は現実には外部世界の接点を持つ。 ただし神秘的な心と世界の志向性の関係ではなく 視覚システムによる複雑で科学的な仲介を経てである。 - 当然ながら、知覚世界は現実世界とまったく別物ではない。 知覚世界は、生物が現実世界で安定して行動できるように発達してきた。 論理的な「世界の真のモデル」はどうでもよく、知覚世界を構築するために (生物学的な)さまざまな小細工が働いている。
- 知覚世界こそが我々の現実である。 - 知覚表象は完全に「脳内に囚われて」いる。 - しかし知覚表象は、事物が「外に」あるという感覚、感情、情緒を与えてくれる。 それによって我々は(頭の中の知覚表象ではなく)外の世界を経験するのである。
んー、この節は個人的にあまり面白みを感じないので適当に飛ばします。 要は、我々が外の世界だと思っているのは、実際には 複雑な知覚システムを経て構築された知覚世界だということだと思います。 thatのような直示的表現も、確かに外の世界の事物を指し示す意図で 用いられているには違いないが、実際には我々はその事物を 知覚システムを経て認識しているのであって、従ってthatが表して いるのも直接的にはその事物の知覚表象である、ってことかなと思います。 節の最後あたりにMacnamaraやFodorによる 「それって現実世界が存在するってことを信じてないってこと?」 という批判についての言及がありますが、 単に世界をどう捉えているかって話をしているだけであって 世界そのものが存在しないとか、別にそういう唯我論的なことを 言っているわけではないでしょって気がします。
ラーメンできるまでに一節ぐらいいけるかな? 10.6 意識の機能的相関物 - 「意識の神経的相関物」の探求を補うものとして 「意識の機能的相関物」の探求をすることができる。 - f-心の中で視覚的意識(あるいはそれに伴うもの)を生み出す 構造や処理である。 - Dennett(1991)やJackendoff(1987)にこのような理論の 概要がある。 しょっぱなっから意味がよくわかりません。 読んでいけば少しはわかるかな?
- 大きな気持ち悪い虫を見て、Hey, look at that.というとき 聞き手の知覚システムは、一方で虫の経験という結果を生み出し 他方ではthatに結び付けられる視覚表象を構築する。 この視覚表象にはどのような素性がなくてはならないか。 ラーメンできたので中断。
- 視覚心理学者が注目するような素性は明らかに候補になる。 形、大きさ、色、部分、位置、動き、動きの特徴(胴体のひねり方とか)など。 これらを知覚表象の記述素性(descriptive feature)と呼ぶことにする。 - 虫の知覚表象は視覚的な知覚表象である。 すなわち聴覚とか味覚とか嗅覚とか触覚の知覚表象ではない。 知覚表象は知覚の様相(視覚とか聴覚とか)によって区別される必要がある。 - 知覚表象は地とは区別される図(figure)を構成する。 模様のある敷物を見ていて、突然、そこに虫がいることに気付いたとき 「世界」や網膜上の像には何の変化もない。 脳の中に囚われた知覚表象の組み合わせが変わるだけである。 このような図となる特徴を指標素性(indexical feature)と呼ぶ。 I don't know what that was!というとき、thatは記述素性を欠くが指標素性を持つ。
- f-心は知覚入力に対する反応として指標素性を確立する。 - 確立された指標素性は知覚入力が途絶えても消えてしまうとは限らない。 事物が見えなくなっても、それを追跡することはできる。 - 事物が障害物の後ろに消えて、反対側に二つの事物が現れたら どちらがものと事物だろうか。 この問いたては対象の同一性の問題を考える上で結構興味深いですね。 人間をファックスで転送したとき、それは元の人物と同一と言えるかとか、 トカゲの胴と尻尾からそれぞれトカゲの全体が再生されたとき どっちがもとのトカゲなのかとか、いろいろな言い方で言及されている 問題と関係してくるような気がします。
- 指標素性は「分割」されたり「併合」されたりする。 二つの年度をまとめてひとつの塊にするようなものである。 まあそうなんでしょうけど、個人的には、ここはもうちょっと掘り下げて 考える必要がありそうかな、というか、そういう私的な興味を感じます。 結局のところ、対象って何なの、とか、何と何を違う対象と見なすべきなの とか、何と何を同じひとつのものとみなしていいの、とか 意味論の根底に関わる問題が潜んでいる気がします。
- 記述素性、様相、指標素性以外に、もう一つ他のタイプの素性を考える必要がある。 Hey, look at that!というとき、読者は実際には虫を知覚したわけではないが 虫のイメージを想起したかも知れない。 このイメージは知覚表象とはどう違うのか。 - イメージは知覚表象と比べてぼんやりして瞬間的だ、という考え方が あるかも知れない。しかし遠くでぼんやり聞こえる音楽より 頭の中で想起するジョンレノンの歌の方が明瞭である場合もあるので これは適当ではない。 - 頭の中に知覚部門とイメージ化部門があるという考え方もあるかも知れない。 しかし現在ではこれは信じられていない。イメージも脳内で知覚と だいたい同じ領域を使うものと考えられている。
- 私が必要だと思う区別は、知覚されたものの知覚的な質(quality)を 記録するのではなく、感覚(feel)を記録するというものである。 - 私はこれを「情動」とか「評価」と呼んだ。 - このような素性のひとつは外部(external)と内部(internal)で これによって外の世界の経験とイメージを区別できる。 - この手の素性には他に familier vs. novel self-produced vs. non-self-produced meaningful vs. non-meaningful などなどがある。 うーん、あんまりよくわからないです。 Jackendoff(1987)とか(1997)を読んだ方がいいのかな?
- 評価は、大きさ、形、色などと同様、思い違いをすることがある。 - デジャブはfamilier(なじみ)とnovel(新奇)の取り違えである。 - 統合失調症患者はしばしば無意味なものを意味あるものとみなす。 - 夢を見ているときはそれを外的で自分で生成していないと思っている かも知れないが、実際には内的で自分で生成している。 - したがって評価も、f-心の構成物である。
- まとめると(意識された)存在物は、次のような素性を持つ。 - 指標素性(記述素性が付与される) - 様相(記述素性が存在する) - 記述素性 - 評価(様相から独立の多くの次元の中に存在物の状態を位置付ける) このような構成は学習によって得られるものではない。 学習がはじまるための骨格のようなものである。 ただし、言語だけでなく知覚、心象、行動でも一定の役割を演じるので 狭い意味での普遍文法に帰着させる必要はない。 すべての認知現象における中心的な部分である。 10.6節おわり
10.7 指示の理論への応用 みじかい節なので簡単に。 - thatが何かを指すためには、指標素性は不可欠である。 - Frege(1892)は表現の意義(sence)と指示(reference)を区別した。 「明けの明星は宵の明星だ」という文は、異なる記述素性に結び付けられた 指標素性の併合と理解することができる。 - Fregeの問題は言語だけの問題というわけではなく、f-心が個体の存在物を どのように同定するかという、より一般的な理論の問題である。 - 逆に、指標素性が分割される場合もある。 同一人物だと思っていたのが、実際には別の二人の人だった場合など。 - ここで提案した指標素性は、形式意味論の中のさまざまなアプローチで 使われる談話指示対象(discourse referent)に似た役割を演じる。 - 談話表示理論、ファイル変化意味論、動的意味論など。
10.8 事物以外の存在物 - 指標素性は常に個々の事物を同定するわけではない。 - 例えば可算的な個々の事物ではなく、質量的な物質そのものに言及することもできる。 - thatを使って、音や触覚のような非物質的存在物を指示することもできる。 a. Goodness! Did you hear that? (あれ聞いた?) b. Did that hurt? (いまの痛かったですか?) - 指示のこれらの可能性に対処するためには、存在物を存在論的タイプに分類する 原素性を導入するのが有用である。 - それぞれのタイプの論理的構造と知覚への現れ方を研究するのは 自然言語の意味論および認知心理学/神経科学の課題である。
- 事象(event)は、Davidson(1967)以来、形式意味論のさまざまな流派で 一定の役割を演じている。 - 位置と方向は形式意味論ではあまり役割がないが、認知文法では 中心的な役割を演じており、最近の言語実験の研究でも注目されている。 - 音、触覚、様式、距離などの存在論的範疇は、あまり注目されていない。 - 音とか触覚のような時間に依存する存在論的タイプは、個体の繰り返しと 同じタイプの別の個体の表れという二面性を持つ。 a. There's that noise again! b. There's another one of those noises! - 単語は文字で書いた場合でも音の一種として分類されるようである。 'Star' appears twice in that sentence. ? There are two 'star's in that sentence.
- これらの抽象的な存在物はすべて「世界の中に」あるのだろうか。 これらが冷蔵庫などと同じように存在するというのは奇妙である。 - しかしこれらは、知覚の領域から取り出して直示的表現の指示対象として 使うことができるのであり、従って概念化された世界の中で何かしかるべき 地位を与えてやる必要がある。 - 事物の指示のことだけ考えている分には、指示の理論の基礎として 知覚理論を利用することができた。 - しかし抽象的な事物の指示も知覚と関連付けて考えようとすれば 知覚は今まで考えられていたよりもずっと豊かな存在物を提供してくれる ものでなくてはならない。 - 知覚システムがどのようにしてこれを実現しているかは 知覚理論にとっての課題である。
- 統語的区別と意味的区別の対応は、存在論的範疇の素性に関連している。 - 文は事象概念に、PPは場所、方向、経路概念に、APは属性概念に、 NPはおよそ何にでも写像される。 - つまり存在論的範疇の素性は、他の記述素性の大部分と異なり 統語-意味インターフェイスにおいて「見える」のである。 ということは知覚のみならず、文法においても重要な役割を演じる。 - 存在論的タイプの一覧は、認知の骨格をなす生得的要素の 候補のひとつと考えてよいように思われる。 - これは言語だけでなく知覚と行為にとって中心的なものだから 言語に特化した普遍文法の一部と呼ぶ必要はない。
- 形式意味論は指標素性と評価に専念してきた。 (否定、量化、可能性、心的状態の属性が含まれる) - 語彙意味論の伝統の大半は、認知文法も含めて 主に記述素性にかかわってきた。 - 完全な意味理論はこの両方を説明する必要がある。 10.8節おわり。 要するに、言語が表すような概念的な存在物には モノとかだけじゃなくてコトとかトコロとかトキとかサマとかいろいろあって 統語的範疇にも反映されているってことかと思います。 そうした抽象的事物と外の世界との関係をどういう風に考えているのか ってあたりは、ちょっとよくわかりませんでした。
10.9 固有名、種、および抽象的な事物 前接までは、直示的表現が様々な事物を指しうるという話でした。 この節は固有名とか普通名詞とかの話だと思われます。 10.9.1 固有名 - 標準的には、固有名は個体を指すという。 - 本書では、固有名はそれに関係付けられた概念に指標を持つ。
- RussellとHolmesの違いは、名前に関連付けられた評価による。 Russellはexternalという評価を持ち、Holmesはimaginaryという評価を持つ。 - 他の存在論的範疇の事物についても固有名がありうる。 「第二次世界大戦」とか「ワイオミング」とか「1946年」とか。
10.9.2 種 - 種(kind)とかタイプ(type)は、記述素性(含、様相、存在論的範疇)は持つが 指標素性と評価を持たない概念であると考えられる。 - 別の可能性として、種は個体よりも記述素性の具体性が落ちるのだという アプローチが考えられる。しかし「昭和64年の一円玉」のような種は 記述的な特徴が相当はっきりしている。
- 種に欠けているのは、それを指差す可能性だけである。 指差せるのは種の実例(instance)だけだからである。 - 種から実例を作るには、指標素性を付け加えるだけでよい。 thatのような指示詞が、指標素性を付け加える機能を持っている。 pennyのような種にthatをつけると、個体を指すthat pennyができる。 - 提示された例からタイプを学習するためには、学習者は 知覚表象から指標素性を落とせばよい。
- the sameのような語はタイプにもトークンにも使える。 a. John wore the same hat he always wears. (トークンの同一性) b. John ate the same sandwich he always eats. (タイプの同一性) - the same は指標素性の有無に無頓着なのだと説明することができる。 - NPも文脈によって個体も種も表す。特に叙述的NPと呼ばれるものは 指標素性を持たないと考えられる。 a. A professor walked in. b. John has become a professor. - b.はJohnと教授という二つの事物について述べているのではなく professorの記述素性をJohnに結び付けているのである。
- たいていの種は評価を伴わない。例えば「虫」は現実のものであっても 架空のものであってもいい。ただし「一角獣」のようにimaginaryの評価を持っている ものもある。 - 様々な存在論的範疇の種が存在する。 「コッカースパニエル」とか「真鍮ボルト」とか「朝食を食べること」とか。 - 存在論的範疇の中にはタイプとトークンの区別がはっきりしないものもある。 「19インチ」とか。このような範疇は、指標素性を持つ可能性を欠くのだと考えられる。
- 述語論理では、種は変数を含む述語として形式化される。 John is a professor = P(J) - 種に属する個体は存在量化として形式化される。 A professor walked in = ∃x(Px & Wx) - この記法の利点は、伝統に則った由緒正しいものだということである。 - 欠点もいくつかある。 1. 存在論的範疇の区別が曖昧になる。professorが「xは教授である」と 翻訳されるが、これは本書では「状況」のタイプの事物である。 2. sameの二つの用法の類似性を見るのが困難になる。 3. 言語は事物だけでなく事象や場所も表すということに気づくと 論理表現を存在量化子でいっぱいにしなければならなくなる。 A boy sits on a chair = ∃e∃x∃p∃y(BOY(x) & CHAIR(y) & e = SIT(x, p) & p = ONy)
- これらの批判は標準的な記法に対して致命的なものではない。 適切に修正すれば、同じ区別をコード化することができる。 - しかしより明確でより広範囲の言語現象に適用しやすいような、 別の記法を試してみることを躊躇する必要はない。 次の11章、12章では、そのような代案の可能性を具体化する。
- Kripke(1972)、Montague(1973)、Putnam(1975)のような外延的理論では 種は記述素性からなるf-心的構造ではなく、集合と考えられている。 - 心理主義的理論では、そのような考え方は採用できない。 そのような集合を頭の中に入れておくことはできない。 - できるのはせいぜい、主な実例のリストと、必要に応じてその集合の要素を 生成したり同定したりするためのスキーマを入れておくことだろう。 記述素性はまさにそのためにある。 - 集合を仮定することの正当化の一つに、句が指示するものは単語の指示から 構成的に作り出されるべきだという前提がある。集合はprofessorに指示を与え、 ブール代数的に他の集合と結合することができる。 - 本書のアプローチは、professorは指示がなく意義のみを持つというものである。 句の意義は構成的に作られ、構成によって指標素性が与えられれば 指示するものがある句ができることになる。
以上で10.9.2節おわりです。 次は「10.9.3 抽象的な事物」ですが、ひとまずここでまとめ。 種というと私は真っ先にCarlsonのbare pluralの話を連想します。 伝統的な述語論理みたいな集合論的手法では、種を表すような普通名詞の 意味を一般的かつ簡潔に扱うのは難しい、というのは目に見えているように 思います。 ただ、Jackendoffのような種を指標素性を伴わないタイプと割り切ってしまう 考え方も、まだちょっと釈然としない部分があるような気がします。 Carlsonの議論の影響で、私は種という概念をタイプというよりは 全にして一、というか、質量名詞みたいなもん、というイメージを持っています。
タイプって言ってしまうと、タイプが持っている性質は普通、そのタイプのトークン 全てに継承される、というイメージがあります。実際にはそうじゃない場合も あるんで、せいぜいプロトタイプってとこでしょうけど。 ただ種を表す名詞は「この貨幣は世界中で使われている」みたいに 種の全体が持つ属性を述べるためにも用いられます。 こういう場合、「世界中で使われてしまう」がタイプの性質だと考えてしまうと それがトークンに継承されるってありえなさそう、って感じがします。 人間が種という概念をどういう風に捉えているのか、という問題は まだまだ根の深い部分があるような気がします。
192 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2009/07/21(火) 19:55:08 0
あげ
さげ